地獄の沙汰(4)

 福正寺の井戸から現世に戻ってきた篁は、狗神の情報を集めるために弾正台へと向かった。深夜ではあるが、弾正台には宿直とのいの人間が何人かおり、仕事をしていた。


「これはこれは、小野様。このような時間にどうなさいましたか」


 突然深夜に職場へと顔を出した篁に驚いた巡察弾正たちが声を掛けてくる。


「ちょっと用事があってな。そうじゃ、仕事が終わったら皆で飲んでくれ」


 篁はそう言って、手土産として持ってきた酒甕さかがめを宿直の休憩室に置いた。

 宿直の人間は、数時間おきに交代で平安京内の巡邏を行っている。

 そのため、巡邏に出る者と弾正台で留守を預かる者に別れて勤務を行うのだった。


「そういえば、狗神の話を聞いたことはないか?」


 世間話をしながら、さりげない感じで篁は狗神の話を持ち出した。

 その言葉に巡察弾正たちが顔を見合わせる。


「ちょうど、さっきもその話をしていたところなんですよ」

「なんと。では、知っているのか」

「はい。先日、大内裏から出てきた牛飼いの童子から、狗神を見たという話を聞いたばかりでございまして。その話を先ほど皆でしていたところです」

「して、その童子はどんなものを見たというのだ」

「とある公卿の牛車についていた時のことらしいのですが――――」


 そう言って巡察弾正は語りはじめた。


 その夜、公卿くぎょうは大内裏の外に住まう女房にょうぼうの屋敷を訪ねるために、牛車で移動をしていた。

 公卿には妻と子がいるが、新しく来た女房(平安時代の女房とは、朝廷や公卿などに仕えた女官、もしくは女性使用人のことを指す。基本的に女房の仕事は主人の身の回りの世話などを行ったりする身分の高い使用人であったり、乳母うばや家庭教師であったりした)に入れ込んでいるらしく、夜な夜な牛車に乗っては大内裏の外にある女房の屋敷へと出向いていっていたそうだ。

 最初に狗神を見つけたのは、牛飼うしかいわらわだった。

 急に牛車を引く牛が落ち着かなくなったため、何かが起きていると察した童が辺りを見回すと、とある屋敷の塀の辺りから青白い炎が見えたという。

 その青白い炎の数は一つ、また一つと増えていき、気づいた時には牛車の周りを取り囲むように青白い炎が飛んでいた。

 童は慌てて警護のさむらいに声を掛けたが、侍には青白い炎の存在は見えないらしく「臆病な童じゃ」と笑われた。

 困った童はどうにかして牛を移動させようとしたが、牛は怯えてその場から動こうとはしない。そうこうしているうちに、どこかからいぬの鳴き声が聞こえて来た。

「狗神だ。狗神だ」

 童はそう騒いだ後、白目を剥いて気を失った。

 慌てたのは、牛車の警護をしていた侍たちだった。先ほどまでは童の言っていたことを鼻で笑っていたのだが、いざ童が失神してしまうと、本当に何か得体の知れないものがすぐそばにいるのではないかと怯えはじめた。

 そこに通りかかった者がいた。それが偶然であったのか、それとも必然であったのかは、本人に聞いてみないとわからない。

 白い水干に烏帽子姿の小柄な男。陰陽寮の刀岐ときの浄浜きよはまである。浄浜はゆっくりとした歩調で近づいてくると、懐より何かの形をした紙を一枚取り出して、失神している童の額に押しあてた。

 すると童は目を開け、何事もなかったかのように起き上がった。

 また浄浜が何かを唱えると、牛も停めていた足を再び動かし始め、牛車は無事にその場所を通過したそうだ。


「刀岐浄浜が絡んでおるのか」


 篁は顔をしかめながら呟いた。

 あの陰陽師が絡んでくると、ろくなことが無い。

 また面倒な仕事を閻魔に押し付けられたものだ、と篁は考えていた。


「その他にも、狗神の話はあるのか」

「ええ、私も聞いたことがあります」


 そう言ったのは別の巡察弾正であった。

 こちらの話も深夜の平安京で起きたものであり、狗神の鳴き声を聞いたがやはり姿は見てはいないということだった。


「なるほど」


 話を聞き終えた篁は、どうしようかと悩んでいた。

 この件には、刀岐浄浜が一枚噛んでいるということは確かなようだ。

 陰陽寮の人間というのは、どこか不気味であり、取っ付き難い。浄浜もそうであるし、先日出会った藤原ふじわらの並藤なみふじに関しても同じである。どこか苦手だ。篁はそう感じているのであった。

 しかし、苦手だなんて言っている場合ではなかった。現に狗神は現世で動き回っている。今のところ、これといった被害は出ていないようだが、これから先も同じであるとは言えないだろう。被害が出る前に何とかしなければならない。

 篁は腰を上げることにした。

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