第56話 思春期拗らせ、彼女さん

「最近、水瀬さんはえっち過ぎると思う」


「わ、私はえっちじゃないもん。三月君がえっちなんだもん」


 水瀬の『ストッキング ローション』事件後。水瀬の調子が元に戻る少し前に、水瀬が『三月君がえっちなのが悪いんだもん』とかぬかしてきたので、俺は反射的に心の内を吐露していた。


 俺の言葉を聞いて再び頬の熱を熱くした七瀬は、不満そうにこちらからぷいっと視線を外した。


 ここで俺が再び頭を下げるのは簡単だが、最近は水瀬さんに手玉に取られることが多かった。


 それならば、関係をイーブンに持っていくためにも、追撃が必要だと思ったのだ。あとは、単純に水瀬をもっとからかってやりたいと思った。


 というか、後者の理由がほとんどである。


「最近の行動を思い返して欲しい。水瀬さんは俺の匂いを嗅ぐ方法を放課後まで考えて、俺を電車で身動きを取れない状況に追い込んだ。そして、汗をかいた俺の首筋を舐めるように見た後に、陶酔するように匂いを嗅いだじゃないか」


「そ、そんなえっちな感じじゃなかったもん。いやらしいふうに表現をする三月君がえっちなんだもん」


「そして、しまいには『ストッキング ローション』で検索をするようになってしまった。これをえっちと言わずして何というのだ」


「~~っ」


 水瀬は事実であるがゆえに否定できないのか、羞恥の感情に押しつぶされるのに耐えるように震えていた。羞恥で満ちた顔は赤く染まり、その瞳は涙目。こちらに睨まれるように向けられている視線はいつもよりも弱弱しい。


「あれ?」


 しかし、何かに気がついたのか、その眼光が強いものに変わったようだった。


「三月君が初めに電車で私を隅に追いやって、身動きを取れなくした後に私の首筋に鼻を立てて、聞香でもするみたいに匂いを嗅いで陶然してたんだよね?」


「そ、そんないやらしい表現みたいなことはしてないし」


 初めにしたのが俺で、水瀬はその仕返しをしただけだった。今の水瀬なら言いくるめられるかと思ったのだが、こんな状態の水瀬でも俺よりは語彙力があるらしい。


 そして、水瀬を追い詰めたはずが逆に追い詰められてしまった。


 ちくしょう、調子に乗ってしまったか。


「そもそも、ストッキングの件だって、三月君が女の子の脚に劣情を抱くからであって、普通の人だったら私もそんな勘違いしないし」


「み、三月君を普通じゃないみたいに言うのはどうかと思うぞ」


 俺が援護しないと誰も三月君を援護しない気がしたので、俺は三月君を守ることにしたのだった。


 しかし、そんな俺の小洒落たジョークも水瀬には通用しないらしく、水瀬はジトっとした目で言葉を続けた。


「電車の中で女の子の匂いを嗅ぐのは、十分えっちだと思うんだけど?」


「……そんなことはない。匂いを嗅ぐことをえっちだと思う水瀬さんがえっちなんだ」


「三月君は自分が初めに言ったこと覚えてないのかな?」


 俺がなぜ水瀬をえっちだと思ったのか。それは当然、水瀬が電車の中で俺の匂いを嗅いできたところが始まりでーー。


 まずったな、これがディベートなら負けてたな。


「お、俺は匂いを嗅ぐ方法を放課後まで考えることがえっちだと言ったんだ。匂いを嗅ぐという行為に対してはえっちだと思わない」


「三月君がそれを言うんだ」


 水瀬の視線は俺に疑いをかけるようなものだった。その目はまるで、俺が水瀬の匂いを嗅いで興奮していることを知っているかのようでーー。


 いや、水瀬知ってるな。最近、水瀬の匂いえっちな匂いだとか言ってんな、俺が。


 まずいな、これがディベートだったら負けてんな。


 当然、俺が水瀬の匂いをえっちだと思っていることは共通の認識。そこを強く突かれたら俺が負けてしまうという状況で、水瀬はゆっくりと口元を緩めた。


「そこまで言うなら分かった」


 水瀬はまだ顔の熱を残したまま、くすりと小さく笑った。


 その笑みはいつも俺をからかうときのようで、悪巧みをするかのような表情をしていた。


「私がどれだけ三月君のにおいを嗅いでも、えっちなことだと思わないってことだよね?」


「当たり前だ。そもそもにおいを嗅ぐという行為はーー水瀬さん?」


 机を挟んでのディベートだったというのに、水瀬はスッと立ち上がると俺のすぐ横に座り込んだ、当然、そんな拳二つ分もない距離に座られれば、落ち着かなくなるというもの。俺が距離を取ろうとお尻半コ分離れようとすると、水瀬はそれ以上に距離を詰めてきた。


「何で逃げるの?」


「な、何で近づいてくるの?」


「三月君が私にしたことがどれだけえっちなことだったか、教えてあげるため」


 水瀬はそう言うと、俺の後ろに静かに回り込んだ。振り返ろうとする俺の肩に手を置いて、水瀬は首元に顔を近づけてきた。


「逃げないでね? えっちじゃないんでしょ?」


 水瀬の甘い香りがすぐ近くにある。それだけのことで、心拍数が跳ね上がったというのに、水瀬は俺の首筋に鼻を近づけると、音を出すように匂いを嗅ぎ始めた。


「すんすん」


「……」


「すんすんすん、はぁー」


「はぁーはやめろぉ!」


 何を考えたのか、水瀬は首筋から位置を変えて耳元で匂いを嗅ぎ始めた。そして出した息を故意的に耳に吹きかけている。


 絶対に俺は電車の中でそんなことをしていない。


 いや、数度そんなことがあったのかもしれないが故意的ではない。故意的ではないはずなのだ。


「あれ? 私はただ息吐いただけだと思うんだけど、三月君的には呼吸をすることもえっちなのかな?」


「ぐっ」


 反論をしようものなら、こちらがえっちな人認定をされてしまう。そう言われてしまうと、俺はどうすることもできなくなっていた。


 ただ水瀬に一方的に匂いを嗅がれる。なんかの新しいプレイか何かなのか?


 まぁ、学校で一番可愛い子がこんなことをしてくれるならいいのか?


 やばい、水瀬の無駄に整った容姿を思い出したせいか、一段と心拍数が跳ね上がった気がする。


「すんすん、少し汗かいてるね。緊張してるの?」


「す、するわけないだろ」


「ふーん、じゃあ問題ないね。はぁー、すんすん、はぁー」


「うぐっ」


 こうして俺は長い時間、水瀬に動くことも許されずに匂いを嗅がれ続けたのだった。


 暴れだそうとしている思春期も身動きが取れず、拘束具を壊すんじゃないかという勢いで暴れていた。そんな思春期の姿を見せられ、俺も心を痛めた。


 水瀬の匂いが染み込むんじゃないかと言うほど水瀬の匂いに当たられて、頭がくらくらしてくる。


 この一連の動作は俺の思考判断を鈍らせるものだったのか。くそっ、完全に術中にハマってしまった。


「ふふっ、どうだった?」


 水瀬は俺の匂いを嗅ぎ終えると、俺の顔を覗き込んできた。余裕そうな水瀬の顔。いつの間にか立場が逆転されてしまったようで、俺は優位な位置に構える水瀬から楽しそうな視線を向けられていた。


 立場が逆転したなら簡単なことだ。また、立場を逆転させてしまえばいい。


 なぁ、思春期よ。


 俺は厳重に縛られていた思春期の拘束具を解いた。思春期と二人で戦う。思春期が仲間になるとが、こんなに心強いとは思わなかった。


 いくぜ、思春期。


「俺一人の意見じゃ参考にならないだろう。水瀬さんも意見を聞かせて欲しい」


「え? 私の意見?」


 俺はそう言うと、先程の水瀬と同じように水瀬の後ろに立った。俺が振り返ろうとする水瀬の肩に手を置くと、水瀬の体が小さく跳ねたのが分かった。


 ここからは思春期の時間だ。


「ちょっと、三月君?」


「水瀬さんはさっき自分がした行動をえっちだと思わないんだよな? それとも、水瀬さんはえっちな行動だと分かりながら、そんなことを同級生に強要するようなえっちな子なのか?」


「え、えっちじゃないもん。私の行動は全然えっちじゃないもん」


「そうか、それなら俺がさっき水瀬さんにされたことを、水瀬さんにしても何も問題はないな」


「へ?」


 俺はそんな言葉を口にすると、水瀬と同じように首筋に鼻を近づけて、深呼吸をするように水瀬の匂いを嗅いだ。 


「すぅー、うわっ。相変わらずえっちな匂いしてんな」


鼻腔をくすぐるのは甘い香りと水瀬の汗が混じり合った匂い。先程の水瀬が動くたびに香ってきたものが、より匂いがダイレクトに鼻に届く。


「え、えっちな匂い?! そ、そんな匂いしなーー」


「はぁー」


「ふわぁぁぁ。~~っ!」


 そして、俺は息を首筋に吐きかけた。先程水瀬にやられたことをやり返しただけだというのに、水瀬は変な声を出して、耳を真っ赤にさせていた。


「すぅー、はぁー」


「~~~~っん」


 そして、俺にやったのと同じようにその行動を耳元でやってやる。火照ったように体を熱くしていく水瀬の姿に気づかないフリをして、俺は何度もその動作を繰り返した。


 繰り返すたびに水瀬の声が漏れて、耳が一段と熱くなっていく。そして、どんどんその漏れ出る声が艶っぽくなってきた。それでも、俺よりも追い込まれていく水瀬の様子が面白くて、俺は一心不乱に何度も何度も続けた。


「すぅー、はぁー、はぁー」


「……も、もう、やめ、て」


 ギブアップとでも言いたげに、水瀬は弱々しいような震えた声を漏らした。こちらに向けられた瞳には涙が込められており、顔が真っ赤になっている。


 まるで、長時間弱い刺激で責められ続けて、達することさえも許してもらえなかったかのような乙女の顔。辱めを受け続けて、普通に呼吸をするのも難しいような様子。


 どうやら、余裕の欠片もないようだ。


 どうだ、これで俺の勝ちーー、勝ち?


「あれ、何してんだ俺は」


 確か、俺はただ最近の水瀬がえっちであること言いたかっただけ。それがどうして、匂いの嗅ぎ合戦になっているんだ?


 こんなの水瀬だけでなく、俺がえっちみたいじゃないか。


 蕩けるような水瀬の顔を向けられて、俺は急に冷静さを取り戻していた。そして、自分がした行動を思い返す中で、言葉が自然と漏れ出た。


「えっと……なんかすんません」


 俺の言葉を受けて、水瀬はようやく終わったと理解したのだろう。目元を強めて睨むような視線を送っているつもりなのかもしれないが、ただ力なく目が細くなっただけだった。


「……み、三月君が私に匂いを嗅がせた後、強引に私の匂いを長時間嗅いで、首を責めて耳を責めて、私を長時間に渡って辱めてきたって、み、みんなにーー」


「結果としてそうなったかもしれないけどそもそも水瀬さんも俺にやったわけだから今回はチャラということにできないでしょうかお願いします何卒!」


 俺はクラスメイトから『ミスター寸止め』と呼ばれないように、水瀬に頭を下げたのだった。


 今回は俺悪いのだろうか? いや、今回は水瀬が悪いだろう。そもそも、水瀬が初めに俺を責めてきたのだ。つまり、水瀬はえっちな子なのである。ここにそう断言する。


 ……まぁ、水瀬がした以上に水瀬を責め続けたのは俺も悪いのかもしれないが。まぁ、そうなると思春期も悪いのかもしれないけどな。


 それでも、俺達勝ったよ、思春期。


 俺は水瀬の矯正に近いような漏れ出た声を忘れないようにしながら、水瀬に深く深く頭を下げたのだった。


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