答えは全部そらの上

jima-san

答えは全部そらの上

 セーフティマットに背中から着地すると、脚に触れたバーの落ちる音がした。空は眩しいほど青くて、白い雲がゆっくりとのんきに足元のほうに流れていくのが見えた。

 マットに倒れている僕はまだ何者にもなれない僕だ。


 僕はそのまま青いマットの上に寝そべり、雲の行方をさらに追いかける。

 マットから塩化ビニールとウレタンの混じった匂いがする。かぐわしいとは間違ってもいえないが、僕は嗅ぎ慣れたその匂いが嫌いじゃなかった。



 これでも中学時代は陸上部のエース扱いもされたし、高校では新入生の教室まで先輩がスカウトに来て、僕は悪い気分ではなかった。


 だがその後、僕が自分で期待したほどには僕の身長も記録も伸びていない。



「太郎、あんまり長く寝転んでるとまた部長からドヤされるぞ」

 山田浩介の長い顔が逆さまに僕を覗き込む。


「そうだな。その通りだ」


 それでも僕は動かず、もう一度浩介から注意されるまで、そこに寝転がり続けた。


 トラックで中距離組の女子が顔をしかめ、苦しそうに走っているのが見える。400を4本とか地獄のようなメニューをやってるけれど、明らかにオーバーワークだと思う。


 6人の女子のうち、最後方にかろうじてくっついているのが相曽美空あいそみくだ。普段から表情のない顔だがここでもまったくの無表情、苦しいのか苦しくないのかよくわからない。苦しいに決まってるけど。


 僕はここのところ、このセーフティマットの位置から見る彼女の表情が気になって仕方ない。


 ほら、ここだ。最後のコーナー、彼女は懸命に腕を振りスパートしようと藻掻もがく。その時だけ、相曽はうっすらと微笑んでいる…ような気がした。





 今日も練習が終わった。正確には練習時間が終わった。僕にとっては手応えのない練習時間が過ぎたというだけだ。


 生徒昇降口脇の水道で頭と顔を洗い、タオルで拭いていると、まだ息の荒い相曽が通りかかる。


 ショートカットの黒髪、無愛想だけど大きくて気の強そうな瞳、飛び抜けて美人なのに男子の誰かがアプローチしたという噂を聞かない。まあ、無理もない。怖すぎる。


「何か、私に用?」

 相曽の口調はけんを隠そうともしない。

 僕がじっと見ていたことを知っていたのかもしれない。


「何も」

 僕の答えに相曽は表情を変えない。さすがに『無愛想姫ぶあいそひめ』だ。

「ならいいわ」


 相曽が顔を洗う音を背中で聞きながら、僕はそそくさと部室に向かった。

 もう夕暮れだ。


 何で僕は走り高跳びを始めたんだろう。種目、間違ったんじゃないかな。


 僕は明らかに煮詰まっていた。







 ディック・フォスベリーは煮詰まっていた。


 1963年、アメリカはオレゴン州、ポートランドという田舎町の大学にある陸上競技場が彼の毎日の練習場所だった。 


 193㎝の長身を生かして走り高跳びを選択したが、当初の周囲の期待ほど記録が伸びることはなかった。筋肉がつきにくい体質でヒョロヒョロの身体には『ランキーベリーヒョロベリー』というありがたくない愛称がついていた。


 州の大会ではそれなりの成績を収めていたが、目指すオリンピックは遠い月ファラウェイ・ムーンのようなものだった。


 最初はスイスイ記録が伸びた。はさみ跳びでも州の標準記録を越えたのだ。

 高校2年生でベリーロールを覚えたことで一気に将来のオリンピック候補とさえ言われるようになった。


 すっかりハイジャンプの魅力に取り憑かれ、練習を重ねた。だが彼の記録は大学入学をさかいにまったく伸びなくなった。2年後のメキシコオリンピックに彼が参加できるとはもう誰も思っていない。


 彼はセーフティマットの上に寝転び、青い空をボンヤリと眺めた。


「どこで間違ったんだろう」









「どこで間違ったんだろう」


 僕は今日もセーフティマットの上で青い空を見上げた。


 ストレッチ、準備運動と基本の練習を部員全員で行った後は種目別に集まってメニューを確認する。

 僕と浩介、それに1年生の2人が走り高跳びのメンバーだ。1年の二人にはBのマットでゴムロープの跳躍練習をさせる。僕と浩介が安全確認も含めて交代でその指導に当たり、手の空いた方がAのマットで自分の練習を行うのだ。


 2メートルをクリアしてインターハイに出ること!…が目標だったのはずいぶん前のことだ。僕の記録はどの大会に出ても1メートル80から90の間で止まり、1年が過ぎる。

 顧問の先生からは『筋力や成長の過程で記録の伸びが鈍るときはあるから』と言われていたが、あきらめられたのか先生がAマットに寄ってくることは滅多にない。




「太郎、交代だ」

 浩介が自分の練習を、僕がBマットの監督をする時間だ。


 その時トラックを中距離の女子グループが駆け抜けてくる。

「ファイト!」「ファイト!」

 1年生の声が響いた。お互いに応援の声を出し合うのがお約束だ。

 僕も一応「・・・・ファイト」と気のない声を出す。


 最後方、苦痛を隠しながらの無表情で相曽がコーナーを曲がる。

 ほら。あの微笑を今日も一瞬だけ浮かべた。

 そこからまた直線、こちらに向かってくる相曽と目が合った。


・・・・ファイト

 僕は彼女の目を見ながら、もう一度声をかけた。




 練習時間が終わり、僕はいつものように生徒昇降口脇で顔や手足を洗っている。

 また相曽がやってきて、僕を見た。

「何か言いたいことがあるの?」


「ない」

 僕の答えに特に苛立つ表情も見せず、相曽は顔を伏せる。


「そう」

 そして淡々と顔を洗い始めた。ショートヘアが汗で光っている。

 顔と腕をタオルで拭く相曽の睫毛は長く、思ったよりずっと…。


「相曽、やっぱりちょっと話をしたいんだけど」

 僕の口から自分でも思わぬ言葉が出ていた。


 近くにいた数人の女子が思わず僕と相曽の顔を交互に眺めた。


「いいわ」

 短く、そしてここでも無表情に相曽が答えて、僕と相曽はその日一緒に下校した。


 周囲は騒然としている。『無愛想姫』と『残念ハイジャン王子』が並んで下校中だ。




 黙って隣を歩く相曽はこうして見ると何を考えているのかわからない。


 気がつくと、二人の分かれ道となる交差点まで来てしまった。


「聞きたいことがあるんだ。少し戻るけど公園で話してもいいかな」

 まず断られるだろうと思っていたのに、彼女は簡単に答える。

「…わかった」



 公園でベンチに座る。中学校時代にも女子と付き合ったことは何回かある。

 だが、こんなに緊張するのは初めてだ。僕は何をしているんだろう。


 だがやはり聞きたかった。あの笑みの意味を。


「ごめん。時間を取って貰って」


 僕の謝罪に相曽は初めて意外な表情をする。

「素直に謝られてビックリしている」


「僕はどんな人間だと思われているんだろう」

 僕は苦笑いした。


「何を聞きたいのか、だいたい判っているけれど」


「本当?」


「なぜそんなに伸びる見込みのない陸上を続けているか、ということでしょう。あんなに苦しそうな顔をして練習してまで」


 彼女はその話を何度か誰かにしてきたのだろうか。僕は首を振る。

「違うよ。そんなことを思ったこともない」


 そして心の中で付け加える。(苦しそうな顔もしていないが)


 相変わらず不機嫌なのかと疑われる顔で相曽が言う。

「澤村は才能があるから底辺の部員の気持ちがわからないのかと」


「そんなふうに僕を思っていたのか。違うよ。もっと別のことで聞きたいことがあるんだ」


 彼女は怪訝そうに目を瞬かせる。長い睫毛が動くのを見て、僕は思い切って訊く。

「一番苦しい練習の時、一番苦しいコーナー当たりでなぜ笑顔になるんだい?」


 彼女は本当に驚いたようだ。目を瞬いて僕の顔を正面からジッと見た。

「笑ってなんかいないわ。苦しいだけよ」


「そうなのか。最後のコーナーでいつも幸せそうに微笑むのを不思議だと思って見ていたんだけど」


「…」


「ごめん。何か変な勘違いをしていたようだ。忘れてほしい」

 僕は自分の早とちりをわびて、話を切り上げようとした。


「…話すけれど、笑わないで聞いてくれる?」

 こう言った彼女の顔を見て、僕は初めて彼女の表情に恥じらいと微笑みが浮かんでいるのを感じた。


「聞きたい。絶対に茶化したり笑ったりしない」


 彼女は僕を無表情ではない、でもよくわからない表情で見つめて、しばらく黙り…


 それから話し始めた。

 僕はその話を聞く前からある予感があった。


 (何かが変わるかもしれない。)









「何かが変わるかもしれない」


 ディック・フォスベリーは相変わらずセーフティマットで空を見上げていたが、今までと違う手応えを得ていた。


 記録会で踏み出し足を間違えた。

 ベリーロールが自分に合わないと感じたフォスベリーは無謀にも大会の途中から跳び方をはさみ跳びに切り替えた。


 はさみ跳びは通常バーに近い足で踏みきり、遠い方の足を振り上げる。フォスベリーの跳び方で言えば左足をグッと踏み込み、右足を大きく振り上げてバーを越えてくのだ。


 ところがこのレベルの選手ではあり得ないミスをフォスベリーは犯した。

 こともあろうに遠い方の右足で踏み切ってしまったのである。

 空中姿勢がバラバラになって、普通の選手ならそのままマットに倒れ込むケースだ。

 ところがフォスベリーは驚くべきことにバランスを保った。つまりそのまま左足を前に振り上げ、大きく腰の位置をあげて身体を反らしながら跳んだのだった。

 彼の最大の長所はこの空中姿勢保持に必要な体幹の強さであった。


 この高さをクリアできたのは初めてだった。

 結果的にこの大会を優勝することはできなかったが、不思議な感覚が残った。



「ヘイ、ディック。何てフォームだ。いくら調子が悪くても酷すぎるぞ!」

 コーチが眉をひそめて叱責した。


 そのコーチの渋面をマットに寝そべったまま、下から眺めてディックは迷う。

(ちょっとこのフォームを試してみたいが、コーチは怒るだろうか)


 そして初めてコーチに自分の意思をぶつけた。

「コーチ。これが僕の、僕だけの新しい跳び方です」


 今、自分が自分になる、そんな瞬間に思えた。










「自分が自分になる、そんな瞬間なんだ」

 相曽の言葉は新鮮だったが、もちろん僕には理解できない。


「あの苦しい練習の最中がかい?」

 僕の怪訝な顔つきに彼女は首を傾げる。


「ちょっと違うわ。苦しいのが好きなわけないじゃない」

 相曽がクククッと笑った。僕は初めて相曽が笑ったところを見た。


「妙な話になるわ。よくわからないかもしれない。いいの?」


「もちろん。僕が聞きたいと切り出したんだから」


「私は才能がない。速く走る才能も、長く走る才能も。だから中距離ならどうにかなるかと思ったら、逆だったわ」


 確かにそうだ。中距離は両方の力が必要だ。

「いい思いつきだと思った?」


「うん。でも中距離はよく考えたらスピードとスタミナの両方が要求される種目だったの。私には何一つ向いている要素がなかったわ」


 相曽は学年でもトップクラスの学業成績で、容姿端麗で、スポーツも万能で…と言うわけではなかったのか。


「種目の変更は希望しなかったの?」


「しなかった。悔しかった。出来ると一瞬でも思ったことが出来ないなんて悔しかったの」


 『無愛想姫』は陸上だけが苦手だったのかもしれない。


「それで?」


「勉強と同じで頑張ったら出来るかもしれないと思ったけれど、そうでもなかった」


 彼女の表情があんまり変わらず真剣だったので、思わず笑ってしまった。

「ごめんよ。君が自分のことなのにあまりにも淡々としていると思って」

 僕は『笑ったりしない』という約束を破ってしまった言い訳をする。


「いいのよ。わかっている。私は『無愛想姫』だそうだから」

 相曽がサラリと言うので僕の方が慌ててしまう。


「いや、その」


「『姫』なら慰められると思っているのかしら」


「…僕もその呼称を何回か使った。謝罪する。ごめんなさい」


 僕が正直に謝ったことも相曽は意外だったらしい。

「澤村はこういうヒトだったのか」


 僕はすでに相曽の無愛想の下に隠された豊かな表情を感じていた。

 素直に謝ることができたのはきっとそのせいだ。

 ただ、もっと話の先を聞きたかった。


「練習しても思ったほどできなかった相曽はそれから?」


 相曽は恥ずかしそうな表情で続ける。

「でも意外なことに自分を追い込んでいくことは嫌にならなかった、というよりやれるだけやってみたい、という気持ちになったの」


「自分の限界を知りたいみたいな?」


「そんな立派なものじゃない。ただ」


 話が止まったので僕は相曽の顔を見た。長い睫毛が少しの間伏せられた。


「ただ景色が消える瞬間があったの」


 ふと僕は何かを感じた。『景色が消える瞬間』…僕も何かあったような気がする。何だっただろうか。


 彼女が話し続ける。


「追い込んで追い込んで、もう無理だと思ったその先に最後のコーナーが近づいてくるでしょう。カーブで視界が変わるのね。真っ直ぐ見ていると誰もいなくなる瞬間があるの。スッと視界が開けて、何だか一人で身体を傾けて走っているような錯覚をするほんの一瞬。自己ベストやその日のいい走りの時は判るの。そして苦しいけれど身体が浮いて、走っている身体が確かにすべて自分のものだって感じる」


 そこまで一気に話して彼女はハッと顔を上げ、その日一番恥ずかしそうに付け加えた。

「それでね…向こう側に夕焼けの空が広がるの。空に向かって飛び込んでいけるみたいに感じる」


 その顔はやはり今まで僕が見たことのない相曽の顔だった。


「私は空に向かって走って行くんだ」









「僕は空に向かって跳んでいくんだ」


 ディック・フォスベリーは新聞記者に向かってそう語った。


 地区大会で彼が披露した『フォスベリー・フロップ』、今で言うところの背面跳びはちょっとしたセンセーションだった。


「あんな跳び方で記録が伸びるわけはない」

「反則跳躍ではないのか」

「目立ちたがりのパフォーマンスに過ぎない」

 様々な非難もあったが、彼はふたつの方法で『フォスベリー・フロップ』を認めさせていった。


 ひとつは実際の跳躍である。

 大会記録、州の記録、大学記録…と更新しオリンピックの代表候補に返り咲いた。


 もうひとつは理論である。

 彼の専攻は建築と物理学、彼は理論的にいかに自分の『フォスベリー・フロップ』が理に叶っているかを新聞や雑誌で論文にした。


 要するにベリーロールではバーを越えるとき身体のすべてがバーの高さを超えていなければならない。だが、背面跳びは頭から背中、背中から腰、足…というようにバーの上にある部分だけが越えていれば良いのだ。エネルギー効率の面でもベリーロールに勝っているし、(理論的には)手足がバーに引っかかることがなくなるという劇的な長所があった。


 それでも世間はまだ懐疑的であり、依然として世界記録はソ連(現在のロシア)のワレリー・ブルメルの2m28。フォスベリーは全米選手権で2位、世界的には無名の選手だったのである。

 彼のオリンピック出場が決まったときも不思議な跳び方の妙な選手『フォズの魔法使い』という愛称で色物扱いであった。


 この時点で背面跳びをしているのは世界中にディック・フォスベリーただ一人。

 当然オリンピックの走り高跳び出場者中、唯一の跳び方だ。


 だが彼は堂々としたものだった。

「これが僕のやり方なんだ。世界で一人でもいいし、勝ち負けも関係ない」


「僕が僕であることが大切なんだ」









「僕が僕であるために跳びたいと思う」

 僕は自分でも多分僕らしくないことを相曽に言っていた。



 僕はその日の昼休み、相曽を呼び出した。

 相曽のクラスは騒然とした。

 『無愛想姫』が呼び出されて、そしてそれにこたえたのである。

 おまけに呼び出したのはかつて陸上部のホープ、今は『残念高飛び王子』だ。


 

「ごめんよ。呼び出してしまって」

 僕の謝罪にも相曽は表情を変えなかった。


「構わないわ。少し教室はうるさいけれど」


 グランドの隅のベンチで僕たちは話をした。


「もう少し話がしたかったんだ」


「私は少し後悔している」

 相曽は下を向いた。


「迷惑だったかい?」


「そうじゃなくて…この間は自分らしくない余計な話をした気がする」

 声が小さくなった。


「僕は感謝している」


 相曽が顔をあげた。

「…?」


「君の話を聞いて思い出した。僕はただ高く、ただ長く、空を見上げて跳びたかったんだ」

 自分の言っていることが何だかまるで相曽への愛の告白のようで顔が熱くなった。


「僕が僕であるために、もう一度跳びたいと思う」


 相曽が下を向いて何も言わないので、僕は急に心配になる。


「相曽…ごめん。自分ばかりしゃべって。気を悪くした?」


 相曽の瞳から涙がポタポタと落ちる。顔をあげてもそれを拭おうとはしない。

 それは思いがけず大粒で僕には宝石のように綺麗に見えた。


 相曽の唇が動く。

「あなたは何にだってなれるわ」










「僕は何者にだってなれるだろう」


 ディック・フォスベリーはそう言うと休憩を終えて、フィールドに出て行った。


 1968年、メキシコオリンピックメインスタジアムで走り高跳びの決勝が行われている。

 ファイナリストは3人、バーの高さはすでに2メートル22センチに上がった。

 フォスベリーに関して言えばすでに自分のベストを更新している。高地のせいか陸上は他の競技も世界記録が連発されている。フォスベリーは負ける気がしなかった。


 ソ連のガブリロフとアメリカの第1代表カルザースと共にテントの下で休憩を取った。

 カルザースが幾分の揶揄をこめてフォスベリーに言った。

「君のようなアクロバテッィクな跳び方の選手はもう出てこないだろうな。大したものだ」


 ガブリロフもロシア語で何か言う。

「(アメリカ人はだから嫌いだ。妙なことをして話題だけはもっていこうとする)」


 フォスベリーは静かに微笑んだ。

「僕は自由だ。誰もが自由だ。何者にでもなれる。君たちもそうだろう」

 そう言ってフィールドに出て行く。


 彼は自分がまだクリアしたことのない高さのバーを前に高揚が抑えきれない。


「僕はどこまでも跳んでいける!そして何て世界は広くて、空は高いんだ!」




 






 僕たちが思うより多分、世界はずっと広く、空は高い。

 そして高くて青かった空はもう夕暮れで、世界は朱に染まっている。


 陸上部は地区の小さな大会の前で少しだけ早い終了となっていた。


「もう少し走り込みたかったのだけれど」

 隣を歩く相曽が僕の顔を見上げる。無表情だ。


「やっぱり苦しいのが好きなんじゃないかと疑ってしまう」

 僕の言葉に相曽が苦笑いを浮かべた。



 先週彼女と昼休みに話をした後、僕たちの関係はクラスの好奇の的となった。


「太郎、いったい『俺たちの無愛想姫』に何を言った」

「泣かしたという噂もある。申し開きをしろ」などなどだ。


 申し開きなどない。僕が独りよがりな話をして相曽を泣かせただけだ。


 僕たちは時々一緒に帰るくらいの関係になった。




 彼女と昼休みに会ってから僕は夜のランニングを始めていた。

 コースは気まぐれだったが、自分の高校の付近を走っているときグランドに人影を見つけた。

 暗いグランドの片隅、街灯の光の下で野球部の葛城かつらぎが一人でトレーニングをしていた。


 野球部は昨年の夏の大会、あと一歩で甲子園を逃した。僕はそれを観客席で見ていた。

 葛城は1年だったが、すでにレギュラーとしてチームの中心の一人だった。だが、優れた1年生ひとりの力では甲子園には届かなかったようだ。


 ナインが泣き崩れる中で葛城は黙って用具の片付けをしていた。その頃の僕には背中で『次だ』と言っているあいつが眩しかった。



 しばらく見ているとチューブを引っ張ったり、小さな台の上に片足で乗って上半身を動かしたり…

「澤村か」


 僕に気がついた葛城は少しだけバツの悪そうな顔をした。

(人知れず努力しているっていう目で見るな)という顔をしている。


 僕は持っていたスポーツドリンクを投げながら笑って言った。

「甲子園か」


 葛城も微かに笑って僕に頷き、一口飲んでから返した。

「そんなとこだ」



 その日から一緒に夜のトレーニングをしている。

 チューブやバランスボールを中心としたインナーマッスルの鍛錬と体幹のトレーニングだ。

 なるほど、これなら少しの明るさでも練習ができる。


「ただし、部の用具を黙って使っていることは内緒にしてくれ」


「学校を背負って立つような野球部のスターが細かいことを言うな」

 僕の軽口に葛城は急に真面目な顔をした。


「なあ、澤村。俺はお前のライバルになれたかな?」


 それは葛城の唐突な告白だったが、僕には受け止めることができない。

「お前は何を言ってるんだ。お前は堂々と野球部の大黒柱、俺なんて『残念ハイジャン王子』だ」


 葛城はまじまじと僕を見る。

「澤村、お前は俺の目標なんだ。いつでも、いまでも」


 空に月が出ている。僕にとっても葛城にとってもまだまだ遠い月ファラウェイ・ムーンが。




「もう少し走り込みたかったのだけれど」


 そういう相曽を誘ってみる。

「僕は最近野球部の葛城と夜に体幹トレーニングとかをやっているんだけど」


「私もやるわ」


 即答する相曽を僕は笑って押しとどめる。

「もし、家の人の許可が出たら、僕が送り迎えをするよ」




 相曽を伴ってそっと夜のグランドに行くと、いつもの通り葛城がバランスボールの上で待っていた。

「もうひとり、いいか」


 僕が相曽を連れているのを見て、葛城が悔しそうな顔で嘆いた。

「いくら俺の目標だからといって、彼女連れでトレーニングとは。また一歩先をいかれた」


 相曽は笑い崩れたが否定はしなかった。そしてポツリと言った。


「もっともっと先に行けるかもしれない」








「僕のオリンピックは終わったけれど、このフォスベリー・フロップはもっともっと先へ行くことになるだろう」


 1968年は走り高跳びの歴史上に残る重要な年となった。

 この年のメキシコオリンピック、アメリカ代表のディック・フォスベリーは一度もバーを落とすことなくオリンピックレコードの2メートル24を跳び、金メダルを獲得した。


 彼の編み出したフォスベリー・フロップ、つまり背面跳びはその後の走り高跳びの主流となり、これ以降の大会で背面跳び以外の選手が優勝することは一度もなかった。

 現在では全世界の全年代、ほぼ誰もが背面跳びを練習している。


 彼はたった一人でその跳び方を編み出し、たった一人で練習し、たった一人で大会に臨んで勝利を勝ち取った。だが彼は言う。


「勝つためにこの跳び方を思いついたのかというと、ちょっと違うかもしれない」


 新聞記者が怪訝な顔で尋ねる。

「それはどういうことなんですか?」



「うまく言えないけれど、要するに空を眺めるのが好きだったんだ」










「僕は空を眺めるのが好きなんだ」


 部活動を引退した冬の帰り道に相曽と並んで歩く。


「こんな色合いに乏しい世界でも、空はいつも違う表情だろう」


 相曽が微笑んで僕を見上げる。

「どうせ私は無表情の『無愛想姫』ですから」


「そういうことでは…」


 僕は慌てて首を振り、それから初めて話したあの公園に誘った。





 僕は何とか2メートルをクリアしインターハイへの出場を果たし、相曽も地区の大会ではあったが入賞することが出来た。


 あの日、相曽は競技場の通路で『おめでとう』と出迎えた僕に抱きつき、『ありがとう』と泣いた。

 後ほど部内で『陸上部創設以来の大ロマンス』と冷やかされた。

 あの無表情な『無愛想姫』は真っ赤に染まった顔を白いタオルに埋めた。


 女子の部員に『よくもまあ、あのにあんな顔をさせたわね』と祝福された。






 公園のベンチで彼女に言う。

「ずっと空を眺めるだけで、自分をあきらめていた僕を変えてくれた相曽…ええと、美空みくさん、君が好きだ」

 初めて名前で呼んで僕は緊張する。


 潤んだ眼で相曽は僕を見ながら笑う。

「澤村は間違っているわ」


「え?」


「まず私の名前は『みく』ではなく『美しい空』と書いてそれで『そら』と読むの。告白で女の子の名前を間違えるなんて…」

 彼女は僕を可愛く睨んだ。


「すみません。…美空そらさん」


「『そら』でいいわ。それとね、私も嘘を言っていたから謝るわね」


「…」


「以前、話したことを覚えている?私が練習のコーナーで笑う理由わけ


「空に向かって走って行くって…」


「あれは嘘」


「あのコーナーを曲がったところに、いつもセーフティマットがあって空を見上げてるあなたがいたの」


「僕が?」


 彼女が微笑む。

「そうよ。あなたを見ていたの。飛び損なって空をポカンと見ているあなたを」


 二人で笑い合った。


「太郎、私もずっと好きだった。陸上部に入ったのもあなたが好きだったから。あの時、やっと私を見つけてくれたんだね。私も太郎が大好き」


 美空が顔を赤くして、そして今までで一番可愛い顔で、もう一度僕を真っ直ぐ見て言ってくれた。


「あなたは何にだってなれる」





 この世界は冒険だ。世界記録を求めてもいいし、勝ちを求めることもいい。金持ちになるのもいいし、大統領を目指すのもいいだろう。


 でもね…負けてもいいし、失敗してもいい。失恋してもいいんじゃないか。



 すべては僕のもの。僕の人生だ。飛び損なったら、空を見上げて笑えばいい。


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