北極星 ―彼と彼女の道しるべ―

きひら◇もとむ

第1話 モイスチャー成分配合

このクラスの生徒にとって金曜の午後は拷問だ。昼食を摂ったあとはただでさえ眠くなるものだが、金曜日は四時間目に体育の授業があり、疲れた身体で強力な睡魔と対峙せねばならないのだ。


「ふあぁぁぁ……んぐっ」


藤村そらは大きなあくびをすると、授業中であることにハッと気づき、それを噛み殺した。いつの間にか意識が遠退き、ウトウトしていたようだ。周りを見回すと机に突っ伏す者、船を漕ぐ者、突然身体がビクッとなる者など、クラスの半数以上が撃沈していた。

彼らの名誉のために一応言っておくが、宙の通う東高は都の指定を受けた進学重点校。ほとんどの生徒が大学へと進学する名門校ではあるのだが……。


教壇には白髪頭に老眼鏡、ヨレヨレのジャケットを羽織った教師が立っている。古典の原田小五郎先生だ。彼は「眠りの小五郎」ならぬ「眠らせの小五郎」の異名を持つほどマイペースで単調な授業で知られているベテラン教師。授業中すべての生徒を眠らせたという実績?が東高の都市伝説として語り継がれているほどだ。


「えーっと、それでは、教科書四十ページを読んでもらいましょうかねぇ。えーっと、それでは、今日は七日だから……えーっと、出席番号七番の人」


原田先生のいつもの手法、それは日付から当てる生徒を決めること。あとはその日付の倍とか半分とかが指されてゆく。

どうやら三十一番の宙にとって今日は安全な日のようだ。出席番号が素数だとリスク回避も比較的容易に行うことができる。自分以外の誰かが指されたことで安心したのか再び睡魔が襲ってきた。


「眠らせの小五郎」とはいえ今は授業中である。眠いからといって眠っていい訳ではない。宙は怒涛のように押し寄せてくる睡魔と必死に戦っていた。

まぁ、いつもの金曜日の見慣れた光景ではある。だが今日は体育の授業が水泳だったので疲労が激しく、圧倒的に勝ち目の無い戦いを強いられていた。

薄れゆく意識の中で原田先生のしゃがれ声が聞こえた。


「はい、えーっと、次は七の四倍で、えーっと、それでは二十八番の人」


「……はい」


少しおどおどした小さな声で返事をすると、その女子生徒はコホンとひとつ咳払いをして教科書を読み始めた。


「冬はつとめて。雪の降りたるは いふべきにもあらず……」


まるでささやくかのような耳ざわりの良いその声は、宙の疲れた身体を包み込む。優しくて柔らかで、そしてモイスチャー成分でも配合されているのかと思うほど潤いのある声だ。


――なんだこの声、落ち着くなぁ


あまりの心地よさに身を委ねた瞬間、宙の意識は深い深い海の底へと沈んでいった。

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