雷獣(2)
足は速かった。四足で走る獣は辺りに時おり、小さな雷を放ちながら走り続けている。
その獣は美福門から大内裏を出ると、そのまま
もう少しで追いつけるのだが、手を伸ばそうとすると逃げられてしまう。
その繰り返しであり、気がついた時には壬生大路をそのまま南下し、東寺まで来ていた。
辺りは静まり返っている。
雨はすでに止んでいたため、篁は菅笠と蓑を脱ぎ捨てた。
その獣は立ち止まると、ちらりとこちらを見た。
これは遊ばれているのか。
篁はそう思った。
捕まりそうで捕まらない距離を保ちながら、この獣は逃げている。
普通、狼や狐などであれば、一定の距離を保ちながら逃げるのではなく、逃げる時はあっという間にこちらの手の届かないところへと逃げてしまうはずだ。
雷神の剣が化けた獣というだけあって、なにか知恵でもついているというのだろうか。
「篁様、見つけましたか」
後ろから広幡浄継が走ってやって来る。
一瞬ではあったが、篁の気が後ろに逸れた。
なにか痺れに似たような感覚があった。
そこまでは覚えていた。
「篁様、しっかりしてください」
気がついた時、篁は広幡浄継に抱き起こされていた。
何が起きたのかわからなかった。
「あ、あの獣は……」
「獣ですか?」
「ああ。雷神の剣が獣に姿を変えて逃げ出した」
「なんと。雷神の剣が雷獣になったと」
篁は広幡浄継の手を借りて起き上がると、辺りを見回した。
場所は東寺のすぐ脇であり、先ほどまで雷獣のいた辺りには黒い焦げ跡のようなものが残されていた。
「どちらに逃げたかわからぬか」
「いえ。私が駆け付けた時には、篁様が倒れていて」
「そうか。しかし、なぜ雷獣は逃げるのだ」
「…………」
広幡浄継は、何か知っているようだったが口を噤んでいた。
その後も、周辺を探してみたが雷獣の姿はどこにも見当たらず、その日の捜索はそこで終えることにした。
弾正台に戻った篁は、濡れた直垂と袴を脱いで乾かし、宿直が終わるまで執務室に籠っていた。
朝になり、交代の者がやってくると、篁は自分の屋敷へと戻った。
その頃には直垂も袴も乾いており、屋敷に戻るとすぐに水浴びをしてから床に就いた。
「もし」
篁が目を覚ましたのは、どこからか声が聞こえて来たからだった。
誰かが屋敷を訪ねてきたらしく、家人が応対をしている声が聞こえてくる。
「どなたかな」
自室から出た篁は、家人の応対する声の聞こえた玄関に顔を出した。
そこには網代笠を被った僧侶がひとり立っていた。
「貴方様は。失礼いたしました」
その僧侶の姿を見た篁は慌てた。
「ちょうど側を通ったものですから」
網代笠から顔を覗かせたのは、
「何やら、また面倒ごとに巻き込まれているようですな」
「空海様に隠し事は出来ませんね」
篁は苦笑いをしながらいうと、昨晩の出来事をすべて打ち明けた。
「なるほど、雷神の剣が雷獣に変わったと。これまた奇妙な話でございますな」
「はい。しかし、この目で見ております
「べつに篁様を疑っているわけではございません。ただ、奇妙なことだと言っているだけでございます。その陰陽寮の者をいま一度お訪ねになった方がよろしいかと思います」
「広幡浄継殿をですか」
「ええ。拙僧もお供させていただきますので、行きましょう」
「はあ」
よくわからないと思いながらも、篁は家人に伝えて空海と共に屋敷を出た。
平安京の中を歩く篁は偉丈夫であるがゆえに目立っていたが、隣を歩くのがあの空海であるということに気づく者はほとんどいなかった。網代笠を深く被っているということもあるが、どこか気配を消したように歩く空海は、その存在自体を消してしまっているかのようだった。
陰陽寮の入口で篁が声を掛けると、
「これはこれは、誰かと思えば小野篁殿ではございませんか」
浄浜は隣にいる空海には気を留めることも無く、親し気な口調で声を掛けて来た。
「浄浜殿、広幡浄継殿はいらっしゃるかな」
「広幡浄継か……。本日は居ないが」
少し表情を曇らせて浄浜が言う。
「昨晩、広幡浄継殿は宿直でありましたでしょうか」
篁の隣にいた空海が網代笠を少し持ち上げるようにして言った。
その正体に気づいた浄浜は、驚きの表情を見せる。
「実は……」
浄浜によれば、広幡浄継は陰陽寮の陰陽生(陰陽寮で陰陽道を学ぶ、学生のこと)であり、数日前から病に臥せっており陰陽寮には出てきていないとのことだった。その病というのが奇妙なものであり、広幡浄継は屋敷に籠ったきりで、誰にも会いたくはないといっているそうだ。
では、昨晩に篁が会った広幡浄継は、誰だったのだろうか。
篁は奇妙な胸騒ぎを感じながら、広幡浄継の屋敷の場所を浄浜から聞き出し、そこへ向かうことにした。
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