第10話


「品評会のテーマについてはなるべく知らないようにしているんですよ。みなさんが作るものをいつも楽しみにしていますから」


 と、サチがふふりと微笑みながら、今日はハンカチに刺繍をほどこしている。クマを作るためにほんのちょっとだけ針を触った二葉からすると、サチの熟練の手さばきには、すごい、の言葉しか出てこない。針の動きに迷いがないのだ。二葉はいつも迷いまくりである。


「その気持ち、なんとなくわかります。他の方が作っているものって、玉手箱というか、宝箱みたいというか」


 なんせ自分が作っている間はとても大変だ。ときには苦しいと思うときもあるかもしれない。だから出来上がりだけを見ると、わくわくする気持ちだけが残る。――でも、本当は作って、苦しいときがあるからこそ、出来上がりがとても嬉しい。


(お父さんも、こんな風だったのかな……?)


「宝箱。素敵な表現ですね。佳苗さんも、そのクマのあみぐるみ、とっても可愛らしいです。十分に完成しているように思いますが、もう少し、おしゃれをさせるんですね」

「はい。せっかくですから」


 結局、二葉が提案した品評会のテーマは、そのまま受け入れられてしまった。一番の新入りなのによかったのだろうか……と不安になったが、『新入りだからいいのよ! あたしたちの盲点をついてくれたというか!』とアッキーは言って、あまり長くしてもよくはないということで、品評会の最終的な目標は二月の末、ということになった。もうひと月もない。


 テーマに沿った手芸品は、二葉は一応もうほとんどできている。あとは家で最後の調整をするくらいだ。サチが品評会当日を楽しみにしているということを常連客たちも理解しているようで、みんな【自由時間】でするのは途中の状態で、完成品がわからないように最後は自宅で作る人が多いらしい。それはユウも、アッキーも例に漏れずで、テーマがわかっている二葉でさえも、出来上がりが謎だ。


(……どうしようかな)


 残り時間は二週間程度。時間にはまだ余裕はある。だから、できるならもう少し他のものも作りたいけれど、二葉のような素人が無計画にして最後までやりきることができるのか……と考えると自信がない。

 自信のなさはあみ針の動きにも表れているようで、今日は隣の席に座っていたユウが、ぽそりと呟いた。


「作りたいときが、一番の作りどきやで」

「前にも言われましたけど、背中を押される言葉ですね……」

「なんせ、僕の師匠の言葉やからな」

 これだけなんでも編みこなすユウの師匠とは、一体何者なのだろうか……?

「でも、そうですよね」


 しみじみと、胸に染みた。






 クマのあみぐるみが出来上がると、まず次に必要なのは白い糸だ。これも綿がいいと思っていたらユウにはレース糸を進められたので、また手芸店に向かった。食料品も、本屋も文房具屋もあるショッピングモールの中にあるので、軽い気持ちで足を伸ばしてしまう。


 レース糸のコーナーを見ると拳くらいの大きなサイズのが千円くらい売られていたのでお買い得だとは思ったが、たくさんの色を使うとなると塵も積もればというやつで、保管も大変そうだ。ちょっとだけ使いたいのに、というときも困る。

【自由時間】の、月千円の会費で、利用者が互いに材料を寄付してシェアするというのはやっぱり中々ありがたいシステムだ。白のレース糸以外はちょっとだけ、利用させてもらった。


 さて。ちゃんと出来上がるのだろうか。今回は一つだけではなく、同じものをたくさん編んだ。無心でかぎ針を動かし続けていると、ユウからは「佳苗さんは一つのことを集中したら、ブーストがかかんねんな」と褒めてもらえたような気がするが、彼は褒めて伸ばすタイプらしいので話し半分に受け取った。


 ユウとその彼女が一緒にいる姿は、休日にときおり見かけた。きっと今までも何度も見かけていたのだろうけれど、特に気に留めていなかったので気づかなかっただけだろう。二人とも黒髪でよく似ていて、お似合いだな、と思った。

 そして、品評会の日がやってきた。






「いつもは喫茶店に来たときに、それぞれが出来たものを持ってくるだけなんだけど……今日は時間に制限があるから、あああ、忙しいわっ、忙しいわっ!」

「アッキー、口やなくて手を動かしいや」

「水曜日に来ている人以外のものもあるんですね?」

「だって、一度に見てほしいじゃなーい。先に受け取っといたのよ。これそうな人は後で来てくれるわっ!」

「美智代さんも家のことしてから来てくれるんやっけか」

「んひぃ~! おっもいわあこれ!」


 どっこいしょー! と表に止めた車の中から鉢植えを取り出し運ぶアッキーを手伝おうとしたが、「佳苗さんは、他のやつ飾り付けしといて。サチさんが来てまう前に終わらせな!」と即座に助けに入ったユウの言葉に押され、「はい!」と返事をして脚立に乗る。


「いやほんま重いんやけど!? 誰が作ったねんこれ!?」

「月曜日のシンちゃんが犯人よ……テンション上がりまくりやがってあのやろォ絶対これを持ってきたくねーから遅れて来るんだろクソがッ」

「声が野太くなっとんで……」

「あらあたしとしたことが。ねぇ、サチさんってあとどれくらいかしら?」

「たしか十二時頃と……それまで自宅にしている二階にいらっしゃると朝お会いしたときにおっしゃってました」

「じゃあほんまにあとちょっとやん! 店を貸し切りにして休みの日に来るなんて初めてやわ。っていうか、貸し切りなんてできたんやな」

「よく見てごらんなさいよ、ちゃんと営業時間の隣に書いてるでしょ」

「みなさん、そろそろいかがでしょうか?」


 うわーっ! と二葉たち三人の悲鳴が重なった。店の奥からいつも通りのエプロンをしたサチが、ほてほてとやってくる。

 普段は平日のみが【自由時間】の営業時間になるのだが、せっかくの『テーマ』だからとサチには事情を告げずに時間外の貸出を願ったのだ。


「あら、まあ!」


 サチは驚きの声を上げた。店の中を見回してなんとか間に合った、と脚立に足をかけたまま、二葉はほっと息を吐き出す。


 ――店の中は、一面の桜色だ。


 アッキーが重たいと叫んでいた鉢植えには、本物と見紛うほどの満開の桜と枝の造花が。天井も、同じく桜色のガーランドを吊り下げられている。これはユウが作ったものだ。テーブルの上に置かれたクマのあみぐるみは二葉が。首元には桜のチョーカーをついていた。


 その他にも常連たちが各々考えた桜モチーフの制作物がところかしこに飾られ、店は一面のピンク色だ。ちょっとやりすぎたかも、と思わないでもない。


「まあ、まあ……」

「今回のテーマは『桜』ってことになったのよ。佳苗ちゃんの案なのよ。桜はいつもサチさんが作ってるから、あたしたちだと思い浮かばなかったんだけど……ちょっと早いけど、二月の花見も、乙なものでしょ?」

「本当ですねぇ。だから今回は、みなさんいつも以上にこそこそと作っていらっしゃったんですね……」


 せっかくだから、サチを驚かせようと思ったのだと、二葉たちは顔を合わせて苦笑いする。

 すると唐突に、サチの瞳が涙に滲んだ。

 えっ、と二葉は思わず固まった。もちろんユウも、アッキーもだが、一番その場で動揺したのは二葉である。なんせ、この状況は自分が言い出したことなのだから。


「ご、ごめんなさい! サチさんに、勝手に……!」

「ああ、違うんですよ、佳苗さん。悲しいわけでは……本当に……」


 否定をしつつも、みるみるうちにサチの目には涙が溢れる。メガネを外し、指先でそっとぬぐい声を出そうとするが、喉が震えたようにうまく言葉が出ないようで、佳苗は転がり落ちるように脚立から下りて必死に頭を下げようとしたが、サチに制されてしまう。


「私は、夫のことを思い出すために桜の刺繍をしております。手芸をしているときは、まるで近くに夫がいるようで……。けれど、あの人がいなくなり、もう随分な時間が経ちました。だからときおり考えてしまうんです。私は本当に夫のことを覚えているのだろうか……もしかすると、あの人を忘れるために、桜を作っているのではないか、と」


 一人の時間を大切にするための【自由時間】の店主ですのに、情けないことですが、と向けられたのは悲しげな笑みだ。


 好きだからこそ忘れたくないはずなのに、人は少しずつ記憶を失っていく。

 二葉もそうだ。父の顔も、声も。本当は、もう薄っすらとしか思い出せない。思い返そうとする度にある記憶は薄れ、生きている自分の記憶の中に埋もれていく。

 悲しくて、唇を噛み締めた。

 けれどサチは、まるでつきものが落ちたかのように、にこりと笑った。


「でも、思い出したんですよ。ああ、あの人と二人で桜を見た日があったわ、と。私は隣にいるあの人のことが、好きで、好きでたまらなくて……。あの人のことを忘れてしまっても、私の胸の内にある気持ちは、何度だって蓋を開けることができるんです。……好きという気持ちは、絶対に薄れやしないないのよ」


 二葉は、サチどんな言葉をかけていいかわからなかったし、かけるべきでもないように感じた。長く連れ添った愛しい人を失う悲しみは、父を亡くした二葉の気持ちとは、また別なように思うし、そもそも悲しみの形は人それぞれなのだから。


「ふふ。申し訳ございません。しんみりさせてしまいましたね」

「い、いえ! そうだ。こんなのも作ったんでした!」

「あっ、佳苗ちゃん足元! 鉢植え! 危ないわよ!」

「え? あっ、わあ!」


 店の端に置いていた鞄に手を伸ばし、透明なプラスチックのカップを取り出す。しかし慌て過ぎていたからか、アッキーの助言も虚しく、二葉は思いっきり鉢植えに足を引っ掛けた。鉢植えはあまりにも重たすぎて、二葉が蹴飛ばしたくらいではびくともしない。よかった、と安心したのは一瞬だ。二葉自身の視界がぐるんと回る。


「あっ」


 持っていたカップの蓋が開き、手の中からすっぽ抜ける。軽いカップはくるくるっと反対を向いて、中に詰めていたがぱたぱたとこぼれた。その様を今まさにこけつつ二葉は見送る。そのときだ。


「もうみんな、集まってる?」


 と、ドアを開けたのは美智代だった。

 ひゅう、と強い風が音を立てて吹きこみ、二葉がぽすりとユウに受け止められるのと同時に、「きゃあ!」とアッキーが悲鳴を上げた。冷たい風はぐるりと店の中を駆け回って、中の面々が顔を覆う。


「危ないやんか。怪我ないか?」


 耳元で聞こえた囁くような小さな声にびくついて、二葉はこくこくと頷く。けれどもすぐに、「まあ!」と聞こえた感嘆の声と、全員が向けている視線の先に、なんだろうと顔を見上げて「わあ……」と同じように声を漏らしてしまう。


 ちらちらと、ピンクの雨が降っていた。

 ひらり、ひらりと店の中を軽やかに舞って、かき混ぜられた空気と一緒にこぼれ落ちる。


「な、なあにこれ?」


 ドアを開けたまま美智代はぱちぱちと瞬いている。サチはゆるゆると自身の手の中に落ちた花弁をゆっくりと両手で包み込み、「あらまあ……」とほとりと嬉しげに声を落とした。


「これは、桃色の和紙ですね。まあ……桜の花びらの形に切ってくださったんですねぇ」

「あの、はは……手芸屋さんの隣に、文房具屋さんもあったので……」


 こういうのも、あったら綺麗かなと思いまして、と付け足した言葉は小さく、ぽそぽそとしてしまう。


「ふふ。本当に、色んな花見があるのですね」


 二葉はごまかすように照れ笑いつつ、そもそもユウに支えられた状態のままだと思い出して、ぎゃあ、と飛び跳ねた。「すみません!」とユウを見て、次にサチを見る。「というか、掃除します! ごめんなさい!」と店の床に桜の紙が散らばっている惨状に、さらに悲鳴のような声を出した。


「いや、別に僕はなんも……っていうか、ほんまにでかい声出すようになってきたなぁ」

「大丈夫ですよ、佳苗さん。ホウキを持ってきましょうね」


 にっこりと微笑み店の奥に消えていったサチの横顔には、先程までの悲しみは見えない。

 ほっとしつつも、入り口のドアが閉められた音に目を向けると、「なんか、タイミングが悪いときに来ちゃったみたい」と美智代が肩をすくめていた。「家のことしてたら遅くなっちゃったのよ。でも、今日はちゃんと品評会のテーマは持ってきたわよ」


「あら、美智代さんが作品ってのは珍しいわね!」

「いつもちゃんと作ってるわよ。ただ完成品を持ってくる環境ではないってだけで……ほら、見てよ」


 ざしざしと美智代は大股で歩き椅子に腰掛けて、ずっしりと重たそうな横掛けの鞄をテーブルに置く。そしてファスナーを開けた。なんとなく、全員の視線が美智代の手元に集まる。

 出てきたのは、大きなろうそくだ。


「今回作ったのは、桜のアロマキャンドルよ。桜の花びらっぽい型を作って中に混ぜ込んでみました……。でもあれよねー、透明なジェルキャンドルにして本物の花びらを入れてもいいわよねぇ。楽しくていっぱい作っちゃったので、とりあえず全部持ってきた!」


 どどん、と並んだキャンドル一つひとつは拳よりも大きなサイズなので、圧巻である。


「あ……美智代さんがあんまり来ないのって、もしかして……」

「せやで。【自由時間】だと、キャンドルのええ匂いと、コーヒーの匂いがぶつかるからな。遠慮してはんねん」


 ろうそく、なんて最初は考えてしまったが、なるほどキャンドル……。と新たな手芸の世界を垣間見た。そうこうしている間に、サチがホウキとちりとりを持ってきたため、なんだかんだと全員で手伝いつつ掃除をし終えた。


 散らばった桜の切り紙は綺麗な状態なままだったため、役目は終えたと考えてカップの中にしまい込むことにした。せっかくだし、このままカップの中に入れて部屋に飾っても可愛いかもしれない。


 鞄の中に片付けようとしたとき、ぎりぎりまで作っていた別の制作物が指先に触れてどきりとする。

 アドバイスはユウにもらいはしたが、編み方も自分で考えたもので、作ったのも【自由時間】ではなく、自分の部屋のリビングだ。持ってきたはいいものの唐突に自信がなくなってしまってこのままにしておこうかな、と考えていた。

 でも、と一瞬だけ躊躇して、鞄から勢いよく取り出す。


「あの、美智代さん……。これ、よかったらですけど。キャンドルの下に、つ、使われますか!?」

「え? わっ、すごい。コースターね」


 両手で出した数は、丁度美智代さんが持っていたキャンドルの数と同じだ。使ったのはレース針と白いレース糸で、十センチよりも大きい程度。花のように円状に広がる形をしていて、端にはクマのあみぐるみとおそろいで桜の花を編んで縫い付け、桜の花には茶色い枝も編んでみた。同じものばかりではつまらないので、桜の代わりにうぐいすをイメージした鳥をつけたものもある。


 出来上がったときはいいものができたと胸いっぱいに満足の気持ちが広がったのに、今となってはこのまま消えてしまいたい気分である。


「いいの? すごくかわいい。使うのがもったいないくらい」

「あらまっ。こんなのまで作ってたの? 佳苗ちゃんすごいわぁ」


 美智代は嬉しそうに受け取り、アッキーはパチパチと両手を合わせている。


「初めて編み図から作ったとは思えん出来や。僕は全力で褒めるで」

「あ、ありがとうございます……」


 ユウは淡々としすぎていて、一瞬何を言われているのかわからなかった。もうちょっと、普通は褒めるときは気負いするものじゃないかしら……と二葉は困惑したが、色んな意味で正直すぎる人なのかもしれない。だから会社ではなるべく口を開かないようにしているのかも、と二葉は一歩真実に近づいた。


 二葉が作ったコースターをキャンドルの下に敷きテーブルの各所に並べて、これで店内の飾り付けは完璧だと全員で拍手した。天井や窓などのディスプレイは次の品評会があるまでそのままにしておく予定だそうだが、テーブルの上にいつまでも置くのは邪魔なので、さすがに今だけの姿だ。


 ところかしこに白や、ピンクや、茶色のインテリイアがひしめく店内を見て、アッキーはほう、と息を吐き出す。


「あーいいわねえ。本当に花見をしてるみたい。ねえサチさん。貸し切りの日はご飯の持ち込みもオッケーだったわよね? お弁当とか作ってきたらよかったわー」

「もちろん持ってきてくださってもいいんですが、もう少しで桜も見頃になりますし、せっかくですから本当のお花見をしてもいいかもしれませんよ」

「あらいい考え! 来月しましょ、来月!」

「河川敷に桜の木が並んどったな」

「うーん。たまには子供のためじゃなくって、自分用にお弁当を作っても楽しそう」


 そうしてわいわいする彼らの輪に入ることはできなかった。なんせ自分は新参者だと思うし、こうして彼らを見ているだけで二葉は十分に楽しかった。こういうところが、自分は駄目なんだろうな、と思う。いつも輪に入らず、端から見ているところが、つまらなさそうだ、と人にいわれる原因なのだろう。


 やっぱりここでも……と、考えたとき、二葉はぎゅっと胸が痛くなった。だから、普段の自分とは違って、無理に彼らの会話に入ろうとした……はずなのだが。


「じゃあ、あたし、続きの手芸をしよーっと」

「私は本でも読もうかな。家じゃ落ち着かないし」

「私は明日の下ごしらえをしましょうねぇ」


 と、一瞬で全員が解散して、思い思いに過ごし始めた。


「あ、え……。みなさん、自由、ですね……」

「自分の時間を大切にするのが【自由時間】のモットーやからな。別に、みんなでいる時間を適当にしようってわけちゃうけどな。一人の時間も集まったらみんなになるわけやし」

「わっ、水城さん」


 ただの独り言で、誰かの返答が欲しかったわけではないのだが、いつの間にか隣にいたユウに驚き顔を上げると、彼はむっと不機嫌そうに眉を寄せる。どうしたんだろう、と不安に思ったが、すぐにいつも通りのほほんとした顔に戻っていた。


「僕もやりかけの続き編むつもりやし、佳苗さんも好きなことしたらええよ」

「好きなこと……あ……。その、私は別に、特にしたいことは……」


 そんな日だと思ってはいなかったので、父のかぎ針編みは持ってきていなかった。急いでしたいことも特にない。

 でも言った後で、自分の言葉にしまったと思った。したいことがないから、しないと言ったわけじゃない。ただ、窓のモザイクガラスから映る昼の日差しが綺麗だと思ったから。


 みんなが自分のしたいことをして、桜の花がいっぱいの中でときおり会話が弾むテーブルに、きらきらと赤や、緑や黄色の、たくさんの色が散っている。昼間がこんなに綺麗だなんて、いつもは夜に来るから知らなかった。

 だから、もっと見ていたかった。それだけなのに、上手く説明ができない。


「こ、ここにいるだけで、楽しいので……」


 本当のことなのに、嘘くさく聞こえてしまうことに悲しくなった。でも、ユウは、「なるほどな」と頷き、「佳苗さん、いっつも楽しそうやもんな」と話した。


(え……?)


 聞き間違いじゃない。二葉は目を大きくして、声もなくユウを見上げた。二葉がそんな顔をするから、ユウも思わずなのだろう。二人で見つめ合ってしまう。それがどれほどの時間だったかはわからないが、もしかすると一秒、二秒の短い時間だったかもしれない。


「ねえ、立ってないでこっちにいらっしゃいよ」

「あ。ん、せやな」


 金縛りから解けたみたいに、弾かれたように顔をそらす。「佳苗ちゃんも、ほら」とアッキーに呼ばれた。何度もこくこくと頷き、二葉も席につくことにした。でも、どきどきと心臓の音が今も聞こえる。

 誰にも気づかれないように、二葉はそっと自分の胸を押さえるように身体を丸めた。

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