春にさよなら

いいの すけこ

第1話

――私とナツ、どっちが『桜姫』に選ばれるか、勝負ね。

 ハルとの勝負を思い出す時、記憶の中には桜が舞う。

 ここを訪れるのは数年ぶりだ。思い出に導かれるように立ち寄った公園は、桜ではなく初夏の新緑が輝いていた。

 この場所は、こんなに緑鮮やかな場所だっただろうか。

 私の記憶には、桜色の景色ばかり浮かんでくるというのに。

 四阿あずまやと花壇があるだけの小さな公園、満開の桜の下。

――劇場にも桜が咲いていたでしょう。みんなあそこでトップスターになる誓いをたてるんだって。

 私とハルの勝負は、約束であり誓いだった。



 * * *



 小学校も半ばの春のこと。

 青春と呼ばれる時代が到来するよりも、まだ早く。

 私とハルは青春時代を、いや、もっと多くのものを捧げるだけの運命に出逢った。

 桜の演目をシンボルに掲げる歌劇団。

 通っていたバレエスクールの先生に連れられて観に行った、初めての舞台鑑賞。

 歌劇団の代表演目『桜姫』に、私たちはいっぺんに魅了された。

 まさしく心を奪われたのだ。

 奪われたものがそこにあるなら、私たちはその場所を目指すしかない。

 その日から私たちの夢は、歌劇団の団員になること。

 日本有数の歌劇団に憧れ、夢を見る者は多い。

「幕が上がった瞬間、感じたの。私はいつか、あの舞台に立つんだって」

 ハルが感じた運命を、日本のあらゆるところで感じ取った人がいるんだろう。

 だけど私たちこそが、それを絶対だと信じていた。

 

 四阿の傍には、立派な桜の木が植わっていた。屋根を覆うほどの枝振りの桜木から、はらはらと薄紅の花弁が舞い散る。

 散りゆく桜の中で舞う、桜姫になれたなら。

 舞い踊る花びらが、屋根の下にも吹き込んだ。四阿は小さな舞台のようだった。

「私たちが目指すのは、もっと大きな舞台だよ」

 ハルの言葉に、歌劇団専用の劇場を思い出す。

 ハルは四阿を飛び出した。妖精が、花の間を飛び移るような軽やかさで。

「百五十五センチの壁って、知ってる?」

 桜の幹に触れながら、ハルが言った。

「歌劇団には、最低でも百五十五センチ身長がないと入団できないんだって」

 私とハルの身長は、ようやく百四十センチに届こうかというところだった。歌劇団――正確には、入団前に属する研究所――に入るには、とてもではないけれど背が足りない。

「実際には身長制限はなくなったみたいだけど。でも舞台での見栄えとか、役者同士のバランスがあるから、きっと選考基準にはなると思う」

 研究生の年齢条件は、中学卒業以上からとなる。

「まだ先だから、大丈夫だよね?」

「のんきだなあ、ナツは」

 時間なんて、いくらあっても足りないよ。

 訳知り顔で言って、ハルはランドセルの中から図工用の彫刻刀を取り出した。

 幹に立てた刃が、木の肌を一文字に刻む。

「ここが百五十五センチ」

 ハルは指先で、刻み込んだ目標をなぞる。

「ナツも来て。私たちの身長も刻んでおこう」

 こうして私たちは、季節が巡るごとに桜の木に、誓いを刻みつけることにしたのだった。





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