空亡(3)

 廃堂から篁が飛び出したと同時に、廃堂がぜた。

 突風が吹き荒れ、篁の身体は廃寺を囲うように設置されていた塀に叩きつけられる。

 背中を強打した篁は、呼吸が一瞬止まり、目の前が真っ暗になった。


「おい、しっかりしろ」


 誰かに声を掛けられて気を取り戻した篁が目を開けると、そこには鬼が立っていた。

 すぐ近くに落ちていた鬼切無銘を拾って構えようとするが、それがラジョウであるということに気づき、篁は太刀を下ろした。

 状況がよくわからない篁は、辺りを見回す。

 廃堂があった場所周辺は、焼野原のようになっており、その中央に黒い霧のようなものに包まれた鬼が立っていた。鬼の姿は先ほどよりも大きくなっており、禍々しさも増大している。


「ラジョウ、あれと戦えるか」

「冗談だろ」


 ラジョウが真顔で言う。


「あれは獄卒程度じゃ抑えきれない、魔の物となってしまっている」

「私でも無理か?」

「ああ。たとえ、その鬼切無銘があったとしても、無理だな」

「では、どうすれば」


 篁がラジョウに問う。


空亡そらなきを待つしかあるまい」

「なんだ、その空亡とは」

「百鬼夜行の最後に現れるとされている、あやかしだ。空亡が現れれば、すべてが終わる」

「大丈夫なのか、それは」

「別に空亡が現れたからって、何かが起きるわけじゃない。ただ現世に存在してはならない者たちが、常世とこよへ戻されるというだけだ」

「そうなのか。だが、その空亡はいつ現れる」

「それは俺にもわからん。とりあえず、空亡が現れるまで時間を稼ぐしかないだろう」


 ラジョウはそれだけ言うと、篁の影の中へと消えていった。

 参ったな。

 篁は心の中でそう思っていた。時間を稼ぐとはいえ、あの化け物をどうにかしてここで抑えなければならないのだ。

 立ち上がった篁は、立ち眩みに似たものを覚えた。口の中を切ったらしく、血の味がする。


 黒き霧に包まれた鬼が吠えた。

 その声は聞いたこともない獣のような鳴き声だった。

 鬼の鳴き声に呼応するかのように、鬼火があちこちで燃え上がる。


「これはまた禍々しい景色じゃな」


 背後から声が聞こえた。

 よく通る声だった。

 振り返ると、そこには網代笠あじろがさ裳付もつけ衣という姿の僧侶が立っていた。


「失礼ながら貴方あなた太刀けんでは勝てませんね」


 僧侶はきっぱりと言った。


「しかし、あやつを止めなければなりません」

「それは、そうですね。では、ここは拙僧がひと肌脱がさせていただきましょう」


 そう言うと、僧侶は網代笠を脱いだ。

 どこかで見覚えのある顔だった。

 しかし、篁はこの僧が誰であるかを思い出すことは出来なかった。

 僧侶は両手の掌を合わせると、何やらぶつぶつと唱えはじめた。

 真言。そう呼ばれる言葉があると聞いたことがあった。

 おそらく、この僧が発している言葉は真言なのだろう。

 僧の言葉が続くにつれて、廃堂跡地に立っている鬼の周りにある黒い霧が薄れていく。


 鬼が吠えた。

 周りの空気が震えるほどの大きな声だった。

 時間を稼ぐ必要がある。篁は直感的に感じ取った。

 篁は鬼切無銘を手に取ると、鬼に向かって歩みだした。

 体がピリピリと痺れるような感覚があり、鬼に近づけば近づくほど、それは強くなっていった。


「まだ生きていたか、人間」


 鬼が篁のことを黄色い目でギロリと睨む。

 そのひと睨みだけで、後ろに下がりたくなるような威圧感がある。

 篁は鬼切無銘を構えると、剣先を鬼へと向けた。

 背後からは、僧の唱える真言が聞こえてきている。よく通る声だ。

 篁にとっては聞き心地の良い声であるのだが、どうやら鬼の方はそうではないらしく、鬼は苛立った様子を見せていた。


「鬼よ、平安京たいらのみやこをお前の好き勝手にさせるわけにはいかん」

「黙れ人間。邪魔ばかりしおって」


 鬼が吠え、鬼火が燃え上がろうとするが、その鬼火はすぐに消えてしまう。

 これは僧の真言のためなのかどうかはわからないが、鬼の力が弱まってきていることは確かだった。


 まだなのか。

 篁は内心そう思いつつ、鬼との距離を縮めていく。


「人間よ、お前だけは絶対に許さんからな……」


 鬼がそう口にしたと同時に、天から一筋の光が降り注いだ。

 それはまるで光の柱のようだった。

 その光の柱は、ちょうど鬼のいる場所に射し、鬼の身体が輝いて見えた。

 鬼はその光から逃れようとしたが、僧侶の口から発せられる真言が言葉の鎖となって鬼の身体を捕らえた。


「くそ……」


 鬼の身体が光によって、浄化されていく。

 黒い霧は消え去り、鬼の肉体が光の力で分解される。

 最後まで残ったのは、鬼の黄色く濁った両目玉だった。

 その眼は、僧侶のことを睨んでいたが、次第にその目玉も浄化されていった。


 すべてが終わった時、東の山の向こう側から、朝日が昇ろうとしていた。


「助かりました、お坊様」

「なに、拙僧は自分の務めを果たしただけじゃ」

「失礼ですが、お名前を伺えますでしょうか」

空海くうかいと申します」

「なんと、東寺とうじの空海様でしたか。これはご無礼を」


 当時、空海は太政官符により嵯峨さが天皇てんのうから東寺を下賜かしされ、真言しんごん密教みっきょうの道場としていた。


「それにしても、あの光の柱は何だったのでしょうか」

「真言密教に伝わるもので、大日如来様の力をお借りしたのです」

「そうなのですか」


 篁はわかったような、わからないようなといった感じで答えた。


「別の言葉では、空亡そらなきなどとも呼ぶようですが」

「空亡とは何なのでしょうか」

「拙僧も詳しい話は存じませんが、穢れを払い去る力のようなものだと聞いております」


 そういうと空海は持っていた錫杖しゃくじょうをシャンと一度だけ鳴らした。


「篁様も冥府の者と付き合いがあるようですが、ほどほどになさいませ」


 空海は微笑みながら言って網代笠を被る。

 なぜ、そのことを空海が知っているのか。篁は問おうとしたが、その時にはすでに空海は篁に背を向けて去って行こうとしていたため、篁はその背中を見送った。

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