第8話 別れ際
彼の知り合いの若い男性の話だった。優秀で、前途有望。昇進とともに付き合っていた女性と「結婚しよう」と思っていたら、突然別れを切り出されたのではなくて「さよなら」と言われたというのだ。
「どうです? 考えられますか? 女性として」
もちろん妻の方に聞いたが、一度も会ったことの無い人の事などわかろうはずもない。
「ここ数ヶ月「死にたい」と言う彼をなだめるのが必死だったんだ」
「それで地元でちょっと息抜き、俺はその人物との接点がない分、気楽か」
「正直そうなんだ。周りは本当に心配しているのか、面白半分なのか、妬みなのかわからない。話せないんだ」
「でも、失恋で死にたいなんて、ちょっと今の若い子じゃないみたい」
「自分達の年齢の人間はそう言うんです。でも彼が「このまま生きていたって、彼女以上の人に絶対には会えないから」って」
「え! そんなすごい人なの!! 」
「誰かがチラリとみたそうなんだが、ものすごい美人らしいんだ、色白で女優かアイドルかと思ったって。周りがそのことで騒ぎ立てるから、彼は絶対に誰にも会わせなかったんだ、面倒になったら困るからと。
本人が言うには「容姿だけじゃなく、心も美しかった」そうだ。
最初は料理も何にもできなくて、どうしようかと思ったらしいんだが、ちょっと教えると上達も早くて、楽しかったって。彼が覚えが早いって言うんだから、相当な女性だよ」
「へえ、そんな女性がいるのかね」と夫はしっかりと妻の方を向いたので
「でも、色白の七難隠しと言うから、色が白くてちょっと整っていれば美人に見えるでしょう?」
「お前、嫌な女」夫は少々大袈裟な声を出した。
「まあ俺も直接会ってはいないんだよ。結婚が決まったら二人で行きますと言っていたから、可愛そうでね」
「結婚で足踏みする女性の話は聞かないことはないけれど」
「それ以来彼女とは完全に音信不通になってしまったらしいんだよ。住んでいた家も引っ越していたらしい」
「速攻に引っ越しするのはすごい。でも連絡も取らないっていうのは、彼女も女性として潔いわね」
「でも給料もかなり良くなるんですよ、結婚するんだったらそれは良いことでしょう? 」若い彼の気持ちをそのまま代弁するような口調だった。その情熱に動かされたのか、夫人は
「お金の問題じゃないかもしれない」
「え? どういうことですか? 」
「例えば、夫が芸術の道に進むのだったら喜んで貧乏をします、という女性もいるから。まあちょっと違うかな、一般の仕事だから」
「お前それは的外れだよ。岡本かの子とか、杉田久女とかのことだろう」
「でもお笑い芸人の奥さんとかもそうでしょう? 夫の夢をずっと支えて、若い頃は奥さんに食べさせてもらっていたって言う人多いじゃない」
その会話に、K氏は打たれた様に動かなくなった。
夫婦は彼が苦笑でもするだろうと思ったのだが、眉間にしわを寄せ、まるでシャーロックホームズが、事件解決の糸口を見つけたような眼光の鋭さまであった。しかし彼はそれを悟られたくは無いのか、急に明るく
「ああ、そう言う女性も少なからずいますよね。そうか・・・同じように考えたらいいんですかね」
「私は絶対給料が上がった方がいいです、プロポーズはすぐ受けます」
「俺が結婚してから、会社を転々としたことに対する嫌みか? 」
「もちろんそれもあるわよ」
「ハハハ」
普通の感じに戻って、三人はまた話し始めたが、雨がちょうど良い具合に切れたので、今のうちに帰った方が良いだろうと三人で玄関に向かった。K氏は靴を履きながら最後にふと
「色白の絶世の美女ね、ここは美人が多い県だからいるんじゃないかな? 」とドキリとすることを言った。すると即夫が
「南だからそこまで色白の人はいないだろうさ」
「そうだろうね、楽しかった、また会おう」
「ああ」
彼を送り出したが、夫妻はしばらく無言でそれぞれ動いた。茶器を片付けたり、来客用の座布団をしまったり、ポストの郵便物を仕分けたり。K氏が帰って三十分ほど経ってやっと会話が始まった。
「ご苦労さん、よく言わなかったな、偉い」
「ねえ・・・まさか彼女の事、調べに来たとか? 」
「同じ女性? 」
「いや、それはないわ。だってあのキュウリとレタスの切り方はおかしい」
「うーん」笑い話で最後は済ませたが、その数日後だった。
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