第二話 後半 『お寅 恩を踏み倒しそこねる』

 お寅婆さんのやっている煮売にうり屋「ひさや」は「叶え稲荷」から目と鼻の先、通りをひとつ横切ったところにある。

ぷらぷら歩いてもそこいらの子どもがくちゅんとくしゃみをしている間に着いちまう。


 ――もう少し遠くてもいいんだが。


 しかし、着いたものは仕方ねえ。

ワシは喜平長屋の角からひょいと顔を覗かせた。


 短い暖簾の向こうから、コンニャクやら豆腐やゴボウやら煮ているそりゃいい匂いがしているが、このとびきりの香りは油揚げじゃなかろうか。

なんのかんの言って料理の腕は確からしい。

昼前だからか、客の出入りも多そうだ。

愛想はいいし、客あしらいもいいし、料理の腕もいいし、若い頃はかなりの器量よし。

ついでに心根こころねもよければいいんだが、そこはさすがの天も与えなかったらしい。


 客が途切れたところを見計らって、「ひさや」の暖簾をくぐった。


 「よぉ、邪魔するぜ。」

「払う金なんてないよ!」


 おとら婆さんは振り向きざま開口一番そう言った。

おいおい、持ってるシャモジがワシを狙ってやしねぇか?


 「おい、まだ何にも言っちゃないぜ。」

「言わなくても、わかるさ。

お前さん、借金取りの匂いがする。

うちにはそういうやからは大勢来るんでね。」


 ワシはつい自分の袖口をくんくん嗅いでしまった。

取り立て屋なんてやってるもんだから、なにか匂いが付いただろうか?

それより、おとら婆さんそんなにあちこちから借りてやがるのか?


 「払わないよ!

そんな金なんざないさ。

ヨタじゃないよ。

見りゃわかるだろ。

こんな老いぼれがりき切れたベベ着て、こんな年になっても働いてるんだ。」

「いや、そんな年でもないだろう。

アンタまだ六十にもなってないだろう。」


 そう言ったとたん婆さんがコロっと表情を変えてしなを作った。


 「あら、やだねぇ。この子は。

女の年なんざ、思っても口にするもんじゃないよぉ。

それともナニかい?

アタシが気になるのかい?」

「あぁ、まぁ、気になるか気にならないかと聞かれたら、気になるわな。」

「おや……。

あら、お前さん、よく見るといい男だねぇ。

何て名だい?

コウタ?へぇ。

ねぇ、コウタァ。

ちょっと奥に来なよ。

うちの油揚げは評判がいいんだ。

一つ味見していかないかえ?」

 

 ――ゴクリ……。


 それは過去最大の誘惑だった。 

目の前の皿に乗せられ湯気をたてている美味しそうな油揚げ。

しっとり出汁を吸ってぽってりと横になっている。

『ちょっとぉ、ねぇ。食べておくれよぉ』と言わんばかりにワシを誘う。

隠した尻尾がゆっさゆっさと揺れるのを感じて、これはいけねぇと大急ぎで閻魔顔のオサキ様を思い出した。


 「おとらさんよぉ。」

そう呼び掛けたとたん、おとら婆さんのしわくちゃな笑顔が一瞬で般若の顔になる。


 「おひさ

と呼んどくれ。

とらなんて名で呼ぶんじゃないよ!」

「なんでだよ?」

「おとらは疫病神に取り憑かれた女だ。

名前を変えて心機一転したのさ。

だから

アタシは、だよ。

店の名前にだって入ってるだろ。」


 それから、おとら改め、おひさ滔々とうとうとまるで芝居の筋書きでも語るように今までの不幸を話し始めた。


 もともとはそれなりの商家の娘で器量よし、あちこちから縁談が舞い込んでいたらしい。

それがお寅が十二の時流行り病で父親を亡くし、跡を継いだあにさんは博打で店の金を使い込んだ。

先代からの番頭が愛想をつかして辞めたのを始まりに、どんどん店は傾いて一人娘だったおとらはその器量を買われて花街に売られることになった。

しかし、お寅そのとき十四。

トウがたっちまって吉原にゃ売れない。

てぇんで、女衒ぜげんは品川の宿に飯盛女めしもりおんなとして売っ払った。

そこでも新入りが元いいとこのお嬢様だってんで、いろいろあったということだ。

小間物屋の若旦那に身請けされてからはたまたま幸運に物事は進んだが、全て望んだものではないらしい。


 オサキ様の助言通り、婆さんの話しに真摯に耳を傾けてそのまま右から左へと流す。

一片たりとも頭に残さない。

同情したらこちらがしまいなんである。


 ――冗談じゃねぇ。


 管狐になってやっと30年。

こんなところで、ぷちんと潰されてやみに戻りたくはない。


 一段落したところで口を挟んだ。


 「なぁ、おとら。」

ひさだって言ったろ!

若いのに、さっき教えたことをもう忘れたのかい?」

「ああ、すまねえな。

で、おとら改め、おひささんよ。」

「やな男だねぇ。」


 苦い顔をするおひさをチラリとみてワシは言葉を続けた。


 「お前さんあちこち世話になったらしいのにその恩を忘れて、このままつもりかえ?」

「人聞きの悪いことをお言いでないよ。

いつアタシが恩を忘れたね。

そもそもあんたの世話なんてなったことがあったかい?

アリもしない恩をと言われても、アタシゃ困るね。

ヨタを言うんじゃないよ。」


 そう言ってお寅、いや、お久はプイっと明後日の方を向きやがった。


 「なぁ、そこの『花房山稲荷』にもさんざんっぱら願い事をしたんだろ?

お礼の一つでも言ったことがあるかい?」

「あー、そこの『叶え稲荷』か。

願い事がよく叶うって評判らしいね。

そうさね、まぁ、アタシも何度か行ったのは行ったさ。

でもろくでもないことばっかり起こってさ、とても礼になんざ行く気にゃなれないね。」

「ろくでもないこと?

そんなことたぁねぇだろ?

『叶え稲荷』だぜ?」


 そこまで言ったとき、こちらを向いた婆さんが突然叫んだ。


 「あん時、その『叶え稲荷』にお願いしたさ!

それゃもう、毎晩毎晩。

お百度参りかってほど通ったさ!

でも、アタシの願いを神さんは聞いちゃくれなかった。

父様ととさまは還って来なかった。」


 おとら、いやおひさ婆さんは、そう言って背を向け肩を震わせた。


 ――父親が、還って来なかった?


 あぁ、生き死にのことか。

そりゃ、仕方ねぇことだ。

生き死には稲荷のじゃねぇ。

阿弥陀様んとこへ願い出なくちゃ。


 そうは思うがさすがに言えねぇ。

ひさ婆さんの肩の震えが泣いているのか芝居なのかもわからねぇ。



 ――あー!


 このままじゃだめだ!だめだ!

とら、じゃねぇおひさに同情した訳では決してないが、もうどうしたらいいかわかんなくなっちまって、ワシは尻尾を巻いてすごすご稲荷に戻った。

オサキ様の怒鳴り声を思い出して、尻尾が三倍ほど膨らんじまった。


 それはもう火の山の爆発のように怒られるかと身構えていたが、オサキ様はため息をひとつついただけだった。


 「そうかえ。

狐太コウタでもうまくいかなかったかえ。

とらはねぇ、最初にちょいと借りがあるからねぇ。」


 今は「ひさ」と名乗っていますとはなんとはなく口に出来ず、耳と尻尾を垂らしてオサキ様の言葉を待つ。

オサキ様はしばらく考えていたが、キツネの瞳をキラリと光らせて言った。


 「狐太コウタ、これからひと月に二度ほど通ってきな。」

「えぇぇ!

オサキ様、勘弁してくださいよ。

あの調子なら、「恩」を返そうなんてこれっぽっちも思ってないですから。」

「ああ。そうだろうね。

でも「売った」訳でもない「恩」は、返してもらわないとねぇ。

それに、おとらが「恩」を「買い取る」気になるかもしれないしね。

それまで、狐太コウタ

毎月通って、顔を見ておいで。」


 ――なんてこった。


 ワシは思わず耳をぺたんこに倒してしまった。

空耳だったと思いたい。


 「そうそう、店で油揚げを食べてきてもいいよ。」

「え?

いいんですかぃ?」

「ああ、ただし、お代は払うんじゃないよ。」

「へぇ。でも、何でまた?」

「三年ほどタダで油揚げを「キツネ」に「献上」すりゃ、そこそこの「恩返し」になるだろ。」


 ――あの色艶のいい油揚げ、あれをただで喰ってもいいんですかぃ?


思いがけない言葉に、ワシの口から涎がたらぁりとタレそうになった。


 こうしてワシはひと月に二度、「久や」に顔を出すことになったのだった。

どうやってお代を払わずに済ませるか、この頭の痛い問題はまた別の話し。


  ◇ ◇ ◇ 


「願ひごと かならず叶う 花房の 稲荷の神のいかに尊き」



*******************


煮売り屋

江戸時代に野菜や魚、豆を煮て売っていた総菜屋

焼き物、酒は出さない


江戸後期の平均寿命

65.5歳と言われる

参考までに、戦国時代:60.4歳、江戸時代前期:67.7歳、江戸時代中期:67.6歳

明治大正時代60.6歳、昭和時代:72.0歳


岡場所

幕府公認の遊郭・吉原に対して、非公認の私娼屋が集まった遊郭のこと

宿場町である品川・内藤新宿・板橋・千住が有名


飯盛女

江戸時代をに宿場に居た私娼


女衒

江戸時代、女性を遊女屋に売ることを生業としていたもの


横に寝る

江戸言葉で、借金などを返さないこと

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