そらからそらに
サカモト
そらからそらに(1/9)
いつの間にか、ぼくの住んでいるマンションの最上階がカフェになっていた。
店主はハンサムボブカットの十六歳で、三白眼の女の子だった。店は彼女が学校の終わった放課後から開店する仕組みになっている。
その店の名前は『そらから』という。
少し前まで、住んでいる七階建てのマンションの最上階は、大家さんがまるまるひとフロアを使って住んでいた。
ところがある日、気づいたら、最上階の大家さんの家がなくなっていた。
そして、ふわりと、すり替わるようにして、最上階がカフェになっていた。
しかも、看板は七階の通路にしか設置していない。その、看板といっても、黒板式の立て看板で、店の入り口の前に置いてあるだけだった。マンションの外にはどこにも看板を出してないし、そうなると、とうぜん、七階までこないとカフェがあるとはわからない。
いや、外からわからないだけのレベル話だけじゃない。七階にしか看板がないので、このマンションの住民でも、見の存在に気づく難易度はたかかった。なにしろ、七階はずっと、すべて大家さんの家だったし、七階から上の屋上は完全に立ち入り禁止にされて入れない。大家さん以外が、エレベーターにのって七階へあがることがまずない。
でも、ぼくはある日、気がついた。
ぼくがカフェに気がつけた理由は、つまるところ、このマンションの屋上へ、勝手に入っていたからに他ならない。
立ち入り禁止になっている屋上へひとりあがるのは、ちょっとした冒険的な気分になれて、たのしかった。
だから、むかしから、ときどき、マンションの屋上へあがたっていた。そのときは必ず、エレベーターを使わず、階段を使った。七階まで上まであがりきるころには、ぜいぜい、と息は切れていた。屋上からは特別なルートがあった。少し危険なルートではあった。
そして、息を乱したまま、屋上までのぼり、そこに立ってこの町を眺める。
ほのかに悪いことをしている気分だった。このことは両親にはいっていないし、ともだちにも教えたことがない。いつも、ひとり屋上に立って、町を眺めていうちに、呼吸は整っていった。
屋上へあがるときは、決まって夕方だった。いつの頃からか夕陽が好きなっていた。ああ、今日は、晴れているし、きれいな夕陽が見えそうだと思うと、屋上へ向かってしまう。
そういうわけで、その日の夕方も、屋上へあがろうとしていた。七階までは、非常階段であがる。そして、そのとき、七階の廊下にあったそれが目に入った。
立て看板だった。ひっそりとそこに立ててある。
おや、なんだろう、と思った。
しかも、大家さんの家の扉の雰囲気が変わっている。まえは、開かずの間の扉みたいな雰囲気だった、防御力の高そうな扉だった。
でも、その日に目にした扉は、なんとなく。
そう、なんとなく、あけてもいいような。
という、錯覚もあって、ぼくは屋上へあがることを後回しにして、ふらふらと立て看板へ近づいた。
そこには、黒板式の立て看板があり、こう書いてあった。
本日。
おススメ。
レギュラー珈琲。
三つの大きな情報が頭のなかで混ざる。で、「あ、カフェなのか」つぶやくまでには、じつはかなり時間がかかった。
扉ノブには、オープン、と記されたプレートがかかっていた。よく見ると、扉にはストッパーがしてあって、はんぶん扉が開いている。
ぼくは扉へ近づいた。
すると、わずかにあいた扉の隙間から、きこえてきた。
ハナ歌、だった。
女のひとのハナ歌が、かすかに。扉の向こうから聞こえてくる。きれいな声だった。穏やかな、風のような音色のような
と、思っていた矢先、はじめはせせらぎみたいだったハナ歌が、やがて、それは本気のシャウトになった。小爆発でも起こしたかのように、本気の、魂が入った歌声がきこえてきだす。
ぼくは思わず、おののいてしまった。急に、べつのバンドのライブに変わった気分だった。その歌声には、破壊的印象が含まれていた。動揺して、後ろへさがり、その拍子に立て看板に、踵をぶつけてしまう。看板が床へ倒れ、ばたーん、と廊下へ、とてつもなく響く音を放った。
すると、扉の隙間から聞こえてきていた、魂が入った歌声も、途絶えた。
しまった、知らない人のライヴを破壊してしまった。ぼくは慌てて、看板を立て直そうとした。でも、その挙動は、きっと、コソ泥めいていただろう。
慌てしまうと、だめなことは多い。あたふたし過ぎて、看板を立て直そうするも、床がつるつるしていて、うまく立てられない。よく床が掃除してある証拠だった。誰かのきれい好きが、いま、にくかった。そのまま、ぼくは、あわれにも、てまどりに、てまどり。
で。
ふと、気配を感じて振り返る。
扉が、すべて開いていた。
そこには誰もいない。
いつの間に、扉がフルオープンに。
戦慄が走った。
もう歌声もきこえてこない。
「ぼくは、死ぬのか」
と、なぜかそんなことをつぶやいていた。
でも、つぎに感じたのは、珈琲のかおりだった。すごく、いい匂いだった。
珈琲は好きだった。いつも家で飲んでいるのは、インスタント珈琲だった。ただ、インスタントばかり飲んでいるせいか、それとの香りのちがいは、ちょっと衝撃だった。
そして、珈琲の香りの違いの衝撃で少し落ち着いていた。ショック療法みたいな感じだろうか。とりあえず、立て看板は、うまく立てられないので、壁にそっと、立てかけておいた。
それから開かれた扉へ向かって「カフェ、なんだよね」と、訊ねた。
「さあ、どうかな」
と、女の人の声で回答が返って来た。
瞬間、ひっ、と声なき声をあげてしまった。
つぎには、扉の向こうから、スタスタと店の中へ歩いて行く足音がきこえた。
あ、どうやら、扉のすぐそばに、気配を消した誰かがずっといたらしい。
忍者みたいな人がいる。
ぼくはそう思った。
にしても、屋上で、夕陽を見ようと思っただけなのに、次々にいろんな襲撃を受けている。
それからすぐに、また扉の向こうから珈琲のいい香りがしてきて、落ち着いてしまった。そして、飲んでみたいと思い始めたら、思いはとまらなくなった。
そこで「カフェ、なんだよな」と、もう一度、いった。
今度は回答がなかった。
「さあ、どうかな」
いや、時間差で来た。
ああ、この見えない相手はかなり強いぞ。
それを、よく理解した一瞬だった。なかなかのステルス能力だ。
かくれんぼとかも、つよかった人なのかな、幼稚な想像力もはかどってしまった。
店の前で迷っていたけど、やがて、ぼくは店の中へ入った。中に入ると、その人は現れた。
ハンサムなボブカットの女の子だった。三白眼で、エプロンをしている。完璧な化粧をしているけど、歳は、十六歳のぼくとそう変わりそうにない。
胸に掲げた名札には『店長の、つのしか』と書いてあった。
店長なのか、この人。思って、唖然とした記憶がある。
それが、つのしかさんとの出会いだった。
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