apathy/pathos 作:奴

 apathy


 卒業式には桜のイメージがあるけれど、卒業式があるのは三月一日で、桜が咲きはじめるのは三月中ごろだから、ほんとうはそんなことないのにね、とあなたが同じ話をして笑った。何回聞いたかわからないな、と思いながらあなたの話に愛想笑いをつくって、窓から校舎裏の駐輪場を眺める。一隅には桜の木があるけれど、たしかにまだつぼみは硬くて、どうにも咲きそうにない。鉛筆の先っぽみたいだな、と思った。鉛筆なんて小学生の途中から使っていない。

共通テストのときは使うらしいね、とあなたが言う。どういう理由かはわからないけれど、シャーペンは禁止だから、どこかで鉛筆を買わないといけない。でもそれだけのために買った鉛筆を、そのあと何に使えばいいのだろう? でもそれは来年の話だった。

そう、私とあなたは委員会に入っていたから、在校生として卒業式に出席しなくてはならなかった。部活動にも入っていない二人だから、同じ委員会の人くらいしか三年生のことは知らなくて、すこしも感動できない卒業式は知らない親戚の通夜と同じだった。身が縮こまって変に緊張するから、よほど気疲れしてしまう。

卒業式の終わりに教室に戻って、何度目かわからない話題で飽きもせず話をして放課後を過ごした。桜の話はそのときに現れたのだった。もう地の底は温まってきていて、吹く風は柔らかい熱を帯びて胸をすくようだった。春が近づくたびに私は同じ充溢感で満たされ、昼間はとくにぽやぽやしてならなかった。不思議なくらい何にも手がつかず、授業中もぽかんとしていることが多かった。だからそのときも、あなたと話しながら、私の心は春の風のなかを羽根のように綿毛のようにたゆたっていた。気持がよいからと開け放した窓という窓を風が吹き抜けて、教室も廊下も、学校全体に春そのものが満ちているふうだった。空気が優しくて、私は何度も深呼吸した。

先生との別れを惜しむ三年生はいつまで経っても学校を出ようとせず、また就職だとか進学だとかで離ればなれになる友だちとの最後の会話(とみんな思っているらしい)を楽しみ、学校全体がいつまでも浮ついていた。そのざわめきがどこか遠くの海のさざなみが寄せ返す音のように思えて、もとより春が近い三月の陽気に酔いしれている私は、あなたといっしょにいながら、永遠の幸福な孤独のなかにあるように感じてやまない。私は私のためだけに用意されたうつろのなかで半睡半醒のうちに融け、にじみ、霧散するようだった。来たる春は絵具で、私という色に混じりあってうち勝ち、私という人間一個を呑みこんでしまうのだろう。この感情を覚えたのは、家の階段のなかばに座って、踊り場の天窓から降る光に言葉にできない幸いを見出したとき以来だった。それは今この瞬間に自分が生まれたというような独特の喜びがあって、私は三十分も階段に体をあずけてその光を眺めていた。そのときは生きていることもよくわからなくて、ただ胸の喜びが私そのものの誕生と同じだと思っていた。うまく言い換えられているかはわからないけれど、真っ白な宇宙のなかにあるようだった。

あなたにそんなことを打ち明けても半端にしか通じないのは百も承知だから、私はまた何遍繰り返したかわからない話、無難な話をしてあなたとくすくすと笑いあっていた。が、とうとう、ちょっと眼の赤い先生に、おいまだ残ってたんか、と冗談っぽく叱られたので、私たちはすなおに通学リュックを背負って帰った。春の浮遊感は学校の外にもあって、むしろ昼下がりの世界のまどろみのなかで、誘うような太陽光線に包まれて、私たちは空気を踏んでいくようにして歩いた。窓から光のさす清潔な洗面所とか、バターが金色に輝くトーストとかを、なぜだか思い出した。



pathos


 校庭の冬枯れたイチョウの樹が、天を掃くほうきみたいだった。三階から見ると、とほうもなく大きな枝のように見えたけれど、近くに寄って、その隙間から空を見上げると、梢が綿のような雲をかき集めていた。足元には色づいた葉が散っているのに、樹はしきりに雲を引っかけている。

 もう誰もいない放課後だった。

吹奏楽部だけが、部活動をしていた。その繰り返し同じところを吹くチューバの音、顧問から何度もとめられて途切れる通しの演奏は、学校という歌のアウトロダクションだった。

わざわざそばに近寄っても何にもならない。教室に、荷物を取りに帰ろうと思った。冬はにおいがまるでなく、ただ冷たい。

振り向いて、イチョウをもう一度眺めた。見れば見るほど、どうしようもなく大きくみえる。

 息をとめる。

 世界が静止する。

 ふ、と吐く。

 雲が、梢からこぼれて流れる。

冬の底に、土のにおいがあった。


 管楽器がやんだ瞬間だった。マヒワの声を聞いて教室から外を見たけれど、どこにいるか知れたものではなかった。あの林、この林、どこか木々に紛れているはずだった。ずいぶん探して、いつのまにか声がしないと気づいた。もうどこか遠く飛んでいったのだった。

 窓のそばにある私の机には白く日が差して、ぬくもりをいささかつくった。硬い壁は冷たい。空気は乾いている。机だけがほんのりあたたかい。

 かばんに手を置いたきり、いましがた真下まで行って、その幹に触れた、あのイチョウをふたたび眺める。今度は遠く、上から。

 小学校のとき机はたしか脚まで木製だった、と思い出した。ねじだけが金属で、ほかの部分はつくりかけの家みたいになまの木のにおいがするのだった。本を読むとき、紙のにおいがするのと同じ、わたしは顔をうずめて木の世界に沈んでみた。

 高校の机は、硬い木の平面から金属の脚が伸びている。においなんてない、血の通わない机だった。

 

 長くつづいた通しの演奏がまたとめられて、頭からはじまる。

 世界史の教材のせいでかばんが重たくて、帰る気にならなかった。数学は教科書とノートだけで済む。現代文も、教科書は厚いけど、それだけでいい。世界史は教科書とノートと資料集と用語集と問題集があって、全部ぶ厚い。先生の配ったプリントをノートに貼らないといけないから、どんどんかさばってどうしようもない。予習をするのに教材全部使わないといけないなんてどうかしてる。

 かばんを置きっぱなしにして、また一人で校舎を歩きまわってみる。

 リノリウム敷の床に校内履きの裏のゴムが音をつくった。

 その音を心臓に合わせる。足どりがそのまま拍動になる。

一年生のときの教室。

 委員会の集まりで使った教室。

 文化祭のとき美術部が展示をやっていた空教室。

 あなたが一年生のときの教室。

 覗いてみると、ときどき、人が残っていた。

 今の今まで明るかった外がもう暗かった。冬の太陽はほんとうに弱々しくて、不安になる。

 あなたと再会もできないと悟った日と同じだ。同じ一つの冬のうちに起こったのだった。


 わけもなくイチョウの下を経由して帰りはじめたのが、あなたと仲よくなった一年生の秋だった。目に見えるものすべてに熱を感じなくなっていたから、あなたの底に何があるのか、見られなかったし、見ようともしていなかった。

 なぜ仲よくなれたのか。わたしたちはクラスが別だった。部活はそもそもどちらも入っていない。

 わたしたちが出会ったのは、体育祭の集合写真の撮影を、わたしが知らないふりをして教室に戻ったときだ。学年対抗も紅白対抗もみんな負けたのに、撮って何になるんだろう。わたしは学級委員の呼びかける声を聞かなかったことにして、人ごみに紛れ逃げた。教室は当然、無人だった。

 全身にじんわりと汗をかいて、その上から綱引きのとき砂をかぶったので、妙に冷えた体から不快な感触が離れなかった。次の瞬間にもシャワーを浴びて乾いた清潔な部屋着を身につけたいのに、たぶん世界は集合写真を撮るまで止まったままで、だから全部が全部、わたしのせいになる。やっぱり戻らないとうざいと思われるかもしれない。それより何より早くお風呂に入りたい。いやもうどこかに消えてしまいたい……

 校庭は人であふれかえっていて、学年はさまざまにいくつかのクラスの生徒がたむろしているのがわかった。その一つがわたしのクラスで、みんな手持無沙汰に話しているけれど、しんどい帰りたいと思っているのは同じはずだ。誰かが校舎を見上げて、やっぱり有紗ちゃん、教室に戻ってるよ、写真撮るから降りてきて、とか言われたらほんとうにめんどうで殺したくなるから、わたしは窓から離れて、見えるかぎりの校庭のようすをぽかんと見ていた。靴下のなかが汗でじくじくに湿っている。

 どうせうちのクラスの人はまだ帰ってこないだろうから、さっさと着替えちゃおうと思った。

 そこにあなたが来た。

 わたしと同じ、汗をかいた体に校庭の砂をまぶされて、どうしようもなく疲れているかんじ。でもその疲れのなかで、あなたの目は潤っていた。

 ――三組、写真撮るみたいで、一人足りないって言ってたよ。あなた松口ちゃん?……

 ――めんどくさくって……

 もう夕暮れみたいに太陽は燃え尽きそうな色合いになり、あたりはすこしずつ黄色になっている。それはつまり夜の冷気がたちこめるということだった。

 ――三組、四位だっけ?

 あなたの笑みは、わたしをからかうとか、四位なのに集合写真を撮りたがる三組をばかにするとか、そういう雰囲気はなかった。誕生日、六月だよねとか、ガム食べるとか、そのくらいの、ほんとうにどうでもいい質問だった。

 ――そう、悔しかった。

 思ってもいないのにそう言った。

 かきむしりたいくらい胸がかゆくて、体操服の上からぐしぐしこすった。

 ――まあでも、そっか。四位で写真撮るの、意味わかんないね。

 ――うん。一位とか二位ならわかるんだけど……

 体操服を見て、あなたの名字を知った。

 ――その気持わかるかも。ねえ待って、着替え取ってくる。

 そのやりとりの何が楽しいかわからなかった。あなたのくそつまらない、間を埋めるだけの会話に、うざい、消えて、と思った。

 あなたはそれからも、ものの数にもならない話をしつづけて、わたしといっしょに制服に着替えた。

 結局みんな、四位じゃね、と言いあって、写真はなしになった。あなたと購買部の自販機に行ったわたしは、みんなが帰ってきたところに鉢合わせしなくって助かった。

――ね。本気出してやれるような部活なんてないよね。

二人ともコーラを買った。喉に抜けていく感覚が不快さを洗い流してくれた気がして、そのときはコーラだけがこの世界で尊いものだった。

――新しい部活をこっそりつくればいいんだね。わたしと有紗ちゃんとで。あ、有紗ちゃんでいい?

うん、とわたしはあなたの嘘みたいに澄んだ笑みにつられて笑んだ。

帰りはいっしょに帰ろう、と約束して、小さなコーラの缶を捨てて、教室に戻った。

入ったときの視線がしんどかった。


 それからわたしたちは親しくなった。

わたしは階段ででくわした先生から、用がないなら帰るんぞお、と言われて、帰らないわけにもいかなくなった。

 こんなにもすぐにかすみだしているあなたの影をどうにか追いながら、教室に戻った。

 わたしたちにそれ以上の交友が芽生えたのではない。あなたは隣の市から電車で来ていたから、朝はいっしょになれないし、帰りだって駅までだ。昼ごはんのお弁当を、あなたの教室でいっしょに食べて、放課後、どちらかの教室でいっしょに課題をやって、夕方六時には学校を出る。あなたが話して、わたしは聞いているばかり。何を話せばいいか知らなかった。あなたはいくらでもつまらない話をするから、わたしはそれにどうにか応じて、つまらないことをしゃべる。あなたが心底楽しそうにしているのがわけわかんなくて、でもうれしかった。教室、廊下、げた箱、帰り道、駅の前で話をして、有紗ちゃん、有紗ちゃんって呼ぶあなたの声に振り向いた。わたしはあなたの声のするほうに行けばよかった。

 クラスの人たちとはまるで仲よくなれなくて、そもそもが中学のときも孤独で、ずっとぼんやり遊び相手、話相手だった幼なじみの男はもうよくわからない人になってしまって、母とも父とも別に話すことなんかなくて、わたしはただあなただけになった。

 一年生の冬、校庭のイチョウの樹がすっかり葉を落として裸になった。あなたは、落ち葉を踏みに行きたい、と言って、帰りぎわに寄る習慣ができた。別におもしろくもないし、葉の下に虫が眠っていたらどうするんだろうと怖くって、わたしは踏まなかった。葉はどこにそれだけあったのか、ふかふかと積もっていた。

 ――秋に色づいて葉っぱが落ちるタイプの木が好きなんよね

 あなたは葉を何枚か手にした。


 そう、わたしたちは夏祭りに出かけたわけではないし、休みのたびに街へ出たわけでもない。わたしたちの思い出は、わたしの目にしたあなたの姿は学校のなかにあり、帰途にあり、イチョウの樹の下にあった。わたしはこうしてあなたを思い出すたび、汗と砂埃にまみれて気がふさがっていたときの感覚を想起する。手の先に砂のざりざりした感覚が現れ、背中や足に汗がべとべとした跡を残している気がする。全身が冷えている。それからあなたと話したことを思い出そうとする。

 でも、そこには何もない。わたしはずっとあなたがする世間話をおもしろいとは思っていなかったし、あなたの純粋な笑みを目にして思わず笑い返すときはあっても、それは心の底からおもしろかったからではない。あなたの笑顔が怖いくらいきれいだったからだ。

 そう考えて一段高いところからものを見ていたのはとても虚しいことだった、とかばんを手にして思う。手にはっきりとした重みがわかる。それだけでほんとうにしんどくなる。

 わたしは、あなたと何を話したか、一つも記憶に残っていない。あなたと出会ったときのことはいくぶん鮮明に覚えているけれど、そのほかのことなんて、すっかり色を失ってしまった。くそつまらないと思っていた話が、今、欲しくなる。

 わたしたちのあいだには、思い出にするようなできごとがまるでなかった。それこそ、出会いと別れの二つだけだ。

 あなたは親のつごうで学校からいなくなった。最後の帰り途にようやく話してくれたとき、五時でも暗い夕方のなかではむやみにまぶしい駅に着いて、わたしは視界がぼやけていた。まだ泣いてはいなかった。あなたのことばがわたしの頭をかーんとたたいて、ずっとめまいがしていた。いなくなる、いなくなる、いなくなる、と繰り返し思って、それからようやく、あ、いなくなっちゃうんだ、と実感した。

 ――高校生で転校って何なんだろうね。

 とあなたが笑うから、

 ――ね、何なんだろうね。

 とわたしは笑うしかなかった。

 ――会えたらまた会おうね。そのときは近況報告とかだろうけど、またたくさん話そうね。

 ――うん。また会おう。

 何がなんだかわからなかった。吐くことば一つひとつ、ただの呼吸と変わらない。何の意味もつけ添えずにあなたに差し出した。味のないセリフ。

 そしてわたしたちは、連絡先を交換していないことに思いいたらないまま、そこで別れた。いつものようにばいばいして、もうあなたは帰る人びとのごった返しに紛れた。

 急にはじまったわたしたちは、何もないまま、急に終わった。ただの人と人で終わって、ただの友だちのまま、二人の仲は枯れおちた。色づきもせず、無色透明になって、まるではなから存在しなかったみたいだった。それは過ぎた季節と同じだった。


教室を出て、明かりもない廊下を、階段を歩き、げた箱まで来たとき、わたしは、また、背後からあなたがやって来て、集合写真撮るらしいよ、と声をかけてくる気がした。そうしたらわたしは、あのときのように、めんどくさくってと、答えたらいいのかもしれない。だけれど、もうそうはならない。わたしの頭のなかにいる、あなたは、そっぽを向き、だんだん、深い、霧のなかへ呑まれ、記憶の沖へ、押し流されて、消える。わたしの手からぬくもりも失せて、過ぎた季節といっしょ、まるで思い出せなくなる。熱も、においも、景色も、みんな、淡くにじんで無くなる。思い出も、何もない、友だち以下の友だちとして。それが、ほんとうに、悔しくて、喉の奥が、きうっと痛くなる。どうしてこんなに、悲しいんだろう。

 夜が暗かった。

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