第25話 最上くんは狙われる

 姉が不機嫌だ。しかも理不尽なほどに。


 夏休みが終わり新学期初日から姉は部活があったらしく、帰宅したのは十八時すぎだった。俺は姉が帰るや否や、


「姉ちゃん、腹減った」


 と口にした。すると、


「……はあ?」と姉はすごい剣幕で俺を睨んできた。「あのさ、わたしはフトシの召使いじゃないの。お腹空いたなら自分でなんとかしなさいよ。カップラーメンでもなんでもあるでしょ」


「……はい」


 今朝までいつもと変わらないお人好しの姉だったのに……こんな大恐慌は数年ぶりだ。脳裡に前回の大恐慌の記憶が蘇り、俺は完全にしまった。


 姉は、眉間にしわをよせて眉毛をハの字にすると、田舎のヤンキーみたく俺のことを下から上へ舐め上げるように何度も睨みつけながら、自分の部屋に入っていった。


 俺は過去のトラウマのせいで体が硬直してしまい、動くことができなかった。そうこうしているうちに姉が部屋から出てきた。手には着替えがある。シャワーでも浴びるのだろう。


 姉は、いまだに廊下に突っ立っている俺の存在が癇に障ったらしく、今度は俺の鼻先数ミリ前まで顔を近づけると、俺の目のなかを覗きこんできた。対戦前のボクサー同士がこんな風に威嚇し合う場面をテレビでみたことがある。


 俺は無意識のうちに──聞こえるか聞こえないかの小声で──「ごめんなさい」とつぶやいていた。


 姉が浴室に入ると、俺は急いで自分の部屋に避難した。


 姉がああなると手がつけられない。こうなってしまったら嵐が過ぎ去るまで息を殺して堪え忍ぶしかない。パパ、はやく帰ってきてくれ……。




 目が覚めると窓の外が暗くなっていた。いつのまにかベッドの上で寝てしまったらしい。時計は十九時を過ぎていた。


 ドアをノックする音。


「フトシ?」とドア越しに姉の声。


「はい!」俺はふたたび緊張した。


「ご飯できたけど、食べる?」


 姉の声色はいつもの柔らかいものに戻っていた。嵐は去ったのか?




 俺と姉は食卓に向かい合わせで座り、夕食をとった。


 姉はさっきとは打って変わり、表情が暗く、気分も沈んでいた。何度も溜め息をつき、食が進まず、結局夕食を半分以上残した。


 俺は勇気をふりしぼって姉に質問してみた。


「姉ちゃん、元気ないけど、なんかあった?」


「え、な、なんで?」姉は図星を突かれ、あきらさまに動揺していた。「べ、べつになにもないけど」


「友達とけんかでもした?」


「友達……なのかな?」姉は大きな溜め息をつくと、「なに、フトシ? お姉ちゃんの心配してくれてんの?」と俺をからかった。


「は? ちげーし。んなわけねえだろ。ごちそうさま」


 俺は自分の部屋に戻った。


 姉を情緒不安定にさせている原因がわかった。


(アイツにちがいない)


 夏休みに姉と一緒に映画を観に行っていた男──あの男が姉を苛立たせ悲しませている原因にちがいない。俺の直感がそういっていた。


 どうすればあの男が姉から手を引くか──ということについて俺は真剣に考えるようになった。同時に──俺が姉ちゃんを守る──という正義感に燃えていたことは否定はしない。

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