2/6 作者の声を持たせるかどうか、語り手は何者かという問題

 なお、蛇足ですがこの両者は扱いが決定的に異なります。


 言うまでもなく「異質物語世界的な語り手」の場合、まず作者の声を持たせるかどうかという問題が発生します。


 いわゆる十九世紀以前の小説ですと、語り手は多くの場合、作者の声を持っていました――つまり、作者と同一視される語り手です。


 一方、二十世紀以降の小説ではそういった作者の声はだんだんと抑制されていき、一般に透明な(読者に意識されない)語り手を採用するケースが多くなっています。


 今日ではバルザックやチェスタトンのように(チェスタトンは二十世紀の作家ですが)、露骨に作者と同一視される語り手があれこれと語ることは少なくなっています。


 といっても、現代でも歴史小説や時代小説などでしばしば見られる語りではあるのですが、とにかく語り手を目立たせるか存在感を消すか、あるいは状況に応じて変えるか……そういった選択の問題が発生します。


 他方で「等質物語世界的な語り手」の場合、作者の声云々という問題は発生しません。


 なにしろ作中人物=語り手という構図ですから、語り手と作者を同一視することは通常ありません(私小説などの例外はありますが)。


 ただし「等質物語世界的な語り手」の場合、語っているのは登場人物自身ですから、語り手はいかなる人物か? という疑問が発生します。


 語り手は物語において、どの程度の比重を占めているのか――もっと有り体に言えば、主人公なのか、それとも(引用したホームズもののように)主人公の相棒といったポジションの脇役なのか、男か女か、大人か子供か、といったように。


 もちろん、語り口そのものも影響を受けざるを得ません。


 たとえばディケンズの『荒涼館』におけるエスターの語りの部分を読んでみましょう(引用は岩波文庫の佐々木徹訳、第三章)。


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 いまからこの物語のわたしにわりふられた部分を書きはじめるのですが、とてもむずかしくてこまっています――りこうでないものですから。それは生まれたときからわかっていました。ほんのちいさいころお気にいりのお人形に、二人きりになると、いったものです。「ねえ、ドリー、わたしはりこうじゃないのよ、おまえもとっくに知ってるでしょ。いい子だからがまんしてね」よくそんなふうにないしょ話をしました。

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 冒頭から明らかなように、この語り手は「りこうでない」と自称する女性であるがゆえに、語りもその影響を受けています。


 といっても岩波文庫版の解説(訳者である佐々木徹によるもの)にあるとおり、ディケンズはしばしば「エスターにしては気が利きすぎた表現をつい使ってしまう」わけですが、ともかくこういった諸々の選択をどうするかといった問題が「等質物語世界的な語り手」には付きまとうわけです。


 また、もう一つ見逃せない点として、語り手に対する信頼度がどの程度なのか、という問題も生じます。


 いわゆる「信頼できない語り手」というものです。


 デイヴィッド・ロッジは『小説の技巧』において、こう指摘しています(引用は白水社の柴田元幸・斎藤兆史訳)。


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「信用できない語り手」とはつねに、みずからが語るストーリーの一部を成す登場人物である。信用できない「全知の」語り手(2章参照)というのはほとんど論理的矛盾であり、きわめて特殊な実験的テクストにおいてしか存在しえない。一方、「全知」ではない、登場人物でもある語り手にしても、まったく一パーセントも信用できないということはありえない。もしその人物の言うことが全部明らかに嘘だとすれば、それは、我々がとっくに知っていること――すなわち、小説とは虚構の産物であるということ――を再確認させるにすぎない。物語が我々の関心をそそるためには、現実の世界と同様、小説世界内部での真実と虚偽を見分ける道が与えられていなくてはならない。

 信用できない語り手を用いることの意義もまさに、見かけと現実のずれを興味深い形で明らかにできるという点にある。人間がいかに現実を歪めたり隠したりする存在であるかを、そのような語り手は実演してみせるのだ。そうした欲求には、かならずしも本人の自覚や悪意が伴っている必要はない。

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 小説における語りは信頼できるものが一般的です。


 しかしながら、作中人物が語り手を兼ねる場合、その語りを信頼できないものにすることも可能なわけです。


 この信頼できない語り手は、読者を騙そうとする語り手から、作中の重要な事実を隠している――たとえば、ヘミングウェイ『日はまた昇る』の語り手ジェイク・バーンズは、よく指摘されるように性的不能者であるわけですが、その事実を語り手が明言することはありません。


 ジェイク・バーンズの語りは基本的には信用できるものですが、一方でこの語り手は自身が性的不能であるという事実を伏せたまま物語っているわけです。


 もっとも、『日はまた昇る』の場合、信頼できない語り手というよりはヘミングウェイの「氷山の理論」を活用した結果でしょうから、ちょっと違うようにも思えますが。


 ともかく、語り手の語りがどのぐらい信頼できるものなのか? この点は等質物語世界的な語り手を用いる場合、一考に値するものでしょう。


 といっても、小説の語り手は(作中人物が語り手を兼ねる場合であっても)信用できるものが普通です。そういう意味ではある種の奇手であり、あまり多用するものではないのでしょう。

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