貴方に花咲く花を手折る
秋野芒
プロローグ
死んでやろう、と思った。夜の街の煌びやかな中に立つオレは強く花開いた自殺願望に抗わず、ふらふらと高い場所を探して歩く。道行く人に肩をぶつけ、足をもつれさせ、いっそ憐れんで見られながら歩いて、気づけば人の気配のない寂れたビルの屋上で嫌にきれいな街を見下ろしていた。
下を見れば身も竦む様な高さだ。風が強くて、あんなに朝頑張ってセットした髪がぐちゃぐちゃにかき混ぜられていく。空に浮かぶ月は丸く大きく輝いていて、ただじっとオレのこの先を見ているだけだった。
自分の中に燻る自殺願望があるのは知っていた。何者にもなれず、ただ同じことを繰り返す日々。高校を卒業して就職してから代わり映えのない日々を歩いた。怒られ、頭を下げ、仕事をこなして家路につく。家につけばベッドにもぐりこんで、朝が来ればまた出社して。よく言えば平凡な毎日だ。ただそれは自分をどんどんすり減らしていった。何にも成れない、何もなせない、自分が今どうなったって気づいてくれる人がいないような掴みようのない孤独感。
振り返れば何もないような気がして闇雲に日常をこなす。訳の分からない焦燥感に脅されながらあるかも分からないゴールを求めて、求めて。
___嗚呼いっそ、終わってしまえば。
そう思い始めたのは、いつからだったか。もう思い出すことさえできない。
フェンスを乗り越えてビルの端っこに腰かける。だらんと下した足の先はもうどこにもつかずに宙ぶらりんだ。不思議と恐怖はどこにもない。ただ漠然とした疑問だけがあった。心のどこかで燻るだけだった破滅願望が、この衝動的ともいえるほどに爆発した理由が分からない。自分でも説明がつかないままだった。
びゅうと吹いた風に目をつぶる。さわやかな風は心地よく、吸い込んだ空気は軽やかだった。最後の呼吸にしても良いか、と思うには十分すぎるほどに。
ぐ、と身を乗り出した。体が傾いて空が歪む。燦然と輝く月がオレをじぃと見つめたままで、そして。
「___待って!!」
「......え?」
身が宙に踊る寸前、腕を強くつかまれて引き戻された。驚いて振り返った先、自分よりはいくつか若い青年が汗だくで俺の腕を強くつかんで、逆の手でフェンスを握り締めている。オレを掴む青年の手は僅かに震えていて、揺れる瞳は怯えているようにも見えた。
彼は何も言わないオレを見つめ、ぐ、と腕を強く引いた。錆びたフェンスがぎしりと嫌な音を立てるので、この親切な青年を巻き込んでしまわないようにと慌てて彼の手に従った。
「......」
フェンスを乗り越えてもオレたちは何も言えないままだった。オレの自殺願望はすっかり鳴りを潜め、輝く月がオレの背中と青年の顔を照らすだけだ。急にバツが悪い気持になって、腕を掴まれたままどうしたものかと考えていると。
「お兄さんにその月下美人は似合わなかったよ。」
「......はい?」
ぱ、と手を離されて安堵したように青年は言った。オレは訳が分からず首を傾げる。青年は困ったように笑ってから、ついてきてくれる?と聞いて背を向けた。
思ったより歩みの速い青年に慌てて着いていくオレには、この出会いが始まりになるなんて、というよりあんなに嫌だった在り来りな日常が花咲くように変化していく切っ掛けになるなんて、まだ知る由もない。
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