第2話
行きつけの歯医者は相変わらずがらんどうだった。
軽く受付を済ませて待合室に入る。待合室にはすでに先客がいた。
九門谷高校の制服を着た女子で俺と同じく学校帰りだろう。
歯医者でばったり同じ学校の生徒と出くわすこと自体珍しいというのに、更に珍妙なことにこの女子は、待合室の本棚にある子供向けの間違い探しの本を読んでいるではないか。
待合室の背の低いテーブルに本を立て、上体が隠れるほど顔を本に近づけ、吸い寄せられるように読んでいるおかげで顔はわからない。
よほど熱中しているのか俺が入ってきたことにも気づかないで一心不乱に本に顔を寄せている。
子供向けの間違い探しに夢中な女子高生という絵面に興味を惹かれたので、彼女の向かいの席に座ろうと近づくにつれ、顔から下が明らかとなっていく。
それと同時に、驚愕の事実が明らかとなる。
可愛い顔立ち、胸元に輝く九門谷高校生徒会役員のバッジ、そして口元にそそくさと運ばれるドーナツ……!?
よく見れば彼女の手元にはドーナツの空箱が隠されていた。
この女子は隠れながらドーナツを頬張っていたのだ!
歯医者の待合室で!
しかも生徒会役員のバッジを付けて!
「なんでだよ!?」
そのあんまりにもエキセントリックな行動に思わずツッコミを入れてしまった。
彼女は「きゃっ」と声を上げ、ドーナツを反射的に後ろ手に隠した。
「もう、何なんですか。いきなりびっくりさせないでください!」
「こっちがびっくりだよ! 歯医者でドーナツ食べる子なんて普通いないからね!?」
「シーッ! 静かに。お医者さんで騒いじゃダメですよ。騒ぎを聞きつけて誰か来ちゃうじゃないですか」
彼女は口元に人差し指を立て小声で言う。
さっきまでやましいことしていた本人が自己保身のために注意するとは……。生徒会役員ってみんなこう横暴なのか?
「大体、生徒会役員ともあろう人がこんな非常識極まりない行動、どうなのよ」
「すごい! なんであたしが生徒会の人だってわかったの!?」
「胸に堂々とバッジがついてるだろ!」
「あ、よく見たらその制服、君もクモ高の生徒なのね」
「よく見るも何も、初めからずっとこの制服なんですが……」
「同じ高校なら話が早い。当然、私の名前は知ってるよね? 君、名前は? 何年何組?」
「2年A組、角館実篤……っていうか俺、そっちの名前普通に知らないんだけど……」
「えっー!? 同じ高校にいながら生徒副会長のこと知らないなんて信じられない!」
普通、一般高校生が副会長まで把握しているもんなのか?
確かにうちの学校の場合、生徒会長が絶対的権力を持っていて嫌でも目立つものだが、副会長以下は生徒会長という主菜に添えられたパセリみたいな存在だし。
単純に俺が二文の件で生徒会とかかわり合いを避けていたからな気がしないでもないが。
「覚えといて、2年B組の猪口杏子よ。軽く杏子って呼んで。よろしくね!」
「あ、はい。よろしく……」
「サネアツくんね。じゃあ『あっくん』ね」
「え、何その呼び方……」
「歯医者でばったり出会うなんてすごい偶然だね! うちの近所の歯医者さんがもうおじいちゃんでね、もうクリニックも畳んじゃうみたいだからこっちまで足を伸ばしてきたの。今日は恩知らずを引き抜く必要があるんだ。あっくんはここの歯医者よく使うの?」
「ああ、まあ、割とな。今日は歯の詰め物を詰め直しに来たんだ」
親知らずだと訂正しようとも思ったが、彼女がボケてるのか素でやっているのかわかりかねる上に、どっちにしろ彼女にツッコむこと自体が無益なような気がしたのでしなかった。
「ふーん」
俺を値踏みするような目で見る。さっきまでずっと彼女のペースに乗せられていたが、この絶妙な間が、彼女が後ろ手に隠しているものの存在を言及する機会をくれた。
「それで、猪口さ……」
「杏子!」
ムッとした表情で即座に訂正された。
正直、いきなりお互い呼び捨てとかフランクすぎて慣れない。
「杏子さん、肝心なことをまだ聞いていないんだけどさ。どうして歯医者さんでドーナツを食べたりしてたんだ?」
「いやね。これから恩知らずを抜くでしょ。それやるとしばらく口の中痛くて美味しいもの食べられないでしょ。だから大好きなドーナツと選別を済ませようかなー、と」
「だからって直前になって食べるなよ……。あと親知らず」
さっきまでスルーしていたボケについに突っ込んでしまった。
「生徒副会長の仕事量的にねー。スイーツ買ったり食べたりする時間が全然ないのよ」
「いやまあ、大変だなとは思うが、副会長ならますますやっちゃダメなことでしょ」
「あ、さっきのは表向きの言い訳ね。経費で生徒会室に冷蔵庫とティーセット置いて、仕事の後はティータイムを楽しむのが日課なの。だから食べたいものはあらかた食べちゃったのよねぇ」
「さらっと職権乱用を暴露した!?」
「だけどここまで来るとき、無性にドーナツが食べたくなっちゃって、つい、ね♪」
「『ね♪』じゃねぇ! 未練ありすぎるだろ! 甘いものばっか食ってると虫歯になるぞ!」
つい心のうちを吐露する。それまで生徒会に対してため込んでいた鬱憤を晴らすように。
「どうかしましたかー?」
騒ぎを聞きつけて受付のおばあさんが入ってきた。
途端、杏子は手に持っていたドーナツを無理やり口に押し込め、身を翻し、顔元を隠す。
空箱の方は子供用なぞなぞの本に隠されて角度的に見えないようだ。
「わー! なんへもないへふー!」
ドーナツを頬張りながらモゴモゴと言うもんだから言葉が意味をなしていない。
おかげで受付の人もわかりかねて不審そうに首を傾げている。
副会長がどうなろうが知ったことではないが、また生徒会に目をつけられたらたまらないし、このまま放置していたら面倒なことになりそうだ。俺は仕方なく助け船を出すことにした。
「この人、親知らずが痛すぎて今うまくしゃべれないみたいなんですよ」
「あら、そうですか~。猪口さん、ちょうど診察の準備ができたところなので治療室までどうぞ~」
「ふぇっ!? ちょっほまっふぇ!」
「ええと、ちょっとお手洗い借りたいので、もうしばらく待ってもらっていいですかって言ってます」
「あら、まあ。最近の若い子って短いセンテンスで本当にすごい情報量を伝えられるのね~。私もう年だから、孫が何言ってるかわからなくてねぇ。それじゃあ猪口さん、準備ができたら治療室へいらしてくださ~い」
そう言って受付係が去る。
「さ、今のうちにそれ食べ終えて洗面台で口ゆすいどけ」
彼女がこくんとうなずき、トイレへ行くのを見送った。
治療室から出てきた彼女は、頬を抑えながら目に涙を浮かべていた。
俺に会釈だけして歯医者を去っていった。話せないほど痛かったらしい。
俺も無事、取れかかった古い詰め物を替えたばかりか、素材もアマルガムから安心安全のセラミックにしてもらった。
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