フラハ越冬記

藤井咲

全編

 「ここからあの国に入ることが出来る。行け、そして二度と戻るな。」

国の信仰の対象であるウィズダム=マウンテン=レンジを前に褐色の肌を持つ男は少年に厳しい声をかけた。男の視線は麓で行われている戦いに向いている。太古から存在する山脈地帯を舞台に、磨かれた武器を持つ青い制服の男達と、粗末な武器で対抗する男達が凄惨な戦争を繰り広げていた。

「この国の惨状が見えるだろう。消えるんだ、フラハ。」

フラハと呼ばれた少年は顔を固くし強い拒絶を全身から漂わせる。

「嫌です。僕はこの国で生まれた正真正銘この国の民です!僕も戦います。お願いします!」

少年は濃いブラウンの瞳を苦しそうに歪ませ男に土下座する姿勢をとった。地面に手をつけた少年の視界に白く透けるような肌色がうつる。馴染みの色が今は憎らしくぎゅっと目を瞑った。

「ならば死ね。」男はようやく少年に視線を向けると残酷に放つ。

頭を地面につけた少年の顔を蹴り上げ左胸から短剣を大げさに取り出すと心臓に向けた。刃に細かい模様が刻まれた美しい短剣が二人の揺れる瞳を映す。

「選べ!!死か生か、どちらだ!!!」

耳を劈くびりびりとした咆哮に少年は喉をひくりとしゃくりあげ、次いで涙を溢してしまう。決壊した眼球の泉が少年の顔を濡らし止まることなく流れ続けた。

「餞別だ、持っていけ。二度とウィズダムを越えるな。全てを忘れろ。」

男は短剣をぞんざいな動きで投げ捨てると地に伏したまま動かない少年を置いて山の中腹を離れていった。少年は鈍い動きで短剣を拾い上げ山の奥へと消えた。




―――――――――――――




 イクイティー・アル国に住む民の一日は砲撃の音から始まる。

十年前に起きた隣国デザートサン国民による暴動は世界に激震を与えた。王権制を嫌った国民が王族虐殺を行い、その場に居合わせたイクイティー・アル国の良心といわれた元外務大臣を殺害したことで西側戦争の幕開けとなったのだ。『理由なき反抗』と呼ばれた暴動は世界中からバッシングを受けた。短絡的な行動と軍力の差から短期決戦と思われたが、デザート・サン国の同盟国でありイクイティー・アル国の真下に位置するスウェイ・サンディー国の参入により風向きが変わり長期戦へと変化した。現在もウィズダム山脈を挟んだ三大国は緊迫状態を続けている。

戦争開幕後から長く首相を務めるイクイティー・アル国現首相のジョージ・ドラモンドは「国民を守るための措置」として総国民守備制度を唱え、新第二次デジタル革命へと尽力することで評価を得た。新第一次デジタル革命で採用された手の甲への印字を改良し、印字を入口に見立て体に液体端末を仕込むことで国民の管理を行う。生まれた瞬間に手の甲に焼かれる印は国民の戸籍を保証するものだ。貴族の紋には花が咲き、庶民には蕾がなる。採用されて日の浅い体系は改良する点も見られるが他国も導入を検討し始めているそうだ。

今日戦争をしていない国は少なく、世界中で戦争孤児は増え続けている。



 「今日もよくやるわねえ。」

オーリアは部屋の窓を閉めて深呼吸をすると長い赤毛を乱雑に縛り上げぐっと伸びをした。両目の際に一つずつほくろがあるヘーゼルナッツの瞳は、遠くに見えるグッドウーズ河とウィズダム山脈を眺めている。

 彼女の住むビルは国の中心街から少し離れた北ピュレパークの庭園を抜けた位置するパラダイスタワーだ。緑に囲まれた六つの高層タワーはイクイティー・アル国最大の歓楽ビルで元々はブルーハウスとして低所得者を救う国営住居として建設された場所だったが、私営化が可能となった現在、パラダイスタワーと揶揄され娼婦の仕事場兼自宅として大部分が使用されている。

 オーリアは部屋を簡単に清めてからタワーを出て三十分程歩き小高い丘に登った。耳元で大きな金輪がしゃらしゃらと音をたてる。名もない丘に着くとベンチに座る男が見えた。薄汚れた白いマントを纏い白に近い髪を刈り揃えた男はこの国の平均より小柄で痩せ型だ。

「おはよう、レオ」

「おはよう、オーリア」

オーリアはレオの隣に座ると慣れた手つきで朝食を取り出す。彼らが共に朝食をとるようになって既に一月がたっていた。

 二人が出会った場所はこのベンチだ。散歩中のオーリアが、くたびれた様子で座り込んでいるレオを発見し声をかけることで始まった。一月前のレオは頬がこけ目が窪み、オーリアは彼をジャンキーだと警戒した。しかしあまりの憔悴っぷりに言葉をかけると、見た目とは裏腹に丁寧な言葉を使うレオに関心を寄せたオーリアはその日から何かと世話をやくようになった。

 レオは傭兵兼何でも屋で、オーリアと同じく夜から朝にかけて仕事をすることが多い。レオの手の甲にはオーリアと同じ蕾が印字されている。身なりや言葉の節々からお互い戦争孤児であると認識し、助け合っていかなければならないという義務感が強かったオーリアだが、今では胸に小さな熱が灯っている。仕事中のオーリアは比較的おしゃべりだが、朝のこの時間は静かさを受けゆったりと流れる雲を見ながら心地よさに身を委ねた。


 オーリアは朝食に感謝の言葉を告げるレオに軽く手を振りながら話を仕掛ける。

「ね、うちのガードマンになる話考えてくれた?悪い話じゃないと思うの。信用できる男手が欲しいってうちのママも言ってたから私が話を通すわ。最近はプルーティが来るのも増えて、あいつら金を払えば何でもしていいと思ってるの。ほんと、金だけのカメムシ貴族連中って嫌よね。まあだから、そういう奴らの抑止力になってくれたら嬉しいのよ。そしたらタワーの一室にレオも住み込みで入ればいいわ。」

オーリアは住居もあやふやなレオを定職につかせようと画策していた。

「今の生活に不満はないよ。気持ちだけで充分。」

眉を寄せ申し訳なさげな顔を見せながらもレオはきっぱりと言った。

「―もう、頑固なんだから、悪い話じゃないのに。いつか野垂れ死ぬわよ。」

腕を組みながら溜息をつくオーリアにレオは苦笑を返す。

「じゃあ、またね。おやすみ。」

オーリアはレオの両頬にチークキスを済ませるとパラダイスタワーの方角へ戻って行った。

 


――――――――――



 レオはオーリアが見えなくなると反対方向へ進み彼もまた寝床へ歩き出した。ダウンタウンに降りたレオはマントを深く被り誰とも目を合わせず裏道を進む。埃っぽい路地にいる出店の男や、足元がおぼつかない者から野次を受けるが、構うことなく足早に通りを抜け住居についた。三階建てのレンガ造りの建物は所々壁が欠けていてビニールシートが窓代わりだ。同じような建物がここら一帯に密集していてメッキの階段が迷路のように重なり合っている。レオの部屋は八人の相部屋でベッドのみが置かれた狭い部屋だ。今の仕事は住居を用意してくれるので有難いがその分給料は低い。しかし住居込みでない仕事だと道端で眠ることになる。レオは眠っている者たちを起こさぬよう静かにベッドに入り力を抜いた。

「まるで死人だ。」ぽつりと呟くレオの声を拾う者はいない。

 寝返りも打てない小さなベッドで睡眠を済ませると、男たちが起きる音で目を覚ます。レオを含めた下層人は後ろ暗い過去を持っている者や戦争孤児が高い割合を占めている。黙々と最低限の身なりを整え仕事の準備を済ませると、酒に酔った賑やかなダウンタウンを抜け月明かりがぼうっと照らす廃墟に亡霊のごとく入り込んだ。入口が一つだけの暗く密閉された息苦しい場所だ。男たちは持ち場につくと細かい棘を持つ黒い石を手に取り思考を止めひたすらに削る。石が持つ細かい棘がちりちりとした痛みを男達に与えていた。外面の棘がなくなり汗をかいてくる石を機械が吸い込む。一晩中この作業の繰り返しだ。石がどこから採られるのか何に使われるのか、疑問に思うものはいない。皆傍観者だ。石を削る音だけが毎晩響く。

朝が来る前にブザーが響き渡ると作業者達は一斉に機械の前に立ち、コロリと出てくる硬貨を受け取り寝床に戻る。レオは狭い部屋に戻る同僚を尻目に丘へと向かった。

 オーリアと出会ってからレオは丘での時間を唯一の楽しみにしていた。自分の目をしっかりと見て反応をくれるオーリアがレオの心に居座るのは当然の流れだった。自身に巣食っていた他者への警戒心と軽蔑、そして自己嫌悪が、彼女と話す時間だけは薄れた。二人の始まりから季節は巡り、いつの間にか馴染みの丘は花で溢れている。途中、レオは紫の花を可憐に連ねたラベンダーを見てそれらを何本か摘み、草の葉で縛って簡素な花束を作った。喜ぶオーリアを想像する時間は苦痛を感じなかったが、その日オーリアはいつまでたっても現れなかった。次の日も、その次の日も姿を現さないオーリアを想い、レオは猛烈な恐怖に襲われた。人が突然いなくなることは当然だと、長い経験の中で学んだ筈だったが、オーリアに対してはどうしても割り切ることが出来なかった。意を決したレオはいつも戻る道を引き返すことなく、パラダイスタワーへ続く道を選ぶ。初めて近距離で見るタワーは圧巻の一言で、レオの身近にあるどの建物より美しく秩序を保っているように見えた。入口を抜けると吹き抜けの天井から明るい陽がさし込み、調度品が品よく置かれている。受付と思われる開けた場所に一人の女が見えた。

「すいません、」

レオが話しかけると女は真っすぐな長い黒髪を肩に流しながら振り向き口を開いた。

「はい、どうぞこちらへ。どのような子を御所望ですか?」

正面からレオを見つめる上品な婦人は動作が全体的にゆったりとしている。婦人はレオの風貌を一瞥すると悩んだ顔を見せながらディスプレイをスライドさせた。

「失礼ですが、お客様ですと選べる子が限られるかもしれませんが、そうですねえ」

女を買いにきたと勘違いされている事実に気づきレオは慌てて口を挟む。

「あの、人を探しています。オーリアという女性をご存じでしょうか?」

レオの言葉を聞くと婦人は一気に雰囲気と口調を変えた。

「ああ!あんた、レオ?レオでしょう!オーリアからよく聞いてるわ。私はサロメ。顔をよく見せて。」

「サロメ、どうぞよろしくお願いします。レオです。」サロメに言われるがままマントをとり顔を見せた。

「ガードマンをやってくれそうな信用出来る男がいるって聞いてるわ。顔も悪くないわね、私の好みではないけど。オーリアなら第三タワーの最上階よ。会いに行ってあげて頂戴な。あの子、ひどく落ち込んじゃってるから。」

サロメはそういって第三タワーへの道順を早口で伝えるとレオにウインクした。


 サロメに言われた通り道を抜けると、滑らかな銀色の壁の上に大きなⅢが見え重厚な扉は鈴の音と共に開き、見事な花瓶とそこから飛び出る藤の花がロビーの真ん中でレオを迎え入れる。むせかえる程の芳醇な香りが漂う。建物内はエレベーターが四方にあり、全て違う花の模様が描かれている幻想的な内観だ。エレベーターの前にたつと自動的に開き、入ると動き出す。客を目的の部屋へ届けるため、全自動式を導入した徹底ぶりにレオは感心した様子を見せた。エレベーターの扉が開くと慌てたオーリアが現れた。

「レオ!突然どうしたの?」

オーリアは事前に連絡を受けていたのか驚きながらも嫌な顔は見せず、現れたレオに駆け寄る。しかしレオはオーリアの問いかけを無視して悲しそうに問いかけた。

「…髪を、どうしたの?」

波打つように美しく整えられていたオーリアの赤毛は、顎のラインでばっさりと切られている。

「ああ、これ。ちょっと下手をうっただけよ。まあ、長くて引っ張られることもあったから、切れて良かったかもしれないわ。似合うでしょ?」

「下手をうったって?怪我は?何があったの?」

常度と比べ踏み込んでくるレオに驚き、オーリアは少し距離をとった。

「いいじゃない、別に。レオには関係ないことよ。丘に行かなかったのは少し体調を崩していただけ。ごめんね、ずっと待ってくれてた?」

視線を落とした後、誤魔化すように媚びた笑顔を浮かべたオーリアにレオは苛立ちを覚える。

「そうだよ、ずっと待ってた。オーリアに何があったのか心配で、―凄く、怖かった。」

真剣な眼差しでオーリアを見つめるレオは、渡しそびれたラベンダーの花束を胸元から取り出した。

「これを君に。…確かに、僕には関係ないことだ。突然来てごめん。もう帰るよ。」

オーリアは差し出された花束を胸に抱え、鳥のように飛び跳ねそうな心情を隠しながらレオを引き留めた。

「レオ、お願い行かないで。ひどいことを言ってごめんなさい。ね、お茶でも飲んでいって。」

オーリアはレオの手を引き、窓辺に置かれた小さなテーブルに招いた。眉間の皺をくずすことはなかったが、レオはオーリアの言葉に従い椅子に座る。窓の外で旅ガラスが飛翔していくのが見えた。レオがこの国をこんなにも高いところから観たのはこれが初めてのことだ。

オーリアは小さなコップに水をいれ花束を浮かべるとにっこりと笑う。そして冷蔵庫から食材を取り出し、あっという間に美味しそうな朝食をレオの前に並べた。

「三日しかたってないのに、すごく懐かしい気分。食べましょ。」

二人は丘での日常を取り戻すように朝食を共にした。


二人は朝食を終えても動こうとはせず、お互いを意識しながらぽつりぽつりと会話を交わす。

「―最近、昔のことをどんどん忘れていくんだ。子供の頃の記憶が思い出せなくて、少し寂しい。」

レオは独り言のように呟き、自分の発した言葉に瞬きをしたが言葉を続けた。

「でも、オーリアといると幸せだったころの感覚を思い出す。」

オーリアは真向かいに座るレオに柔らかく頬を寄せ立ち上がった。

「特別に私の幸せをおすそ分けするわ。」

キッチンの棚からとりだした小さなオーディオから、同じフロアに眠る女たちを起こさないように音を絞って流すそれは、繊細なピアノの音が粒となり二人を微睡んだ朝の花明かりに連れて行った。秘密を交わす儀式に招待された気分のレオは決意を胸にオーリアの耳元で囁く。

「僕が君を守る。悲しい思いをしないように、守らせて。」

レオはオーリアの短くなった髪を優しく包み愛をのせた眼差しを向けた。オーリアは目を見開くと顔を赤く染め、娼婦とは思えぬない程の恥じらいを見せ目を忙しなく動かす。

「ほんとうに、全然気にしてないのよ。ただ、前に私の髪を褒めてくれたのが嬉しかったから、レオに見せるのが少し悲しかっただけで、ほんと、全然気にしてなかったんだけど、」取り乱しながらも言葉をつづけようとするオーリアの目から一粒涙が溢れ、彼女は言葉を紡ぐことが出来なくなった。細い体をレオに預けたオーリアは時折息を飲み込みながら泣きじゃくり目の前の男に縋りついた。その日のうちにサロメと話をしたレオは晴れてパラダイスタワーの仲間入りを果たすこととなる。


 レオはダウンタウンの建物に戻り、手早く自身の荷物をまとめると誰とも言葉を交わすことなく寝床を去った。一晩寝ていない筈の頭は冴え渡っている。

パラダイスタワーに再び訪れたレオはサロメに言われるまま第五タワーへ向かった。娼婦達の住む建物の日陰にすっぽりと覆われ、壁にはペイントされた文字や妙に上手いイラストが隙間なく描かれている。レンガ門の前で巻き煙草を吸いレオを待ち受けている二人がガードマンのローマンとゲイリーだった。ローマンは茶髪の巻き毛が特徴的で髪の毛と髭が繋がっている熊の様な男だ。図体もでかく迫力がある。ゲイリーは東系の顔立ちで神経質そうな雰囲気を感じた。

「ローマンだ。よろしく頼む。こっちはゲイリー。あまり喋らないが頼りになる。」

「レオです。どうぞよろしくお願いします。」

「早速だが仕事内容を教えようと思う。まずは、部屋だな。」

ローマンは煙草の火を靴底で消すと案内を始めた。第五タワーは一階のロビーががらんとしていて古びた匂いが充満している。エレベーターはあるが故障しているらしく、裏口にある非常階段を使って上がった。ローマンという男はレオを部屋に案内するまで口を閉じることはなく、非常階段ですれ違う住民たちにも慕われている様子だ。五階につくと絨毯が張られた廊下を進んでいく。壁はひび割れている部分も多く、手入れはされていないようだった。

「ここだ。」

ローマンが開けた部屋の中では子供たちが各々過ごしていてレオに不躾な目線を送ってくる。

「ローマン、誰、こいつ」

リーダー格のような少年が憮然とした様子で話しかけた。

「レオだ。今日から警備につくことになった。よろしく頼むぞ、先輩。」

ローマンは少年の肩を軽く叩くとにっこりと笑いレオに目配せをする。

「お世話になります。レオです。」

嫌に丁寧なレオの反応に少年は眉を曲げながら口を開く。

「オ―リブだ。ここはお前をいれたら十二人の相部屋だ。ベッドはそこ、妙なことするんじゃねーぞ」

第五タワーの住民はほんの一握りの娼婦の子供と昔から住んでいる者、警備や雑用係といった従業員が占めているようだった。綺麗とは言い難いがレオが住んでいた場所よりも間違いなく力に満ちている。レオは彼らにパラダイスタワーに住んでいる自信というものすら感じた。

「ここは、賑やかですね。」

レオが小さく溢すとローマンは破顔する。

「そりゃそうだ、生きてるやつはうるせえ」

笑うローマンにレオも笑った。


 「仕事内容といっても難しいことはしてない。基本的に夜警にあたるのは第二から第四で、問題がないか歩き回る。さっき渡したIDチップでエレベーターの操作が出来るから使ってくれ。第二から第五まで使用可能だ。何もなければよし、何かあれば対処する。第二は非常事態用ブザーがついてるから鳴ったらかけつける。第三、第四は問題が多いから重点的に見た方がいい。安い女を買うのは金がない奴らだ。金がない奴は加減を知らない馬鹿が多いからな、問題も多くなる。庶民らの対応は俺たちの判断でやっていい。花か蕾か瞬時に見分けろ。あまりないが、もし花が問題を起こしたらサロメの出番だ。サロメの指示があるまで手も足もだすな。絶対にだ。ジャンキーは第四にしか通さないが、もしそれ以外の場所で見かけたらそいつは出禁だ。一月もたてば慣れるだろうから上手くやってくれ。俺らは毎晩交代で第一のゲートに立つから実質自由に動けるのは二人になるな。…それと、お前オーリアの紹介だってな?仲良きは良いことだが、あまり泥濘にハマるなよ。ここにいれなくなるぞ。」

ローマンは緑の瞳をレオに向け忠告するとその場を後にした。



――――――――――――



 月が雲をくぐり朧げな闇が広がる頃、パラダイスタワーはネオンライトに包まれる。

庭園を抜け現れる客は予想を遥かに越えた数で、男も女もこの爛々と光るタワーを目掛けやってきた。ローマンがドアマンの今夜はゲイリーとレオが組み見回りを始めた。用意された黒服に身を包んだレオが見回りを一周する頃には、第二第三は満室状態になっている。勿論、オーリアの部屋にも客が訪れていた。レオは胸に引っかかる気持ちに見て見ぬふりを決め込み、見回りを続ける。このパラダイスタワーを動かしているのは金で身体を売る女たちだ。

第四タワーで女に暴行を始めたすえた匂いのする男を捕まえ、レオの初仕事の幕は閉じた。小柄ではあるものの身軽さで相手を鎮圧したレオをゲイリーは一先ず認めたようだ。傭兵での経験が役に立ちレオは初めて昔の仕事に感謝した。朝を迎えたパラダイスタワーは夜の狂騒を忘れ、ひっそりとそこに存在する普通の建物に変わる。

レオは期待以上にガードマンという仕事をこなし、毎朝オーリアの部屋で朝食をとった。二人の仲はパラダイスタワー公認になっていて周りの人間には上手くいっているかのように見えたが、実のところ痰が詰まったようなぎくしゃくとしたものに変わっていた。 


 仕事が終わりいつものように第三の最上階へ向かおうとするレオは、エレベーター前でサロメに鉢合わせた。

「おや、レオ。仕事はどうだい?第四の女があんたを褒めてたよ。」

「問題ないと思います。」

サロメはおかしそうにレオを見て言った。

「あんた、その言葉どこでおぼえたんだい。もう少し崩さないといつかバレるよ。特にプルーティ連中を相手にする私には通用しないよ。」

サロメはそれだけ言うと狼狽するレオを気にすることなく第三タワーから出ていく。レオは震える心臓を落ち着かせるように深呼吸を繰り返し繰り返し行った。ぶわりと出た冷や汗がシャツに陰を落とす。上昇を終えたエレベーターの扉が開き、レオを迎えたオーリアは異変に気付いた。

「どうしたの?酷い顔色だわ。入って。」

オーリアはレオをベッドに寝かせようとしたがレオは頑なに拒み、少し疲れただけだからと窓際の椅子に座った。

「頑張り過ぎて疲れたのね、きっと。」

オーリアは自分を納得させるように言うとレオの隣に椅子をずらし寄りかかるよう言った。

「―オーリアは、どうして娼婦になったの?」

迷子の声でレオが尋ねる。オーリアは一瞬憤懣やるかたない気分に陥ったが、あまりにも弱っているレオを見てこの男に優しくしたいと感じた。

「それしか出来なかったのよ。」

「でも君は優しくて強くて、料理だって上手いし、どこでだってやっていけるよ。」

本気で思っている声色のレオにオーリアは露骨に嫌な顔を見せる。

「戦争孤児が出来ることなんてたかがしれてるわ。ましてや人間らしく生きたいならなおさらよ。あなただってそうでしょ。―私は両親の顔を見たことがない。私が覚えられないくらい小さい頃に彼らは死んだって聞いてる。私の記憶はきったない施設から始まるの。私みたいな子供がうじゃうじゃいて、皆泣いてもしょうがないって子供の頃から理解してた。目だけがぎらぎらしていつも飢えてたわ。…男女の垣根がない頃はまだ良かった。皆で協力し合って、最悪な施設の中で生き残ろうとしてた。でもほら、私ってこのとおり綺麗だから。体が成長期に入ると厄介ごとも増えていったの。気持ち悪い目で見てくる今までの仲間が心底嫌いになったわ。でもなんとか自分の身は守ってた。自分の身は自分で守るしかないけど、使えるモノは使うべきだわ。でも、結局施設に売られた。最悪な施設はやることも最悪ってね、私のいた施設は金持ちに処女を売って成り立ってたわ。売られた子たちがどうなったかは知らない。だから、誰かに使われるくらいなら私が私を使ってやるのよ。施設から逃げてこのパラダイスタワーに来て娼婦になった。ママは善人じゃないけど私にとっては充分な人よ。私は自分に誇りを持ってる。…だから、私を好きなら娼婦の私も受け入れて。」

オーリアは強い信念を瞳に浮かばせレオを見つめる。愛する女が身体を売ることの不条理を嘆く男の気持ちを賢い女は敏感に察していた。

「負けちゃ駄目なの。私は私の足で立たないと私じゃなくなるのよ。お説教なら聞かないわよ。」

オーリアは敵を前にするように体中に力を入れいきり立っている。

「お説教なんてしない、…君はかっこいい。それに、綺麗だ。君は綺麗だ。強く生きようとする君は僕には勿体ないほど美しい。それに、泣き虫なところは可愛い。」

レオがオーリアの顔を覗き込むと彼女は顔をくしゃくしゃにさせて涙を我慢していた。オーリアはレオの胸の中で首を振り、男の背中に腕をぎゅっと回した。

「僕は正直オーリアが他の奴らに触られるのは嫌だ。嫌だけど、それが君の決めた場所なら、君がそこで戦っていくって決めたなら僕も君とここにいる。君をここでずっと守る。―これを持っていて。お守り。」

レオは愛を語る一方で、彼女を愛することを許してほしいと幼い頃の思い出を忘却し祈る思いでオーリアに思いを告げた。細かい模様が描かれた木製のケースに入った短剣をオーリアは受けとり胸に抱く。

「―オフィーリア。私の本名よ。オーリアは芸名なの。呼んで、私の名前。レオに呼んでほしい。」

「…、オフィーリア。」

二人はぴったりと合わさりあふれ出る愛を知った。窓辺には乾かされたラベンダーが二人の幸せを主張するように揺れている。




 イクイティー・アル国の中心に聳えたつ歴史的建造物、サウザライド宮殿では上院、下院、野党が集まり議会を開いていた。首相のジョージ・ドラモンドはトレードマークである広い襟をこの日の為に新調したそうだ。その横に控える副大臣ヘンリー・ラトランドは微笑みをたたえながらカールした金髪を後ろで縛り真上に見える時計を見据えている。ステンドガラスで出来た美しい天井から光が指し、まるでスポットライトをたいたかのように壇上が照らされていた。一二時の鐘の音が宮殿に鳴り響き、煌びやかなマントが一斉にその場に広がった。議会が始まり首相が登壇すると軽やかな拍手が至る所から送られる。

「諸君、女王ヴァイアリー二世が前外務大臣の服喪に入り、長き時が巡った。この場に女王がいないことは悔やまれるが、心痛の我らが女王の為にも我々で我が国民たちを守っていかなければならない。昨今の新第二デジタル革命により我がイクイティー・アル国は技術革新を進め、それがようやく身を結ぶ形となった。我らの良心であった前外務大臣の記憶映像が解析可能になり、この戦争の発端となった人物を洗い出すことに成功したのだ。―この男だ。理由なき反抗の発起人であり、デザート・サン国から姿を消した男。この男こそ世紀の大罪人である。本日よりこの男の国家指名手配を行う。必ずこの国にいるはずだ。この男を見つけることで今現在も民を苦しめている戦争が大きく戦局を変える。我が国民の溜飲もようやく下がるだろう。私はこの男を捕らえ、罪を認めさせる。そして私たちの正しさを認めさせ、戦争を終わらせる。賛成の者は拍手を。」

首相の声は自信に満ち、その場を支配した。ほとんどの出席者は手を叩き目を輝かせている。下院トップのノア・デュランだけが冷静にこの事態を見極めようと動きだした。


 閉会し人がちらほらといる広い宮殿内を一人の男が目当ての人物を探し歩く。

「ラトランド副大臣、少しお時間よろしいでしょうか?」話に割って入るノアをラトランドは一瞥した。周りの者たちに挨拶を終えるとようやく向かい合う。

「ノア、君の人気は聞いているよ。私に何か用事かな?」

そう言いながら二人は花の蔦が伸びる壁画が美しい廊下をゆったりと歩き、人気の無い古びた噴水のある庭園で立ち止まった。

「お聞きしたいのは、先ほどの国家指名手配のことです。気になったのですが、ラトランド副大臣は首相と共に前外務大臣の記憶映像をご覧になったということでよろしいでしょうか?まさか証拠もなく首相の仰ることを鵜呑みになさっているわけではありませんよね?」

「勿論です。この目でしっかりと拝見いたしました。」

ラトランドは表情を一切動かすことはせず、淀みない声で答えた。

「では、その映像を私にも見せて頂けませんでしょうか?この目で真実を全て見たいのです。」

ノアは真剣な眼差しで少し背の高いラトランドを見上げながら言うが、ラトランドは一拍間をおくと残念そうに首を振った。

「申し訳ありませんが、それは出来ません。あれは国家の機密保持の部類です。下院のトップとは言え、その申し出は少し大それたものだと思われますよ。」

「―では、女王は?女王はその映像を確認したのですか?」

ラトランドは背を向けていて表情が見えない。

「女王は服喪中で公務を放棄しておられる。原因となった前外務大臣の記憶を見せるだなんて、彼女を刺激することと同じです。女王には心健やかに休養して頂かなければなりません。ノア、戦争が終わる一端を掴んだのです。そう穿った観方をせずともよいではありませんか。」

副大臣はノアの強い視線をちりちりと背中に感じながら歩き去った。

 その日のうちに国家指名手配犯の顔写真が発布され、報道やあらゆる媒体で大々的に取り上げられることとなった。写真の男は茶髪と茶目の男で、当時の写真と成長したことを想定した写真のどちらも提示されている。男の名前はフラハ。世紀の大罪人として全世界に拡散された。

「レオ、これちょっとお前に似てない?」

オーリブはパラダイスタワーの相部屋でからかうように手の甲から光るスクリーンを見せた。

「なにこれ?」

「世紀の大罪人!戦争の発起人!俺らの今を作った悪魔だ!」

ふざけるように言って見せるオーリブだが本気の声色であることが感じられる。レオはごくりと唾を飲み込むと大笑いして見せた。

「似てないよ。それに、僕がこいつだったら悠長にこの国にいないよ。」

「それもそうだね、ちょっと画像荒いし、デジタル革命とかいっても使う奴の頭が悪いと全然意味ねーよな」

オーリブはもう興味がなさそうに違う記事を読み始めている。レオはそっとその場を離れた。


 (どうして、どうして)

レオは湧き出てくる汗を拭いながらオフィーリアの部屋へ急いだ。指名手配の写真は間違いなくレオの、いや、フラハの写真だった。過去に捨てた名前が今を生きるレオに駆け足で襲ってくる。レオは事態を全く把握出来なかった。何故今更になって自分の顔写真と共に指名手配が始まったのか、自身の罪になんの心当たりもなかった。彼の中に鎮座する自責の念に当てはまるものは、自分はただ傍観していたという事実だけだ。それは指名手配されるほどの大罪とは思えなかった。オフィーリアの部屋に入ると彼女は手の甲から映像を広げ報道を見ている最中で可愛そうなほど顔色が悪い。

「オフィーリア、オフィーリア、僕、」

「これはあなた?…ねえ、これはレオなの?」

オフィーリアはレオと指名手配犯の写真を見比べて動揺を隠せないでいる。

「違う、僕は」喋ろうとするレオにオフィーリアは捲し立てた。

「違くない。茶髪で髪形も違うけど、でもこれはレオよ。あなたのこと見てきた私が間違えるわけない。フラハって誰?あなたレオじゃないの?私のこと騙してたの?!蕾の印字は?!あれも嘘なの?!」

レオはパニック状態のオフィーリアに近づいた。

「オフィーリア聞いて、お願い、落ち着いて。」

「落ち着くなんて出来るわけない!一度も端末を使わないなんて変だとは思ってたのよ。それ、ただの印なんでしょう?ねえ、全部偽物なの?答えてよ!!」

オフィーリアはレオの手を汚らわしいといわんばかりに振り払う。

「―そうだよ、フラハは僕だ。でも今はレオだ。君を愛してるレオだ。それでいいじゃないか。」

レオの言葉にオフィーリアは泣きだす寸前の顔を隠し猛烈な怒りを燃やした。

「警察に突き出すわ」

「待って、一度僕の話を聞いてくれ。警察に突き出してもいい、その前に君と話したい。」

「―っフラハなんて聞いてない!私はあなたに全部捧げたのに!名前だって、全部全部あげたのに、どうしてこんな報道で恋人の本名を知るのよ!馬鹿にするのもいい加減にして!!愛なんて嘘!戦争孤児だってのも嘘!あんたの存在全部嘘!!」

「戦争孤児だって勝手に勘違いしたのは君だ!僕は一度もそんなこと言ってない!君が勝手に僕を憐れんで餌付けした!…、聖人の真似事は楽しかった?君が始めたんだ!」

二人は肩を大きく揺らしながら唯一愛を感じた相手に憎しみを爆発させた。フラハは自分で発した言葉に驚き口を噤むとオフィーリアを気遣うしぐさを見せたが彼女は潤んだ瞳をぎろりと向けた。

「は、そう。それでもね、あんたは私を騙したのよ。世界中が嫌ってるわ、あんたも、あんたの国も。大臣を惨殺した血に狂った民だって!あんた達が暴動なんて始めなきゃ、私はこんな生活しないですんだんだ!っあんたなんて消えちまえ!」

「違う、僕らじゃない、僕らは騙されたんだ、…お願い、僕の声をきいてよ、オフィーリア。」

レオは弱弱しくオフィーリアに懇願したが、突然二人だけの空間に侵入する音がした。

「国家転覆容疑者確認、逮捕。」

現れた多数の憲兵は鮮やかな手つきでレオを拘束し、あっという間に連れていかれた。オフィーリアの部屋は無数の足跡で荒らされ泣き崩れる彼女に駆け寄ったのはサロメだった。


 レオ、いやフラハは憲兵に捕まると目隠しをされたまま連行された。長い間自動車に揺られながらフラハは混乱した頭でオフィーリアと異様な事態について思考を巡らせていた。車が止まると乱暴な動きで降ろされ目隠しをされたままどこかに入れられる。自分の呼吸が反響する狭い部屋は甘いにおいが鼻につく。体が倒れた衝撃で目隠しがとれると同時に扉が開かれ部屋の全貌が見えた。フラハがいる部屋は六角形にかたどられた小さい箱の様なもので、それが大きな広間の一角に置かれている。扉を開けて入ってきたのはこの国の副大臣であるヘンリー・ラトランドであったが、フラハは彼が誰なのか分からなかった。

「ああ、間抜けな顔だ。今から私の質問に答えろ。」

ラトランドは普段見せない厳しい顔を指名手配犯であるフラハに向け強い声を放つ。

「あなたは誰ですか、これは何かの間違いです。僕は大罪など犯していません。」

「お前の意見は聞いていない。ふむ、薬が足りないか?」

フラハは目の前の男に既視感を覚え始めていた。自分をじっと見てくるフラハに、ラトランドは苛立った様子で広間の中心にある装置に手を置きスイッチを押す。すると六角形の空間に蒸気が噴射され、驚いたフラハはなすすべもなく蒸気を肺に吸い込んだ。

「お前はデザート・サン国民だな?」

蒸気が姿を消すと目がとろりと垂れ幸せそうな顔を見せたフラハが口を開く。

「そうだよ。」フラハはくすくすと笑いだす。ラトランドは胡乱げな顔をしながら質問を続けた。

「お前は理由なき反抗によりウィズダム戦争が始まった直後、このイクイティー・アル国に亡命した。そうだな?」

「そうだそうだ、僕はあの戦争のせいでこの国に亡命した」

未だ笑うフラハは幸福の沼に嵌まっている。

「では何故?なぜお前は亡命することになった?国の為に戦おうとはしなかったのか?」

「それは僕が見たから、」フラハは目の輝きを徐々になくし顔を青くし始めた。体は細かく震え、何かを恐れている様子だ。

「ほう、何を、見たんだ?」

「それは、それは、あの暴動が起こってしまった理由、…あ?」

ラトランドは戸惑いを見せ始めたフラハにもう一度蒸気をかける。

「その理由とは?お前は何を知っている?」ラトランドは目を爛々とさせ興奮した様子だ。

「お、王様が、いつも優しいあの方が、この国の人と話してた。僕はそれを影から見ていて?、?」

フラハは蓋をした過去をこじ開けられ目を見開きながら声もなく叫びだす。

「その場にはお前以外いたのか?!その現場を観たのはお前だけか?!!」

過度の薬物投与によりフラハは正気を失い不明瞭な言葉を叫んだ後倒れた。ラトランドはその様子を虫けらを見るように視線から追いやり、とても汚い言葉を吐き部屋を去っていった。

大きな広間に暗闇が広がり、しんと静まった広間にカツリと靴音が鳴る。

そこには非情な密会を目撃した者がいた。

 尋問が起こる前、ノア・デュランは宮殿をうろつく憲兵に胸騒ぎを覚えていた。そして通常は開け放たれている広間がぴたりと閉じられていることを怪しみ、人目を忍び暗闇に入り込んだ。大広間はいつもとなんら変わらない様子に見えたが、ノアの鼻を覚えのあるものが掠った。モルフィウムだ。戦前に使用されていた自白剤で、現在は一級使用禁止薬品に指定されている。ノアは自身のあずかり知らぬところで異常が起こっていることを確信した。ライトをつけ大広間をくまなく調べると一つだけ埃をかぶっていない装飾を見つける。この大広間はかつての大貴族を称え建国を見届けた貴族紋が整然と並んでいる場所だ。緑の聖杯が左右に十杯、中心の馬の鬣を奉るように配置してある埃一つない貴族紋はラトランド公爵家のものだ。ノアが美しく描かれた鬣をなぞりながら思案すると大広間の奥が開きだした。そして現れたのはガラスケースに入れられ後ろ手に縛られている男だった。ノアはすぐに、男が髪色や髪形こそ違えど指名手配犯の特徴にそっくりな事実に気づく。一度状況を整理しようと深呼吸をし逡巡した後、大広間の装飾品の陰に隠れた。

そして異常な興奮を見せるラトランド副大臣の様子と男の証言から、理由なき反抗の裏に何かが隠されている事実に気づく。ラトランドが部屋を出た後、ノアは電照掲示板を操りフラハが閉じ込められているガラスケースを開けた。

「おい、起きろ!」ノアはガラスが取り払われたフラハを起こそうと近づくが、強いモルフィウムの香りに顔を歪ませ、胸元から気付け薬を取り出し未だ意識のないフラハを乱暴に起こした。フラハは顔をぴくぴくと動かすとようやく目を開け一気に酸素を吸い込んだ。

「起きたな!喋れるか?気分は?」

フラハはいきなり現れた金髪の男を朦朧とした頭で認識すると、ようやく自分の状況を思い出した。未だ混乱しているフラハにノアが言う。

「いいか、よく聞け。これは異常な事態だ。お前は国際裁判にかけられることで罪状が決まる筈だ!指名手配されたお前が秘密裏に自白剤を使われるなんて、どんな事態であってもあってはならない。我が国は法治国家、拷問は違法だ!―君はデザート・サン国の暴動の裏を見た、そうだな?そしてラトランドは君から情報を探ろうとしている。それがこの行動の理由だろう。公には出来ない情報を持つ君をラトランドは秘密裏に始末するつもりじゃないのか?つまり、君はラトランドの弱みだ。私はそう睨んでいる。そうなると君が今ここで死ぬのは大いに困る。真相は闇の中、あの男の目論み通りだ。そうだろう?前から怪しいと思ってたんだ、笑顔の下に蛇の様な顔を持っている男だ。」

フラハはじくじくと痛む頭を抑えながら勢いよく自身の見解を伝えてくるノアに光を見た。

「つまり君は、僕を助けてくれるっていいたいのか?敵国の民だぞ?憎くはないのか?」

気まずそうに言うフラハにノアは鼻を鳴らし口を開いた。

「民を守るべきが政治家だ。私の母は常々私にそう説いてくれた。国民が戦争を起こすのか?違う。残念ながら国民にそんな力はない。国の舵を握る政治家が民を免罪符に戦争を起こすのだ、それが昨今の政治状態だ。真実があるのならば、それは間違いなく国を正す。紹介が遅れたが僕はノア・デュラン、この国の下院トップだ。」

そう言ってノアはフラハに握手を求め、フラハは戸惑いながらも握手を返し名前を告げた。嵐の様な男ノアは自分のマントをフラハに羽織らせ逃亡を決める。大広間を抜けたノアは宮殿の中を迷うことなく歩く。その進路に迷いはない。怪しい程にスムーズに進む逃亡にフラハは一抹の不安を感じながらも尋ねた。

「どうして今になって僕の顔が割れたのだろう。何故今になって…?」

歩みの速度は止めずに二人は小声で話す。

「私も詳しくは知ることが出来なかったが、前外務大臣の記憶解析が可能になったといっていた。今にして思えば首相が力を入れていたデジタル革命もこの為なのかもしれない。何もかもが怪しく見えてきて困るな。」

「記憶解析というのはどういった装置なのですか?」

「脳の神経に働きかけて人の記憶を映像化するんだ。たしか死んだ脳には機能しないと噂に聞いたが、ではどうやって前外務大臣の記憶を暴けたのだろうか…?」

「―もし、僕の脳にそれを使うことが出来たら、どうなる?」

「どうなるって、それは、唯一の…真実になる!」

二人は顔を見合わせ、悪戯を思いついたように笑い、丁度宮殿を抜けた所で足を止めた。

「よし、僕は記憶解析装置を君に使えるように手筈を整えよう。機械自体は小さい物だからすぐに持ち出せると思う。一先ず君と行けるのはここまでだ、私はいろいろとやることが増えた。いいか、フラハ。君は今指名手配犯だ。顔を見せるな、追われていることを自覚しろ、誰にも見られない場所で一晩を過ごすんだ。明朝、君が働いていたという工場で落ち合おう。そして君の記憶を覗く。それまで無事でいろ。」

ノアは早口で伝えると来た道を戻り、フラハは濃紺のマントを深く被り人目を忍びながら姿を消した。


 「ヘンリー、蛮人の様子はどうだった。あの男が例の目撃者で間違いないのか?」

大広間から出てきたラトランドを副大臣室で待ち構えていた首相ジョージ・ドラモンドがソファに座った状態で話しかける。

「ええ、間違いありません。ただ、少しやり過ぎたようで正気を失ってしまいましたが一日置けば意識が戻るでしょう。そこで他の目撃者の有無を聞けば終わりです。ようやく私たちの懸念がこの世からなくなり、計画を実行する準備が整います。」

「すぐに殺せばいいものを、回りくどいことをするな。」

「そんなことをすれば下院の馬鹿たちが黙っていませんよ。ただでさえ邪魔なノアがトップに上がり身動きがとりづらくなっています。全てをしゃべらせ廃人にした後、国家犯罪裁判にかけるのが最善でしょう。全ては選ばれた者たちの為。多少の贄は必要でしょう。」

ドラモンドが勝手知ったるといった様子で緻密なカットを施されたグラスを棚から取り出すと、そこに蜂蜜色の蒸留酒を注ぎ旧友に渡す。

「その為の総国民守備制度だ。我らはホモプルーティア。人間と呼べるのは優れた者だけの特権だ。蛆虫のように湧くしか能のないスランバー共といよいよおさらば出来る。出産許可制が通ったことでスランバーの数を食い止めたが、限りある地上は足りぬばかりだ。お前の提案を聞いてるだけで私の地位は上がり続ける。これからもよろしく頼むよ、古き友よ。」

「あなたの外面の良さはまさしく政治家、国のトップに向いています。Pour Y Parvenir貴方のものを手に入れる為に、我が家訓に誓ってこの国の繁栄を約束しましょう。」

グラスを交わし一気に酒を煽った二人は甘美な未来を想い一時の蜜を飲んだ。


 宮殿から逃げることに成功したフラハはパラダイスタワーに向かっていた。ノアの忠告を無視してでもオフィーリアに会って話がしたかった。宮殿から人目を避けパラダイスタワーに到着する頃は深更に及んだ。受付の明かりが煌々と照らされ今夜もパラダイスタワーは豪奢な振る舞いを見せている。フラハは密かに第三タワーを目指した。半日しかたっていないというのに懐かしさを感じる。エレベーターに乗り扉をノックすると普段のオフィーリアより数段トーンの高い声が聞こえた。

「どうぞ、お入りになって。」

言葉に従い扉を開けるとオフィーリアがお辞儀の状態で待っていた。顔をゆっくりと上げる彼女の目に飛び込んできたのは捕まった筈のフラハの姿だ。

「―なんで、」

驚きの余りか細い声を漏らしたオフィーリアはすぐに顔を背けフラハに拒否を示した。

「出てってよ。」

いつものオフィーリアの声色にフラハは安心を覚える。

「―君に何も伝えなくてごめん。嫌われるのが怖くて、君からの拒否が怖くてどうしても言えなかった。でも君を好きになった気持ちは嘘じゃない。全部話すから僕の話を聞いてほしい。」

フラハはオフィーリアに精一杯の言葉を向ける。

「嫌。もううんざりよ。出て行ってったら!」

オフィーリアの強い拒絶にフラハは悲しみと痛みがない交ぜになった瞳を彼女に向け壊れたように放った。

「…、なら、君が僕を暴いてよ。」

オフィーリアは言葉の意味が分からず、フラハの顔を見る。

「確かに僕は敵国の国民だ。でも、僕の記憶を、僕の過去を君が見てくれたら分かるんだ。僕が見たものが、僕が忘れたかったものが、戦争を作り出した原因が。だから、君が僕を暴いて。」

「レオ…?」オフィーリアは目の前の男が誰だか分からなくなった。自分が愛した男なのか、それとも自分をこんな身に落とした戦争をつくった男なのか。

「君があの短剣で僕を殺して、僕の記憶をみればいい。そうしたら、もう一度僕を愛してくれる?」

フラハはオフィーリアの枕元から短剣をとり、女に渡した。

「やって、…やってよ!もう嫌なんだ!逃げることも忘れることも、ようやく手に入れた幸せも結局僕を拒絶する!あの日僕があの場に居合わせなかったらこんなに苦しい思いをすることもなかった!きみは、本当に僕が望んで戦いを始めたとでも…?君は美しいよ。強くて綺麗で聡明だ。そんな君が僕を戦争の原因だと責めた、なら殺せばいい!!君をこの生活に落とした僕を君の手で終わらせてよ!!!!」

フラハは全身から嘆きを伝え膝を折った。悲しみの渦に飲み込まれた男に震える手を差し出したのはオフィーリアだ。孤独を見たオフィーリアはフラハに同情を禁じ得なかった。

「―そうじゃない。あんなに傍にいたのにあなたの信頼を勝ち取れなかった自分が悔しくて、私に全てを打ち明けてくれなかった貴方が憎らしくて悲しかった。ただ、それだけなの。」

胎児を身ごもる母体のようにオフィーリアはフラハを自身の体に包みそっと抱きしめ、フラハは受け入れてくれた事実に静かに頬を濡らした。二人はベッドに身を沈めぼんやりと天井を眺める。

「もう、記憶も朧げなんだ。随分昔のことだし、曖昧なことのほうが多い。―僕らの国は王権制がずっと続いていた国で尊敬する王族たちと国民はとても仲が良かった。国民のほとんどが農民でね、国のほとんどを緑が埋め尽くすんだ。夏の青々しい野菜の景色とか金色にたなびく広大な麦畑とか、毎日がとても美しい国だったよ。皆働き者なんだ。怠け者なんて見たことない。鉱山を使ってもっと国を豊かにするんだって動いてた。僕の生まれた国は世界中が思うイメージとまるで違う。僕は代々王族に仕える家に生まれて、そのことに誇りを持ってた。大人になったら国を支える柱になりたいなんて思ったこともあったよ。…あの日は本当に偶然だったんだ。王宮から出る時、王様の声が聞こえた。あのまま帰れば良かったのにね。お声をかけて帰ろうと思ったんだ。そしたら別の声が聞こえた。内容はひどいものだったよ。僕らが必死になってる横で最高位の尊き方が隣国に横流しをしていた。あの方々は僕たち国民を奴隷だと宣って、国の全ては卑しい身分の者たちに渡す価値のないものだと言っていた。でも今は、それを本当に言っていたのか自分でも信じられない。全部僕の酷い妄想であってほしいとすら思う。とにかく、その時の僕はパニックになってしまって、僕の兄貴分アデルケに相談したんだ。こんな場面に出くわしてどうしたらいいか分からないって。僕は彼に笑って否定してほしかった。でもアデルケは否定してくれなかった。納得したみたいに頷いてた。そこからはなにがなんだか分からないまま国を追い出されてアデルケに言われるがままにこの国に住む母親を尋ねた。物心ついてから会ったこともない母親を必死に探したよ。その時の僕はとにかく誰かに受け入れて欲しかった。僕は取り返しのつかないことを始めさせてしまったのではないか、そういった全てを誰かに話したかった。戦争が始まった直後のこの国は混乱していて入国も容易かったから、すぐに母にたどり着いた。そして言われた。何故来たのか、ってね。」

フラハはその記憶を思い出したように息を飲むと話を止める。オフィーリアは震えるフラハの手を何回も撫で慰めるしぐさを見せた。

「優しいね。―でもこの手の印字を手配してくれたのは母なんだ。自分の息子だと証明して僕をこの国の民にしてくれた。充分よくしてくれた。そこからはオフィーリアも知っての通り、生きていくためになんでもした。そして君に会った。」

フラハはオフィーリアの上に乗り上げると彼女を逃すまいと距離を詰めた。

「君を愛してる。」

祈るようにオフィーリアに言った。

「私もあなたを愛してる。いつか、ただのレオになったあなたと一緒になりたい。」

オフィーリアは哀れな男を認め、猫のようにしなやかな動きでフラハに抱きつく。

雲が満月を横切り二人の行く末に黒い点を残した。


 明朝、隣に眠るオフィーリアを起こさないようフラハは静かに部屋を出た。誰もいない廃墟はしんとしていて冷却装置が使われているのか建物を霞が覆っている。フラハが物陰に隠れているとノアが現れた。

「ちゃんと来たな。」

フラハの姿を満足そうに見るとノアは迷わず廃墟へ足を踏み入れた。二人の足音だけが響く廃墟でノアが木製の椅子を見つけると、そこに座るようフラハに言った。

「いいか、これを眼球に注入して君の脳に収まっている記憶を解析する。私は使ったことがないから痛みがあるのかは分からない。ただ、記憶解析映像は絶対に悪いようにはしない。正式に公的証拠として全世界に公開し君の国の汚名を返上すると誓おう。」

「有難う。…、ノアを動かすのは正義感だけ?」

フラハの記憶を公開することはイクイティー・アル国に大損害を齎すだろう行為だ。それをノアは平気な顔で行おうとしている。

「君は、この国の王族のことを知っているか?君臨すれど統治せず、ただの飾りだ。だが飾りというにはあまりにも、王族の方々は人生の全てを国に捧げている。王族に名を連ねる儀式を境に自身の名を捨て国母であり公僕になる。私は庶民でありながらそういった身の上の人を傍で見ることが多くてね。彼女が彼女の人生を捨てて守っている国が膿を抱えたまま破滅に向かうことが許せないんだ。このまま真実が葬られたらどうなると思う?今はピンチであると共に上下を入れ替える一千一隅のチャンスなんだよ。それが私の元に降ってきた。正義感だけでこんなことが出来る程お人好しではない。」

ノアは長い睫毛をふわりと上げ、金の焦点をフラハに向けた。その目はこの国の誰もが見たことのある面影を晒した。

「信用する。」

手元に置かれた液体装置をフラハは眼球に乗せた。ゆっくりと瞬きをすると何かが流れ込んでくる感覚がする。脳を弄られているような強烈な痛みを感じフラハはあまりの痛さに失神した。


 パラダイスタワーで部屋に太陽の光が満ちる頃、オフィーリアは久しぶりに熟睡したのを感じ隣にいるであろうフラハを無意識に探した。ひんやりと冷たくなっているベッドに、彼がずっと前にこの部屋を出たことを悟った。枕元を探り短剣を抱きしめながら、オフィーリアは破滅を想像することを止められない。フラハは今や指名手配犯でそれが覆ることはないだろう。昨夜のあの時間がフラハとの最後の時間なのか、それともまた自分を尋ねてきてくれるのか、オフィーリアにはフラハを救い出す術がどうしても考えつかなかった。この部屋でフラハを待つことしか出来ない自分に、やはり自分は一娼婦に過ぎないのだと諦めにも似た感情を覚える。こういった感覚はこのパラダイスタワーに入る前によく襲ってきたもので、オフィーリアは自分の生気を搾り取ろうとするそれが大の苦手だった。その場から動くことが出来なくなる虚無はオフィーリアをか弱い女にさせる。

のろのろと一日の準備を始めていると部屋の扉が開く。驚きながら振り向くとそこにいたのはこの国の副大臣として有名なヘンリー・ラトランドが立っていて、後ろにはサロメとローマンが控えている。ラトランドは部屋に足を踏み入れると一方的に扉を閉めた。

「これは、かの有名なラトランド様ではありませんか、私のような者がお姿を拝見できるだなんて至極光栄に御座います。」オフィーリアはサロメに仕込まれた対貴族用の礼節を披露し頭を低く下げた。

「一度しか聞かぬ、昨夜ここに重要指名手配犯である蛮人が現れたな?」

オフィーリアは顔を下げた状態で良かったと思った。思わず震えた表情をみせずにすんだ。澄ました様子で答える。

「客として現れましたが昔の縁ですので、嫌気がさして帰らせてしまいました。お役に立てず申し訳ありません。」

「では、何かお前に言づけたことはないのか?」

「御座いません。」

そういったオフィーリアにラトランドは素早く銃を向け発砲した。体がごとりと大きな音をたてて床に倒れ込むオフィーリアにラトランドは冷ややかな目を向け言う。

「スランバー女が私を欺こうなど死をもってしても許されるものではない。死ぬまで頭を上げることは許さぬ。」ラトランドは部屋から出ると扉の前に立つサロメとローマンに告げる。

「この女は不慮の事故で死んだ。いいな」

「はい、そのように。」サロメは美しくラトランドに笑いかけ、迎車が見えなくなるまで深く礼をした。ようやく動き出したサロメは早足でオフィーリアの部屋に向かう。

「サロメ!いくらなんでもあれを認めるなんて!」熊のように大きな背中を丸めて、サロメと走りながらローマンが抗議する。

「黙りなさい。私はこのパラダイスタワーを守らなければならないの。一人の娼婦の為にここを崩すわけにはいかないのよ。嫌なら出ていきなさい。生と死を毎日見る生活に戻るといいわ。」

サロメがオフィーリアの部屋へ勢いよく入ると、そこには懸命に止血をしているゲイリーがいたが絨毯に染み込む血の泉は広がるばかりだ。

「オーリア、…オフィー、オフィーリア、なんて馬鹿な子。男を庇って死ぬなんて娼婦のありきたりな最後過ぎるわ。オフィー、何故逆らったの、私の可愛い子。」

サロメは大粒の涙を流しながら特別可愛がってきたオフィーリアを抱きしめた。その場には痛いほどの嘆きが響き渡った。


 廃墟で目覚めたフラハは頭にくらりとするものを覚えたが、体に異常は感じられなかった。傍についていたノアの話だと失神したのは一時間に満たない程度で、間違いなく記憶解析映像は手に入れられたそうだ。小さな円柱のメモリーランプを見せながらノアが言った。

「これが君の記憶だ。私はこれを全てみさせてもらう。そして真実を伝える。君に異常がなさそうで安心した。この証拠があれば君の指名手配を取り下げられる筈だ。私と連絡をとりたい時はこの媒体を使ってくれ。全てが終わったら返せ。いいな」

ノアはフラハに小型の通話装置を投げるとメモリーランプをベルベットの箱に入れて廃墟を後にした。残されたフラハは廃墟から出たものの、これからどうしていいか分からなかった。パラダイスタワーに行くことは現在の自分の身の上では躊躇われたし、かといって行く当てもなかった。目的もなく顔を落としながら歩いたフラハが着いたのは名もなき丘で、無意識に丘を目指してしまったようだ。人が来ないことにほっとしながらベンチに座っていると足音が聞こえた。警戒しながら振り向くとそこにいたのはサロメだった。

「サロメ?」この場に似つかわしくない女の登場にフラハは戸惑う。

「今回は通報する気はないわ、これを渡しにきただけ。あの子の最後の頼みだから。」

サロメは彼女らしからぬ鋭い口調でフラハに言葉を投げた。

「これ、オフィーリアからよ。あなたに返してって。」

緩慢な手つきでサロメが投げてきたのはフラハがオフィーリアに渡した短剣だ。

「何故?これは彼女にあげたものだ。何か、何が彼女にあったのですか?」

「―死んだわ。」

フラハは言葉の意味を理解できなかった。いや、理解したくなかった。

「―しんだ、?」

「ラトランドがあなたを探しにうちに来たわ。それで死んだ。もううちには立ち寄らないで。」

サロメが踵を返すのをフラハの腕が止めた。

「何故ですか!彼女が死ぬ理由がない!何故!」

「―貴方をかばったのよ。あなたのせいで死んだんだわ。」

サロメは視線もよこさず憎い男の手を払うと今度こそ踵を返した。フラハは信じられない想いで遠くに見えるパラダイスタワーを見つめ、ゾンビのようにふらふらとした足取りで慣れた道を下りていく。

 フラハがパラダイスタワーに着くと裏手に人が集まっているのが見えた。そこには掘られた地面の中にすっぽりと嵌まった木箱、そしてその中に死化粧を施された物言わぬオフィーリアの死体と無数の蝋燭があった。周りを囲む娼婦や子供たち、そしてサロメ達が祈りの言葉を呟いている。フラハが足を止めて茫然と見つめていると皆が一斉に蝋燭を倒し始めた。フラハは無我夢中で駆け寄り燃え盛る炎からオフィーリアを助け出そうとする。マントを燃やしながら死体を抱きしめるフラハを抑え込んだのはローマンとゲイリーだった。ガードマン二人に羽交い絞めにされたフラハは目の前で愛しい女が燃えていくのをなすすべもなく見つめ、周りの人間がフラハを無視し祈りに心を捧げる中、男は絶叫とともに涙を流した。死体が燃え、周りの人間が彼女に土をかぶせパラダイスタワーの者たちは一人、また一人と悲しみを残し持ち場へと戻っていく。炎に燃え濃紺だったマントが黒く焦げた匂いのするマントへと変わった。オフィーリアの傍を離れないフラハにかつての同僚から声がかかる。

「オーリアは、最後までお前を心配していた。彼女の死を無駄にするな。」

フラハの目は透明さをうしない、暗く憎しみの炎があがった。


 ノア・デュランは南にある自宅に戻るとメモリーランプを読み込み映像を流した。人一人分の人生の記憶を見分けることは多大な時間を要する。ノアは生まれて初めて見るデザート・サン国の美しい光景をフラハの記憶を通して見ることが出来た。そして理由なき反抗から戦争開幕までの記憶を見つけたノアは自分の重大な思い違いを発見するに至った。長い時間をかけ、ようやく証拠として形に残すことが完了したノアにフラハから連絡が届く。一言、「今夜まつ」とだけ記してあり、地図が添付されている。ノアはフラハらしくない物言いに疑問を持ちながらも了解と返した。


 夜の帳が落ちる頃に指定された東の貧困区域に向かうと、ガラクタの上に黒いマントを羽織ったフラハが待っていた。

「なにかあったのか、焼けた匂いがするぞ」

「僕はラトランドを殺す。ラトランドが今どこにいるのか教えてくれ。」

急な物言いにノアはぎょっとした。

「ちょっとまってくれ、どうしたんだ。何があった?」

「オフィーリアが死んだ。」フラハは暗い目で呟く。

ノアはフラハの記憶を全て見たことで二人の関係を知っていた。どれほど二人が依存しあっていたかも記憶を通して理解している。

「ラトランドが彼女に会いに行って、僕を庇い死んだ。僕が彼女を殺した。だからラトランドを殺して僕も彼女のもとへいく。あいつがどこにいるか教えろ。」

フラハは狂気を纏いながらノアに詰め寄った。

「それは本当なのか?」

「この目で彼女の死を確認した。もう何もかもどうでもいい、ただあの男が憎い。殺したくて堪らない、お願いだ、ノア、あいつは今どこでなにをしているんだ。」

短剣をノアに向け脅迫するようにフラハはノアに向かい合った。ノアは観念したように手を上に上げ口を開く。

「ラトランドは今スウェイ・サンディー国と対談している首相と共に宮殿にいる。奇遇なことにあちらも君を死に物狂いで探している。警戒心が強い男だから駒が少なくて動けていないようだが。」

「スウェイ・サンディー?あそこはデザート・サン国の同盟国のはずだ。」

「そうだ。だが、戦局が怪しくなってきたことで我が国にすり寄ってきたのは宮殿内の公然の秘密だ。いいか、フラハ、考えろ。今ラトランドに手を出して彼女は喜ぶのか?お前は彼女の為といって自分の私欲を満たそうとしている。フラハ、彼女の望みはなんだ?」

ノアがまっすぐにフラハを見つめると、フラハは瞼を切なそうに歪ませた。

「…僕が、ただのレオになること。全てを終わらせて祝福されること。でももうそんなことに意味はないんだ。」

「彼女は君を人殺しにしたいわけじゃない。彼女の為にも彼女の強さを忘れるな。」

フラハは口を強く噛みしめながら記憶の中に残る彼女を探して回った。フラハの中に住む彼女はいつだってフラハを気遣い挑むように笑っている。

「ここに君の記憶をコピーしたデータがある。念のため複製を作っておいた。これを持ってデザート・サン国、君の祖国に行け。そして国民に真実を伝えるんだ。私はこの国で真実を晒す。戦争を終わらせよう。」

ノアは小さなボトルに入れられたデータをフラハに渡しいつの間にか友と感じるようになった男の肩を強く叩いた。フラハもまたその手を強く握りしめた。

 


 ノアと別れたフラハは間を置くことなくデザート・サン国に向かった。ノアに貰った金は国境付近に着くころには底をついた。デザート・サン国とイクイティー・アル国の狭間に聳えるウィズダム山脈一帯はここ近年砂漠化が著しい。ホワイトキャブの運転手は山に近寄るのを嫌がり、砂漠が遠目に見える位置で降ろされた。砂漠化の被害を受けたであろう村が砂に埋もれ屋根が干からびている。フラハは山裾に広がる砂漠の現状に目を見張った。彼が亡命した時分、山を抜けると美しい田園地帯が広がっていた場所は跡形もなく砂に埋もれている。

 ウィズダム山脈には自然に作られた空洞がそこかしこにあり、一番大きな穴道は戦前貿易の為に使用されていた道だ。フラハは鉱山地帯の穴道を記憶を頼りに見つけ、亡命してから一度も足を踏み入れなかったデザート・サン国の土地を踏んだ。岩肌が削られた山の中腹から見る懐かしい祖国にフラハは妙な気持ちを抱いた。帰りたくとも帰れなかった故郷は時を重ねるごとにフラハの中で淡い記憶として葬り去られたようにどこか遠い。

意外にも故郷の様相はあまり変化が見られなかった。麓にはバリケードや、ガラクタのように積み重ねられた武器が置かれているが、国樹であり貴重な財源だったチークの森は生い茂る枝を絡ませ健やかに存在する。記憶と同じ輝きを持った自国に違和感を隠せないフラハに近寄る影があった。後ろをとられた時には首にナイフを突きつけられている。

「だれだ、何故この道を知っている。」

覆面をかぶり脅す人物の印象的な声にフラハは緊張しながら声を出した。

「…キャンディ?キャンディスなの?」

名前を呼ばれた女は自分の愛称を呼ぶ男に顔を固め、ぐるりと真正面に向いた。

「―フラハ?嘘、死んだんじゃなかったの?」

キャンディスと呼ばれた女は覆面をとり嬉しそうに声をあげた。

「生きてたんだ!フラハ!戦争が始まってすぐ死んだってアデルケから聞いた。でも生きてた!」はしゃぐように抱きつく幼馴染にはフラハのおでこに顔をくっつける。

「感謝します、ウィズダムよ。」

「―アデルケは、今どこにいる?戦争は続いているんじゃなかったの?まるで戦時前と変わらないようにみえるけど、どうして?」

矢継ぎ早に疑問を口にするフラハにキャンディスは苦笑を返した。

「戦争は終わってないよ、でも隣国が日常を壊すことはしないと宣言してるんだよ。アデルケの側近たちがデジタル防衛とか攻撃とか、よくわからないけどいろいろやってはいるみたい。でも森や田園もこの通り変わってない。戦争を仕掛けたのはうちのほうなのに。実際戦争を終えて植民地になってもいいと思ってる人たちもたくさんいる。私たちの生活には変化がないだろうしね。―ついてきて、アデルケもきっとフラハが生きてたことを喜ぶよ!」

イクイティー・アル国でそういった旨の宣言をしたという報道は一度も聞いたことがない。情報や真実があべこべで歪だ。フラハは不審に思いながらも心地の良い森を越えるとキャンディスのバイクに乗りこみ中心部を目指した。まるで時が止まっているかの如く変わらない国の様相はフラハの目には不気味に映った。街に入ると馴染みのない顔ばかりで知っている者がほとんどいない。幼馴染に会えたことは幸運だったと言えよう。キャンディスがバイクを止めた場所はかつて王族が使用していた城だった。門には異様な数の監視カメラが装備されていて、キャンディスは慣れた様子でそれらに顔を向ける。

「認証型のエレクトドアマンだよ。」

キャンディスの次にフラハの番が来たが、三体のカメラが周りを何回も旋回しようやく門が開いた。仕えていた頃の城とは違い、新品とは言い難い傷を多く持つ継ぎはぎだらけの機械たちが、まるで宇宙ステーションのように城の中を埋め尽くしている。出迎えてくれたのはアデルケの悪友、インディゴだった。

「キャンディ、有難う。フラハのことは任せて、お前は持ち場に戻りな。」

優しくキャンディスに声をかけ別れの挨拶を済ませると、インディゴは忌々しそうにフラハを見る。一目で歓迎されていないことが分かった。

「なぜ戻った?」

「―真実を、暴きたいんだ。」

インディゴは眉を寄せ顎をしゃくり無言で城の奥へ向かう。王の間にいたのは記憶より皺を増やし年齢の何倍も年老いてみえるアデルケだった。

「フラハ、生きてたか。戻ってくるなと行ったはずだ、忘れたのか?」

亡命前に対峙して以来のアデルケに緊張した面持ちを晒し、メモリーランプを掴んだフラハは堰を切ったように話し出す。

「僕の記憶をデータにした!このデータがあればあの暴動の理由が世界中に発信される。イクイティー・アル国の癒着を明るみにすればこの国にかかってる疑義が晴れるはずだ。国民だって、真実を知れば認識が変わって罪の意識なんてもの持たなくて済む!」

「―言いたいことは終わりか?」

フラハはアデルケの様子に混乱した。

「フラハ、もう真実なんていらないんだ。あの暴動を正しく認識してるのは俺とこの城にいる奴ら、そしてお前だ。だがなんの問題もない。真実があれば終わる話じゃなくなったんだ。―お前はいつも馬鹿だな。お前が動くことでいつも面倒なことになる。何故今になって動き出した?何か理由があるんだろう、話せ。」

「…恋人が殺された。僕が指名手配犯になったせいだ。アデルケの中では終わった話かもしれないけど、真実が隠されたせいでおかしくなってる。」

「つまり、愛する女が殺されたから仇を打つためにこの国を巻き込もうってわけだ。」

「違う!」

「違わない。お前はいつも自分のことばかりだ。一度はお前の泥をかぶってやったんだ、二度はない。指名手配なら一生隠れて生きればいい。真実なんてない。生き残った側が正義だ。」

すっかり変わったアデルケに信じられない気持ちでフラハは出口に向かって駆けだし逃げた。

「データはいいのか?」インディゴは壮年の友人に尋ねる。

「いい。ほっとけ。とにかく作戦の実行を急げ。あちらで動きがある前に事を進めろ。明日で全てが終わるんだ。」


 豊かな土地を山脈が見下ろしているように見えるこの国はまさしく山に愛された国だろう。同じ山脈を挟んでいるというのにイクイティー・アル国とは大違いだ。フラハは足を止め草原の中に飛び込んだ。フラハの頭に言い訳や悲しみ、怒りや諦め、様々な言葉が巡る。フラハはこの国を守りたかった。だから兄のように慕っていたアデルケの言葉を信じた。それが最善なんだと自分に言い聞かせ何年も孤独を生きた。でも違ったのだ、ただ逃げただけで全て彼に背負わせた。フラハがあの現場を見つけ彼に全て丸投げし、彼は十年もの間ずっとこの土地を守った。どんな言葉をアデルケが吐こうが、この国の現状が全てを現している。

 夕暮れが山の向こうへ消えていき辺りは昼間の暖かさを忘れ冷えていく。フラハが縮こまったまま体を丸めていると通信装置がぶるりと揺れた。

「フラハ、どうだ?かの有名なアデルケ統長とは会えたのか?」

「会えたよ。」投げやりにフラハが言った。

「そうか!どうだった?メモリーランプの事は伝えられたのか?」ノアは生気に満ちている。

「伝えた。それで、いらないって。」

「は?何と言った?」

「真実なんて必要ないって。」

「そうか、…それで?」

「え?」フラハは聞き返す。

「アデルケの協力が得られればそれは都合が良かったが、彼がいなければいけない理由はない。フラハ、お前は、どうするんだ?」

「―、僕は、」言葉に詰まるフラハにノアは時間が惜しいといわんばかりに口を開く。

「私は予定通り動く。例えお前が動かなくても、誰が動かなくてもだ。君も好きにしたらいい。逃げても誰も君を責めない。それから、こちらは首相会談が終わり少々きな臭くなっている。明日緊急公開国会が開かれる。以上だ。」

フラハは一人暗闇で葉の揺れる音や水音、人々の生活音に耳を澄ませ、生まれて初めて自分がどうしたいのかを考え始めた。最善を選ぶのではなく、自分が選び後悔しない道をフラハは初めて見つけようとしている。


 月が沈み太陽が目を覚ました朝、時は来た。


 緊急公開国会には、多くの勲章を左胸につけ青い制服を身に着けたドラモンド首相を取り巻く形で上院が現れた。反対の扉からは下院がノアと共に広間に揃う。あらゆる報道媒体でその様子が映され国民が注視している。

「緊急でありながら、招集いただき有難く思う。さて、此度の議題だが、長らく頭を悩ませていたウィズダム戦争に終止符を打つ時がきた。スウェイ・サンディー国がデザート・サン国との同盟を取りやめ、我が国の傘下に入ることが決定したのだ。条件等の問題はあるがこの決定は確実なものである。これによりデザート・サン国に降参以外の道はない。先日公布した指名手配犯が未だ捕まっていないことは誠に遺憾であるが、前外務大臣を虐殺した罪をようやくあの国に認めさせる時がきた。よって、最後の徴兵を求める。皆、国の為、民の為、力を合わせようではないか!」

ドラモンドは胸の勲章を強く握り揺さぶると己の拳を高く上げ民を鼓舞した。報道を見ている国民はまるで獣のように興奮状態となりやる気に満ち溢れている。

しかし、空間を支配するように靴音が響いた。異様な空気が宮殿を包む中、姿を現したのはこの国の女王ヴァイアリー二世だ。全身に黒を纏い、耳元と首元には光る真珠が見える。

「静粛に。女王様、ご容赦下さい。長らく貴方様にお目見えすることが叶わず皆浮ついております。」頭だけを下げラトランドが挨拶を送った。

「長い悲しみにより公務を怠っていたことは謝りましょう。しかし、事態は急を要します。デュラン議員、こちらへ。」

女王はノアに目配せしてみせた。ラトランドは悪い予感を恐れながらジョージに目線を送るが、彼もまた状況を理解していないようだ。ノアは大勢の前を横切ると機械を起動する。無機質に流れるその映像は国会に出席した全ての者の前に晒された。

「ラトランド副大臣、あなたこそが大罪人です。あなたはこの国を危険に晒し、自身の身代わりに前外務大臣を殺しました。メモリーランプが私に真実を見せてくれました。あの暴動の場に居合わせていたのは前外務大臣ではなくあなたです。デザート・サン国は王族こそ殺したものの貴方は狡猾に逃げおおせた。そして真実が出る前に嘘で蓋をした。このような事態を見過ごしたことは無念です。―捕らえなさい。」女王の言葉を聞いた憲兵達はラトランドの背後から槍を突きつけ捕獲した。窮地である筈のラトランドはくすくすと笑いながら宮殿全体を見下ろし叫んだ。

「あなたの様な形だけの存在が、この私を捕らえる?誰が頭の軽いあなたに入れ知恵したのでしょう?その映像が本物だと、どう証明するのですか?十年もの間戦争は続いた。このかたをどうやってつけるおつもりで?あなたは正義を見誤っている。私は欲に浮かんだことなど一度もない!砂漠に埋もれていくこの国をどう操るんだ!私はこの国の為に、この国の繁栄の為に動いている!!嘆き悲しむだけのお前とは違う!!」ひきずるように連れていかれたラトランドはなおも喉が切れるほど叫び続けていた。

「閉会します。」女王は阿鼻叫喚の国会に言葉をかけることはせず強制的に幕を引いた。


 同時刻デザート・サン国では、キャンディス協力の元フラハが国民を広場の前に集めていた。国民すべてに呼びかけたものの想定より数は少ない。フラハが台座に昇り目の前の人々を見やった時アデルケが現れた。フラハは警戒を見せる。

「何をしようとしているか大体分かるが、最後にお前に時間をやろう。こいつらに見せてみろ。その真実とやらを。」

余裕な表情を浮かべて興味なさげに隅に座ったアデルケに戸惑いつつ、フラハは意を決して映像装置をつけた。そこには衝撃的な映像が広がっているのに、集まった者たちはまるで映画を見るように感心している様子だ。無数の目に面白がる色が見える。

「これが理由なき反抗の真実だ!みんな、僕たちは悪者にされてただけなんだよ!」フラハの精一杯の声にしらけた顔を向けて男が言った。

「でもこれって、結局王族を殺した俺らが悪いんじゃないの?なにも殺さなくても良かったんじゃない?」「というか、癒着っていってもちょっと横領するくらいだったんでしょ?わざわざ戦争に発展させなくてもさ、」「なんで今更この映像を出してきたの?もう十年も前のことじゃん」

冷めた声が一斉にフラハを悪者に見立て責めた。その様子をアデルケはおかしそうに傍観した。

「皆解散だ。」

アデルケの指示で早々に帰って行く国民たちを茫然とした顔で見るフラハ。

「言ったとおりだ。この十年でやつらは奪われることにも、悪者にされることにも、コケにされることにも全て慣れたんだ。奴らが欲しいのは真実じゃないんだ。」

アデルケは側近にフラハを城まで連れてこい、と言った。

「どうせなら見て行けよ。」

城では昨日見なかった顔なじみ達も椅子に座り、なにかの作業を忙しなく行っている。その部屋を抜けて城の最深部にアデルケとフラハが進む。しばらく歩くと電線が張り巡らされた不気味な部屋に到達した。

「じゃあ、やるか。」気の抜けた声でアデルケが告げるとカバーを開け黒のスイッチを押す。その瞬間、ヒューという耳慣れた音が何回も耳に届いた。

「なにを、なにをしてるの!アデルケ!!」

「山を壊すんだ。地続きになってるから狙われる。だから壊す。」

「なんで、あの山は神様だって、教えてくれたのはアデルケだ!!!」

フラハはアデルケに掴みかかる。

「神が敵を連れてきた。」ぽつりというアデルケは憎い敵をみるようにウィズダム山脈を見つめた。

フラハはどうにもならない状態に胸元から短剣を取り出す。アデルケは見覚えのある短剣を嘲むように笑った。

「まだ持ってたのか、そんなもん。」

「止めてよ!山がなくなったらこの国はどうやって生きていくんだ!ずっとあの山と暮らしてきた人たちになんて説明するんだ!」

「説明なんてしない。最初は嘆くだろうが、この方法が最善だ。」

アデルケは何でもない事のように言い放ち、声を出さず口をぱくぱくとしてフラハを煽った。

(ころしてみろ、こしぬけ)

フラハは頭の神経がぶちぶちと切れる感覚を気が遠くなりそうな思考で感じ、勢いに任せアデルケに剣を振り上げた。


「僕は、ころさない。」

心臓すれすれで剣を止めたフラハにアデルケは驚く。

「全てを壊すことはやめてくれ。僕はもう逃げないから、アデルケも逃げないで。」

泣きじゃくるフラハを見てアデルケは昔のように笑ったが、深く埋め込まれた皺や苦悩が時を戻す術がないことをまざまざと伝えていた。アデルケは割れた風船のように力を抜き動かない。電源を切ると外の音は止んだものの、アデルケのやったことは帳消しには出来なかった。

「これで真実、俺は血に狂った民だ。」

アデルケは廃人のようにぼんやりと宙を見つめ、フラハは歪んだ真実が齎す歪みを嫌というほど刻み付けられた。城の外では平和な日常を妄信している国民がいつもの日常を送っている。


 『第三次世界大戦の発端となった「理由なき反抗」はデザート・サン国民による、あまりに有名な暴動事件である。デザート・サン国は王権制で有色人種が多く見られる土地であった。枯れた国は隣国の豊かさを妬み、国民は王族を虐殺しその場に居合わせたイクイティー・アル国大臣をも手にかける。イクイティー・アル国は報復攻撃へと踏み込みウイズダム山脈を挟んだ戦争に発展した。これを「ウィズダム戦争」と呼ぶ。同盟国スウェイ・サンディーは不安定な隣国からの強制により武器提供や傭兵支援を行ったがイクイティー・アル国の傘下に入ることで事態を免れた。デザート・サン国の徹底抗戦に対し、イクイティー・アル国は最後まで核の使用を踏みとどまった。デザート・サン国は領土が二つに分かれ汚染された禁区域と鎖国区域を保持する。(世界大戦全史より)』



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フラハ越冬記 藤井咲 @kisayamitsube

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