ならば私は、君と添い遂げよう。

さぶ☆兄貴

第一話 彼女は「無論だ」と彼に応える

   1


「無論だ」

 と、彼女は彼に応えた。

 高校で入学式を終えた日の帰り道、細長い橋の上は彼女たちだけだった。


   2


「歩三(ふみ)ちゃん。俺たち今日から高校生だ。付き合おう!」

「――ひょっとして君は高校生になるまで待っていたのか」

 そう訊ねる彼女の表情からは驚きも呆れも見てとれない。まるで図書館で英和辞書をひいているかのような仏頂面である。

 常にそうだ。彼女は表情を母の胎内に置いてきた。

 いま彼女が〈驚いている〉と読み取れるのは、彼女の両親と、幼馴染のこの男ぐらいだろう。

「その通りだ。ずっと前から歩三ちゃんに惚れていたけど我慢してた。でももう高校生になったから告白する! 好きだ。付き合ってくれるか?」

 彼にとって交際は高校生になってかららしい。妙なところで律儀な男である。

「……別に中学の時から付き合っても良かったのだぞ?」

「本当か! 歩三ちゃんは早熟だな!」

「そうでもないと思うが」 


 本日、彼女たちは晴れて高校生となった。

 中学校は近所にあったがこれから通う高校は市外であり、橋を渡ることでそちらへ行ける。橋は大きな橋と古びた橋の二本ある。二人はこれからの毎日の通学に後者を選択した。理由は単純で、そっちの方が家から近いからだ。このボロ橋、近隣の住宅地から遠いために利用者は少ないが、幅が狭いため歩行者専用、徒歩で使う分にはむしろ好都合であった。

 橋の下には河川敷も含め幅七十メートル超の川があり、西に見る深い山々から、東に見える平野部へと水が流れていく。ちなみに南は山で北は農地だ。どこもかしこも、そして橋の上に立つ彼女らの頭上も空が広い。

 要するに田舎である。

 そこで暮らしている彼女たちが、橋を中ほどまで進んだ時の、彼からの告白であった。


 彼女はそれ以上何も言わず横を向き、すぐ側にあった橋の欄干に両肘をかけた。

動作が若干ぎこちない。

 しばらくして彼女の右の踵が不規則にアップダウンを始めた。

 少しの間、妙な足の運動を見せていた彼女だが急に彼へと振り向いた。

後ろに縛った髪がヒュッと後に続く。

「今日は良い日だな」

「よしっそれはOKということだな⁉」

「無論だ」

 彼女は即答で認めた――彼の言い終わりに被せる早さだった。

彼が固く目を閉じ、拳を握り締め天を仰ぎはじめた。感無量といった感じを全身で表している。

 一方で顔を戻した彼女は、また踵のエクササイズを始めた。

 今度は少々テンポが速い。

 また振り向いた。

「無論だ」

「おおっ。何度聞いても嬉しいぞ!」

 顔を戻した。

 ここに至っても仏頂面は変わらない。

 ――いや、少し唇が引結ばれたように見えた。


 エクササイズの奇妙さなど比較にならないほど、彼女の心は酷(ひど)く昂揚していた。

(いかん。動悸がする。そう来るとは予想外だ……全く君はなんて卑怯な。どうかしている。私を――私はいま――途轍(とてつ)もなく、喜んでいる)

 何故か?

(「好きだ」と言われた……っ!)

 その言葉が口にされるなど思いもよらないほど――彼との仲は長かった。


   3


 彼女が彼と出会ったのは小学校。三年生に上がって同じクラスになった。席は隣ではなかったが、授業の〈グループを作って話し合い〉のときに、同じ班となるぐらいには近かった。

 だからといって、当初は何の接点もなかった。

 しかしある日の国語の時間、担任から初めて「はーい、それでは班を作って〜」の声がクラスにかかった。

 来た、と彼女は思った。彼女は期待をした。同時に怖くもなった。

 期待の方は――。

 彼女はみんなともっとお話しがしたかった。いまの彼女には休み時間におしゃべりをする程度の友達もいない。

 しかしグループ討論になれば必然的にクラスメイトと会話になる。これが楽しい。

 一方で――自分が発言すればするほど、周りは黙っていくのも経験している。これが怖い。

 幼い彼女には理由がわからなかった。

(今日はみんなとたくさん話せたら良いな)

 そう願った。


 授業でやった物語の主人公の気持ちについて、ついに話し合いが始まった。

 彼女はしばらく様子見をしていたが、意を決して意見を述べ始めた。

 いつものように、真っ直ぐにみんなを見据えて、眉ひとつ動かさず、無表情に、淡々と、流暢に話した。

 これに班のみんなは気圧された。

そして彼女にとってはいつものように、沈黙が訪れた。

(また駄目だった)

 彼女は寂しい気持ちになり、目を閉じた。

しかしすぐ、彼女の向かいに座った男の子が、

「すごい! なんか先生みたい。どうやったらそんなにしゃべれるの⁉︎」

 と反応を示した。

彼女は瞼を開き、彼を見た。冷やかしでは無さそうだ。男の子の顔には尊敬の念が見てとれた。

穴が開くのではないか? それほどに彼女は男の子の目を見つめた。

彼女の癖なのか、右の踵がピコピコと動き出した。

男の子はニコニコと「すごいなー」と続けていた。


 これが彼との初コミュニケーションであった。


 くっつけた机を元に戻す最中、彼は彼女に「歩三ちゃん、これ面白かったな」と言った。

何気ない一言だったが、自分が楽しかったこと、そして何より彼も楽しんでいたという感動に、彼女は帰宅してすぐ、自室のカレンダーの〈今日〉を丸で囲んだ。


 その日以来、休み時間も話すようになった。彼女は今まで溜め込んだ鬱憤を晴らすかのようにたくさん喋った。彼女の口調は独特であったものの話題は歳相応であったし、彼女と楽しそうに話す彼の様子を見て、クラスメイトも(実は別に怖くない?)と彼女へ近付くようになった。

 そしてある日、一緒に下校した。家がごく近所だと分かったので、それからは登校が一緒になった。放課後もほぼ毎日一緒に遊んだ。


   4


 そのまま二人は中学生になった。奇跡的に中学の三年間、クラスは同じだった。

 当たり前のように二人の交友は続いていた。


 七月の、とても暑かったある日、彼はいつものように彼女の前に座ると、少し彼女を見つめたあとに右を向き、左耳を彼女へと向けた。

「歩三ちゃんから何か音が聞こえる――ん、モーター?」

「正解だ。先日、道路工事の作業員さんを目にしてな。なるほどと思い、家で余っていたPCケース用ファンをブラウスに仕込んでみたのだ。空調服というらしい。なかなかに快適だ」

「おー、頭良いなあ、それ」

 そんな会話が金曜日になされ、土日の休日を経て、月曜が来た。

 席に座る彼のシャツと、彼女のブラウスは膨らんでいた。

彼のシャツを留めるボタンとボタンの隙間から漏れ出た風が、机上のノートを微(かす)かにはためかせている。

 ブラウスの襟を抜ける風は、彼女の後ろ髪を結ぶゴムから飛び出た数本を、ふわふわと揺らしている。 

 異様な光景に違いないのだが、クラスメイトからの苦言や冷やかしは無かった。

(今日の夫婦も仲がよろしい)

 そう達観しているクラスメイトであった。

彼女らはこのとき三年生であり、すでに他の生徒たちからは〈珍獣のつがい〉と認識されていた。

彼女と彼は動物園のパンダかチベットスナギツネのごとき対象なのだ。


 ある生徒曰く「二人を見ていると妙に和む」らしい。また別の生徒曰く「雰囲気が俺ら中学生じゃなくて大学生? っていうか、なんかもう違う世界に住んでる」とのことだ。

 和ませる担当は専(もっぱ)ら彼の方だろう。いつも朗らかで、それでいて冗談も通じる。身長百八十センチ、その巨体で人懐っこさを見せられるのだから、彼の人気は高い。

その彼がいつも楽しそうに相手をしているのが彼女だ。パンダに餌を与える飼育員のようだとクラスメイトには映った。

 一方で中学生ではない雰囲気の方だが、それは彼女らに、いわゆる〈思春期〉が見えないからだろう。

 毎日二人は、向かい合って弁当を食べている。

 照れる事もなく、見せつけるわけでもなく――昼休みになると彼はごくごく自然に彼女のもとへやって来る。「やあ来たか」と彼女も当たり前に彼を迎える。

そうして彼は、彼女の前の席の生徒に几帳面に断りを入れてから椅子を借り、彼女と向かい合って食事を始める。。

 誰かを好きだと知られることすら恥じらう中学生にとって、あるまじき所業だが、彼らがやると自然に見えた。幼馴染の為(な)せる技でもあるし、彼と彼女が百八十に百七十八センチと中学生の平均を優に超える背丈だったことも原因だろう。


 このようなわけで二人を邪魔するものは、教師を除いて何もなかった。

後日、数学の木村が「お前らフリーダムにも程がある」と咎(とが)めた水曜日まで、彼女らは暑い日を快適に過ごすことができた。


 ところで、まだ同級生全員に「珍獣だ」との認識が行き届いていない時分も当然あった。

彼女が二年生の夏休みを迎える頃までがそうであり、別のクラスの男子生徒が彼女を見にやってくることが度々あった。

理由は単純で、彼女のその容姿である。

 高い背丈に相応しく、可愛いというより美しく整った顔だち。前髪を残して一括りにした黒髪は背丈まであり艶光りしている。さらにワイヤーフレームの細い銀色で縁取られた眼鏡が、彼女の無表示を凛とした印象に騙し替える、良い仕事をしていた。

 まず美少女と言っていい。

だが見に来た男子は、だいたい昼休みにやって来て、そのまま回れ右で帰って行った。当然それは彼女が彼と向かい合って食事しているのを見たからである。

全く同じプロセスで、男子何人をも相手することなく彼女(と彼)は退けてきた。

たまに彼女の席までやって来て話しかける気骨ある男子もいた。

そうした時もそうでない時も、彼女はいつも真っ直ぐに相手と向き合う。眉ひとつ動かさない。

次に彼女の三白眼がレンズ越しに相手を見据える。

そうすると気骨のあった男子全てが「いや、なんでもないです」と、それか似たような事を言って去っていった。

呼びかけに応じる時、一呼吸置く癖が彼女になければ、別の展開もあったかもしれない。


「私の表情は読めないそうだ」

「みんなそう言うよな」

「君はどこで私の感情を読む?」

「雰囲気」

「ふむ。表情ではないな」

「唇の形も少し変わるぞ」

「そうか。私も君の様に、眉の一つも感情と連動すれば良かったのだがな」


   5


 彼女は二回目の「無論だ」を口にしてからまだ、欄干に腕を乗せ、右の踵を動かしていた。

顔は水平にむこうに向けているが、景色は見えていない。

 目を開いたまま回想に耽り、今しがた現在に辿り着いたところだ。

 足かけ七年に渡る記憶だった。

彼女自身、

(中学に入ってからの三年間なんぞ、もはや付き合っていると同じではなかったか?)

 と、今なら思える。

(前言撤回だ。「中学の時から付き合っても良かったのだぞ」などよく言えたものだ……。しかし、では今告白をしてきた君は、私と付き合っているつもりではなかったという事か?)

 彼女の心に動揺が走ったが、すぐに、そうではない、と落ち着いた。

(君は「ずっと前から私に惚れていた」と言った。安心した。私もそうだったからな。うむ。君は正しくて、告白はあるべきだったのだ)

 彼女は彼の誠実さに感心した。

 しかし、である。

(しかしだ。君は我慢していたとも言ったぞ。という事はだ、君の家で期末テストの勉強をしていたあの時すでに、テーブルを挟んだ向こうで君は私を異性として見ていたという事になるのではないか? なるか。そうか、済まない。私はそういうところに鈍感なのだ察してやれなくて申し訳なかった。とは言え何度もお互いの家を行き来したがそんな気配すら感じなかったぞ。いくら鈍い私とはいえ相当な紳士だな君は。流石は私が見込んだ男だ。いやそれにしてもだ。その時に言ってくれればだ、「好きだ」と――いや、いかん。いかんな。あの言葉の威力は凄まじいものだった。いったい部屋で聞いていたならどうなっていたことか。中学生であったしな。けしからん。なるほど合点がいった。とぼけた返答をしてしまって申し訳ない。高校を待った君は正しい。ん? ん? ということは高校生となった今はそういう――)

 彼女は軽く顎を上げ、

「駄目だ。頭を冷やそう。そう、キンキンにだ」

 と呟いた。

 その彼女の左後方では、彼が腕を組み仁王立ちの姿勢をとっていた。だが、その顔はいたって優しい。

 彼女が思考を始めて固まることなど、いつものことなのである。


(よし、逆を仮定しよう。断るのだ。私から――は、有り得ん。だから、私から告白したとする。す……好、きと。そう「好きだ」と告白したとしよう)

 彼女の右の踵が何度も地を叩く。

(そして、そしてだっ。ここからが大事だ)

 急に踵がぴたりと止まった。そしてゆっくりと、彼女は欄干の上で組んだ腕の間に顎を埋(うず)めた。

(……「友達のままが良かった」と、君が言った)

 

 彼女の視界が一気に褪せた。心拍が底に落ちた。有ると思っていたこれからが虚無に消えた。彼との楽しかったこれまでも全て失った。

(どうして、告白なんて、しなければ……)


 春の風が彼女の髪を揺らした。

「いかん。やり過ぎた」

 ぞっとするとは正にこのこと。彼女の顔を包む腕が震えていた。

 それ故に(彼の勇気は凄いな)と彼女は思った――流石は私の彼氏である――と。

(――彼氏。そうだ、既に私たちの仲は確定したのだ。うむ。所詮はifだ。恐るるに足りない)

 震えが止まった。口で呼吸を再開した。呼吸が口から鼻に移った。

(目論見どおり、良い加減に冷まされた)

そう彼女は考え、上手くやったつもりだった。

 甘かった。

 怖いもの見たさは誰にだって有る。彼女にだって有った。

それが発揮された。

だから〈もしも〉の映像はさらに続いた。

 そこには彼女が顔も知らない女が出てきた。

 彼女が今着ている制服と同じものに身を包み、彼に向かって微笑んでいた。

 ――そして彼もまた、女に微笑んでいた。


 彼女の血は氷水に変わり全身を駆け抜け、そして一気に煮えたぎった。


「それは――それだけは、あってはならない」

 彼女はゆっくりと顔を上げた。


   6


 様子を見ていた彼はそろそろかなと思った。

 勝手知ったる彼女の事である。彼には動き出す頃合いなど見て取れて分かった。

 彼女が七年間、彼と過ごしたように、同じ密度で彼も彼女と過ごしたのだ。

(今日は手を繋いじゃっても良いかな? 良いよな。俺は彼氏になったしな。よしお願いしてみよう)

などと呑気に考え、彼女に声を掛けようとした。

ところが、彼女が欄干を勢いよく押し退け、彼へ振り向く方が早かった。

 ダンッ、と彼女は左足を地に叩きつけ、寸分の狂いなく彼を真正面に捉えて止まった。

 それから一旦、両者見つめ合いの間が入った。

 珍しい、と彼は思った。彼女が動揺していると分かる。

(いつだったかな。近くの山へ鉱石を採りに行って、歩三ちゃんが動物の糞を踏みそうになった時以来かな。場所的にハクビシンの糞だったのかな、あれ)

 それでも彼はまだ平常心であったが、彼女がそのまま歩み寄って来るほどに、彼は自分の顔が強張るのを感じた。

(なんだなんだ⁉︎)

そして彼女が眼前まで来た。

(――っ‼︎ なんて顔だよ歩三ちゃん)

 初めて見た。無茶苦茶である。彼女の両親だとて見たことあるか疑わしい。

 怒り、悲しみ、恐れ、寂しさに、これは喜びなのか? そんな様々な感情が力任せに一つへ押し込まれたような、形容し難い顔を彼女はしていた。

 もはや彼は、彼女の雰囲気や唇の形を読む必要がなかった。

そのような事をしなくても誰だって分かる。

いま彼女の感情はめちゃくちゃになっているのだと。

眉尻は上がり、レンズ越しの目は大きく見開かれ、頬は紅潮し――そして今にも泣き出しそうだ。


 彼女が口を開いた。


「君は私を好きだと言った。言ったぞ。私はそれを受け入れた。だから君の恋人は私だ。君は私のものだ。いいか聞け。他の女となぞ、断じて許さんっ。私しか駄目だ。あってはならない!」


 怒号と言っていい。

彼女を知る者が聞いたら驚きで石にならんばかりの大声だった。

 いつの間にか握られた彼の両手首からは、彼女の腕の痙攣が伝わってくる。彼女がいま全力で握り締めている証拠だ。

 彼の目は、彼女の視線が貫くのではと思わんばかりに睨みつけられている。

 彼女の身体全てが、全力をもって彼に伝えてくる。


〈離さん。お前は私の所有物だ〉と。


(おおおおおお、っおう!)

 彼はこれほどの気迫を浴びせかけられた事など、彼女から、そして誰からも無かった。

 しかしこの状況に置いて、彼は驚愕こそしているものの戸惑ってなどいなかった。

好きだと告げた相手から「お前を独占する」と全身全霊をもって告げ返されたのである。

男にとって、これ以上の賛辞はないだろう。

(分かったぞ歩三ちゃんっ。俺たちは絶対にずっと一緒だ!)

 彼はその意思を瞳に込めて、彼女に全力で応えた。


    7


 それから一瞬だったか数分だったか、時が流れた。

 彼女の荒い呼吸は次第に小さくなり、今は消えている。

 いまここに在るものは、川のせせらぎと遠くから聞こえる車の排気音、河川敷に揺れる背の高い草に、橋、そして二人。

 静かだった。

 そうすると、いつの間にか俯いていた彼女が喋り出した。

まるで診察室で患者に背を向かせる医師のように、静かに、

「このまま腕を後ろに」

 と、彼へ指示した。

彼の手首は彼女によって握られたままである。言葉通りに彼がこのまま腕を引けば彼女は体勢を崩す。

だが、

「うん。じゃあ引くよ」

 と、彼は従った。

 彼女がつんのめった。

 そして、まるで横着者の生徒が教室の壁へ立てかける箒のように、彼女も彼の胸へと顔から立て掛かった。

 まず彼女の額が彼の胸に接触したが、支えきれなかったのか首が曲がり、最終的に頬を押し付ける形で安定した。

彼女の薄い唇は潰れた頬によって押し出され、ワイヤーフレームの眼鏡はたわんで片側のツルがこめかみから遠くで浮いている。両の踵も地面から浮いている。

 いまや彼女の体勢は、自分の顔面と、彼の手首を握りピンと伸ばした両腕で体重を支える奇妙な形となった。

 

「私も君がずっと好きだった。今は愛している」

 潰れた顔から意外にもはっきりとした声で出てきた。

「もちろん俺もだ」

「そうか。両想いというやつだな」

「おう、そうだ」

「重畳だ」

 彼女が目を閉じた。いつもの無表情は先ほどからどこかへ行ったまま、まだ帰ってきていない。

 彼女の眉が安堵したかのように下がった。

 そのまま三秒ほど両者無言で過ぎたが、彼女が口を開いた。

「ところでだ」

「うん?」

「知っていたか? 私は非力でな」

「もちろん知ってるよ?」

 彼女の眉間に皺が寄った。先ほどと同様、いまや上手に眉を動かせている。

「――君は時々、察しが悪い」

 声が不機嫌になった。

「この体勢は辛いのだ。早く抱き上げてくれると助かる」

 気がつけば彼女の顔は当初より随分(ずいぶん)とずり落ちていた。辛いのだろう、彼女の肩とふくらはぎが小刻みに震えている。

「それはごめんっ」

 彼は見事な体捌きで彼女の腰に右腕を滑り込ませ、そのまま彼女を抱き寄せた。

 彼女の両足はまっすぐ地面に立ったが、体重は彼に預けたままだ。

 彼女は顎を彼の肩に乗せ、彼を強く抱き締めた。

 彼もそのまま彼女を抱いて、

「手を繋いで帰ろうと思っていたのに。まさか抱き合っちゃったよ」

 苦笑混じりに言った。

 すると彼女が喋り出した。

「その程度の事を考えていたのか。君はあと何年かけるつもりだ。もう十分だろう?」

「どういうこと?」

 彼は彼女と以心伝心の仲だが、これは意図が読み取れなかった。

 彼女は首を戻して彼を見つめた。お互いの額同士が触れ合いそうな距離だ。

彼女の顔はいつもの無表情に戻ったようでいて――少し違った。

「明日の下校はそのまま私の家に来てくれ。無論、一緒にだ。父と母は帰りが遅くなるとのことでな。よって準備は今日中に済ます必要があり、そこは男の君に任せたいが……」

 彼女の頬は話しが進むほどに色を帯び、いまや顔すべてが赤い。


「今度は察してくれたか?」


 彼はぎこちなく顔を上げて彼女から目を逸らし――分かった、と告げた。

 風が吹いて、河川敷のねこじゃらしが前後に揺れた。

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