青信号が落ちていた

こんにゃくねこ

第1話

祖父が遺した山林で散歩をしていたら、青信号が落ちているのを見つけた。


一見ふつうの歩行者用信号機に見えるが、奇妙な点が二つある。

ひとつめは、ここが道路どころかまともな通り道すらろくにない林の中であることだ。私有地の山林に信号機があることは不自然だ。

家電が不法投棄されているのは見たことがあるが、信号機の不法投棄というのは聞いたことがない。重たくて大きい公共のものを誰が捨てるというのだ。


もうひとつ、もっと重要なことだが、青信号が落ちているはずはないのだ。信号機が落ちているのならわかるが、青信号が落ちているはずはない。

信号機というものはその名の通り機械であり、ふつうは電源なしには動作しない。電池の類に接続されている様子もなく、本体の部分だけがただ鎮座している。

しばらく好奇の目で眺めていたら、突然点滅を始めた。数秒後、 赤信号になるかと思いきや、意外にも青信号に戻っただけだった。3つ目の奇妙な点が追加された。故障しているのだろうか。


このように不思議なものではあったが、俺はあまり興味がなかった。

バッテリーかなにかが内蔵されている信号機が故障のために取り外され、それがなんらかの理由で祖父の山林に捨て置かれたとすれば説明がつく。

どんな仕組みになっているかは多少気になるが、そこそこの重さがあるため家に持ち帰って観察するわけにもいかない。

俺は携帯で写真を取り、その場を去った。


翌日、俺は同じ場所を訪れた。周囲の風景に似合わない人工物が相変わらず鎮座している。

しばらく観察してわかったことは、この青信号は数分に一度だけ、数秒間点滅すること。赤信号のランプがつくことは決してないこと。裏返したりしてみても電源ケーブルは見当たらない。

どうにか分解して中身を見ることができないかと触っていると、信号が点滅し始めた。

数秒後、信号が赤に変わった。


視界が黒く染まる。身体が動かない。

なにか恐ろしいものが通り抜けるような、そんな感覚だけがあった。

空間が歪み、物質の三態のどれにも当てはまらないような無数の存在が俺のそばを通り過ぎる。

空気と混ざりあったそれらはかすかに温かみを帯びている。血の匂いがする。不快感と恐怖をどろどろに煮詰めたような感情が俺を襲う。吐き気がする。脳が激しく揺れ動く感覚がする。地獄というものがあるとしたら、このような感じなのだろうなと思った。

そもそも金縛り状態で動けないが、それと同時に少しでも動いたら闇に呑み込まれて死ぬという直感もあった。

身体の自由を許されないまま、責め苦は数分間続いた。


───


信号が点滅し、青に変わる。視界が元に戻る。今のはなんだったんだ。

感情を強く動かされているときは時間が長く感じるというのはよく聞く話だ。こんなにも長く感じる信号の待ち時間はなかった。

深呼吸して、高まりきった心拍数を落ち着かせる。

青信号が再び点滅を始め、怖くなってその場を離れた。


後日、半信半疑の友人を呼び出して、例の信号機のもとを訪れた。

あの時の恐怖体験は残っており、俺はあれ以来一度も触れていない。

「あれか。信号機をこんな近くで見るのは初めてだ」

先日の悪夢に再現性があるのか知りたいが、俺は怖くて触れないのでやってみてほしいと告げる。

「幻を見せる信号機なんて、そんなのあるわけないだろ」

彼は躊躇なく信号機に触れてみせる。視線を合わせようとしない俺を見て笑う。

「本当だって」

「どうせ夢だろ。ビビんなよ」

明かりがチカチカと点滅をはじめる。

「えい」

彼は俺の手を強引に引き、信号機に触れさせた。


───


ひどい目に遭った。結果として、二人一緒にあの最悪の体験をした。

黒く染まった世界で二人きり、微動だにできないまま正体不明の恐怖に襲われた。

元に戻った友人はしばらく口をパクパクさせたあと、

「これを俺一人に味わわせるつもりだったのか、ひどいな」

と声を発した。

俺は謝罪しつつも、彼も俺を無理やり引き込んだのだから同罪ということになった。

この信号機が何なのか、どうするべきなのかを話し合った。

最初は、触れた者に対して点滅している間に幻覚を見せる信号機なのだと思った。

しかし、それは正確ではなかった。点滅する前に腕時計を信号機の上に置いておくと、点滅が終わる瞬間に秒針が大幅に回転した。

つまり、あの恐ろしい時間は、実際に存在するのだ。赤信号の間、触れていない人はそれを認知できないだけで。


俺たちはこの信号機を放置することにした。

簡単な話だ。触れなければ何もないならば、触れなければいい。

信号機を別の場所へと運び出すことはできないことはないが、それをしたところで何かいいことが起こるわけでもない。車が通れるほどこの林の道は整備されていないし、点滅している間の直接接触を避けながら運搬するのは面倒だ。


そんなわけで、今日も俺の散歩ルートであの信号機は光っている。

ふと、この信号機はこの世界を守ってくれているのではと考える。青信号の間は自由に動けるように、赤信号の間は俺たちが恐怖に呑まれないように時間を止めてくれているのではないかと。

俺は優しい青緑色の明かりを眺める。初めて見つけた日の写真と見比べてみると、若干光が弱まってきている。

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