雷獣(4)
「陰陽道を学ぶ者が、何が書かれているかわからない紙に触れてしまうとは……」
空海が眉をひそめるようにして言う。
「その剣というのが、雷神の剣なのでしょうか、空海様」
「どうかな。その剣が何であったかまではわからないが、その剣が何かを封印していたことは確かでしょうね。そして、浄継殿がその封印を解いてしまった」
空海のその言葉に、浄継は怯えた表情を浮かべる。
「先ほどの老婆も、封印されていたあやかしか何かでしょうか」
「いや、あの程度の
「あの……私はどうすれば良いのでしょうか」
泣きそうな顔で浄継がいう。
「とりあえずは、この件は篁様にお任せしましょう。私は簡単な真言を浄継殿に施しておきます。真言の効果は本日一日。それまでに、この件は篁様が解決してくださるでしょう」
「え、私ですか」
「はい。篁様は昨晩逃げられたという雷獣を捕まえてください」
「あれを私に捕まえろと」
「はい。捕まえるにはコツがいります」
「コツですか」
「ええ。あれは不思議と
「龍笛ですか。あいにく、私は笛は吹くことができません」
「さようでしたか。ならば、
「おお、浜主殿でしたら、その名は聞いたことがございます」
尾張浜主は、
「では、まずは浄継殿に真言を」
空海はそう言うと数珠を取り出し、何やら真言を唱えはじめた。
しばらくの間空海の真言は続いたが、その真言が子守歌でもあるかのように浄継はすっと目を閉じて眠ってしまった。
「これで、本日一日は浄継殿に寄ってくる魑魅魍魎はいないでしょう。さて、次は篁様の番ですね」
空海はそう言うと、篁と共に浄継殿の屋敷をあとにした。
尾張浜主の家は、左京の
市が近いということもあり、この辺りは人の往来が多く、とても賑やかな場所である。
平安京には、市がふたつ存在していた。左京の東市と右京の
東市の通りを抜けると、庶民の暮らす長屋が立ち並んでいる。その一角から龍笛の美しい音色が風に乗って聞こえていた。この龍笛を吹いているのが、尾張浜主だということなのだろうか。
篁と空海はその音色に誘われるようにして、尾張浜主の家を訪ねた。
「失礼。こちらは尾張浜主殿の住まいでしょうか」
笛の音色が聞こえてくる長屋の前にいた若い女に、篁は声を掛けた。
振り返った女は声を掛けて来た篁の背丈に驚きながら、首を縦に何度も振るようにすると、脱兎のごとくその場から去っていった。
驚かせてしまったか。篁は急に声を掛けてしまったことを反省した。ただでさえ見あげるほどの偉丈夫なのだ。それが急に話しかけてきたのだから、驚くのも当たり前だ。
龍笛の音色が止んだ。
長屋の中から、ひとりの女性が姿を現す。
格好は庶民と同じ
「あの、尾張浜主殿……」
「ええ。そうですよ」
女性はそう言って、篁に笑みを浮かべた。
篁は驚きを隠せなかった。尾張浜主が女性だったとは。
「先生、先生。お客様ですよ」
女性は長屋の奥へと声を掛ける。
すると年老いた小柄な男が、ゆっくりとした動きで篁たちの前に現れた。
「どちらさんかな」
「あ……尾張浜主殿でございますか」
「いかにも」
篁はここで自分の勘違いに気づいた。
尾張浜主は、先ほどの女性ではなくこちらの小柄な老人であった。
それを後ろから見ていた空海は、口元に笑みを浮かべている。
知っているなら教えてください。篁は空海のことをじっと見たが、空海は素知らぬ顔で篁のことを見つめ返していた。
「なに用かな。笛の弟子は取らないと決めているのだが」
「いえ、弟子入り志願をしに来たわけではございません。申し遅れました、私は弾正台の小野篁と申します」
篁が名乗ったところで、浜主は篁の後ろに立っている僧の姿に気づいたようで驚きの声をあげた。
「これはこれは、空海様ではありませんか」
「お久しぶりです、浜主様」
「これはまた、どういうことですか。弾正台のお役人と東寺のお坊様が一緒に来られるとは。狭い家ですが、ささ、上がってください」
ふたりは浜主に促されて、浜主の家へとあがりこんだ。
部屋は板の間がふたつ続いているだけであり、そこに所狭しと龍笛、
「散らかっておりますが」
そういって浜主は置かれていた楽器を脇に寄せて、ふたりの座るスペースを作った。
「して、本日はどのようなご用件でしょうか」
「実は浜主殿にお願いがございまして」
篁は雷獣の一件を浜主に聞かせた。
それを聞いた浜主はにわかに信じがたいといった顔をしていたが、篁の隣にいる空海が何も言わずに頷いていたので、これは信じるしかないのかと意を決した。
「わかりました。私は龍笛を吹いていればよいのですね」
「はい。決して危険な目には合わせません。そこは、この小野篁が請け負います」
「私も浜主様の隣におります故、危険はないでしょう。ここは篁様を信じましょう」
空海も篁の言葉を後押しするように言った。
決行は、今宵。
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