第7話 あずきの旅立ち 1

「たっだいまーーーー!!」

 

 あずきは、リビングのソファにダイブした。


 玄関を開けて帰宅の挨拶をし、ランドセルを放りながらソファにダイブするまで、所要時間約3秒。


「ママーー! 麦茶ちょうだーーい!!」


 ソファに寝っ転がったままテーブルに置いてあるクーラーリモコンに手を伸ばし、即座にオンにする。

 片手で設定を『冷房・十六度・強風』にする。

 いきなり全開の指示を出されたエアコンが音を立てて始動する。

 バッチリ風の当たる位置を陣取ったあずきは、冷風の気持ちよさに思わず目を細める。


 ――ママはエアコンが苦手で暖房も冷房もいつも控えめな温度設定をするけど、外暑かったんだもん。夏よ? 気温三十度よ? 学校から自宅までの距離はせいぜい三百メートルだけど、たったの三百メートルで大汗なんだから!


「ママ、洗濯物取り込んでるのーー! 冷蔵庫に入ってるから自分で注いでちょうだーーい!」


 二階からママの声がする。

 あずきは仕方ないと諦め、冷蔵庫を見に行った。


「えっと……お? どら焼き発見! これもいっただき!」


 食器棚から取ったコップを右手に。麦茶の入った冷水ポットを左手に。口にはドラ焼きの袋を咥えて、あずきは冷蔵庫を蹴って閉めた。


 ソファに戻りながら、あずきは横目でチラっと階段を見た。

 ママはまだ二階で洗濯物と格闘していて降りて来ない。

 ちょっとホっとする。 

 だって、こんなとこ見られたら怒られるに決まってる。


「あずき! あなた女の子なんだから!」

 

 お嬢様育ちのママにはこういう粗野な行動はNGだ。


 ――でもさ、仕方ないと思わない? 両手とも塞がってるんだもん、足で閉めるしか無いじゃんね。


 あずきがソファにあぐらをかいた瞬間、狙いすませたかのように黒い影があずきの膝に乗ってきた


「おはぎーー、暑いよぉーー」

「にゃあ」


 黒猫のおはぎは一声鳴くと、あずきの抗議など意にも解せず、あずきの膝の上で丸くなった。

 少し赤みがかった黒の毛色の猫だ。


 おはぎを拾ってちょうど一年になる。

 小学五年生の夏のある日、一人で下校中、猫の声が微かに聞こえた。

 あずきが全身を耳にして音の発生源を探ると、それは近くのゴミ捨て場だった。

 『拾ってください』と書かれた段ボール中で、千切った新聞紙にくるまれて子猫がか細く鳴いていた。

 

 今どき珍しい、漫画のような捨て方だったが、見た瞬間あずきの全身が保護欲の塊となった。

 目もろくに開かない、震えてみぃみぃ微かに鳴くだけの生まれて間もない子猫。

 そんなもの持ち帰ったら両親に怒られるかもしれない。

 でもあずきには、子猫を放って帰ることは出来なかった。

 

 段ボールごと持ち帰り、泣いて頼んだ。

 両親を相手に沢山沢山、約束事をした。

 勉強を頑張る。お手伝いもする。

 あずきの情熱にほだされて許してくれた両親だったが、今振り返ってみると、こなせた約束はせいぜい半分程度だ。


 ――まぁそれも織り込み済みだったんだろうけどさ。


 ともあれ、こうしておはぎは野咲家の一員となった。

 ちなみに命名者は、あずきだ。

 丸まって寝てる姿が、おはぎそっくりだったからだ。


「うりゃうりゃ。しょうがないにゃあ」


 おはぎをわしゃわしゃ撫でてやりながら、あずきはテーブルに置かれているチラシ類に手を伸ばす。


「電気屋さんに、スーパーに、不動産屋さんに……ん?」


 チラシの束をめくっていた手が止まる。

 手紙だ。チラシの下に隠れていた。

 宛先は『野咲のざきあずき様』とある。

 即座に裏返す。

 差出人は……『オリヴィア=バロウズ』


「ママ! おばあちゃんから手紙来てるーー!!」


 あずきの突然の大声に、一瞬、膝の上のおはぎがビクっと体を震わす。

 トントントンっと音を立てて、洗濯物を抱えたママが階段を下りてきた。


「はい、これがあずきの分ね。ちゃんとタンスに仕舞っておきなさい。ちょっとあずき、麦茶は出しっ放しにしないで」


 テーブルに洗濯物を置いたママは、冷水ポットを回収し、そのままキッチンに入って行った。


「そういえば一昨日おばあちゃんから電話があったわ。今年の夏は来れるのかって。その件でしょ」

「行くの?」

「そのつもりだったんだけど、パパの仕事が忙しくてお盆まで行けそうにないわね。何だったらあずき、先乗りする?あなた暇でしょ? おじいちゃんもおばあちゃんも喜ぶわよ、きっと」

「一人で先行しろって? 十二歳の女の子に電車の一人旅は厳しいなぁ」

「今どきスマホもあるし、いざとなればGPSで場所は追えるし、何の問題もないでしょ」


 ソファで寝っ転がってるあずきをよそに、ママはお風呂場に行く。

 あずきと違ってママは清潔好きの働き者で、尻が温まるということが無い。


 ――娘が悪者にさらわれるとは思わないの? ママ。


 改めて手紙を見ると、ご丁寧に筆ペンで書いてあった。

 その字の綺麗なこと綺麗なこと。

 生粋の英国人のはずなのだが、書道の先生かってくらい上手な字だ。

 

 手紙を開けてみると、中に肖像画が入っていた。

 神々しく光る肖像画。

 すなわち、お札が。


 あずは慌てて立ち上がって、お風呂場に走って行った。

 泡がたっぷり付いたスポンジを片手にお風呂掃除をしているママが、あずきの気配を感じて振り返った。


「ママ、栄一先生が二人も入ってる……」


 あずきはママに向かって札を広げて見せた。

 渋沢栄一の顔が眩しく映る。


「あらあら、ホント孫には甘いんだから。でも、それだけ貰ったら行かないわけにいかないわね。向こうまでの乗り換えスケジュールは組んであげるから、行ってらっしゃい。着いたら着いたでまたおこずかい貰えるわよ、きっと。後で電話掛けてあげるから、ちゃんとお礼を言いなさいよ」

「はーーい」


 あずきは顔をニヤけさせつつ、お札をしげしげと眺めた。

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