「最近の若者」と「老害」の対立はなぜ繰り返されるのか?
エテルナ(旧おむすびころりん丸)
「最近の若者」と「老害」の対立はなぜ繰り返されるのか?
まったく……最近の若者は~Z世代はこれだから~
こういった言葉、皆さんも一度は聞いたことがあると思います。
個性を無視した大雑把なグルーピングなうえ、続く言葉はたいていが批判ですから、聞く側としてはあまり心地よいものではないでしょう。
対して老害という言葉も、だいぶ大雑把なグルーピングです。この言葉には既に『害』の字が入ってますので、批判が前提の言葉です。
ゆえに悪い老人にしか使われなさそうな言葉に思えますが、老害たちが上にいるから出世できない――などと、別に悪事を働いている訳でもなく、歳を取っても働いているだけで指定されてしまうような、本来の意味より広げて使われがちな言葉です。
『最近の若者』と『老害』
今の大人たちが過去にも言われ、使っていた言葉です。
そして今の時代になると使い、言われるようになっていく言葉です。
更に将来、言われてきた人たちが使うであろう言葉で、これから生まれる子供たちが言うであろう言葉です。
なぜこれらの言葉は繰り返されるのでしょう。
昔から脈々と続く言葉なのでしょうか?
大人と若者、今後も理解し合うことはできないのでしょうか?
結論から言うと、完全に理解することは厳しそうです。
むしろこれから先、より一層、大人と若者の差は広まっていくはずです。
これらの言葉、大昔に使われていなかったということは無いでしょうが、今よりよほど頻度は低かったと思います。
この点は推測で申し訳ありませんが、しかし時代の流れからみた理由があります。
昔の子供は大人の所有物でした。縁談は親が決め、仕事は親の後を継ぎ、必要のない子は間引くことさえしてました。
理解し合うのではなく、自分のやり方を理解させる。ある種、己のコピーを作るようなものであり、それはつまり――
『最近の若者はよう分からん』
などと悠長なことを言っているようでは駄目なのです。
子はきっちりと管理し、己の思うように動く存在にしなくてはいけないのです。
また、ここから先が更に重要なポイントなのですが、昔は大人と子供の認知の差がありませんでした。
どころか数世代を跨いでも、生活様式になんら変化が無かったのです。
石や鉄を研磨し、稲や小麦を刈り、肉を塩漬けにし、布を繕い、家を建てられればそれで良かったのです。
これは100年経とうが200年経とうが、1000年経とうとも大きな変化はなく、仮に古代の農民が中世に訪れても、それほど違和感なく溶け込むことさえできたのです。
ゆえに、最近の若者は昔と変わらず畑を耕し羊を連れ、老人は昔と変わらぬ知恵を話し尊敬されており、今よりずっと互いに『何者か』を理解しあえていたはずなのです。
しかしそんな脈々と続く関係性も、産業革命と共に儚く消えていきました。
主を継げない子たちは労働階級となり工場で働き、核家族化が一気に進み、親や村の大人たちは若者が何をしているか分からなくなりました。
その後も産業革命は止まることを知らず、時代が進むとコンピューターまで現れはじめ、これまでは数世代・数世紀を跨いでも分かり合えた関係性が、ほんの一世代違っただけで、まったく異なるものに変貌してしまうようになったのです。
1955年まではたった1%だった固定電話の普及率。1972年に30%まで上昇し、その後は凄まじい勢いで普及します。
会って話すのが当たり前の世代は、人との関わりが希薄になったと嘆きます。
1996年には10%だった携帯電話の普及率、2013年には100%を超えてます。
会って知り合うことが当たり前の世代は、顔も知らぬ相手と知り合うことを恐ろしいと感じます。
現在4人に1人しか関心を示さないメタバース。近い未来、皆が仮想空間に入り浸ることでしょう。
会って遊ぶのが当たり前の世代は、全く家から出ない若者たちを見て、世も末だと頭を抱えます。
世代が違えば、もはや子供たちが何をしているか分からない。そして人間は不可解なものはグループで一括りにまとめて、蔑視する傾向にあります。
これは宗教、オタク、外国人などなど、あらゆる分野で言えることです。自分の関わらないグループは、何か怪しいものだとステレオタイプで決めつけるのです。
そして年寄りたち。過去には蓄えた知識で尊敬された老人たちですが、果たして技術革新が猛烈なスピードで進む中、過去の知識や経験がなんの役に立つと言うのでしょう?
知りたいことがあればネットで検索した方が遥かに有用で正確です。
老人たちは今の世代について行けず、昔は知恵を授ける立場だったはずが――
メールはどう打つの?
どの路線に乗ればいいの?
この機械はどう操作したらいいの?
もはや教えることなど何もなく、どころか若者に聞かなくては、何をどうしていいのかも分からない。
技術革新のスピードは上がる一方で、これは絶対に衰えることはなく、更にAIが加わることで、とても人には追い付けないレベルで加速します。
ゆえに若者と老人の関係性は今後縮まるどころか、更なるスピードで距離を離し置き去りにしていきます。
これを見て、俺は私は若者だから大丈夫と、安心してはいけません。
言ってしまえば、今生まれたばかりの子供が最新型であり、既に小中高生ですらも型遅れになりはじめつつあるのです。
・人工的に肉が作れるのに、牛や豚の命を食べるなんて気が知れない。
・試験管ベビー技術は完璧なのに、なぜ妊娠と出産の苦痛を強制するの?
・最高の友達はAIで作れるのに、人と仲良くしろだなんて理不尽だ。
・育児ロボットは安全安心なのだから、不完全な人の育児は虐待だ。
今は最近の若者でも、未来の若者がこんな思想や倫理観を持ちはじめたら、きっと彼らを理解できず、そして老害と言われることになるでしょう。
ですが、唯一このループから抜け出す方法があります。その方法とは――
老人がこの世から消えることです!
決して、老人は自害しろ~みたいな主張ではありませんよ?
老人が老人でなくなる方法はただ一つ、若返ってしまえば良いのです。
これについては次回、『不老非死と新たな秩序』という記事を投稿します。
読了有難うございました。
「最近の若者」と「老害」の対立はなぜ繰り返されるのか? エテルナ(旧おむすびころりん丸) @omusubimaru
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