兄と弟
まずは、いちばん小さな呪式を作る。「起動して手を上げる」、それだけができるような――
ひとまずの方針が決まったところで、私たちは休憩を取ることにした。長丁場のプロジェクトでは、適度な息抜きも大切だ。余裕があるうちから百パーセントの体力消費で突っ走ってしまうと、納期前とか突発の障害発生時とか、本気の修羅場で持たない。ペース配分は大事だ。
……休みに意識が行くと、急に、お腹が空いていることに気付いてしまった。そういえば、こっちの世界に来てから何も飲んでないし食べてない。
「フミカ、ご飯食べない?」
タイミングよく、アレクシスが声をかけてくれた。
「うちの料理が、フミカの口に合うかはわからないけど……そろそろ晩ごはんの時間だからね」
窓の外を見ると、空はまだ明るい。夕食にしては早いな、と思ったけど、こっちの世界では現代東京ほど灯りが普及してないのかもしれない。だとしたら、早めに食べて早めに寝てる可能性はある。
ともあれ何か食べたいのは間違いないから、ありがたくいただくことにする。
「もらえるならありがたいよ。でも、食費どうすればいい?」
「客人はそんなことを心配しなくていいよ。ひとり分の食事も出せないほど、うちは貧しくないし……それじゃ、厨房に頼んでくるね」
言って、アレクシスは工房を出ていった。
ひとり残された私は、また長大な巻物に目を落とした。私にとっては訳が分からないポエムだけど、どうやらアレクシスはある程度、これがどう「動く」かわかっているみたいだ。
教えてもらうか、それとも、なにか別の手段を考えるべきか――
いろいろと考えていると、不意に工房の扉が開いた。ノックもせずに入ってこられて、ちょっとびっくりする。
「アレクシス、辞令だ。次の配属先が決まったぞ」
凛とした、綺麗な声が響く。けれど口調は、少し尊大な感じもする。
「明日から施設管理部だ。中央の種火塔がちょうど壊れているらしいな、まずはそこの修理から――」
「アレクシス、いませんけど」
ちょっと怖かったけど、答えた。
入口を見れば、立派な鎧に身を包んだ誰かが、逆光の中に立っていた。短い金髪を綺麗に撫でつけた、なかなかの美形さんだ。腰には金銀の飾りがついた豪勢な剣を提げている。鎧はよく見ると革だけれど、銅と見間違えそうなくらい艶やかに磨かれた表面は、やはり華麗な鋲や型押しで彩られている。
「見慣れぬ顔ですな。あなたは……どなたですかな」
鎧の誰かは、少し首を傾げながら言った。
どう名乗ったものか、迷う。けどアレクシスに近い誰かなら、矛盾した内容を答えると後々面倒そうだ。一番最初に名乗った通りの内容で、答える。
「トナイの機械術師です。……遠方の人間です」
「ほう。アレクシスに招かれましたか」
「そう解釈していただいて、大丈夫です」
かつり、かつり。
硬質の足音を響かせながら、鎧の人は私に近寄ってきた。椅子に座ったままの私を見下ろし、そこで、表情を急に変えた。
「……よく見れば女ではないか。男のなりなどしているから、見間違えたが」
尊大な声に、あからさまな嘲りまで混じりはじめた。なんなんだ、この人。
「アレクシスめ、父上にいただいた工房に、いつのまにか女など連れ込んでいたとはな。知らぬ間に、大した度胸を身につけたものよ」
鎧の人が高笑いする。露骨な嘲笑だった。
どう反応していいかわからない。東京でこんな扱いをされたら、真正面から口でやり返すところだけれど、ここは異世界でアレクシスの工房だ。変な振る舞いをして、アレクシスに厄介事を及ぼしちゃいけない。黙っているべき場面では黙っているのも、自分の悔しさはぐっと飲み込むのも、社会人としては大事なスキルだ。あんまり、身につけたくはなかったタイプのスキルだけど。
と、そこへ、聞き慣れた声が割り込んできた。
「フミカ、厨房に頼んできたよ。二人分の夕食、あとで持ってきて――」
そこで、アレクシスの声は急に途切れた。
「イザーク兄さん……!?」
「アレクシス、次の辞令を持ってきたぞ。だがその前に……おまえ、ここで何をしている?」
お兄さんらしき鎧の人は、鋭くアレクシスをにらみつける。高圧的な声色も、凍りつきそうな視線も、兄弟に対するものとはちょっと思えない。
血の気が引いた顔で震えるアレクシスに、イザークさんが言葉で追い打ちをかける。
「アレクシス、己の立場はわかっているか? 魔導騎士の家に生まれながら、戦うこともできないできそこない。家門の恥でしかないおまえに、父上は寛大にも立派な工房をくださった。その大恩を忘れ、よりにもよって女遊びなどとは――」
「……違います」
口を挟むべきじゃないとは、思った。けど、アレクシスは震えるばかりで何も言おうとしない。
だったら、アレクシスの名誉は、私が守ってあげなきゃいけない、気がする。
「先にもお話しましたが、私は技術者です。機械を扱う専門の術師です。あなたが思っているような理由で、ここにいるわけではありません」
「どうだかな。……女、ひとつ忠告しておこう。このアレクシスという男はな――」
イザークさんは、急にアレクシスの顔へ手を伸ばし、瓶底眼鏡を取り上げた。
アレクシスは固まったまま、背筋を大きく震わせる。けれど何も言わない。
「おや? アレクシス、いつものように取り乱しはせんのか。いつもなら、泣き叫びながら『返して』と大騒ぎするくせにな」
眼鏡を振りつつ、イザークさんはくっくっと笑う。
アレクシスは震えつつ、目をじんわり潤ませている。白くなるまで握り込まれた拳は、何かを必死でこらえているようにも見えた。
「女、覚えておくといいぞ。この男はな、眼鏡さえ取り上げれば何もできなくなる。気に入らんことをされた時は、眼鏡を奪ってやれ。なんでも言うことを聞くぞ」
高笑いしながら、イザークさんは私の手に瓶底眼鏡を押し付けた。
うつむくアレクシスの顔を起こし、眼鏡を乗せてあげる。震える指先が、形を確かめるように、何度もレンズやつるをなぞった。レンズの向こうで、涙が一筋落ちる。
イザークさんは、床の上に一通の書状を投げ捨て、工房を出ていった。すかさずアレクシスが拾い上げ、中を確かめる。横から覗き込むと、「施設管理部付魔導士に任ずる」――と、確かに書いてあった。
「……僕はね、できそこないなんだ」
小さく首を振りつつ、アレクシスが言う。
「魔導騎士の家の子なのに、生まれた時から目が悪くて。たった十歩先も、ぼんやりしてよく見えないくらい……だから戦うどころか、普通に暮らすことさえ難しかった。もし庶民に生まれていたら、口減らしされるか物乞いになるか、どちらかしかなかったろうね」
アレクシスは涙声で話しながら、眼鏡のつるを指でそっとなぞった。
「でも父上と母上は、とてもお優しくて……こんな僕に立派な工房と、なにより眼鏡をくださった。計り知れない御恩、返さないととは思ってるんだけど――」
「えっと……ごめん、ひとつ訊いていい」
最初に出会った時の様子が、思い出される。
確か眼鏡を返した途端、態度がころっと軟化したんだ……ひょっとするとこの世界の眼鏡って、とんでもない貴重品なんじゃないだろうか。
「その眼鏡って、おいくら万円ぐらいするの?」
「……まんえん?」
「トナイの通貨単位。こっちだと、金貨とか銀貨とかなのかな」
アレクシスは、少し首を傾げて考え込んだ。
「ガラス職人に金工職人……最高の技を集めて作る
「ちなみに、金貨一枚あったら何が買える?」
「僕の研究所でのお給金が、月に金貨三枚。金貨一枚あれば、市民の一家族がひと月暮らせるよ」
えーと、だいたい金貨一枚で十万から二十万円くらいか。とすると、金貨十枚は――
「その眼鏡……宝石を顔に乗せて歩いてるようなものだったんだね……」
ちょっと引きつつも、ようやくあのときの態度に納得がいった。……そんな高価なものを、たびたび取り上げてはオモチャにしてるらしき、あのお兄さんも大概だと思うけれども。
アレクシスは眼鏡を手で押さえながら、大きく頷いた。
「せめて、いただいた御恩は返したいんだけど。でも、僕は――」
うつむくアレクシスの背を、私はばんばんと叩いた。
「おっけーおっけー! だったらこれから頑張ろう! トナイのSE様と親孝行するよ!」
私はあらためて、広げられた長大な巻物を眺めた。
強敵だけど、やるしかないよね。そんな事情があるなら、なおのこと。
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