雪を掴む

シチセキ

雪を掴む

 誰にでもきっと、大切なものはあるのだと思う。

 決して満ち足りているとは言い難い日々だったとしても、それがあれば気丈に振る舞える。そんな何かが、誰にでも、きっと。

 

 例えば、私の場合。

 学校はあんまり楽しくないけど、家に帰れば大好きな家族が居て、たくさん幸せをくれる。

 それで、私は毎日を絶やさず紡ぐ努力をしようと思える。

 父は私が生まれる前に死んでしまったけど、母と姉はその分以上に私を可愛がってくれたし、飼っている犬もよく懐いてくれていた。……何故か母にだけは懐かないけど。

 母は聡明で真面目な人で、堅実に働いてくれてお金に困ることはなかった。かと言ってお金持ちだったわけではないけど、私たちには充分だった。姉が倹約家だったおかげもあるかもしれない。

 ……そんなふうに、学校は少しだけ嫌だけど、家にはちゃんと居場所があって、それなりに幸せで。私にはそんな日々が大切だった。

 

 でも、もしその大切なものが、突然消えてなくなったら?

 

 ——それは、中学三年生の冬のことだった。

 一段と冷え込んでいたその日、空気を呼吸の度に白く染めながら下校をしていたところ、私の側をそれ以上に白い車が横切っていった。

 救急車だ。

 かわいそうに。一体どこのどんな人が、どういう理由で運ばれたのだろう。

 ……なんて、他人事にしていられたあの時の自分が、今では羨ましい。

 結論から言えば、あの時運ばれていたのは、姉だった。

 急性心不全。

 それが姉を襲った病魔の名前だった。

 一命は取り留めたが依然として危険な状態は続いた。

 主な原因はストレスらしい。

 …………どうして?

 何に耐えてきたの?

 病室でそう尋ねても、姉はただ苦しそうににっこりと笑って、

「ちょっと体が弱かっただけだよ」

 と言うだけだった。

 隣に立つ母はただ途方もなく暗い顔をして、どこか遠くを見つめていた。

 

 数日後。学校の帰りに、入院中の姉を一人で見舞いに行った。

 その時、姉は私にこっそり教えてくれた。

 

「……私、お母さんから虐待を受けてたんだ」

 

 その言葉、その一言だけでも、絶望するには十分だった。

 現実味を帯びないままショックで黙っていると、姉は病人服を緩めて傷跡を私に見せた。

「……ほら、この肩の傷。勉強してたらね、料理中だったお母さんがいきなり怒りだしちゃって、包丁で切ってきたの」

 ここの傷は、このあざは——と一つずつ説明する姉が、苦しそうに暗い思い出を語る姉が……どうしようもなく痛ましかった。

 それでも。

「——信じられない」

 どれだけ具体的に説明されようとも、理解なんてできるはずがない。

 だってあんなに、家族みんなで仲良くやってたじゃん。

 全部、嘘だったの……?

 ……姉にそんなことを言っても、何にもならないのはわかっていた。だけど、言わずにはいられなかった。

 声が震えていた。足元も思考もおぼつかなくて、姉の悲しそうな顔も、言い訳するように謝る声も、救急車みたいに他人事のようで、遠かった。

 姉がずっと私にその事実を隠してきたのは、きっと幼くて無垢で幸せ者だった私には耐えられないと思ったからだろう。

 死の淵に立って、いよいよ言わなければと思ったのかもしれない。……だとしたら、姉は——。

 ああ、考えたくない。

 今まで幸せだったのは私だけだったのだ。

 姉のせいではないとわかっていても、なんだか彼女が不幸をもたらしたような錯覚に陥って、そんな自分が余計に嫌になった。

 病室から飛び出て、家に帰って、自分でも信じられないくらいに酷く泣いた。

 楽しかった日々を思い出してはあれもこれも偽りだったのだと、虚しくて仕方なくなった。また、姉の受けてきた苦痛を想像しては涙が落ちた。

 ——そして不意に、家のドアが開く音がした。

 母が帰ってきた。

 ……どうしよう。

 これほど、母の足音を恐れたことはなかった。

 母は残酷なまでに普段通りにこちらへ歩み寄り、泣いている私を見つけて駆け寄った。

 優しい声で、こう言った。

「——大丈夫? どうしたの、学校で嫌なことでもあった?」

「…………う、うぅ……うっ」

 母の優しい問いに応えたのは、言葉でなく嗚咽だった。

 ——言えるはずもない。

 万が一言ってしまったら、母の姉への対応が更に酷くなるかもしれないから。

 だから、私は常にいつも通り振る舞う必要があったのに、その日からずっと母が怖くて仕方なくなって、まともに話せなかった。

 いつもはありがたいはずの母の優しさが、今は憎くて怖い。私に優しく接している裏で、姉を傷つけたのだ。許せもしない。

 

 

「——もしかして、何か聞いたの?」

 

 ある時、母は姉の名前を出して私にそう尋ねた。

 心臓を冷たい何かに掴まれるような、凍てついた緊張が私を包んだ。

 必死で首を横に振った。それしかできなかった。

 しかしその態度で母は何かを察したようだった。

 ただ途方もなく暗い顔をして、黙ってどこか遠くを見つめていた。

 ——不意に、母のケータイが鳴った。

 母は真顔で出ると、いくつか返事をして切った。

「……危篤だって」

 冬には少し冷たすぎる一言だった。

 表情も、声音も、その事実も氷点下で、体の震えを止められなかった。

 

 病院に着いた頃には、姉はもう息を引き取っていた。

 

 ——どうしよう。

 真っ先に頭を支配した言葉はそれだった。

 ——どうしようどうしようどうしよう……!

 大好きなお姉ちゃんが、いってしまった。もう二度と、私に笑いかけることはなくなってしまった。

 それにこれからは、何を考えてるかわからないお母さんと二人で暮らしていかなきゃならない。

 怖い、嫌だ、どうしよう。

 そんな言葉が頭に渦巻いて、涙も出ない。声も出ない。

 そんな私の横で、母はまた、途方もなく暗い顔をして姉の抜け殻を見つめていた。

 

 飼っている犬、きなこは、メスの柴犬だ。母に絶対に懐かないのはどうしてかとずっと思っていたが、今なら納得できる。動物というのは、人間に見えないものが見えているものなのだろう。

 だから、姉が息を引き取ったことも、どうやら察しているようだった。悲しそうな目をしながら、黙って私にそっと寄り添ったのは、きっとそのせいだろう。

「——きなこ……」

 抱き寄せると、途端に涙が溢れて止まらなかった。

 学校でいじめられたときよりも、失恋したときよりも、母の虐待を知った時よりも、もっとずっとずっとずっと、辛かった。

 渦巻いて渦巻いて、たつまきを起こした喪失感に目を回しながら学校に行った。数日後にお葬式に行ったが、何も覚えていない。忌引きで三日ほど休んだが、これも何も覚えていない。

 嵐のように日々が過ぎたと思ったら、今度は雪が降っていた。

 行きは良かったが、帰りには分厚く積もっていたし、かなり吹雪いていて目の前が真っ白だった。

 ——この雪ならば、もしかしたら凍死できるかもしれない。

 真っ白な頭の中で、そんな考えがポツリと浮かんだ。

 

 あまりにも深い雪。長靴を履いていても雪が入ってくる。

 その考えを実行しようとは、本気で思ってはいなかった。でも、少しバランスを崩して転んでしまうだけで、簡単にトリガーは引かれる。

 新雪に身体を埋めたら、立ち上がりたくなくなってしまった。

 このまま雪に包まれたら、私も雪になれるような気がして、

 私は、

 ゆっくりと目を閉じた。

 

 

「わあ! 雪だ、雪が降ってきたよ、お姉ちゃん!」

「おお、ほんとだね。もうそんな時期かあ……」

 …………小学生の私と、高校生の姉が、公園で遊んでいる。母は、ベンチに座ってそれを見ている。

 ——確か、五年前のことだ。

 姉の優しい笑顔は、ずっと変わっていない。

 母の笑顔だって、変わっていない。

 きっと、この時も母の中には姉を疎む気持ちがあったのだ。

「ねえねえ、落ちてくる雪って掴めるのかな」

「掴めるよ。ほら」

 姉は目の前の降雪を掴んで見せた。

「すごい!」

「簡単だよ、やってごらん」

 私は何回か挑戦した後、雪を掴むことに成功した。

「できたー!」

「すごいね! すぐできたね!」

「えへへ、でしょー」

 手の平に載った小さな雪の粒を誇らしげに見つめた、その直後に、雪はあっけなく水滴に変わってしまった。

「……あ、とけちゃった」

「溶けちゃったね……」

 私は少しだけ悲しい気分になりながら、また雪を掴んだ。一つくらいは、溶けない雪があるかもしれないと。

 本当はそんなもの無いと、わかっていた。

 

 溶けた雪を見て悲しい気分になるのなら、どうせ溶けるとわかっているのなら、どうして懲りずに雪を掴むのだろう。

 

 私はもう、幸福を望めない。

 掴んでも雪のように消えてしまう幸福を、もう一度願おうなんて、思えない。

 

 頭の中におびただしい量の思い出たちが流れていく。

 転んで怪我をした思い出。絆創膏を貼ってもらった思い出。風邪を引いて看病してもらった思い出。友達に裏切られた思い出。慰めてもらった思い出。

 そこには、いつも家族のみんながいた。

 なのに。

 私は今、家族に裏切られたような気分だった。

 今度は、誰にも慰めてはもらえない。

 慰めてもらっても、どうせまた裏切られる。

 

 もういい。

 

 体から力が抜けていく。

 どっと、眠気が襲ってくる。

 そういえば最近、まともに寝ていなかったと思い出す。

 

 最後に閉じたまぶたの裏に浮かんだのは、見覚えがあるような……だけど思い出せないような、優しい笑顔の——

 

「——ねえ、大丈夫?」

 少し上の方から声が聞こえる。

 雪をふむ音が近くに聞こえる。

 ……誰?

「こんなところで寝てたら風邪引いちゃうよ」

「……」

「おーい、もしもし?」

 とんとん、と肩を叩かれた。

 誰かに触れられたのは随分久しぶりな気がした。

 動きにくくなった体を動かして、声のする方に顔を向ける。

 ああ、さっきの、見覚えのある顔。誰だっただろうか。

 うちの学校の制服を着ている。

「お、意識はあるね。歩けそう?」

 私は黙って首を横に振った。

 するとその人は背中を向けてしゃがんだ。

「ほら、おぶってあげるよ」

 喉が凍りついたようで、声を出したくなかった。私はまた黙って、その人の背中に体を預けた。

「とりあえず、学校が一番近いから戻ろう」

 そう言いながら、積雪に足跡をつけていく。

 私をおぶっているにも関わらず、歩みは速い。

 

 ——ああ、私、助かろうとしてるんだな。

 

 自分の意志の弱さに半ば呆れながら、その人の頭越しに景色を見る。

 いつの間にか雪がやんでいる。空も少し明るい。

 どれくらい時間が経ったのだろう。

 母は、なかなか帰ってこない私を今頃どんな気持ちで待っているのだろうか。

 ああ、帰りたくない。

 一時的に家から逃れられているこの状況がありがたい。

 ……死んでしまえたら、もっと良かったのに。

 

 そんな、とりとめのない思考に句点を打ったのは、目の前に現れた学校だった。

 おぶってくれているその人も、私に聞きたいことがあると思うのに、ここまでずっと何も言わなかった。

 おぼつかない動きで靴を履き替え、今度は肩を借りながら保健室に入る。

 その人が先生に事情を話すと、ストーブの前に座らされ、温かいお茶をもらった。お茶をすすっているうちに、おぶってくれたのが誰だったか思い出した。

 一つ上の、三年生の先輩だ。

 確か、生徒会長だった気がする。

 すっかり忘れていたが、姉が逝ってしまってからよく私を気にかけていたのだった。

 申し訳ないが、その時の私はそれどころではなかったし、正直外聞のためか、優しい生徒会長を演出するためなのだと思っていた。

 今もその疑いは残っている。

「どう? 調子は」

 そう言った先輩の優しい笑顔が、少し姉に似ていて、疑っていることに罪悪感が生じた。

 私はどうにか笑い返して「はい、だいぶ良いです」と答えた。

「そっか、良かった」

 そう頷く先輩の横から、保健の先生が出てきて聞く。

「どうして、雪の中に倒れてたの?」

 どう答えるか迷った。死のうと思っただなんて当然言えない。雪のせいで疲れて倒れた、と言うにしては倒れた場所が学校から近すぎる。

「雪が大好きで、ついつい飛び込んじゃって、そのまま寝ちゃったんですよねー」

 パッと思いついた、一番矛盾のない嘘がこれだった。

 口に出した途端、私は深く後悔した。

 何故なら、先輩も、先生も、私の返答を聞いて黙ってしまったからだ。

 これはまずい。

 こうやって、ズレた発言をして、周囲に頭のおかしい奴だと思われて、今まで散々省かれたりいじめられたりしてきたのだ。

 ——しかし。

 その後聞こえたのは笑い声だった。それも、嘲笑などではない、正真正銘の笑い。

「なんだ、案外君って面白いんだね」

 一通り笑った後で先輩はそう言った。

「ね、いつもは全然話さないから、意外でびっくりしちゃった」

 先生も柔らかい表情で言った。

 ここは今までのと別の世界なんじゃないかと思うくらい二人が優しくて、私もびっくりしていた。

 そんな打ち解けた空気で、少しの間三人で談笑していた。

 体は思ったより冷えていなかったらしく、いつの間にか寒気は消えていた。防寒着をしっかり着込んでいたせいと言うべきか、おかげと言うべきか。

 

 そして楽しい時間はあっという間に過ぎ去った。

 

「——あ、そろそろ帰らないと」

 先輩がふいに壁掛け時計を見て言った。

「ほんとだ、もうこんな時間」

 先生も時計を見上げた。

 ……私だけが、俯いていた。

 わかっていたはずなのに、どうしても名残惜しかった。

「いやー、ついつい話し込んじゃったねー」

「ほんと、楽しかったね」

「…………」

 楽しかった、幸せだった、ただそれだけの時間を手放すのなんて、姉を失ったことと比べればなんてことないはずなのに。

 寂しくて寂しくて仕方なかった。

 そんな私を見て、先輩は言う。

「……大丈夫。また明日も会えるよ」

 また、その一言が嬉しくて嬉しくて仕方なかった。

 

 この喜びも、幸福も、全部一時的なもので、また私を裏切ってどこかへ行ってしまうとわかっているのに。

 もうあんな目には遭いたくない。

 だけど、どうしてもこの幸福に執着してしまう。

 嫌だ。

 私に優しくしないで。

「途中まで一緒に帰ろうか」

 なんて、言わないでよ。

 私はそれを振り払えないから。

 

 暗くなった雪道を二人で並び歩いた。

 冬は日が短い。そこまで遅い時間でもないのに星が出ている。

 先輩は「星がきれいだね」と呟いた。

 確かにきれいだった。私は「そうですね」と相づちを打つ。

 少ししてから、先輩は躊躇いがちに切り出した。

「……あのさ、言いたくなかったらいいんだけど。その、本当はどうして、あんな所で倒れてたの?」

 私は困った。

 適当に濁すこともできたが、絶対に本当のことを言わなければならないような気がしてそれが出来なかった。

「…………ちょっと……なんて言うか、嫌になっちゃって、色々。それだけです……」

 詳しく話すのは嫌だった。先輩に頼りすぎてしまいそうだったから。

「……そっか」

 先輩はそれっきり何も言わなかった。

 しばらくすると、立ち止まって、「ごめん、家、こっちなんだ」と言った。

「はい。……じゃあ、さよなら……」

「……」

 先輩は何か迷っているような、困ったような顔をしていたが、次第にまた優しい笑顔で私を見た。

 そして、そっと私の頭を撫でた。

「よく耐えてると思うよ、偉いね」

 包み込まれるような温かい言葉、声。

 何も知らない人に、そんなこと言われたってちっとも響かないだろうと思ったのに、私の目からは涙が溢れていた。

 そんな顔は見られたくなくて顔を背け、ただ、誤魔化すように、しかし本心から一言、

「……ありがとうございます」

 とだけ呟いた。

 先輩が頭から手を離したので、涙を拭って、泣き顔を作ろうとする表情筋を必死に抑えて、

「また明日」

 と絞り出した。

「うん、また明日」

 

 足音と共に遠ざかる滲んだ先輩の背中は、星のきれいな夜空によく映えた。

 

 家に帰ったら母はどんな反応をするだろうか。

 まず、ただいまにおかえりを返してくれるだろうか。

 姉が逝ってしまってから、母の私への対応はなんとも言えない。

 極端に嫌な態度を取るわけでもないし、かと言って前と同じ訳では無い。口数は少ないが嫌われているようには感じない。

 母の方も私とどう接していけばいいのかわからないのかもしれない。

 でも、大丈夫。

 私にはきなこがいるし、先輩もいる。

 まだ姉のことを思い出すと首を絞められるように苦しいけれど、なんとなくやっていける気がした。

 

 ……ああ、さっきまで死のうとしていた人間が何を思っているのだろう。

 やはり自分の意志の弱さにはつくづく呆れるが、もうそれでいい。

 なるようになるだろう。

 失うとわかっていても幸せを求めてしまうなら、どこか虚しいそれを、一心不乱にかき集めてみるのもいいだろう。

 永遠に溶けない雪はないけれど、それでも雪は美しい。

 掴めるだけ掴んでみせよう。

 

 今度は穏やかに、しんしんと雪が降り出した。

 手の平を天に向けると、何粒か手の中に落ちてきた。

 私は、どこか虚しいそれに、そっと笑いかけた。

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