本
連喜
第1話
俺は今でこそ五十がらみの独身だが、二十年くらい前には彼女がいた。
二十年前にいた彼女を自慢しても仕方がないけど、俺はその辺のキモオタとは違うと言っておきたい。
俺の元カノは、よく俺の家に私物を持って来て、毎度忘れて行く人だった。忘れたというより、はなから物を捨てるつもりがなくて、邪魔だから人の家に置いて行ったような気がする。もともと物を捨てられないタイプの人で、今みたいにスマホで写真を撮るような時代でもないから、自分で捨てられない物を誰かに捨ててもらいたかったのだろうと思う。
その人は結局、俺から離れて行ってしまい、私物は全部捨ててということだった。俺には使い道のない、化粧品や歯ブラシ、部屋着などはすぐに捨てたけど、本は捨てられなくてずっと置いてあった。彼女が好きだったのは推理小説で、赤川次郎、アガサ・クリスティー、松本清張、横溝正史の作品をよく読んでいた。俺もそういう本が好きで、時間があったら、いつか読んでみたいと思っているものばかりだった。今一番人気があるのは東野圭吾かもしれないが、どの作家も二十年くらい前にはすごく人気があった人たちだ。
松本清張の社会派ミステリー、横溝正史の持つ独特な暗さも好きだ。アガサ・クリスティーのトリックには、さすがと毎回舌を巻く。赤川次郎の作品は自身の子どもの頃を思い出す。薬師丸ひろ子や原田知世が一世を風靡していた頃だ。懐古趣味かもしれないが、昔の作品の方が面白い。
本はすべて文庫だが、シミだらけで変色していた。これからこつこつ読んで、一冊づつ捨てて行こうと思っている。段ボール二箱あるから、読み終わるのに何年もかかるだろう。俺はその中の一冊を手に取った。ソファーに座って読み始めると、本の間に公共料金の領収書の切れ端が挟まっていた。昔は携帯代や電気代をコンビニで払っていたから、その領収書だ。
俺の名前だった。こんなものをしおり代わりにして、外で落としたら恥ずかしいじゃないか。しかし、彼女のだらしなさからして、すでにやっていただろうと思った。
あの女は、今どうしてるんだろう。懐かしいというのではなく、一生会いたくないという意味で思い出していた。その女がどんな風に最悪だったかというと、俺がいるのに浮気をしていたことだ。例えば、どこかのイケメンと出会って(昔はイケメンという言葉がなかったが)、江田という野郎がこんな風で…と愚痴を言う。そしたら、そいつはそんな男は最悪だねと女を庇う。俺は知らない人にまで貶されて、悪口を言われる。俺は最悪かもしれないけど、暴力を振るうとかではなかったら、わざわざ外で言われるほどではないと思う。
彼女は尻軽で、会って間もない男とすぐに男女の関係になる人だった。そんな女を本気で相手にする男はいないから、二人が連絡を取らなくなっても、〇大卒で〇〇に勤めている江田という野郎は最悪だという話だけがずっと残る。本当に最悪なのはその二人なのに、なぜか俺だけがクソだと言われる。
俺の穴兄弟が千代田区のオフィス街に何人もいるらしいというのは人伝に聞いていた。隣のビルにいたこともある。
ただの浮気ではなく、その女は婚活を兼ねて、色んな相手とやっていた。バブルの頃の適齢期の女はそういうものだったかもしれない。その中から一番いい相手を選ぶというのも理解はできる。
しかし、許せないのは、その女が俺の部屋を拠点に婚活をしていたことだ。自宅があるのに俺の家にばかりいた。男と会っても、その後に俺の家に来る。デートっぽい服を着ている時は、大体男に会っていたのだろう。彼女の勝負服はピンク色でミニスカートが多かった。そういう時は、下着も上下そろったのを付けている。俺と出掛ける時はそんな格好はしないのに、服装で女性的で優しい雰囲気を出して、相手を欺いていたんだろう。その証拠に、うちに来ると、その余所行きをすぐに脱いで、シャワーを浴びてしまう。そして、うちに置きっぱなしの部屋着に着替える。
俺の冷蔵庫にある物を勝手に食べて、ゴロゴロして本を読みながら寝落ちする。そんな毎日だった。
彼女がやりたかったのは、電気代などの光熱費、食費の節約としか思えない。俺たちは会話がなくて、セックスもしていなかった。俺はなぜ「もう来るな」と言えなかったのかわからない。ただ、そのだらしない女が家にいるのが当たり前になっていたのだと思う。どんなに家族が嫌いでも、家にいるのが当たり前なのと似ている。いないと、どこに行っているんだと気を揉んでしまう。具合が悪いと世話を焼きたくなる。
俺はずっと彼女という存在がいなくて、その女が俺にとっては一番長く一緒にいた人だった。その後も、彼女らしい人はできなかった。だから、そんな馴染んだ相手に捨てられるのが怖かったのかもしれない。俺は恋愛下手で、奥手で、女性といてもぎこちなかったと思う。だから、次に誰かを見付けて、デートに誘ったり、口説いたりする自信がなかった。
適齢期の女は引く手あまたでも、男は決してそうではない。俺ははっきり言ってもてなかった。第一印象ではモテたけど、話がつまらないから、それ以上踏み込んでくれる人がいなかった。
女の名前は芽衣ちゃん。
俺はずっとそう呼んでいた。芽衣ちゃんは平日はうちにいたけど、土日は来なくなっていった。毎週、男の家やホテルに泊まるようになっていったのだと思う。彼女はだんだん女らしくきれいになって行き、ああ、そろそろ出て行くんだと俺は悟った。
彼女が選んだのは、商社勤務のイケメンらしかった。年齢は三歳ほど上で、実家は某大手上場会社の創業者一族で超金持ち。実家は目白ということだった。芽衣ちゃんは商社マンの奥さんになって海外赴任し、優雅な生活に胸を膨らませていたことだろう。共通の知り合いがいたのだが、その人の情報では、芽衣ちゃんがそいつと結納をするらしいということだった。
芽衣ちゃんというのも実は家柄が良くて、先祖は大名だったらしい。祖父は田舎で病院を経営していた。なぜ、俺なんかと付き合っていたかというと、俺には気を遣わなくていいからだそうだ。
しかし、別れは唐突に訪れた。芽衣ちゃんから電話がかかって来て、「もうそっちに行くことはないから、私の荷物は全部捨ててね」と言われたのだ。
俺はショックだった。
「うん。わかった」
でも、俺はそう答えただけだった。理由は知っていたから聞くことはしなかった。俺みたいな凡人がイケメンの御曹司に勝てるはずがなかった。俺の仕事だと、一生海外転勤のチャンスはないし、収入も商社マンには及ばない。
俺は茫然自失だった。気が付くと部屋中、彼女のものばかりだった。洋服も随分置いて行った。もう、婚活用の服もいらないということか。ベッドには彼女が使っていた枕も毛布もあった。どのくらいうちにいただろうか。二年はいた気がする。
見ていると辛いので、そういうものはすぐに捨てた。シャンプーや化粧品もそうだ。彼女はもう二度と家に戻ってくることはないのだから、胸に風穴が空いたようで俺は寂しかった。
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