【本編完結】芋くさ男爵令嬢は道端で次期公爵を拾う
宮前葵
出会い編
一話 シルフィン行き倒れのイケメンを拾う
その日は初夏のいい天気だった。
私、シルフィン・アイセッテは侍女として勤めているお家のお使いで、大貴族のお屋敷が立ち並ぶ通りを歩いていた。
流石は大貴族のお屋敷。帝都の中にあるというのに高い鉄柵でそれぞれ囲まれた敷地は広大で、一つのお屋敷の前を通り過ぎるまでに何分も掛かる。どこも広々とした庭園を有しており、手入れも完璧。色とりどりの花々が咲き乱れていて目を楽しませてくれる。
私は何軒かのお屋敷の庭園をそれとなく(じっくり見ていると泥棒と勘違いされてお屋敷を警備している兵に因縁を付けられるかもしれないので)眺めて楽しみながらゆっくりと歩いていた。お仕えしているお嬢様のお手紙をご友人に届けるだけの仕事なので急ぎではない。いつも忙しいのだから少しくらいのんびりさせてもらおう。
そう思いながら石畳で舗装された道を歩いていると、妙な光景に出くわした。
そこは一際大きなお屋敷の、華麗な門の前だった。優美な鉄細工に金色の飾りが色々ついた鉄で出来た巨大な門。しっかり閉じられたその門の前に、なにやら大きな男の人が倒れていたのだ。
……なぜに? 私は水色の瞳をパチパチと瞬いてしまう。帝都の下町に行けば、家の無い者が道端で酔っ払って寝ていたり、場合によっては行き倒れている場面に出くわす事もないでは無いが、ここは貴族街だ。行き倒れは似つかわしくない。
しかもその仰向けにぶっ倒れている男の姿が妙だった。私もあまり詳しくはないが、どうもその格好は軍服。しかも色々キラキラした飾りの付いた立派なものだったのだ。結構お偉い軍人さんが着ている軍服のように見える。
赤茶色の髪の男性の目は閉じられていて、生きているのか死んでいるのかも分からない。私は二十歩ほど離れた場所で立ち竦んだ。どうしよう。
もしも死んでいるとかなり厄介だ。帝都には警察がいるので、警察に「人が死んでました」と届け出れば何とかしてくれると思う。
しかし警察は評判が悪く、しばしば人を無実の罪で捕まえて、解放するのに金銭を要求すると聞いている。もしも私が届け出て「お前が殺したんだろう!」と罪を擦りつけられたなら面倒な事になるかもしれない。
かと言ってもしも生きていた場合、私がここで見捨てたら死んでしまうかもしれない。それも何だか寝覚めが気がするのよね。むーん。
私は考えこみ、結局もう少し近付いてよく観察してみる事にした。
私はそそそっと五歩ほどの距離まで近付くと、その赤茶色の髪をした男性をしげしげと観察した。
少し陽に焼けた肌をして(というか今現在絶賛陽に焼かれ中だ)いるが、元は色白な方ではないだろうか。程よく高い鼻。今は閉じられている切れ長の瞳。苦しげに歪んではいるが凛々しい口元。無精髭を剃ったら精悍な顎の線が出てくる事だろう。全体的な輪郭も整っている。
あらやだ。この人美男子だわ。私は目を瞬いた。
ちょっとあんまり見たことがないレベルの美男子だ。背も高く、軍人らしく鍛えられた体躯も逞しい。私はちょっと見惚れしまったわよね。
で、よく見ると、胸の所がフワフワと上下している。呼吸している。ということは生きている。
私は更に近付いた。いや、美男子だったからというわけではないわよ? でも、美男子じゃ無かったら声までは掛けなかったかもしれないけどね。
「もし? 大丈夫ですか?」
すると、美青年は呻いた。そして目がうっすらと開いて、私の方を見た。瞳の色はグレー。ただ、この時は如何にも濁った色をしていたわね。
「……みずを。……水をくれ」
掠れたようやく判別出来るかどうかというような声だった。どうやらこの美背年は喉が渇いていて、水を求めているらしい。
水ね! 分かったわ!
……と、言ってあげたい所なのだけど、立ち上がり掛けた私の動きはここで止まってしまう。
水なんてどこにあるのよ。
あるわよ? それは勤め先で下宿しているご主人様のお屋敷に戻れば。厨房の水瓶に。お屋敷の水場まで水道が引いてあるからそこから私たちが汲んでくるのだ。
しかしお屋敷まで戻って水を汲んでここまでまた来るのは大変である。それに私は一応お使いに出ている身だ。仕事を済ませずに帰ったら怒られてしまうだろう。
そう考えると帰れないが、それ以外に水を調達する方法が思い浮かばない。どうしよう。美青年が非常に消耗しているのは明らかで、このまま放置してしまえば彼はこのまま死んでしまうかもしれない。
私は思わずうーん、と唸りながら周囲を見渡す。
すると、彼が倒れている門の奥。そのお屋敷のよく手入れの行き届いた庭園の中に、シャワシャワと水を吹く噴水があるのが見えた。
……あるじゃん。水。
しかしながらその噴水があるのは鉄柵と門扉の中。そしてこれほど大きなお屋敷にはあり得ない事に門番がいない(門前に行き倒れる事が出来た理由はこれだろう)。そして門扉には厳重に鍵が掛けられていた。これではちょっと入って水を汲んで戻ってくる訳にはいかないだろう。
私はちょっと考えた。どうするべきか。あの噴水は諦めて、他の場所で水を探すべきだろうか。しかしここは貴族街で、道は石畳。水たまりも小川もありそうではない。探し歩いている内に美青年は死んでしまうかもしれない。
……仕方が無い。ちょっと淑女にはあるまじき事を致しますかね。子供の頃を思い出して。とは言っても十五歳の私だからほんの五、六年前の事だ。
私は靴を脱ぎ、ソックスも脱ぎ、ロングスカートをたくしあげて膝上くらいで縛って留めた。太ももまで脚が丸出しだ。うむ。お屋敷の侍女頭にでも見られたらお説教確定の格好ね。赤みのある金髪も適当に後頭部に巻き上げる。
そして私は鉄柵に手を掛けて揺らしてみた。びくともしない。頑丈だ。私は頷くと、両手で鉄柵をそれぞれ握り、ヨイショと体を上に持ち上げた。
そのまま足の指でも鉄柵を掴んでスルスルと登り始める。昔は木登りもよくやったもんよ。私は懐かしい故郷の事を思い起こしながら私の身長の二倍くらいある鉄柵を軽々と登り切った。
一番上は尖っていて危なかったが、慎重に乗り越え、私は鉄柵を滑り降りる。そして庭園の中に降り立った。
……犬とかいないでしょうね? それと泥棒呼ばわりは勘弁よ? これは人助けなんだから。
しかし庭園には誰もいないようだ。それでも長居は無用。私は小走りで噴水へと向かう。
噴水は涼しげに盛大に水を吹き出していた。その下は石造りの池になっている。溢れた水は排水口に吸い込まれるようになっているようだ。おかげで水はそこそこ綺麗みたいね。
見回すと運良く小さな手桶みたいな物を見つける事が出来た。私はそれに水をたっぷり汲んで、両手でぶら下げるとヨイショヨイショと門のところまで運んだ。
門を潜らせる事は出来なかったので、門扉のすぐそばに桶を置く。鉄棒を組み合わせて造られた門扉には隙間が沢山あるので、外からでも届く筈。
私はまた鉄柵を乗り越えると、美青年のところに駆け寄った。
「ほら、水を持ってきましたよ! 門のところに! ほら!」
しかし美青年は意識が朦朧としているのか、反応するが動こうとしない。私は諦めて、門扉越しに桶から手に水を汲むと、そっと美青年のところまで運んだ。
「ほら、水ですよ! 口を開けて!」
私の声にカサカサの唇を開く美青年。私は手から水を流し込んだが上手くいかない。いたずらに襟元を濡らしてしまうだけだった。
うーん。どうしたものか……。私は考え、閃く。私はまた門扉越しに手で水を汲むと、今度は自分の口で水を吸い上げた。……ちょっと水が沼臭いけどまぁ、大丈夫でしょう。
そして私は口を膨らませたまま美青年のところまで戻り、美青年の顎を手で掴んで口を少し上げさせた。
そして口と口をくっつけると、水をゆっくりと彼の口の中に移してやった。すると美青年の男らしい喉仏がコクコクと動いてちゃんと水を飲むのが分かった。大成功!
私はこれを二、三度繰り返した。するとようやく美青年の目付きに力が戻り始めた。瞬きをして大きく目を見開く。あらやだ。やっぱりびっくりするほどの美男子ね。この人。
私は嬉しくなり、もう一度水を口に含むと、彼の元に駆け戻り、彼の横に膝を突き、彼の口に……。
「も、もういい。もう大丈夫だ」
彼が狼狽したように首を振りながら言った。
何を言っているのか。私は彼の顔をがっちり掴んだ。まだろくに動けないくせに。それにもう口の中に水を含んでしまっているのだ。
私は何だか真っ赤になっている彼の顔に自分の顔を近付け、ぶちゅっと口付けた。……口付け?
私はようやくここで、自分の行為がいわゆるキス、しかもディープキスであり、男女が行うには色々アレな行為であることにようやく気が付いた。……意識朦朧とした男性に同意無くディープキスをお見舞いする女。間違い無く変態です。どうもありがとうございました。
……まぁ、しょうがないわよね! と私は最後の水を彼の口の中に送り込み、しれっとした顔で唇を離した。
「意識が戻りましたか?」
ごちそうさまでしたと言いそうになったのを我慢する。
美青年はなんだか呆然としていたわね。一応は意識を取り戻したみたいだけど、まだ身体を起こすことは出来ないようだ。
「……ああ、助かった。礼を言う……」
色々言いたいことを飲み込んだような、困惑を露わにした表情で美青年は私に礼を言った。まだ掠れてはいるがしっかりした声色だ。これなら大丈夫だろう。
と、そういえば。私はスカートのポケットを探る。
「残り物で悪いけど、食べますか?」
朝食のパンの残りだった。お屋敷では朝食は出るが昼食は出ない。なので皆お昼の分のパンも朝食時に確保しておくのだ。それを私は、出掛けている最中にお腹が空いたら困ると思ったので持ってきたのだった。
うぐっと、美青年が生唾を飲み込むのが見えた。私はパンを渡そうとしてあ、っとなる。まだ十分に喉の渇きが癒えたと言えない状況で、乾燥したパンを食べたら喉を詰まらせると思ったのだ。
さりとて口移しはもう止めた方が良いですよね。
「ここに水があるから、飲みながら食べた方がいいですよ」
私が水の入った桶の場所を示すと、美青年は這うようにして門扉の所に近付き、そして手を伸ばして貪るように水飲み始めた。私がパンを渡すと、あっという間に食べてしまった。食べ終わってもまだ水を飲んでいる。どんだけ飲まず食わずだったのやら。
これなら大丈夫そうね。私はホッと安心のため息を吐いた。やはり人助けは良いものね。ちょっと破廉恥な事をしちゃったけど、人助けの為だから仕方が無いわよね、役得役得。
「もう大丈夫ね? じゃぁ、私は仕事があるから」
私は脱いでいたソックスと靴を履き、スカートの裾を解いて戻した。そして歩き去ろうとしたのだが、途端にスカートがピーんと突っ張って危うく転ぶ所だった。な、何よもう!
見ると美青年が必死の形相で(そんな顔しても麗しいからすごい)私のスカートの裾を掴んでいた。
「ま、待ってくれ!」
「? なんですか? お礼なら要りませんよ?」
行き倒れから礼をせびる程私も鬼ではないつもりだ。いや、どうしてもくれると言うならもらうけど。
「違う。い、いや、礼もする後でするが、違う。わ、私は行くところが無いのだ!」
……そりゃ、行き倒れなんだから行く所は無いでしょうね。
「このままここに残されては、また私は飢えて結局ここで死にかねん。頼む。なんとかしてくれ」
うむむむ。これは困った。
何しろ私も雇われ、居候の身だ。勝手に人を拾って連れ帰り、泊める権限など無い。
まして身元も分からない行き倒れを勝手に拾ってお持ち帰りしたりすれば、私が責任を問われる事態になるだろう。
私だって帝都に知り合いもいない天涯孤独の身。お屋敷を追い出されたら行くところが無いのだ。追い出されるのは困る。
無理。だめ。出来ない。そういう結論しか出ない。私は断ろうとしたのだが、彼は必死に言い募った。
「私は貴族だ。それなりの。上位貴族にも知り合いはいる。君は侍女だろう? 多分君の雇い主も知っていると思う。会わせてくれればわかる!」
どうしてそんなお偉い貴族がこんな道端で行き倒れているものか、とも思うのだが、彼の服装はやはり華美な軍服で(薄汚れてはいたけれども)、明らかに庶民が着る服では無いようだった。
まぁ、拾ったのかもしれないけどね。しかし、妙に自信がありそうで説得力もあったので、私は仕方無く頷いた。
「分かったわ。お屋敷に連れて行ってあげる。でも、怒られたら仕方ないから自分でなんとかしてね」
私は彼をその場に残して急いでお使いを済ませ、取って返して彼の元に戻った。彼はぐったりはしていたが、水とパンが効いたらしく立ち上がり、歩く事が出来るようになっていた。
私は彼に軽く肩を貸しながらゆっくり歩いた。
「君は命の恩人だ」
彼は何度も私の耳元でそう囁いたわよね。こんな美青年にそう囁かれるのは悪い気分じゃ無かったわよ。ちょっとニマニマしてしまう。ただ、こんな得体のしれない男を連れ帰って侍女頭とか使用人を統括する執事に怒られないかはちょっと、いや、かなり心配だったけどね。
私が働いているブゼルバ伯爵のお屋敷に帰り付き、彼をお勝手口の外に待たせると、私は侍女頭に正直に事情を話した。侍女頭は案の定「そんな面倒ごとを拾って来ないでちょうだい!」と怒ったが、私が「だって物凄い美男子だったんだもの」と言うと興味を惹かれたらしく、わざわざお勝手口の横の窓まで彼のことを覗きに行った。女性はみんな美男子が好きだから仕方ないね。
そしてなにやら考えこむ。どうしたのだろう? すると侍女頭は急ぎ足でどこかへ行ってしまい、だがすぐに戻って来た。執事を連れて。
「どうも只者ではありません。ちょっと見てくださいませ」
侍女頭はなにやらそんな事を言っていた。白髪の痩せぎすの執事が眉を顰めながら外を覗く。わずかに目を細める。
「なるほど。確かに上級将校の軍服ですな」
執事は考え込むように腕を組んだ。
「ただ、顔に見覚えはございませぬな。どこかで服を拾ったか、あるいは戦場で略奪したのかも知れませんが、立ち方がいかにも貴族風だ。さて……」
伯爵家の執事ともなれば立ち方で貴族かそうでないか分かるらしい。
結局、彼の扱いは保留ということで、彼は使用人食堂に招き入れられ、食事が与えられた。とは言っても残り物の固いパンに具もあまり残っていないスープだ。しかしテーブルの上に並べられたそれを見て、彼は突然床に跪いて祈りを捧げ始めた。
「大いなる大地の女神よ! 日々の糧を与えて下さることに感謝いたします!」
そして涙を浮かべながら猛然と食べ始めた。私や野次馬にきた侍女たちは呆気にとられてそれを見守るしかない。
しかし侍女頭が言うことには、やはり所作に品があり作法もしっかりしているとのこと。私には分からないけどそうらしい。
私なら一つで十分お腹がいっぱいになるパンを四つも食べ、鍋に残っていたスープを全て飲み尽くして、彼はようやく満足したようだった。
「君と、この家の者たちに篤き感謝を。本当に皆は命の恩人だ」
そう言うと彼は私の前に跪き、私の右手を取って額に押し当てた。周囲にざわめきが起こる。私は知らなかったが、これは貴族が相手に最大限の感謝と愛情を捧げる事を示す姿勢で「あなたに何もかもを捧げます。命さえ」という意味合いがあるのだそうだ。
「いいわよもう。感謝はたくさんもらったわ」
私は内心照れながらそう言った。それにそろそろ夕方だ。これから私は色々侍女仕事が忙しくなる。彼だけに拘わっているわけには行かない。すると彼が立ち上がって言った。
「食事の恩を返さねばな。私も働こう。なんでも言ってくれ」
ちょっとそれは……。まぁ、満腹してしっかり動けるようになったのなら動いた方が良いのかも知れないけれど。でも働かせるために助けたわけじゃ無いし……。
と、思って逡巡しているうちに、彼はさっさと動き出して厨房で働く侍女たちを手伝い始めた。まぁ、仕事を知らないので重いものを代わりに持ってあげるくらいしか出来ないようだけど。
でも何しろ美青年の彼であるから手伝ってもらった侍女は真っ赤な顔でポーッとしている。ちょっと待ちなさい! そのイケメンは私が先に目をつけたのよ!
というわけで、結局私は彼を連れて庭に出て、重い薪を運ぶ作業を手伝ってもらった。薪小屋から今日使う分の薪を厨房と浴室の竈にまで運ぶのである。これが重くて大変なのだ。
いつもは侍女が二人掛かりで一束を一生懸命運ぶのだが、彼ときたら片手で一束。同時に二束を運んでみせた。すごい力だわ。思わず目が点になってしまう。
一体何者なんだろうね。この人。そう思いながら二度目の薪を運んでもらっている時だった。彼が不意に立ち止まる。
見ると、お屋敷の正面玄関に着いた馬車からお屋敷の主人であるブゼルバ伯爵が降りてくるところだった。あら。今日は夜会には出なかったのね。伯爵がお家にいるのなら、厨房に言ってお料理を増やしてもらった方が良いかもね。
私はそんな事を思っていたのだが、彼はジッと伯爵を見ている。あ、こら。使用人はそんな不躾に主人の事を見ないものなのよ!
私は彼の服の裾を引いて止めさせようとしたのだけど、彼は構わずジッと伯爵を見ている。その内、伯爵が気が付いた。こっちを見ている。私は焦った。伯爵は乱暴な主人では無いけど、使用人の躾にはうるさいところがある。それに彼は部外者だ。あんな大男で目立つ格好をしているんだもの。すぐ部外者だと気が付かれることだろう。
実際、伯爵は彼の異常さに気が付いたようだった。礼をするでもなく堂々と立って自分を見ている大きな男を怪訝な顔で見ている。私は伯爵がいつ怒り出すかとヒヤヒヤしていた。
のだが、しばらくこちらの方を見ていた伯爵の目が愕然としたように見開かれた。なんだか呆然としたような表情で口も大きく開けている。そしていきなり大きな声で叫んだ。
「れ、レクセレンテ次期公爵???!」
は? 首を傾げたのは私だけだった。彼は伯爵をジッと見詰めたまま、ゆっくりと頷いた。
「そうだ。久しいな。ブゼルバ伯爵」
彼が言うと、伯爵は子犬がするように転がるように走って一目散にこちらにやってくると、ズザーっと跪いた。
「お、お久しぶりでございます! い、いつ帝都へいらっしゃったのですか!」
「……五日ほど前だ。ちょっと困っていた所を、この女性に助けられた。其方にも礼を。伯爵」
「も、勿体ないお言葉でございます! この……、ああ、シルフィンでございますか! このような者でも次期公爵閣下のお役に立てたのなら何よりでございます!」
少し薄くなった白い頭を下げ続けて大きな声で叫ぶブゼルバ伯爵の姿を、私は唖然として眺めていた。……なにこれ。
情報を整理しよう。ブゼルバ伯爵は、帝国伯爵である。つまり大変偉い貴族だ。
そのブゼルバ伯爵が跪いて頭を下げているのだから、この美青年は恐らくもの凄く偉い。
というか、伯爵は「次期公爵」と呼んでいる。
公爵は階位的に、伯爵の二個上だ。伯爵、侯爵、公爵と続くのだから。公爵といいうのは皇族に連なる者にしかなれないので、傍系皇族という呼ばれ方もする。
つまり貴族と言うより皇族。臣下である貴族達の上に立つ存在なのだ。次期公爵というのだから、それは伯爵が跪くのも無理も無い存在なのである。
で、この美青年。道端で飢え死にして死にかけていたこの男が、次期公爵。
嘘だ~。と言いたいところだけど、上位貴族で皇族と会うことも多い伯爵がそうだと言い、本人も肯定しているのだ。否定する材料が無い。いや、そんなお偉い方が何で帝都のど真ん中。貴族街の道端で死にかけていたのか、そんな訳はないだろう、あり得ない、と否定したいのだけれども。
しかし、確かに言われてみればこの美青年は次期公爵と言われてもおかしくないような威厳と雰囲気を身に纏っている。ように見える。私はそんなお偉いさんをこれまで見たことが無かったので推測でしか無いけども。
私は彼を見上げる。赤茶色の髪の美青年。すっかり潤いを取り戻したグレーの済んだ瞳が微笑みを浮かべて私を見下ろしている。
「……次期公爵?」
私が呟くと、彼は微笑んだまま私の右手を取って、その手の平にそっと口付けた。……何よ。あまりにも自然にそんなキザな事をされたのでちょっと照れる。もう口でキスをした仲なんだけど。
「レクセレンテ公爵家のヴィクリートだ。シルフィン?」
そういえば名乗って無かったわね。私は彼に手を取られたまま名乗った。
「シルフィンよ。シルフィン・アイセッテ。男爵家の娘よ。一応」
私の名乗りを聞いてヴィクリートは微笑み、私の手を自分の両手でそっと包んだ。その温かさに私はなんだか自分の頬が赤くなるのを感じたのだった。
これが私とヴィクリートの出会い、という事になる。
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