ヴァーツラフ広場、からくり座、深夜1時27分
渡邉 清文
1
その人形には顔が無かった。
何も見えておらず、何も知らなかった。
都をあとにしてヴルタヴァ川沿いの街道を上流へ、一台の馬車がボヘミアの地を南下していく。頑丈そうな馬が一頭、幌のついた四輪の荷台を引き、荷台の先頭には二人の男が並んで座る。恰幅の良い中年男と痩せた若い男。ともに都会の洒落者らしくシャツも上着もくたびれたところが無い。若い男が手綱を持ち、馬車はゆっくりと進む。
幌の側面には、操り人形が踊る絵と〈からくり座〉の名前が大きく描かれて目立っていた。ボヘミアは伝統的に人形劇が盛んだ。プラハにはいくつもの劇団が存在して競争も激しい。大小さまざまな劇団の数は、都の塔の数に並ぶとも言われる。からくり座は新興の劇団で、中年男はその座長ヤン、若い男は演出家のトマーシュだ。
川の上流へ向かう街道は、緩やかではあるが上り坂だ。ゆっくりと一週間掛けて、クロムブルク城の塔が森の向こうに見える国境近くの田舎町に、馬車はたどり着いた。中心はちょっとした広場になっているが、昼飯時も終わったせいか人も少なく賑わいに乏しい。
「どこですかね、お目当ては」
「まずは腹ごしらえといこうや。昼飯も食ってないんだ、空きっ腹じゃあ商談なんかできんよ」
座長の体格で元気を維持するには、食べ続けることが重要だ。馬車にも食料は積んであったが、町に着いてから旨いものを食べようということで、こらえていた。馬車を降りて広場を歩くが、いくつかある食堂はみな昼食の時間を終えていて、一台だけやっていた屋台でビールとソーセージの山盛りを注文する。店の前のテーブルに落ち着くと、まずはビールを一杯飲み干す。ボヘミアでは、どんな田舎でもビールはうまい。
ジョッキを空にして、トマーシュが訊く。
「こんな田舎だとは思わなかった。座長のお眼鏡に叶う人形があるんですかね」
「俺の情報網を信じろ」同じく、ジョキを空にしたヤンが答えて、もう一杯注文する。
「今まで噂にも上がって来てないのが不思議なんですよ」
「最近になって、技術革新とやらがあったらしいのさ」
「ろくに、工場もなさそうな田舎ですよ」
屋台の主人が、焼いて温まったソーセージとザワークラウトを皿一杯に盛ってくる。ビールも一緒だ。
「昼の分の残りは全部盛りましたよ。たらふく食ってくだせえ」
「おう、ありがとう。トム、お前の疑問に答える前に、まずは食事だ」
ソーセージもうまかった。三分の二はヤンの腹におさまった。トマーシュも自分の体格には十分以上に食べた。腹がふくれれば疑問が吹き飛ぶわけではないが、しつこく追求する気持ちは弱くなるし、座長は答える気がなさそうだ。満足げな座長の機嫌を損ねたくはない。仕事中は上下関係など抜きで激論を交わすことも厭わぬ二人だが、この幸福な時間帯だけは例外だ。話題を変える。
「ジョルジュって男、フランス人ですよね」
「ああ」
「座長はフランス語できるんですか。私はチェコ語とドイツ語しか話せませんよ」
「今更聞くか。メルシィ、ボンジュール、ジュテームってなもんだ。ここに居着いてから三十年以上になるらしい。チェコ語でもドイツ語でも、話せるだろ」
おおよそ、かの皇帝が失脚する前後と言うことになる。高価な人形を買い求めたジョルジュの客は、貴族たちだったかブルジョワジーだったのか。ヤンは屋台の主人に金を払い、ジョルジュの自宅兼工房までの道を聞くと立ち上がった。馬車の手綱をトマーシュがふたたび握る。
「新しく、何かと何かを組み合わせる。次の時代を作る。そう言うものは、辺境とか境界線で、生まれんるだよ」ヤンが上機嫌で語る。技術革新の話の続きだとトマーシュは気づく。
「境界線——」
「国境、南の森の向こうはもうボヘミアじゃないだろ。こういうところから、出てくるんだよ」
話しながら馬車をゆっくりと進めると、まもなくジョルジュの人形工房にたどり着いた。
田舎町にしては大きめの邸宅が並ぶ通りの隅である。周囲と同じく、二階建てで何部屋もありそうな煉瓦造りの邸宅だ。門の前に馬車を止めて降りる。玄関に、長身痩躯の男が出てきた。白髪と皺が老いを感じさせるが、背筋は曲がっていない。老人は、ヤンとトマーシュと馬車の幌を見て問うてきた。
「プラハから手紙をよこしたのはあなた達か」
フランス訛りのチェコ語で問う低い声は、けして大きくはないが明瞭に聞き取れる。
トマーシュは座長が書いた手紙の文面を見ていないが、言葉巧みな男であることは劇の台本から理解している。ヤンは紳士のように振る舞い、挨拶する。
「いかにも。私がからくり座の座長、ヤンと申します」
「人形工房なら、プラハにも他の街にもたくさんあるだろう。こんな辺境まで、よく来られたな」
「辺境だからこそ、私の探し求めるものがあると信じて来たのです」
「ふむ、入るが良い。どんな
「
玄関を入ると、二人は人形に囲まれた。大小様々な大きさの人形が、床に座っていたり、背中を支えられて直立していたりする。天井から垂れ下がる糸で吊るされている操り人形もあった。昔話に出てくるような黒衣の魔女や道化師や尊大な王様などのデフォルメされた顔立ちの人形もあれば、人間に似た精巧なつくりの白い顔に、高級そうな生地の服を着た貴婦人もいる。ボヘミア風のものもフランス風のものも雑多に置かれていた。壁自体を見ることがほとんどできない。飾られた人形、その衣服、靴、髪、帽子、あるいは腕、脚、胴などのパーツで、一面埋められている。案内されて奥へと廊下を進むと、人間の手のひらほどの大きさの、彩色前の無表情な頭部が壁に上下五段、横いっぱいに並んでいて、空洞の目がどこかを見ていた。
「手広く、作られているのですな」
「もう、長いこと作ってきたからな。見習い小僧の頃から数えれば、六十年は越える」
客間に通されたヤンとトマーシュは、部屋の中央に置かれたソファに座った。やはり壁一面の大小の人形に囲まれ、その目が自分たちを見つめているように感じられる。
ジョルジュが自分で淹れたコーヒーをカップに注いで持ってきた。田舎でも、近頃はコヒーが手に入るのだ。
「お一人で暮らしているのですか」
「助手の若いのがいるが、出掛けておる。町の人たちとの付き合いも長い。不便はせんよ」
「私はまた——」ヤンは向かいに座ったジョルジュの方へ身を乗り出し、前のめりに訊いた。「人形がコーヒーを運んできてくれたりしないかと、期待したのですが」
「ずいぶんと楽しい空想だな」
ジョルジュは立ち上がると、部屋の隅に置かれた小さなピアノと人形のところへ近づいた。一フットほどの身長の白くふくよかな顔立ちで青い眼の少女の人形が、その大きさに合わせたアップライトピアノの前に座っている。細かなレースを襟元や袖ぐりにあしらったワイン色のドレスに、顔や手先の磁器の白さが映える。ジョルジュは人形の手をよけて、ピアノの蓋を開けた。人形の両手が鍵盤の上に乗る。そして、ヤンたちの角度からは見えないピアノの裏にあるゼンマイを回した。
人形の細い両手が、鍵盤の上を動き、演奏が始まった。客間に、オルゴールの音色が響く。
しばらく——その間は三分に満たなかったのだが——ヤンとトマーシュは無言で音楽に聴き入った。
人形は確かに両手を動かしピアノを演奏して見せたが、それは演奏の型だけで、その指が鍵盤を叩いたわけではない。ゼンマイがピアノの中に隠されたオルゴールを鳴らし、同時に、人形を動かしていたのだ。
「自動人形といってもな、ゼンマイやふいご仕掛けのからくり、職人の遊び心が生んだ子供騙しよ。コーヒーを運んでくるなど、夢の話だよ」
子供騙しというが、市庁舎の天文時計にも匹敵する精巧な機械だとトマーシュは思う。彼のような人形職人が、パリには何人もいたのだろうかと想像する。ボヘミアとフランスの技術に、何十年の差があるのだろうか。
だが、座長はまったく満足していなかった。
「こんなものではないでしょう、あなたが作られた人形は。そして、私が求めているのも、これではないのです。夢の話? いえ、あなたの創造力は、私たち田舎者の夢を超えているはずだ。そして幻を現実に変える技術を、あなたはお持ちだ」
「いったい、どんな噂を聞いているのか知らないが——」
「あなたの祖国には、このボヘミアを支配するオーストリアや周辺のプロイセンやババリアなどより遥かに進んだ技術があると聞きます。英国の産業革命と情報革命から学び、いっぽうで七百年前のアラブ人、アル=ジャザリーの伝説とも言われる技術を現代に蘇らせ、スイスの時計職人たちの精密技術を取り入れた――そんな動く人形があること、この田舎にも私のように目ざとい者はいるのです。それに、あなたがこの村にいるのは、森の向こうの城のためではないのでしょうか? 周囲を囲むオーストリアやババリアには窺い知れぬ技術、皇帝の軍事力の密やかな源であったとも噂される技術のために」
「大国に妄想を膨らませたと思えば、次は城ひとつの小国に想像力を逞しくするのかな」
「ご存知のとおりボヘミアは操り人形による人形劇が盛んな国です。百塔の都には百の人形劇団があり、他の都市にも、小さな町や村にも旅芸人の人形劇はやってくる。そしてボヘミア内外を行き来する私たちには、ヨーロッパ中に広がる情報網があります。この森の向こうの城にも、私の知己はいるのです。あなたの人形を、もっと知っているという人物にも会って話を聞きました。私などの想像を超えた、人形の物語を。
一見の客に、秘蔵の人形を見せることはできないとお考えですか、それとも、金の無いものに用はないとお考えですか」
ジョルジュは、座長の追求に対して問いで応えた。
「どちらも正解だが、もっと大事なことがある。あなたは人形に何をお望みか。そして人形劇の座長と言うならば、その人形で何をしたいと考えておるのか?」
ヤンは野心家の目つきでジョルジュを睨み、ふてぶてしく笑って応えた。
「ぜひ、聞いていただきたい。そして叶えさせていただきたい。私の
ジョルジュは、しばらくヤンの夢を楽しそうに聞くと、二人を別室に案内した。
周囲の邸宅と同じ広さをもつジョルジュの屋敷は、ほとんどの部屋が人形製作に関わる場所のようであった。案内されたのは、広々とした空間の家具のない部屋だった。片面は壁一面の鏡になっていて、まるで踊り子の練習場だ。奥の壁際に置かれた作業台のような大きな机と、周囲の用途の不明な機械類だけが床を隠している。その机の上に何体もの人形が仰向けに並べられていた。身長二フットほどの、どれも少女の装いをした人形だ。
ジョルジュはその一体を抱き上げ、床の上に立たせた。暗めの金髪に隠れた首の後ろを右手でさぐる。
そこに、スイッチがあったのだろう。ジョルジュが手を離すと人形はわずかにバランスを崩すが、自分自身で補正して、その場に直立した。丸顔の中心で大きな茶色の瞳が、さらに大きくなり瞳孔が拡大する。その変化はほんのわずかなものに過ぎないが、ヤンとトマーシュに生命を宿していると錯覚させるには十分な変化だった。
人形はさらにゆっくりと右足を上げ、倒れることなく一歩前に踏み出す。右足が着地すると、次は左足を床から離し、前へ動かしてさらに一歩。二歩、三歩と歩く。
二人が息を詰めて見守る中、人形は床の中央まで歩き、鏡の方を向いて停止した。
「若い方は、トマーシュと言ったかな。鏡に向かって踊ってごらんなさい。得意だろう」
「踊る……」
「この子が、後を追うよ。好きなように踊ってみればよい」
トマーシュは、ヤンと知り合ってからくり座に落ち着くまでは、旅芸人として諸国を放浪していた。踊って見せることも多かった。まさか自分が全力で踊ってみせて、人形が付いてくるとは思えない。歩いているのを見ただけで内心驚愕していただけに、何をすれば良いか分からなかったが、とりあえず、一歩二歩とゆっくりと前へ進み、人形の背後に立つ。人形の瞳が人間と同じようにものを見ているか分からないが、彼女が鏡を見られるなら、自分の三倍の高さの巨人が背後にいるように映っているはずだ。
両手をゆっくりと上げていくと、人形も同じ速度で手を上げてくる。あの瞳は、見ることができるのだ。手を前へ、上へ、下へ、左右それぞれに違うかたちに動かしてみる。すべて、完璧に追随してきた。次は足を動かす。右へ一歩踏み出し、重心を移動する。滑るように足を動かして、人形も見事に重心を移動させる。
回転し、膝をあげ、足を前に突き出す。関節の可動域もバランスの取り方も見事なものだ。人間だって、たとえばヤンにはできない。動きの速度をゆっくりとあげていく。
どこまでもついてくる人形に対して、トマーシュはジャンプを試してみたくなった。トン、と爪先で床を蹴り高く跳ぶ。
人形は跳ばなかった。床に立ったまま静止していた。
「残念ながら、この子はジャンプまではできない。姿勢の制御や着地が難しいんだ。だから、自分の判断で静止したんだよ」
まるで不完全な作品であるかのようにジョルジュが説明する。しかし、トマーシュからしたらまったく信じられなかった。飛び跳ねなかったとしても、ここまでの自分の踊りは簡単なものではない。踊りの得意な人間でも、初めて見たその場で動きを合わせることはほとんどできないのだ。
「残念なものですか、信じられないです。それと——自分の判断なんて、人形に、意思があるように言われるのですね」
「意思とは何か、によるな」
「他の人形は、どうなんです」
人形が並べられている机のほうへ移動したヤンが、ジョルジュに訊ねた。人形たちは一体づつ顔立ちや髪の色が異なり、個性が感じられる。
「一番丈夫で、動きが優れているのは、今の人形だよ」
「そうではなく、意思については」
「この子たちの意思などと、想像が先走りしすぎるな。人形は、与えられた命令と、外からの光や音の刺激と、自分の体の姿勢や動きから総合的に計算して、次の動作を決めている。その計算を意思と言うのならば、ここに並べている人形たちは意思を持っていると言っても良い。あなたが、人間の意思をそのようなものだと考えるならね」
「光や音の刺激とおっしゃいましたが、目が見えて耳も聴こえると言うことですか。それなら、こちらの人形は? 作成途上とか」
一体だけ、顔のない――目も口もない人形があった。短い黒髪が乗った頭部、輪郭はきれいだが、白い無地の顔。顔が無い故に、性格や個性が見えない。
「顔はないが、外からの刺激にはとても敏感で繊細だよ。周囲を把握する能力に長けている。センサー、というやつだ。把握するだけでなく、反応も、他の人形より速く、力強い。つまりバランス感覚に優れていて——ジャンプして着地することもできる。見たいかね」
「ぜひ」
部屋の中央で鏡に向かって顔のない人形が置かれた。またその後ろに立って、トマーシュは手を上げる。人形が同じ動きで追ってくる。徐々に、前の人形の時よりも動きを速くしていった。回転し、手を広げ、足を上げ、体を仰け反らす。人形は人間よりも頭の比率が大きい、激しい動きに対してバランスを取って追いついて動けるのが不思議なくらいだ。反応は速い。わずかな動きにも応答する。外の刺激に敏感だというのは本当なのだろう。
けれど贅沢にも、動きに物足りなさを覚えはじめた。手足の反応は素早いが、動きがまっすぐすぎる。人形に、人間の表現力を期待するのは間違っているのだろうが、トマーシュはそんなことは忘れて、かなり力を入れて踊り続けて――跳んだ。
同時に顔のない人形も跳ぶ。無事に着地して足も身体も壊れない。その場で片足で回転してもう一回ジャンプする。
そこに、ジョルジュが割り込んできた。
「そこまでだ。壊れてしまう」
わずか、三分に満たない踊りだが、トマーシュは汗をかいていた。動きを止めると、人形も糸が切れたように静止する。
「この人形は、自分の判断では止まらないのですね」
ヤンが指摘する。冷静に、人形の踊りを見ていたようだ。
「いかにも。限界を、把握できていない。トマーシュのような人間の相手をしたら、壊されます」
「気に入った。私の劇団にぜひいただきたい。この顔なしも、さっきの人形も」
「ちょっと待ってください、ヤン。私からも訊きたいことがあります。あなたの人形たちは、動作は素早いが、動きが単調だ。繊細とおっしゃるが、今の動きでは物足りない」
「君が踊りを教えたら、もっとうまく踊れるようになるよ。日々、学習するからね」
踊りの興奮のままに無理な要求をしてしまったが、ジョルジュの回答はトマーシュの期待を裏切らなかった。素晴らしい原石だ。磨けば舞台映えする。
ヤンは二体の人形を買い付け、二人はプラハへ戻った。用意してきた金は、すべて支払いに充てた。二体だけで、この一年で貯めた売り上げのほとんどが消えた。劇団の運営資金の最低限を残して、ヤンの個人的な蓄えは失ったが、最高の投資だと言って、帰り道は始終上機嫌であった。
ヤンは顔のない黒髪の人形をココン、金髪の人形をクリードラと名付けた。チェコ語で、繭と翼と言う意味である。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます