部屋とシャツと大好きな人

朏猫(ミカヅキネコ)

第1話

基兄もとにい、今日も遅いのかな」


 時計を見たら、もうすぐ二十二時だ。昨日は二十三時前だったし、まだ帰って来ないのかなと思いながら玄関のほうを見る。

 希望どおりデザイン事務所に就職した基兄もとにいは、社会人三年目で毎日忙しくしていた。忙しいってわかっていたけど、それでも一緒にいたくて自分から同居をお願いした。母さんからは「昔とは違うんだから迷惑でしょ!」と言われたけど、基兄もとにいが「僕はかまいませんよ」と言ってくれたおかげで同居できるようになった。


「前よりももっと一緒にいられると思ったんだけどな」


 基兄もとにいが大学生になってから会える時間がものすごく少なくなって、俺はずっとモヤモヤしていた。だから同居すれば毎日会えると思っていたんだけど、想像していたような生活にはなっていない。

 俺が基兄もとにいこと高津基悠たかつもとはるに恋をしていると気づいたのは中学のときだ。七歳年上の基兄もとにいとは家が隣同士のいわゆる幼馴染みで、物心ついたときから双子の妹・史緒しおと一緒に「にぃに」と言ってついて回っていた。

 最初は本当の兄のように思っていた。小学校に通い始めてからも自宅に帰るより先に隣に行って、帰りを待ち構えるくらい基兄もとにいにべったりだった。基兄もとにいも弟みたいに可愛がってくれて、勉強もゲームもサッカーも教えてくれたけど、いつの間にかそれだけじゃ満足できなくなっていた。

 そんな俺の気持ちに最初に気づいたのは史緒しおだった。


「ユキってさ、基兄もとにいのこと好きでしょ」


 言われてドキッとした。それを誤魔化すように「ユキって呼ぶな」と怒ってみせたけど、史緒しおには鼻で笑われてしまった。


「いいじゃん、別に。それにユキくらい可愛かったら基兄もとにいだってイチコロだよ」

「イチコロとか、基兄もとにいをバカにするなよな」

「でも、可愛い顔でよかったって思ってるでしょ」


 言われて、ほんの少しだけそう思った。だって、顔だけでも可愛ければ基兄もとにいに好きになってもらえるかもなんて思ったんだ。

 俺、門倉由貴かどくらよしたかは自覚があるくらいの女顔だ。高校の学園祭で史緒しおとお揃いの衣装を着せられたとき、可愛い女の子に見えた自分に衝撃を受けた。昔からそっくりだと言われてはきたけど、史緒しおに似た美少女にしか見えない自分に「やばいくらい可愛い」なんてことまで思った。

 周囲も似たようなことを思ったらしい。二人揃って教室の前に立っていたら、双子の姉妹だと勘違いされて写真を撮られまくった。ナンパもされるし、挙げ句の果てには尻を触ってくるキモい奴らまで現れた。しかも触られるのは俺ばかりで、史緒しおは見事な手さばきで痴漢たちを撃退していた。

「そりゃあわたしはこんなに可愛いんだもん。護身術を身につけてるに決まってるじゃん」とは史緒しおの言葉だけど、それなら事前に俺にも教えておいてほしかった。俺にとっては散々だった学園祭だったけど、出し物の“双子カフェ”は大盛況のうちに終わった。


「そもそも双子カフェってなんだよ。意味わかんないし」


 たしかに見た目はそうだったかもしれないけど、何よりみんなが俺のことを「ユキ」と呼ぶのが勘違いさせた大きな要因だと思っている。

 もともと俺のことを「ユキ」と呼んでいたのは母さんと史緒しおだけだった。小さい頃どうしても「よしたか」と発音できなかった史緒しおに、母さんがおもしろがって「じゃあ、ユキって呼んでみたら?」と言い出したのが発端だ。それからというもの史緒しおが大声で「ユキ」と呼ぶせいで、幼稚園のときから友達もどころか先生たちまでも「ユキ」と呼ぶようになった。


「まぁ、基兄もとにいがそう呼んでくれるのは嬉しいけど」


 というより、できれば基兄もとにいだけにそう呼んでほしい。低い声で囁くように「ユキ」と呼ばれるのが好きな俺は、ずっとそう思っていた。だから他の人たちが「ユキ」と呼ぶのをどうにかしたいんだけど、友達が多い地元で進学したかた半分諦めている状況だ。


「そもそも史緒しおがいつまでもユキって呼ぶのが悪い」


 あれは絶対におもしろがっている。俺が史緒しおに逆らえないのをいいことに楽しんでいる気さえしてきた。

 そう思うとムッとするけど、史緒しおのおかげで基兄もとにいへの気持ちに気づけたことには感謝している。勇気を出して告白することもできたし、両思いになれたのも史緒しおがずっと応援してくれていたからかもしれない。いまも恋愛相談に乗ってもらっていて、それは心からありがたいと思ってもいた。


史緒しおにも応援してもらってやっと同居できたのに、まさかこんなにすれ違うことになるなんてなぁ」


 社会人の基兄もとにいと大学生になりたての俺とでは、生活スタイルがまったく違う。基兄もとにいが父さんのような会社勤めだったらもう少し違ったのかもしれないけど、デザイン事務所というのはとにかく時間が見えなくて忙しいらしい。まだ一緒に暮らし始めて二カ月しか経っていないけど、いつか倒れるんじゃないかと心配になるくらい帰宅時間も休日もめちゃくちゃだった。

 俺の引っ越し当日と翌日は休みをもぎ取ってくれたけど、一緒に夕飯を食べたのは数えるくらいで休日が被ったのは一回だけ。働き方改革とかあちこちで聞くけど、基兄もとにいには関係ない言葉なんだなと思ったくらいだ。


「そのうち泊まりになるのかな」


 いまは何とか終電までには電車に乗ることができるみたいだけど、どうしようもなく忙しいときには泊まりもあるんだって話していた。

 仕事だから、そういうのも仕方ないとわかっている。体が大丈夫なのか心配にはなるけど、大学生の俺に仕事のことはわからない。こうして「頑張れ」と応援することしかできない。


「わかってる。でも基兄もとにいってかっこいいから、そっちのほうが心配っていうか」


 基兄もとにいは、いわゆるイケメンってやつだ。中学でも高校でもすごくモテて、彼女が途切れたことがないのは俺も知っている。大学に入ってからはわからないけど、きっとすごくモテだだろうし彼女だっていたはずだ。

 社会人になってからの基兄もとにいもすごくかっこよくて、十五歳で告白して両思いになった俺は心配が尽きなかった。そもそもデザイン事務所ってだけでお洒落だし、綺麗な人との出会いも多そうで心配になる。それに基兄もとにいは男とも恋愛できるってことだから、かっこいい男の人に出会うほうが危ない気もしていた。


「大人でかっこいい人が現れたら、俺どうなるんだろ……」


 俺みたいな年下の学生で、しかも女顔ってだけの幼馴染みの男をいつまで好きでいてくれるのか不安になる。

 そのことで史緒しおに相談したことがあるけど、「そんなラブラブなのに、ユキってバカなの?」と呆れられ、ついでになぜか怒られてしまった。


「どっからどう見ても基兄もとにいはユキしか見てないでしょ?」

「そ、んなことは、あったら嬉しいけど」

「そんなことしかないの! どっちかって言ったらユキのほうが心配されてたんだからね?」

「心配?」

「だって、わたしから見ても危なっかしいもん。自分がどんな目で野郎共に見られてたのか全然わかってないし」


 相談に乗ってくれるのは嬉しいけど、史緒しおの言うことはたまに理解できない。だけど、「絶対に大丈夫だから!」っていう史緒しおの力強い言葉に少しだけ気分が前向きになった。


「うん、きっとまだいろいろ慣れてないからだ」


 基兄もとにいと同居しているとは言え、ほとんど一人暮らしのような時間が二カ月近くも続いている。家で一人きりになることがほとんどなかったから、きっと戸惑って少し不安になっているだけだ。


「それに家事とかも初めてのことばっかりだし」


 二人暮らしをするにあたって、母さんから「掃除くらいはしっかりやんなさい!」といろいろ叩き込まれた。おかげでキッチンや風呂場はいつも綺麗だと思うし、基兄もとにいにも「すごいね」って何度も褒められている。今日は布団も干して、洗濯物をたたむところまでバッチリ終わらせた。

 我ながらよくやったと自画自賛しながら部屋を見回した。元々物が少ないからか、すっきりしすぎてあまり生活感がない。そう思ったせいか、急に寂しくなってしまった。

 いつも賑やかな家にいたからシンと静まりかえった部屋にいると不安になる。ちょっと前までは気を紛らわせようとテレビをつけっぱなしにしたりしていたけど、余計に寂しくなって最近では電源を入れる回数も減ってきた。


「もう寝ようかな」


 こうした独り言が増えたのも基兄もとにいと暮らし始めてからだ。

 ちょっと涙が出そうになって、慌てて寝室に入る。寝室には基兄もとにいと一緒に選んだセミダブルのベッドがある。最初はここで一緒に寝るんだと思うだけでドキドキしていたけど、最近は寝るときも起きるときも一人のほうが多くなった。それが余計に寂しく思えてベッドから視線を逸らした。

 ベッドの脇には小さなテーブルがあって、その隣にクローゼットがある。もちろん俺の服も入っているけど、三分の二くらいは基兄もとにいのものだ。デザイン事務所っていうのはスーツじゃなくてもいいらしくて、その分いつも着ているような服がたくさん入っている。

 クローゼットの側に置いたハンガーラックには、まだアイロンをかけていない真っ白なシャツと柄物のシャツが掛かっていた。明日、両方とも俺がアイロンをかけようと思ってかけたものだ。


基兄もとにい……」


 シャツを見たら、なんだか無性に会いたくなってきた。洗濯したあとのシャツだから基兄もとにいの匂いなんてしないのに、手にとって顔を埋めてしまう。


「もとにぃ」


 白いシャツを抱きしめながらベッドの寝転がった俺は、「基兄もとにい、早く帰って来ないかな」と思いながら目を閉じた。

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