恋ヲ詠ム、恋ヲ書ク

工藤千尋(一八九三~一九六二 仏)

第1話 恋ヲ読ム 一

 ひとは顔も見たことのない、名前も知らない、年齢も知らないひとを好きになることがあるのだろうか。


 才能に惚れるのともちょっと違う。


 僕が恋をしたのはそんなひと。


 この恋が成就することはあるのだろうか。


 この恋が愛に変わることはあるのだろうか。





 僕がその人と出会ったのは三年前のことであり。何をもってして出会ったと表現する?実際には出会っていないのだろうけど。作品を読んだということは出会ったと言っていいと思う。その時は、とても上手な文章を書くなあ、ぐらいの印象しかなく。特に自分の中でその人のことを異性として意識したことはなかった。それから年に一度ぐらいその人の短編作品を読んでは感想を送ったりして。その頃の僕はエンタというものがそんなに書けていなくて。小説を書くということはエンタか純文学かを選ぶことであり。エンタとは大衆受けするということだ。世でいうところの流行りものである。昔読んだ漫画とかで印象に残っている作品はエンタ作品ばかりだ。冒険をしたり、青春を謳歌したり、船でじゃんけんをしたりとか。純文学は例えるなら言葉の美しさを読むものだ。子供の書いた作文なんかは純文学に近いと思う。彼らは読書量も多くないから変に染まってない。だから自分の言葉で文章を綴っている。だから純文学に近い。大人になったり、ある程度文章を書くようになれば自分の言葉で文章を書くことは難しい。誰かしらの影響を受けてしまっているから。テンプレートも溢れている。ネットを探せば言葉は出てくる。内容はスッカスカでもいい。言葉が輝きを放てばそれは純文学だ。それはとても矛盾したことでもあり。小説を書くということはたくさんの本を読まないといけないらしい。言葉で表現すると、書くことはアウトプットで、読むことはインプットという。本を読んでインプットするということは確かに文章の書き方や難しい言葉を知るという意味でいいことなのだろう。でも確実にその書き手の色に染まる。それは空気が悪いといわれる都会で生活していれば慣れてしまって普段は気付かないことと同じであり。どんどん高くなってしまっている消費税を普通に払うのも慣れてしまったから。タバコを外で吸わなくなったのも慣れてしまったから。誰かを強く愛してるふりをすることにも慣れてしまったから。

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