【短編】美しく生まれたお前の目をつぶす

海島るる

美しく生まれたお前の目をつぶす

今は夕方。17時30分。

「お待たせー」

「阿久津さん」

「浴衣も草履も歩きにくくて。遅れちゃってごめんね」


そう言って、片足をあげた阿久津茉莉花は笑った。大きな目が半月の形になって、リップグロスをつけているのか、つやつやした唇がすっと弧を描く。ポニーテールに結われた髪が揺れて、白いうなじを撫でる。水色の浴衣の上に、祭りの提灯がオレンジの光をちらちらと落とし……やっぱり綺麗。阿久津さんは本当に美人だ。


「えー! 佐野さん、浴衣じゃないの⁉︎」

「浴衣、持ってないし」

「なんだぁ、残念」


阿久津さんはぷぅ、と頬を膨らませる。あざといけれど、顔が整っているからすごく可愛い。


「だ、大丈夫? 靴擦れできてない?」

思わず見惚れてしまったのを取り繕うみたいに、私は阿久津さんの足元に視線を落とす。

「全然平気! ……ふふ」そんな私の顔を覗きこむ阿久津さん。「佐野さんって優しいんだね」

「え、や、優しくなんか…」

「優しいよ。ていうか、あたし佐野さんのこと何も知らないから」

「……私だって、阿久津さんのこと何も知らないし」

「……そうだよ。あたしたち、昨日まで話したこともなかったんだもん。それなのに、こんなことになっちゃうなんてね」


阿久津さんは私の右手をぎゅっと握った。


「じゃ、行こっか。今日だけ限定のデート、気楽にね?」

「……なんかそれって微妙じゃない?」

「あはは!」


私と阿久津さんは、なぜか手を繋ぎながら、お囃子の音が鳴り響く神社へと足を踏み入れた。



阿久津茉莉花は、本来であれば私なんかが近づける存在ではないのだ。


ダークブラウンに染めたさらさらのストレートヘア。薄くメイクをしているが、スッと通った鼻筋とぱっちりと大きな目、桜色の唇は、メイクの有無にかかわらず、誰の目にも明らかな美形だ。それに加えてスポーツ万能、成績優秀、家もお金持ちらしい。こんな完璧な美少女はフィクションの中にしか存在しないと思っていた。だから、高校の入学式で初めて彼女を見たときに、あまりの衝撃に目を離せなかったし、それと同時にこの世はなんて不平等なんだと悲しくなった。


阿久津さんはすぐにみんなの人気者になった。阿久津さんは才色兼備で、おまけに愛想もとてもよかったから、誰もが仲良くなりたがったし、彼女もそれに丁寧に応えているようだった。

私もお近づきになりたくない、と言ったら嘘になるけれど、気づけば阿久津さんの周りにはクラスの中でも所謂「一軍」と呼ばれるような、派手な男女が輪を成すようになっていた。そんなところに、地味で平凡な私が入っていけるわけがない。しかも、もし入っていったところで……仮に、私が阿久津さんと仲良くなれたとして。はたしてあの美しい阿久津さんの隣にいることが、本当に幸せなのだろうか?


「私だったら、無理無理」目の前で菓子パンを頬張る三村奈々子は、度の強い眼鏡の奥の瞳を光らせた。「阿久津さんは完璧すぎて、恐れ多くて隣になんていけないよ。だって、見てみなよ。阿久津さんの周り……松本さんに富永くん。平沼さんに南さん。全員ガンメンヘンサチが中の上だよ?」

「ちょっと奈々子、声が大きいよ」


なぜか興奮気味の奈々子を諌めて、弁当のたまごやきを箸でつまみあげた。昼休みの今は、教室内に人も多い。それに、奈々子の声はよく通るのだ。


「ガンメンヘンサチとか、良くないと思う。そういうの……」

「なんでー?」

「そ、そりゃ……」たまごやきをもごもごと咀嚼しながら、「人の顔に点数をつけるなんて良くないじゃん……」

「えぇ……? 佐野は真面目すぎ! でも、別に良くない? 貶してるわけじゃないんだし。阿久津さんのガンメンヘンサチは激高いわけだし、底辺の私たちがいくら言ったところでなんのダメージもないでしょ、今更!」

「うーん。そういうことじゃない気がするんだけどなぁ」


一つ目の菓子パンを食べ終わり、今度はおにぎりの包装をがさがさとほどき始める奈々子。

もちろん、奈々子に悪気がないのはわかるけれど、それでも阿久津さんの見た目を偏差値化して、殿上人のように扱うのはいかがなものだろうか。そういうことをあっけらかんと話してしまう奈々子を良くも悪くも友達として評価してもいるのだが。


「……でも、奈々子の言う通りかもね」

「んー?」

「いや……やっぱり私たちと阿久津さんは住む世界が違うんだろうなって」


阿久津さんを初めて見たとき、現実の存在とは思えないほどの衝撃を受けて、なんというか、この世界の限界のその先を見せられたような気になったのだ。佐野璃子の世界は「すぐそこまで」で終わりだと思っていたのに、阿久津さんと出会ってしまった途端、「手を伸ばせばもっと先へ行けるかもしれない」と——この世のものとは思えない美しい人間の世界へと、自分も連れて行ってくれるかもしれないと、そう思ってしまったのだ。

でも、現実はそうではなかった。私はずっと「私の世界」のままで、阿久津さんの周りには、元々「あちらの世界」にいた人たちが群れを成した。それが全ての答えだった。


「……憧れた?」

「え……」

「憧れちゃったんでしょ? 佐野は、阿久津さんに」

「……」


思わず頷いてしまった。絶対茶化されると思ったのに、意外にも奈々子は小さく「……わかるよ」と呟いた。

私が顔を上げると、奈々子は教室の真ん中をじっと見つめていた。そこには取り巻きに囲まれて楽しそうに笑う(笑っても顔が崩れていない…)阿久津さんの姿があった。

「奈々子……」

阿久津さんを見つめる奈々子の視線は、重いような軽いような、まだら色で、どこか寂しげだった。

「……圧倒的に美しいものを見たとき。みんな、夢見ちゃうんだと思う」

「夢……?」

「……しらんけど」

奈々子はそう呟くと、おにぎりにかぶりついた。もごもごと咀嚼し、飲み込んで、またかぶりついて、飲み込んで。無言でおにぎりに集中し始めた奈々子を見て、私も弁当の白米を箸ですくうのだった。



「みてみて! りんご飴あるよ!」

阿久津さんは草履にも慣れてきたらしく、人混みを器用に避けながら「りんご飴」と大きく描かれた屋台へ駆けていく。すれ違う人が振り返って、「ねぇ、あの子すごく可愛い」と感嘆の声を漏らす様子を横目に見ながら、私は阿久津さんの後を追った。


「最近、フルーツ飴って流行ってるよね」たまに流し見するSNSの投稿を思い出しながら、「いちご飴とかぶどう飴とか。そういうのもあるんだよね」

「そうそう。佐野さんって、流行り物とかわかるんだ。意外かも……」


なんの悪気もないといったふうに、大きな目をまんまるくする阿久津さん。


「……阿久津さん、もしかして私のことちょっとばかにしてる?」

「そんなことないって!」


おそらく本当にばかにする意図なんてなかったのだろう、阿久津さんは無邪気にころころと笑った。鈴が鳴るみたいな、綺麗な声。


「お嬢さんたち。うちのは美味しいよ!」店主のおじさんが大きさの異なるりんご飴を手に掲げて、「お嬢さんたち可愛いから、安くしとくよー」

お嬢さん"たち"、可愛いから。その言葉が引っかかって、「いや、私は別に……」と思わず口からついて出た言葉を、阿久津さんが、

「ありがとうございます〜」

と慣れた様子で遮った。阿久津さんはおじさんに笑顔を向けながら、こちらに振り返ると、「こういうのはありがたく乗らせてもらお?」と囁いた。やっぱり阿久津さんくらい綺麗だと、日常的にこういうことが起こるんだな。そして、そんな彼女と一緒にいることで、こちらまでその恩恵を受けられるなんて。


「おじさん、りんご飴の大をふたつね」勝手にわたしのぶんの会計を済ませる阿久津さん。「いろんなフルーツ飴もいいけど、りんご飴が結局一番可愛いみたいなところあるよね」


おじさんから受け取ったりんご飴のひとつを、私に差し出す。赤く透きとおり、つやつやしたりんご飴が阿久津さんによく似合っていた。それを受け取ることを一瞬躊躇うくらい。


「……ありがと」

「ん!」阿久津さんは微笑んで、りんご飴に齧り付いた。「おいひー」

「……うん。おいしい」


ふと、いつも阿久津さんの周囲にいる松本さんたちのことを思い出す。そうか。こうやって、あの子たちはいつも阿久津さんのこんな表情をたくさん見て、それでさっきの私みたいに、たまにおこぼれを貰ったり……そう考えたところで、あぁ私、今すごく最低なことを、と思って、もさもさした姫林檎のかけらを飲み込んだ。



「佐野、今週の土曜日は空いてるよね?」


朝のホームルームが始まる直前、席に着いたところで、奈々子がいそいそとやって来た。

「今週の土曜日? 何かあったっけ?」

「おい! 祭りだよ、ま・つ・り! 毎年この時期にやってるじゃん、花虫神社のやつ」

「あー! もうそんな時期かぁ」


花虫神社。ちょっと変わった名前だけれど、この町では一番古く、また一番馴染みのある神社だった。毎年夏になると、神社ではお祭りが開催される。食べ物やゲームなど屋台の数も多く、町の外からも人が来るくらい、そこそこの規模のお祭りなのだ。


「去年みたいに、また一緒に行こうよ。飽きたらベンチで駄弁るやつやろ!」

「あのむなしい時間ね」

「むなしいって言うな」

奈々子が私の肩を小突いたところで、教室に担任が入ってきた。

「じゃ、またあとで予定決めようね!」

クラスメイトが一気に慌ただしく席に戻って行く。今年も奈々子とお祭りかぁ。去年は屋台をちょっと回ったあと、すぐ疲れてラムネを飲みながらずっとくだらない話をして、早い時間に別れたんだっけ。


「ホームルームを始める……が、その前に」教卓に手をついた担任の吉田が、ぐるりと教室を見渡して、「今週末に花虫の祭りがあるな。行くやつも多いと思うけど、あまり羽目を外しすぎないように、と教頭から伝言だ。毎年誰かしら、何かをやらかすやつがいるからな」


教室の前のほうでは、阿久津さんが隣の席の松本さんとくすくすと笑い合っていた。スマホでカレンダーのようなものを見ながら、何かを話している。……彼女たちもお祭りに行くのだろうか。


「来年は受験、その前に遊んどけ!高校二年生は青春のど真ん中!ってことで、お前らは特に注意するようにとのことだ」

「大丈夫だよ、先生〜」ふふふ、と笑いながら松本さんが、「私たちの世代は危ない橋とか、渡らないので。ね、茉莉花」

「それな、わかる」

松本さんに同調するように笑う阿久津さん。吉田は人気のある女子に絡まれたのがまんざらでもないのか、ひとつ咳払いをしてから、

「そう言うやつが一番やらかすんだ」

「ひどぉい」

教室中が、あはは、とぬるい笑いに包まれた。

阿久津さんたちはきっと、みんなで浴衣を着て、男女グループで行ったりして。きゃっきゃっ、ってはしゃいで。絵に描いたような青春、って感じになるんだろうな。


「……当日、絶対会いたくないなぁ」


誰に向けるともなく、呟いた。



なんとかレンジャー、なんとかキュア。なんとかプリンセス。子ども向けのアニメはあまり見ていないけれど、奈々子が日曜日の朝にやってる特撮に最近ハマっているらしくて、キャラクターと名前だけはなんとなくわかる。綿飴の屋台には、そんな人気アニメのイラストが袋に描かれた綿飴がずらりと並んでおり、最近の屋台は流行にも敏感なんだなと驚く。

私が綿飴を見ているすぐそばで、


「カメラアプリはRAINなんですけど、大丈夫ですか……?」

「もちろん!」

「わー! ありがとうございます!」


中学生くらいの女子グループに囲まれた阿久津さんが、一緒に写真を撮ってあげていた。一体何が起こっているのかというと、阿久津さんと歩いていたところに、あのグループがやってきて「お姉さんめちゃくちゃ可愛いな、って思って……リンスタやってますか? よかったら一緒に写真撮りたいです……!」と、きらきらした目で話しかけてきたのだ。

リンスタというのは写真投稿に特化したSNSアプリで、阿久津さんは快く自分のアカウントを教えて、写真まで撮ってあげているというわけだ。


「リンスタのストーリーで自慢しよー」

「肌綺麗ー! スキンケア何使ってるんですか?」

「今度一緒にミックトック撮りましょー!」


さっきたまたますれ違っただけの関係なのに、この女子グループのコミュニケーション能力すごいなと思うし、それに嫌な顔ひとつせず、にこにこ対応する阿久津さんもすごい。というか、私が中学生の頃はあまりこういう感じじゃなかったし、おそらく彼女たちも所謂「一軍」というやつなのだろう。


「佐野さん、ごめん! お待たせ」


やっと中学生女子から解放されたらしい阿久津さんが小走りで戻ってきた。


「ううん、お疲れさま……それにしても、阿久津さんすごいね。アイドルみたい」

「そう? わりとよくあるよ」

「よくあるの?」 


どういう世界なんだろう。


「松本たちと商店街を歩いてるときも、結構あるし……。でも、このへん田舎だから、あたしくらいのレベルでも、なんか良いなって思われやすいのかも」自嘲気味に笑う阿久津さん。それは嫌味でもなんでもなく、本当に心からそう思っているような口ぶりだった。「……あたしなんて、全然みんなが思ってる感じじゃないのに」

「え……」

「ううん、なんでもない! 佐野さんは、こういうことないの?」

「あ、あるわけなくない? 私と……あと奈々子、三村さんが一緒に歩いてても、誰からもなんとも思われないでしょ」

「そうかなぁ? ていうか、ふたりともすごく仲良いよね」

「……まぁ、そうだね」

「いいなぁ……」


そう言って、阿久津さんは、私がさっきまで見ていた綿飴の袋を指でくい、とつつく。それを見た店員のお兄さんが、少し不審そうにこちらに一瞬視線を向けた。

「阿久津さんだって、松本さんたちと仲良いでしょ」

冷やかしだと怒られたら面倒なことになると思って、私は阿久津さんの浴衣の裾を引いた。あ、と小さな声をあげて、阿久津さんは私に引かれるがままに、綿飴の屋台を離れる。


「松本たちは、なんというか……友達だけど、うーん」


再びふたりで人混みへと入っていく。提灯のオレンジに照らされ、祭りの喧騒がより温度を増しているように思えた。


「……ちがうの?」

「ちがくないけど……」

「……そっか。今日も、本当は…」


そう言いかけて、振り向いた。


阿久津さんは小さな子どもみたいに、口をきゅっと結んでこっちを見つめていた。


「……ごめん」

「ううん。佐野さんが謝ることじゃない」


阿久津さんは裾を掴む私の手を振り切って、すっと前に歩みを進めた。

その後ろ姿は、小さく頼りなげで。人混みに紛れて、そのままどこかに行ってしまいそうで、私は柄にもなく小走りで彼女を追いかけた。



「え、一緒に行かないってどういう……」

「どうもこうもないでしょ!」


木曜日の昼休みのことだった。お弁当を広げる人で賑わう教室の中心で、松本さんが阿久津さんに掴み掛かった。


「私、言ったよね? 富永とのこと、協力してほしいって。それで茉莉花も、南も平沼もみんなで約束してくれたじゃん。私と富永がうまくいくこと、祈ってるって……」

「それは本当に思って……!」

「じゃあ! どうしてあんたは裏切るの……⁉︎」


松本さんの声は震え、涙でくぐもっていた。阿久津さんは呆然と立ち尽くしている。


「……ありゃ、痴話喧嘩ですな」

「会話聞けば誰でもわかるよ」専門家の真似なのだろうか、目を細めてふむふむと呟く奈々子を諭す。「ここまで丸聞こえなの、逆に心配になるくらいだよ」


聞こえてくる話から徐々にわかったのは——あのグループは男の富永くん一人に対して、女子の阿久津さんと松本さん、平沼さんと南さん、奇跡のバランスで成り立ってるなと思っていたけれど、実際は松本さんと富永くんをくっつけるべく、女子が同盟関係にあったらしい。

今週末も、その合意のもと、他のクラスの男子数名も巻き込み、みんなで夏祭りに行く約束をしていたのだが……あるひとりの行動で、すべてが台無しになったというのだ。


女子の同盟なんて知ったこっちゃない富永くんが、阿久津さんに告白してしまった。

入学式で一目惚れして、仲良くするようになってからもずっと好きだったと……。


「富永に色目使ったんでしょ!」阿久津さんを涙目で睨みつけた松本さんは、「富永のこと誘惑して、好かれて、影で私のこと笑ってたんでしょ⁉︎」

「違う! そんなことしてない、松本の気持ち知ってて、そんなことするわけないじゃん!」


阿久津さんが松本さんの震える手を握る。


「……富永くんのことは、友達としか思ってなかった」阿久津さんにとって、富永くんの告白は完全に想定外だったようだ。「だから、私はちゃんと断って…」

「うるさい。うるさい、うるさい、うるさい!」


松本さんは涙でぐずぐずになりながら、阿久津さんの手を強く振り解いた。教室内は騒然として、ほかのクラスから噂を聞きつけた野次馬がやってきて、廊下の窓から覗き込んでいる。


「……んじゃなかった」

「え……?」

「こんなことになるなら!」松本さんは、真っ直ぐに阿久津さんの目を見て、「こんなことになるなら、あんたなんかと仲良くなるんじゃなかった!」

「! ……」

「……すごく可愛いな、綺麗だなって。仲良くなりたいな、って思った。……でも、こんな性格が悪いと思わなかった」

「松本……」


「ちょっと! 結衣子、さすがに言い過ぎだって!」

これまで松本さんと阿久津さんのやりとりを見ているだけだった南さんと平沼さんが、松本さんの言動に耐えかねて止めに入った。


「止めるの、おせー」

「奈々子、声が微妙にデカい」

「だってぇ……」奈々子はいつもみたいに菓子パンを頬張りながら、「結局、松本さんには逆らえないんだなあのふたりも……」

「松本さん、気強そうだもんね」

「そんで、こうやって女が喧嘩してるとき、火元になった男がいないのは……なんなの?」

「富永くん、今日お休みだもんね……」


富永くんは風邪を引いたとかで、朝に欠席がアナウンスされていた。もしかして、風邪ではなく阿久津さんにフラれたことが原因なのでは……と思わないでもない。


南さんや平沼さんに肩をさすられながら、松本さんは教室を出て行った。阿久津さんは決まりが悪そうに、けれど泣きそうとも怒っているともとれる、なんともいえない顔をして自分の席に座った。集まっていた野次馬も、女は大変だなぁとか富永は羨ましいなぁとか言いながら、自分のクラスに戻って行った。


「いやぁ、阿久津さんは美人でなんでもできて良いなぁと思ってたけど、こういうの見るとちょっと可哀想だね」


奈々子は菓子パンを緑茶で流し込む。


可哀想、か。たしかに、自分が自分のまま、ただ存在しているだけなのに、勝手に期待されて、望まない告白をされて、突然関係性が壊れて。責められて、裏切り者扱いされて。それは、可哀想なのかもしれない。……けれど。


「……阿久津さんは」


なんでだろう。


「そう思ってないんじゃないかな」


阿久津さんは、可哀想じゃないと思う。そして、本人もきっとそう思っていない。根拠なんて何もないけど、なぜかそう感じてならないのだ。


そのときだった。

それまで、じっと自分の机を見つめていた阿久津さんが不意にこちらを振り返った。


「え……」


彼女の大きく力強い瞳に見つめられる。その目は静かな湖の水面のように、透明だけれど、畏怖の念すらおぼえるほどの迫力をたたえていた。形の良い唇が引き結ばれ、真顔なのに、何か心の奥を見透かされているような、不思議な気持ちになる。


「なになに、阿久津さんこっち見てる……?」

「……わかんない」


なぜか怯え気味の奈々子をよそに、私と阿久津さんは10秒ほど見つめ合った。そして、先に視線を前に戻した阿久津さんによって、永遠のような瞬間は終わった。


その夜、登録していないアカウントから突然メッセージが送られてきた。それはなんと阿久津さんからだった。

白い花のアイコンから発せられたのは、『今週の土曜日に、一緒に夏祭りに行かない?』という誘いのメッセージだった。



さっきまで茜色だった空は、いつのまにか夜闇に覆われていた。腕時計の針は19時過ぎを差し、人の数も心なしか増えているようだった。7月の半ばということもあり、この時間になっても生ぬるい風が頬を撫でる。


「喉かわいたぁ」

「ちょっと蒸し暑いよね」

「ねー。よいしょ、と」


阿久津さんは、さっき屋台で買ったラムネの栓を開けた。ごくごく、という音ともに彼女の白い喉が上下するのを見て、なんとなく目を逸らした。私もペットボトルの緑茶に口をつける。


「……ふぅ。そういえば、三村さんは大丈夫なの?」

阿久津さんはもうラムネを飲み干していた。早い。

「あ、うん。夏風邪こじらせただけみたい。熱も下がったって言ってたし」


あの木曜日の夜、突然阿久津さんから夏祭りの誘いをもらった。どうして私に声をかけたのかはわからなかったが、そのときは、すでに奈々子と一緒に行く約束をしているからと一度は断ったのだ。しかし、翌日、奈々子が風邪を引いて学校を休んだ。


「たぶん、エアコンつけたまま薄着で寝たりしたんだと思う」

「あはは、三村さんはちょっとやりそう」また、ころころと笑う阿久津さん。「……でも、松本とのあんなところを見たあとなのに、一緒に行ってくれるなんてね」

「……うん」


奈々子が休んで、明日の夏祭りにも行けなさそうというのが肌感でわかったその日の昼休み。すでに松本さんたちとは別行動になっていた阿久津さんは、わざわざ私の席まで来て一言、「行く?」と。


「まあ、奈々子が行けないなら、断る理由もないし」

「へー。……嫌じゃなかったの?」


何かを探るみたいに、じぃ、と見つめてくる阿久津さん。たぶん、というか確実に松本さんとのことを言っているのかもしれないけど、私に直接関係のあることでもないし、正直そんなに気にしていなかったので、別に?とだけ答える。

阿久津さんは、小さくそっか、と言った。


「あれから、なんかみんなよそよそしくてさ」

「そう……なんだ」

「うん。あたしが人の男を取る女だってウワサ?が流れてるらしくて」

「……そうね」


変化は私でもわかるくらい、明らかだった。出所はおそらく松本さんだと思うけど、「阿久津さんは人の彼氏をとった」からはじまって、「援助交際をしている」といった酷いものまで、根拠の乏しいいろいろな噂が出回っていた。


「だから、佐野さんもあたしのこと嫌なんじゃないかって思って」

「別に、私には良くも悪くも関係ないというか……」阿久津さんにとっても不本意だっただろうし。「でも、それならどうして私のことを誘ったの? 私が言うことでもないけど、そんなに仲良くないじゃん。私たち」


つい言い過ぎたかな?と思って、阿久津さんを見ると、一瞬ぽかんとした顔をしたあとに、急に嬉しそうに、「言うねぇ〜!」と私の肩をぽんぽんと叩いた。


「まぁ、事実だし……」

「そうだよね」


阿久津さんは美人で、完璧で有名人だったから、その存在はよく知っていたけれど、それでも私は阿久津さんと話したことなんてほとんどなかった。だから、阿久津さんから祭りに誘われた理由は本当にわからないまま。


「……なんでだろうね」

「はぁ?」

「実はわかんないんだよね、あたしも!」


阿久津さんはくるりと回ってみせた。水色の浴衣に描かれた白い小花模様がふわり、と柔らかく宙を舞ったように見えて、つい目をこする。阿久津さんのポニーテールの束が、かろやかに揺れた。まただ。また見惚れてしまった。


「なんだろうね。でも、あたし、あの夜、すごく佐野さんと話してみたくなったんだ。仲良くなりたい、って思ったんだ。……それじゃ、だめかな?」


そう言って、阿久津さんは真っ直ぐに私を見つめた。お囃子や太鼓の音、人の声。その瞬間、祭りの喧騒が遠のいていくような、この世界が私たちふたりだけになってしまったかのような。藍色の夜空を、オレンジの灯りがほわりと照らす。


「……だめじゃない」


何故か、ずっとどこにあるのかよくわからなかった「幸せ」が、今ここにあるような気がした。それはあの憧れの、手を伸ばしても届かない別世界の、美しい人が目の前にいて。この瞬間だけは私だけを見てくれているとわかるから、だと思った。

阿久津さんは私の言葉を聞いて、ふふ、と微笑んだ。


「ねえ、金魚掬いやろ?」

「……うん」


阿久津さんが私を誘った理由は、結局よくわからないまま。奈々子が風邪を引いたから、たまたまこうなっただけ。強い動機も、運命も、ここには何もない。

それでも、私はこの時間がずっと続いてほしいと、つい思ってしまうのだった。



奈々子と一緒に祭りに行くんだったら、別に浴衣じゃなくてもいい。いつもの私服で良い。ふたりで軽く屋台を見て、あれはボッタクリだよ、と適当に笑って。そのうち飽きてラムネを飲みながら、ベンチに座って駄弁って終わるから。


でも、阿久津さんと一緒に行くのなら、浴衣を着ようかなと思った。

母に「私の浴衣、なかったっけ?」と聞いたら、どうしたの?もしかしてデート?と言われた。そうじゃないよ、と答えると、母は笑いながら、


「だって、あんたが浴衣で着飾るなんて聞いたら、そうかなって思うじゃない」


引き出しの奥にしまわれた、オレンジ色の浴衣を引っ張り出してきた。私が小学校高学年のときに買ってもらったものだった。つまり、そのとき以来、浴衣を着る機会なんてなかったということになる。


「ちょっと丈を直せば着られるんじゃない?」


その浴衣は、ファストファッションの店で買った、薄い生地のいかにも安っぽい感じのものだった。さっきの母親の言葉が頭をよぎる——『あんたが浴衣で着飾るなんて』。


あれ? 私、この浴衣を着て、阿久津さんの隣を歩こうとしてるの?


「……お母さん、ごめん。やっぱりいいや」


急に泣きたくなった。浴衣がファストファッション店のものだったからじゃない。でも、自分がこの浴衣を身にまとい、阿久津さんの隣を歩いている姿を想像しただけで、胸が苦しくなったのだ。


「えー? なんだぁ、せっかく出したのに」


私は阿久津さんと一緒にお祭りに行けるからと、阿久津さんと近づけるからと、無意識に、無邪気に同じ「土俵」に立とうとしていた。そんなことをしたらどうなるかなんて、わかりきっているはずじゃないか。

自分から傷つきに行くことなんてないんだ。


私はいつもどおりの服を着て、少し早めに家を出た。



「わぁ、いっぱいいる!」


さっきまで金魚掬いの屋台は小さな子どもたちでいっぱいだったが、ちょうど人が捌けたタイミングで阿久津さんと一緒に生け簀を覗き込んだ。

水の中を、朱色や黒のたくさんの金魚が泳ぎ回っている。


「お嬢ちゃんたち、金魚掬いはやったことあるかい?」鉢巻を巻いた店主のおじさんが、ふたりぶんのポイを取り出して、私と阿久津さんに差し出す。「今の子は、金魚掬いをやったことないって人が多くてね。ちょっと見ててね」


おじさんは自分もポイを手に取ると、水面にそっと近づけた。


「金魚掬いは勢いが大事だから。こうして、金魚にポイをそっと近づけたら……こう!」


ぱしゃ、とポイが小さな水飛沫を立てて一瞬水中に沈む。おじさんが素早くそれを水上にあげると、薄い膜のようになった面にぴちぴちと朱色の金魚が跳ねていた。


「すごい!」

まるで子どもみたいに目を輝かせる阿久津さん。たしかに、金魚掬いがこんなにスピード競技みたいな感じだとは思わなかった。


「バッと沈めて、バッとあげる。とにかくスピードが大事」掬った金魚を再び水中に戻すおじさん。「ほれ、やってみて」


「できるかなぁ……」

ポイを構える阿久津さん。

「狙ってる子とかいるの? 赤とか黒とか」

「まずはとれるかとれないか……だから、それ以前の問題かも……」

阿久津さんはふにゃりと笑って、生け簀の隅にいる朱色の金魚に狙いを定めた。とくに何の変哲もない普通の金魚。

「よーし……」

そっと、水面すれすれを滑らせるようにポイを近づけた。そして、

「よっ!」金魚を掬い上げた。「いけた!」


しかし、喜んだのも束の間、思いのほか元気よく跳ねた金魚は濡れて柔くなったポイの紙を突き破るように、水中にぼちゃ、と落ちてしまった。


「えぇ⁉︎ そんなー!」

「惜しかったね」

「意外と難しかった……。佐野さんは?」

「私はこれから。……どうしようかな」


生け簀の中を泳ぐ数えきれない金魚たち。人間には存在しない、ひらひらと透けた尾びれを漂わせる姿は、涼しげでとても魅力的だ。その中でも、黒い金魚……目が大きく張り出した出目金は、一際目を引いた。


「お! 出目金いくの?」

「うん」


黒く大きい出目金に狙いを定めた。真っ黒に思えた出目金も、よくよく見ると色がまだらで、尾びれが水に溶けた墨汁のようにたなびいている。

ポイの気配を覚られないように、後ろからそっと近づけた。そして、


「っ!」


ばしゃ、と掬い上げて、ポイの底が抜ける前に器へと移した。


「わ、すごい! やったー!」私よりも先に声を上げたのは阿久津さんだった。「こんなに大きいのに取れちゃった! 佐野さんすごい!」

いたく興奮しながら、大きな瞳を輝かせながら阿久津さんは笑う。……あの阿久津さんに褒められている。

「うん……嬉しい。取れると思わなかった」

実際、私もかなり嬉しかった。小さな器の中で、少し狭そうに、けれど変わらずひらひらと美しく泳ぐ出目金。黒く大きな体は、生け簀の中にいたときよりも立派に見えた。


「いやー、お嬢ちゃんすごいね!」ぱんぱんと拍手をするおじさん。「今日いろんな人がやってくれたけど、出目金を自分で取った人はお嬢ちゃんが初めてだよー」

「そ、そうなんだ」

出目金を取っただけなのに、やたら褒められてこそばゆい。おじさんが器から持ち帰り用のビニールに出目金を移し替えてくれた。

「大事に育ててやってね」

「はい」

金魚も生き物だから、飼うとなったらちゃんとお母さんに許可をとらないとな。水槽を買って、水草やポンプも買わないと。

そんなことを考えていると、


「はい! そっちのお嬢ちゃんも残念賞!」

「わ、いいんですか?」


自分では掬えなかった阿久津さんに、おじさんはサービスだから、と金魚を一匹、袋に入れた。けれど、その金魚は……。


「え! 出目金…⁉︎ そんな、あたし全然できなかったのに」


黒くて大きな、まるまると太った出目金だった。


「いいのいいの。こうやってできなかった子にもサービスしてるから。それに、お嬢ちゃん、すごくべっぴんだから、特別に出目金あげちゃうよ」


おじさんはそう言って、出目金の入ったビニール袋を阿久津さんに渡した。さっきまで人好きのする感じだな、と思っていたおじさんの笑顔が、今は汚く、濁って見えた。


「あ、あー……ありがとうございます……」


どこか決まりが悪そうな阿久津さんが、私にちら、と視線を向けた。それにしっかりと気づきながら、でも私は努めて平静を装って、


「よかったじゃん。立派な出目金」と言った。そのあとに、今の少し皮肉っぽかったかなと思って、「お揃いだね」と付け足した。


「さ、佐野さ……」

「おじさん、サービスありがとうね」

「おう! こっちこそありがとうね〜」


おじさんにお礼を言って、阿久津さんの手を引いて屋台を後にした。


別に何も不都合なことなんてない。おじさんは優しいから、いつものように金魚を自分で掬えなかった人にサービスをしているだけ。それで、今日は私がたまたま出目金を掬って、そんな私と一緒にいた阿久津さんがたまたま超美人で、特別に出目金をもらっただけ。ただ、それだけのこと。


そう思ったのに。わかっているのに。

これ以上、あの場にいるのが居た堪れなかった。



ふたりでそれぞれ、一匹ずつ黒の出目金を連れて歩いた。ちょうど屋台を突っ切って、神社の境内に差し掛かったくらいに、どちらからともなく、「そろそろ帰ろうか」と呟いた。


まだ祭りの喧騒に包まれる神社を出て、お互いの家へ続く道を歩く。さっきまであんなに騒がしかったのに、だんだんそれが遠のいていくと、今度は沈黙の密度が濃く、重く、のしかかってきた。


「今日、ありがとね」


先に口を開いたのは阿久津さんだった。


「急だったけど、佐野さんとお祭りに来られて嬉しかった」

「……うん」


私も、と言いたかった。夢みたいに幸せだった、と言いたかった。けれど、言葉がうまく出てこなくて。


「……」

「……」


またしても沈黙があった。生ぬるい夜風に頬を撫でられる。辺りは人通りもなく、街灯の下、柔らかく草を揺らす風の音だけが響いていた。


すると、阿久津さんは突然ぱたぱた、と走り出して、こちらに向き直った。


「……ね、あたしの名前わかる?」

「は?」


繰り出された質問。どうして今そんなことを聞くのか、と思いつつも、


「えーと……茉莉花?」

「そう! ジャスミンの花って意味なんだ」

「へぇ」


ジャスミンの花といえば、お茶にも使われている、香り高い真っ白な花だ。綺麗な阿久津さんにぴったりの名前だと思った。しかし、


「あたし、この名前嫌いで」

「え」

「だってさぁ」阿久津さんはうなじをぽりぽりと掻きながら、「ジャスミンって臭くない?」

「な……、え、そうかな」

「臭いよ。どこがいいの、あんなの」


阿久津さんはそう言うと、大きくて形の良い目を細めた。すっ、と口角が上がる。いつもの天真爛漫で、美しくて優しくて、人気者の阿久津さんからは想像できないほど、冷たく蠱惑的な表情だった。


戸惑う私に気づいているのか気づいていないのか、阿久津さんは続ける。


「松本がいつもくれる、チョコのお菓子も、嫌いなんだよね。あたし、すぐ肌が荒れるから、油の多いものは食べないようにしてるのに。松本、断ると機嫌悪くなるから、無理して食べてた」

「そ、そうなんだ……」

「南がいつも『可愛いでしょ』って見せてくる、飼い猫の写真もどうでもいい。人の猫だから、可愛いとかそういうの、思わないし、わかんない」

「ちょっと、阿久津さ……」

「知ってる? 富永くんの制服のシャツの襟、いつもちょっと黄ばんでるの。ちゃんと洗濯してるのかな? 新しいの買えばいいのにね」

「……阿久津さん……」


さっきまで目の前にいたはずの綺麗で完璧な阿久津さんから、次々に飛び出す思いもよらない言葉たち。それはどれも、普段の彼女からは想像できないくらいのじっとりとした湿度をまとい、粒の細かい影となって、私の心に降り注いでいく。

そんな私を見て、阿久津さんは、


「……びっくりした? 嫌だと思った? でも、これ嘘じゃないんだよね。全部本当。みんなは知らないかもだけど、今、佐野さんが見てるもの、聞いたこと、全部本当のあたしなんだー」


阿久津さんは自棄になっているように見えて、私の反応をうかがう冷静さがわずかに残ってもいるようだった。時折、不安げに瞳を伏せるのだ。


「みんな、あたしを見て期待するから。勝手に期待して、好きになって、それで勝手に離れていく。こないだもそう。……もう慣れてる。でも」


ゆっくりと私に歩み寄る阿久津さん。


「なんでだろうね? ……佐野さんには、そうなってほしくないって、ちょっと思っちゃったんだ」


泣いてるような、笑っているような。曖昧で、定まらない顔でそう言った。

私が何も言えないでいると、阿久津さんは、手に持っていた出目金の入ったビニール袋の表面を撫でた。


「さっき、嫌だと思った?」

「……嫌って?」

「わかってるくせに」ふふ、と笑って、「自分が頑張って取った出目金を、こいつは顔が良いというだけでサービスで簡単に手に入れて、なんてやつだ……って思わなかった?」

「……思った」

「だよね」阿久津さんは、水でたわんだビニール袋を、長く細い指で揉み込むように、「ねえ。……あたしのこと、嫌わないでよ」


阿久津さんは水中の出目金をビニール越しに手で包み込んだ。そして、次の瞬間、


「! ちょっと……!」


指にぐっ、っと力を込め、出目金の両目を潰した。透明だった水に、赤とも黄色ともつかない液体が煙のように広がっていく。


「ほんとに、え? ちょっと、意味わかんない、なにして……!」


あまりの出来事に私が取り乱していると、阿久津さんは、


「こんなことしちゃうんだ、あたし」


そう言って、微笑んだ。


「阿久津、さん……」

「本当はこんなことしちゃう人間なんだ、あたし。ねえ……嫌いに、ならないでよ…」


ぽろぽろと大粒の涙が阿久津さんの目から溢れ出た。ちょっと前まで笑っていたと思ったら、今は全部の水分を出し切るみたいな勢いで、小さな子どもみたいに泣きじゃくる。


ただの死骸が入った袋と化したビニールの口を、阿久津さんはぎゅっと握っていた。大事な宝物を離すまいとするように、ビニール袋が水圧で弾けてしまうんじゃないかというくらい、強く握っていた。


阿久津さんはずっと怒っていたんだ、と思った。苦しくて、悔しくて、悲しかったけれど、弱い感情を持つと折れてしまうから。そんな阿久津さんに、私は何故か選ばれて、今何故か「特別」であることを、望まれている。


けれど、私にそんな資格があるのだろうか?


『人の顔に点数をつけるなんて良くないじゃん……』

『この世のものとは思えない美しい人間の世界へと、自分も連れて行ってくれるかもしれないと』

『やっぱり阿久津さんくらい綺麗だと、日常的にこういうことが起こるんだな』

『阿久津さんの隣を歩いている姿を想像しただけで、胸が苦しくなったのだ』


私は誰よりも、阿久津さんが憎んでいるような人間じゃないか。



出目金の死骸が入ったビニール袋の口の端を、私と阿久津さんはふたりで持った。まだ質量のあるそれを、慎重に道の隅の用水路まで運ぶ。

そろそろ祭りが終わって、この通りも人が増えるだろう。その前に、私たちはどうしてもやらなければいけないことがあった。


「誰も見てないよね?」

「……うん」


結果として、私は阿久津さんの望む「特別」にはなれなかった。阿久津さんは私に期待して選んでくれたけれど、そして私もかつてはそれを望んだけれど、そんな資格なんて最初からなかった。私たちは明日からまた、お互いに交わらない日々を送る。


だから、せめて、この罪だけは一緒に背負おうと思った。

今日あった出来事のすべてを、この夜の今この瞬間に、真っ黒なせせらぎに流し、私たちはすべてを閉じ込め、終わらせる。


ビニールの口を解いて、中身の水ごと、死骸を用水路に放った。黒々としたせせらぎの中に、ぽってりとした出目金がぼちゃ、と落ちて、ゆっくりと流れていった。


「……ねぇ。誰かに言う?」


闇に溶けていく出目金を見送ったあと、阿久津さんは泣き腫らした目で私を見た。大きな瞳は、星が反射したように濡れ——やっぱり、阿久津さんは美しいと思った。


「……言わないよ」


そう呟くと、阿久津さんは、安心したように微笑んだ。


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【短編】美しく生まれたお前の目をつぶす 海島るる @kuragemori

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