なつの貰い物

八日郎

なつの貰い物

 床に広げられたボードのマス目にそって、数を数えながら駒を進める。

 この遊びの何が面白いのかアタシにはわからないけど、サキちゃんたちは駒を進めるたびに、駒の止まったマス目の文字を読みながら楽しそうにしている。


 アタシはルーレットを回すガチャガチャした音が嫌いで、少し離れたところで、余っていた車の形の駒を不格好な爪でもてあそんでいた。

 

 「あ、ナツ、借り物なんだから爪立てちゃだめだよ」


 アンタに切られたせいで、立てる爪なんかないわよ。

 ふん、と鼻を鳴らして駒を元あった場所に戻すと、さっきまでルーレットの回りの悪さを気にしていたヒロキが驚いた顔でアタシを見た。


 「ナツ、お前相変わらず賢いな」


 お前呼ばわりやめてくれる?

 サキちゃんも、アタシが褒められたときにするそのドヤ顔、可愛くないからやめた方がいいわよ。






 三年前の夏、アタシはサキちゃんに拾われてここにやってきた。


 まだ小さかったアタシは、気が付いたらアタシ一匹にはちょっと広すぎるくらいの段ボールに詰められて、蒸し暑い外に置かれていた。

 見上げたら今まで見てきた白い天井と蛍光灯の光じゃなくて、自分の毛よりもっと暗くて深い黒の空にぎらぎらとした月の光が見えた。


 まあ、あの頃はまだそれが月なんてわかってなかったんだけど、とにかく自分が見知らぬ場所にいることに、最初のうちは興奮してはしゃいでいたわけ。


 ただ、しばらく段ボールの中を走り回った後に、ふと、さっきまでママや兄弟たちといたはずなのにおかしいな、と思ったのよね。

 慌ててみんなの名前を呼んだけど、返事はおろか、みんなの匂いもしないことに気が付いて、急に不安が襲ってきた。


 みんなはどこに行ったの?

 ここはどこなの?

 こわい。さみしい。このままずっとひとりぼっちだったらどうしよう。


 今でも時々、窓から見える月がぎらぎらしていて恐ろしい日は、あの夜のことを思い出す。


 もう声も出なくなるくらいママや兄弟を呼び続けて、きっともう駄目なんだと思いかけたとき、ぎらぎらした月の光を遮るように大きな顔が覗いた。


 それがサキちゃんだったんだけど、ヤダ、サキちゃんの顔が大きいとかじゃなくて、それだけアタシが小さかったってことよ。


 サキちゃんはアタシを見て、素っ頓狂な声で、


 「ねこだ」


 と呟いた。


 見たまんまよ、ほんとおバカでしょ。

 そこがサキちゃんの可愛いところなんだけど。


 それはそうと、そのときアタシは覗いた顔が人間だってわかった瞬間、本能的に捕まったらまずい、逃げなきゃ、と思ったんだけど、サキちゃんのその無害そうな声を聞いたら「なんかもういいや」って思っちゃって、威嚇のために持ち上げようとしていた尻尾を下ろして、黙ってその間抜けな顔した女の人を見上げ続けることにしたの。


 しばらくの間見つめあっていたら、サキちゃんは小声で「ま、なんとかなるか」って呟いた後、


 「一緒に帰ろっか、ねこちゃん」


 とちょっと赤くなったぽっぺたで笑って、温かい手でアタシを抱きかかえた。


 あとから聞いたんだけど、このときサキちゃんは、会社の飲み会で嫌いな同僚に煽られて強いお酒をたくさん飲んで、そこそこ酔っぱらっていたらしい。

 

 あのときアタシの嗅覚が弱っててよかったわよ。

 じゃなきゃこんなにきれいな思い出が、酒臭さで彩られるところだったんだから。


 サキちゃんの家に着いてからのことは、ほぼ覚えていない。

 柔らかいタオルにぐるぐるに包まれて、スマホ片手に


 「お風呂入れちゃダメなんだ」

 「病院は明日行こう」

 「え、牛乳もダメなの? 赤ちゃんのミルク、コンビニに売ってるかな」


 とぶつぶつ言っているサキちゃんを見ながら、すぐに眠っちゃったから。


 しっかり覚えているのは、サキちゃんの温かい手に抱きかかえられている間、サキちゃんの耳で揺れていたイヤリングの光り方。

 空で光るぎらぎらした月なんかとは違って、細かい光を反射してきらきらと忙しそうに光る、柔らかくてやさしい光。






 サキちゃんはアタシに「ナツ」っていう名前をくれて、家族にしてくれた。

 夏に拾ったからナツ。

 サキちゃんが連れてきた友人たちはみんな、それを聞いて安直すぎると笑ったけど、サキちゃんが嬉しそうにアタシの名前を呼ぶから、アタシはこの名前を気に入っている。

 

 そういえばヒロキは、アタシの名前の由来を聞いたとき他の人と違う笑い方をしたわね。







 ヒロキが初めてここに来た日のことも、はっきり覚えている。

 

 一年前の冬、その年はじめて雪が降った日だった。


 冬場は部屋が寒くなるから、サキちゃんはエアコンをつけたままにして会社に行くんだけど、その日はいつも寝ている玄関近くが寒すぎて、エアコンの風が直接当たるサキちゃんのベッドの上で丸まって寝ていた。

 おかげでサキちゃんが帰ってきたのに気が付かなくて、玄関の開く音と、サキちゃんのいつもより弾んだ声で目が覚めたわ。


 玄関からサキちゃんと見たことない男の人が入ってきて、「あ、この男が最近よく電話してるヒロキって奴ね」と思った。


 すぐに駆け寄って、アンタやるじゃない、という意味も込めてサキちゃんの細い足首を尻尾でくすぐったら、隣に立っていた男がゆっくりとしゃがんで、


 「ナツ、初めまして。ヒロキです、よろしく」


 と言った。


 サキちゃんが毎朝ヒィヒィ言いながら作っているまぶたよりも、幅の広くて綺麗な二重としっかり目が合う。

 サキちゃん、この男ポテンシャル高いけど、アンタちゃんとすっぴん見せられるの? 大丈夫?


 見上げると、サキちゃんは大きく頷いて、


 「ナツ、こちらがヒロキくんです。ヒロキくん、こちらが夏にうちにやって来たナツです」


 と嬉しそうに紹介を始めた。

 アンタがいいならいいけどさ。


 それを見たヒロキは吹き出して、アタシが触っていいと許可を出すのを待っているみたいに、アタシのあごの高さあたりに手を差し伸べながら、


 「優しい名前貰ったな、ナツ」


 と言った。


 安直とかそのままとか、そういうことを言われたことは何度もあったけど、優しいなんて言われたのは初めてだったから拍子抜けしたわ。

 この男はいったい何を言ってんのかしら、と思ったけど、名前を褒められたのは初めてだったし、なにより名前を付けてくれたサキちゃんを褒められたようにも感じて、悪い気はしなかった。


 ヒロキの差し出した手のひらに顔を擦り付けてあげたら、サキちゃんが


 「ナツが私以外にお触り許してる……。」


 と目を見開いて感動していた。

 お触りって言い方、何とかならなかったかしら。


 「俺、ナツの面接合格した?」


 サキちゃんの横でヒロキがほっとしたように笑った。







 「こつこつ歩んできた私の勝ち!」


 持っていた札束を床にどさっと置いて、サキちゃんが両手を上げた。


 この、ルーレットを回して駒を動かしたり、車型の駒に乗せる人を増やしたり、お金を模した紙の束を増やしたりするゲームは、ヒロキが正月に実家に帰省したときに見つけて、ここに持ってきた。

 最終的に持っているお金が多い方が勝ちなのね、このゲーム。


 「うわ、負けた。では、勝者のサキさんにはこちらの景品を贈呈します。」

 「え、なになに?」


 急に正座に座り直してかしこまった雰囲気を出したヒロキにつられて、サキちゃんもヒロキの向かい側に正座をする。

 なんとなくアタシも背筋を伸ばしてみた。

 景品が出るならアタシも参加したらよかったわ。


 「はい、これ。」


 ヒロキがポケットをまさぐって取り出したのは、手のひらに収まってしまうサイズの小さな赤い箱だった。

 それを見た途端、サキちゃんが両手で顔を隠して泣きだしてしまった。


 ちょっと、なに? ヒロキ、アンタ、サキちゃんに何したのよ。


 サキちゃんとヒロキの間に慌てて割り込んで、サキちゃんの膝に手を乗せる。

 サキちゃんは片手で口を押えて、もう片方の手でアタシの頭をやさしく撫でた。


 あれ? アンタそれ悲しいときの涙じゃないわね。


 「俺と家族になってください。」

 

 ヒロキの若干震える手が、赤い箱のふたを開いた。


 箱の中には、細かい光を反射してきらきらと光る指輪が入っていた。

 ぎらぎらした月の光なんかよりよっぽどきれいな、柔らかくてやさしい輝き。 


 サキちゃんがアタシを拾ってアタシたちが家族になった日に見た、あのイヤリングの光り方に、よく似ていた。


 サキちゃんは泣きながら大きく何回も頷いて、アタシも巻き込んでヒロキを抱きしめた。

 サキちゃんとヒロキに両側からぎゅうぎゅう抱く締められて正直苦しかったし、抜け出そうと思えば抜け出せたけど、なんかそれも違う気がしてしばらく黙って二人の間で押しつぶされた。






 しばらく泣いて落ち着いたサキちゃんは、


 「ヒロキの好物をつくる、今日はお祝いをする。」


 と言って、スーパーに買い物に行った。

 ヒロキもついて行こうとしたが、鼻息の荒いサキちゃんの勢いに勝てなかったようで、アタシとお留守番をさせられることになった。


 あの子、一度決めたら梃子でも動かないくらい頑固なのよね。


 サキちゃんとヒロキが結婚して夫婦になったら、アタシどうなるのかしら。

 サキちゃんのことだから、捨てられたりはきっとないと思うけど、邪魔になっちゃうかしらね。



 「ナツも一緒に住めるような部屋探しから始めような。」


 驚いてヒロキを見上げた。

 この男は、たまにアタシが考えていることがわかっているかのような発言をする。


 ヒロキはサキちゃんよりも大きくて筋張った手でアタシを撫でながら、


 「これ言っちゃだめだと思うんだけど、」


 とアタシに向かって話し始めた。

 なによ、浮気してるとかだったら許さないからね。


 「お前の名前の由来の話だよ。あれ、夏に拾ったからっていうのと、もうひとつあるって知ってた?」


 なにそれ、アタシそんなの聞いたことないわよ。

 あ、耳の後ろ触らないで、昨日ひっかいちゃって痛いのよ。


 ヒロキはアタシの耳の後ろを撫でていた手を、背中の方に移動させながら続ける。


 「名前に使う夏っていう漢字には、生命力があふれている様だとか、活発に育つって意味があるんだってさ。

 ナツを拾ったとき、お前がだいぶ弱ってる様子だったたから、元気になってほしくてナツって名前にした、ってサキが言ってたよ。」


 知らなかった。あの子そんなこと考えてたの。


 「あ、これ俺から聞いたってナイショな。男同士の約束。」


 何言ってんの。アタシとっくの昔に去勢されてるから、男も何ももうないわよ。


 ヒロキは、


 「ナツみたいなのがいてくれたら、俺たち夫婦は安心だなぁ」


 と言いながら、アタシの眉間を親指でぐりぐりしながら、最近サキちゃんにちょっと似てきた笑顔で笑った。



 もうすぐサキちゃんがヒロキの好物のハンバーグの材料を買って帰ってくる。

 猫用も探してくると意気込んでいたから、もしかしたら駅の方のペットショップにも寄ってくるのかもしれない。


 アタシは初めて食べるハンバーグの味を想像しながら、窓から入ってくる風でスカートのように広がるカーテンを眺めた。


 もうすぐ夏が来る。


 窓の外に見えた月は相変わらずぎらぎらしていたけど、前ほど恐ろしくなかった。

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