第13話
ふう、と二葉はため息をついた。
握っているのはアッキーからもらったフリマのチラシだ。断る理由もなく思わず肯定してしまったが、勢いで頷いてしまったかもしれない、ユウが佳苗を誘う理由を伝える前に、『みんなの方が楽しいものね!』と勢いよく乗ってきたアッキーの元気さに流されてしまった、ということもある。
木曜日の朝、会社のデスクで鞄を開いたら昨日もらったチラシがそのままで入っていたから思わず手に持って、ぽそりと呟いてしまった。
「今週の、日曜日……。来週だったら、予定があるからって言えたけど」
鳩美との電話を思い出して、特に意味もなく視線だけチラシに向けてしまう。すると、「何それ」と聞こえた声に驚き慌てて振り向くと、茶色い巻き髪の女性がじろりと二葉の手元を見つめていた。何かと二葉のことを目の敵にしている同僚である。
「ごめんなさい田端さん、もうちょっとで就業時間なのに」
「何それって聞いたの。あんた、それに行くの?」
きついアイラインの瞳が不愉快そうに細められる。どきりとしてしまった。とにかく返事をしなきゃ、と気持ちが焦る。
――いつもおっかなびっくりやし、声も小さいし。でも最近は声も大きくなってきたら、ちょっと安心すんな。
ふと、ユウの声が聞こえた気がした。
(私、そんなに声が小さかったかな……?)
自分ではあまり意識したことはなかったが、声をかけたのに返事はなくて……ということだったり、返事をしたのに無視をされたり、なんて記憶がふわりと蘇ってくる。
「うん、行くよ」
田端の顔をじっと見つめながら声を出した。お腹の底から声を出したから、じんと暖かくなった気がする。田端はどこかたじろいだように半歩後ずさって佳苗から視線をそらしたが、すぐに赤い口元をにんまりと弓弦のようにする。
「ふうん。あっそ。別に、どうでもいいけど。……あんたは、ぼそぼそ喋っときゃいいのよ。生意気すぎ」
相変わらず嫌われていた。
近づく朝礼時間の前にと二葉は急いで鞄の中を片付けた。
木曜日が終わり、金曜日が過ぎ、土曜日の夜になった。とうとう明日はフリマの開催日で、朝に駅で待ち合わせの予定だった。二葉といえば、とても緊張していた。
参加するのだから、と参加費を支払おうとしたところ、『こっちから無理にお願いしたのに、もらえないわよ!』と断られてしまった。売るものはない、と最初は思っていたが、これからも使う予定のない食器など、ちょこちょこと持っていけそうなものはありそうだと気づいたので、参加する以上、支払いたいと伝えたところ、『それなら、当日私の方のスペースでもお手伝いしてくれたら嬉しいわ』とぱっちんとウィンクされた。なので、自分なんかが何かできると言うんだろう……と、ぽっこりとあいた不安の穴にはまってしまっていたのだ。そして、そんな自信のない自分も嫌になっていた。
荷造りは終えた。後は特にやることもないのに、かちかちと聞こえる壁掛けの時計の音が妙に大きく聞こえる気がして、部屋から逃げるようにカーテンを開けた。外はもう真っ暗だ。ベランダ用のサンダルを履いて、窓を閉めた。もう三月だから、吐き出す息も白くはならない。夜は少し冷えるけれど、過ごしやすい季節になってきた。
「もう! がたがた暴れてうるさいんだけど!」
「いや暴れてるのはそっちやろ、やめろおいやめろ! 怪獣! この! 怪獣女!」
すっかり東京弁に染まりよって! と悪態をつく言葉とともに、隣の部屋が騒がしくなる。とはいえ夜なので、がらがらと窓が開くと言い争いの声も押さえ気味だ。ベランダの横には大きな仕切り板がついているので様子は見えないが、なんとなく状況は想像がつく。
「ばーか! 外で頭でも冷やしてきな!」
かわいい女の子の声とともに、ぴしゃんっと窓が閉じる音がした。
ほわー……と、彼はなんとも言えない声を出した。「あいつは、ほんまもんの怪獣や……。恐ろしい……恐ろしいわ、なんということや。僕は怪獣の兄やったんか……」と、悲壮感の漂うセリフを呟いている。
このまま聞こえないふりをするのも心苦しく、「ユウさん?」と仕切板越しに声をかけた。つっかけを履いたユウの足だけが、板の下から見えた。
「おわっ、誰や! いや佳苗さんか。そうか、隣やったな」
「うん……あの、大丈夫?」
「うっわ。恥ずかし……めっちゃ聞かれとるやん。大丈夫。あいつは怪獣やけど、鬼ではないんや。鍵はさすがに閉めてへん。……でもまだうるさそうやから、落ち着くまでちょっとここにいとくわ……」
とても悲しそうな声である。そういえばこの人は寒さが苦手だった。
「あの、何か持ってくる? 仕切りの下からなら渡せるかも」
「ええよええよ。最近あったかくなってきたしな……茉莉の機嫌が治るまで、そんなかからへんやろ」
多分、と付け足された言葉はちょっぴり切ない。
「佳苗さんは、何しとったん? 洗濯物とかなん?」
「ううん。私は……ちょっと、明日のことを考えたら緊張しちゃって」
「きんちょう」
ユウは舌の上でゆっくりと言葉を転がした。きっと今、きょとんとした顔をしているんだろうなと想像しながらの会話は、不思議と落ち着いた。
「あ、そうや。夜やし、佳苗さんこそ寒いんやないか? 僕のことは気にせんでええから、中に入ってや」
「ううん。私は前にも言ったけど、寒いのは得意だから大丈夫。ユウさんが邪魔じゃないから、ここにいてもいいかな」
「それはもちろんええけど。僕も一人やと寂しいし。……それで、緊張ってなんなん? もしかして、明日行くの、やっぱ嫌やった?」
「違うよ。フリーマーケットなんて行ったことがないし、他の人のハンドメイド品も見てみたいなって思うから実はちょっと気になってた。ユウさんが誘ってくれたとき、嬉しかったよ」
ベランダの柵に手をかけながら、見えない相手に話しかける。そうすると素直に話すことができるからやっぱり変な感じだ。
「……でも」
「でも?」
「私が行っても、足手まといになっちゃうかな、とか。人が多い場所に行くと、どうしても考えちゃって。みんながいるだけで私は楽しいんだけどね。でも、他の人はそうとは限らないと思うし」
「うーん」
ざりざり、とユウが履くスリッパがベランダの床をこする音が聞こえる。
「でも僕は佳苗さんなら頼りになるやろなって思ったから誘ってん。いてくれるだけでめっちゃ助かるで」
「それは……」
「佳苗さんって編み物も最初は僕が説明しとったけど、今はもう自分でなんでも調べてするやろ。コースター作るときめっちゃ速かったし。会社でもお願いした処理も速いし、同じ階に移動してから知ったけど、営業部のやつらも何かあったら最初に聞くのは佳苗さんやんか」
「それは、編み物もそうだけど、無心でするのが得意なだけで……。調べ物も手引書のどこに何か書いてあるかってことを覚えているだけだから」
「つまり調べ上手ってことやん」
間髪入れずの返事である。相変わらずの褒め上手だな、と二葉は苦笑した。
「そうかな? 自分じゃ頷けないけど、そう言ってくれるのは、嬉しいな。ありがとう」
「ほんまのこと言っただけやけど、どういたしまして。……なあ、明日のフリマやけど、佳苗さんは家にあるいらんもん持ってくるだけって言うとったやん。でも、佳苗さんも一緒に出品しようや。コースター、たくさん作っとったから、使ってへんやつ絶対あるやろ」
「それはたしかにあるけど……そんな、私のなんて」
「僕は佳苗さんが作った編み物をみんなに見てほしいわ。やって可愛いかったやんか。……僕やったら苦労して作ったもんは見せびらかしたいってだけやけどな。作ったはいいけど使ってへんってやつが結構多くて悔しいねん」
かぎ針で編んだお弁当袋を会社に持っていき、汚れないようにと汁物に気を使うほどのユウの言葉である。納得してしまい、くすりと微笑む。
「……どうしようかな」
そう言いながらも、心の中は決まり始めていた。
夜なのに、家や、マンションの明かりがぽつぽつと光っているから、暗さは感じない。住宅街の街並みの向こうにある駅の付近はさらに明るく、まだまだ元気に活動しているのだろう。ベランダの柵を両手で握って、ちょっとだけ顔を上げた。
雲ひとつない紺色の空が、すうっとどこまでも続いている。静かな夜の匂いを吸い込んだ。まん丸い月がぽつりと空に浮かんでいる。
「うさぎが、餅ついとる」
「え?」
なんでもあらへん、と小さな声が聞こえた。もしかして、同じものを見ていたんだろうか。夜のベランダで仕切り越しに二人でぼんやり空を見上げている姿を想像すると、なんだかおかしい。
でも、ちょっとだけ楽しい。
「そろそろ怪獣も人に戻ってきたやろ。中に入るわ。佳苗さんも、部屋に戻りや」
「うん、そうだね」
「明日、早いで。寝坊しなや」
「ユウさんもね。待ち合わせに来なかったらインターホンを押すよ」
「ええやん。7時半くらいに玄関前で待っといて。一緒に駅に行こ」
「えっ、うん」
冗談で言ったつもりなのに、本当のことになってしまった。「じゃ、そういうことで」とだけユウは呟いて、次に聞こえたのはカラカラと扉を開けて、閉める音だ。うわ、となんだかむずむずする。寒さには得意なつもりだが、むしろ暑すぎてもっと寒くなってほしいくらいだ。
このまましばらくベランダで頭を冷やそうかな、と考えたが、それどころじゃないとすぐに部屋の中に戻った。ユウが言う通りに、明日は早い。でも、まだすることがある。
「荷造り、しなおさなきゃ!」
頼りにしてくれているというのなら、その期待に応えたい。もしかしたら、ただの自分の空回りになってしまうかもしれないけど。
「ええっと、うちにあるもの……うん、早く寝なきゃだめだし、さくさく確認して、入れ直そう!」
「佳苗さん、荷物持つから貸してや」
「えっ? ううん、すごく重いから」
「そんなん待ち合わせした意味がなくなるやんか。って、ほんまに重いな」
そういや使ってへん皿も持ってくるって言うてたもんな……とユウは自己解決して、自分の荷物は反対の肩に背負い、のしのしと歩いた。まさかそんな理由で玄関前に待ち合わせになったとは思いもよらず、あわあわと二葉はユウの背中を追いかけた。
駅前には白いミニバンが駐車していて、アッキーが車内から手を振っている。品評会のときにも見た車だが、金髪、ぴかぴかのアッキーのことだ。真っ赤なオープンカーが似合いそうなのに、ちょっと意外だなと思っていると、「こっちの方があたしのかわいい作品ちゃんたちが守れるでしょ」とのことで、おっしゃる通り車内は広々として座りやすく、二葉とユウの荷物も三列目の席に置くことができた。
二列目の座席に座りながら、窓の向こうで走り去る景色を見つめる。お日様の光でぴかぴかと輝いているからか、街路樹の緑が眩しかった
「いいお天気になって良かったね」
「本当に、そうですね」
ハンドルを握り運転しながら話すアッキーの言葉に頷く。明るい二葉の声に満足したのか、アッキーはうふん、と笑っているようだ。
「じゃあ、行くわよー! 安全運転、出発進行!」
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