2-5 ✦ 天球は廻る

 五感が戻るにつれ、リオは混乱していた。

 目の前にジルの顔がある。そのうえ口内に感じる、甘い感触。

 ――キス……し、て……る? ジルと……?


 ばちりと視線がかち合う。こちらの意識が戻ったことに気づいたジルは、真っ赤になって飛び退いた。


「ひ、……ひひ非常事態で! 応急措置! だから!!」

「……お、う……、助かった」


 こちらも顔が熱いが、幸か不幸か懐中電灯はそっぽを向いている。


 付き合いは長いが、さすがに口伝いのキスは初めてだ。……もう少し気絶したフリしておけばよかった。

 ジルの舌は、ここに来る道中で彼女が飲んでいた練乳茶ミルクティーの味がした。


 ともかく埃だらけの床から立ち上がる。その間ジルは壁の魔導書と格闘していたが、リオは眼を逸らしていたので、具体的に何をどうしたのかはわからない。

 やがて何か重いものを動かす音がした。同時に「もういいよ」と言われ、見ると壁にさっきの魔導書の形の穴が空いている。


 そこに懐中電灯を向けると、一目でそれとわかる美しい魔法具が鎮座していた。

 台座の上で交差する円環は黄金に輝き、一点の曇りもない。埃や蜘蛛の巣も寄せつけず、神秘と静寂だけをまとって佇む姿は、二百年の歳月を飛び越えてしまったようだった。


「これが〈アーミラリ天球儀〉か。だいぶデカいな……とりあえず上に連絡して何人か寄越してもらおう」

「うん。……にしても、すっごく綺麗ね」


 ジルはうっとりしながら天球儀を見つめていた。それを横目に眺めながら、リオは手早く報告を済ませる。

 もともと彼女が警護対象であるため、すでに天文台の周囲に何人かが待機している。数分もせずに充分な人手が集まるだろう。

 杖の回収はこれを署に運んでからだ。


「よかった。あの〈影〉の人より先に見つけられて」


 ちょうど通信機を切ったところでジルがそう呟いた。

 ……そうだろうか。当初からの疑念がふたたび顔を出して、リオに囁きかける。ここまで一度も敵の気配を感じなかったのは、本当にただの幸運か?


 その問いに答えるように、背後から聞き慣れない声がした。


「――いや、初めからそのつもりだった。協力感謝するよ、〈書庫番ビブリオテーカ〉」

「!」


 反射的に振り向きざま銃を抜く。ろくに照準も見定めずに放った一発は、虚しく闇中に消えた。

 まだ銃声に慣れないジルは耳を塞いで震えている。


 声の主は暗色の外套ローブを纏っていた。

 年齢は推定三十代半ば、中肉中背で目立つ特徴はなし。頭巾フードの下から赤毛が覗き、優しい草色の瞳をした、どこにでもいそうな男だった。

 穏やかな声音に反し、男は手にいかつい銃を握っている。


「一応訊くが、それは素顔か?」

「隠す必要もないのでね。ついでに名乗っておこうか、オーガスタス・ペイジだ」

「……逃げられないと悟って自棄になった、って感じじゃねえな。何を企んでやがるか知らんが……それ以上近づくな」


 場合によっては撃ち殺す。経歴に傷がつくかもしれないが、要人護衛中で目撃者もほぼいないこの状況なら、正当防衛だとでも言い張れるだろう。

 リオはなんでもする覚悟でいる。ジルを守るためなら、どんなことだって。


 それに正直、予想はできた。この男――ペイジがただの現代人なら古代魔法具は使えないし、実際ジルに接触して〈追憶鏡クロノグラス〉を使わせているのだから、〈アーミラリ天球儀〉にも同じことが言えるはずだ。

 襲撃したあと二人とも無傷で放っておいたのは、こうして泳がせるためではないか。

 天球儀の在り処がわかっても自分では動かせない。まして魔導書の扉は開けまい。だからリオたちが来るのを、闇の中で待ち構えていた。


 わざわざ顔や名前を晒したのが不気味だが、この機を逃すものか。


「下がってろ、ジル。また戦闘になる」


 ――絶対に、今度こそ。もう二度とあんな無様な真似はしない。


 しばしの睨み合いのあとペイジが発砲した。打ち出された弾は墨色の煙となって周囲に広がり、リオの視界を覆う。

 煙幕の色や質感は昨夜ベルが纏わされていた影の鎧と同じ。あのときは防御魔法だと考えたが、これが精神操作も兼ねている可能性は高い。


 ある程度散らせば効力を下げられると踏み、リオは連射して弾幕を張った。こちらは制服に多少の防護機能があるし、ジルを守るには自分を盾にするが早い。

 ついでにペイジ自身も狙いたいが、影鎧弾ウンブラ・アルミスが存外厚く、容易には貫けなさそうだ。

 ならば破れるまで手を止めない。ペイジも負けじと続砲するが、あちらは高機能なぶん一発がのか連発はできないらしい。


 薄闇の中で発射炎マズルフラッシュだけが煩かった。攻防一体の魔法式の銃撃戦は、互いの腕がいいほど長引く。

 先ほど思いきりスカしているので説得力に欠けるのは承知の上だが、これでもリオは射撃に関しては上位の成績だ。


「リオ」


 不安からか、後ろでジルが悲痛な声を出した。

 けれど今は返事もできない。


「リオ……っ!」


 もうほとんど悲鳴に近いそれに、さすがに意識が引っ張られる。いや、それだけじゃない――背後が異様に明るい。

 まるでそう、ジルが古代魔法具を使うときのように。

 はっとして振り向いたリオの眼に、ただならぬ光景が飛び込んでくる。


 眩い光を放つ〈アーミラリ天球儀〉。影に縛り上げられたジルが、それに魔力を注いでいる。

 銃撃戦は陽動か。リオの気を引き、その隙にジルを操って無理やり天球儀を起動させるのが狙いだったか。


「てめッ……!」


 理解した瞬間かっと頭に血が上る。銃口を突きつけようとして、ペイジの姿がないことに気づいた。

 さっきまでそこ佇んでいたものは――いつから幻影だった?


「もう一度言うよ。協力ありがとう、二人とも」


 それは勝利宣言だった。

 閃光の中にペイジが消えていく。今さらそこに弾丸を撃ち込んでも、男に届く前に天球儀の輝きに消し飛ばされる。

 ほんの数秒で彼の姿は完全に見えなくなり、ほどなくしてジルを拘束する影も消えた。


 崩れ落ちる彼女を咄嗟に抱きとめる。

 意識がないのか、名前を呼んでも返事がない。


 入り口がにわかに騒がしくなる。うるさいほどの足音が近づいてくるのを聞きながら、リオは愕然とした。



 ✦続く✦

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