陳寿、三國演義を描く

玄子(げんし)

第1話 陳寿の憂鬱

「命と引き換えてでも、あの方々の人生を後世に遺すことが、蜀に生まれ育った私の、せめてもの償い」


 陳寿は覚悟を決めて力強く頷くと『三國志 蜀』と書き上げたばかりの書簡を手にとって自分の気持ちを確認したが、それは懺悔ざんげを自らに強いる行為だった。

「昭烈帝、諸葛丞相、お許しください」

 蜀の都である成都の方向に向かって跪いた陳寿だったが、彼には心の赴くがままに泣き叫ぶ自由は認められておらず、強く噛み締めた唇から流れ出る血液を密かに心の傷として噛み締め、自らを憐れむのが精一杯だった。


「乱世の定めとは言え……魏を正統として史書を書いた陳寿の罪をお許しください」


 天下三分の計を実現した先帝の玄徳殿と、丞相として最期まで私心なく忠義を尽くした孔明殿の志も儚く、蜀の国は二六三年、英雄たちの後を追うように歴史の中に姿を消してしまっていた。


 魏、呉、蜀の三国に鼎立された中国を最後に統一したのは晋だったが、時代は変われど、偉大なる先帝や丞相を始めとする英雄たちは、今でも巴蜀の人々に畏れられながらも愛されている、という現実を誰よりも知っているのは『三國志』を書いた蜀人、陳寿だった。


 陳寿の父親は「街亭の戦い」で命令に背いて処刑された馬謖ばしょくの参謀だった。敗戦の責任を問われ、孔明殿の命により連座して斬られてしまったが、陳寿は決してそれを恨んではいなかった。

 それどころか寧ろ、愛弟子であろうとも私情を挟まずに〝信賞必罰〟の精神を貫いた孔明殿を深く敬愛していたとさえ言われている。


 出来ることなら、上辺だけの出来事ではなく、少しでも深く蜀の英雄たちの人生を伝えたいと思ったが、成都城が陥落した時に『蜀魂を魏に奪われたくはない』と奮闘した気骨ある有志により、多くの関連文献は成都城から持ち出されてしまい、ほとんど残っていなかったという。


「蜀の巻は三国で最も稀薄となっておりますこと、ご理解ください。

だがそれ以上に……敬称をつけられない、名を呼び捨てる不遜の極みを後世に伝えねばならないとは! なんたる屈辱!」


 陳寿が書いた正史『三國志』の中でも『蜀書』の記載が、魏や呉に比べると圧倒的に少ないのは、蜀の地で生まれ育ちながら、晋の家臣として筆を執ることになった彼自身の、余人には計り知れない葛藤や、文字にはならない想いが濃厚に凝縮されているから、なのかもしれない。


「丞相……諸葛丞相は私をお許しくださるだろうか?」

 最後の最後まで蜀魂を聖域に置いたまま、陳寿はこの世を去った。


 陳寿。233~297年。

 48歳からの10年間で史書『三国志』を書き上げる。

 享年65歳。


 ご冥福をお祈り致したい……のは山々だが


「え? 死んでも死にきれないんですけど!」


 あの世へ辿り着いた陳寿を待っていたのはー


 さぁ、何でしょう?

 次回へ続きます。

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