Liber.1 追憶のゆくえ

1-1 ✦ 彼女は〈書庫番〉

 魔導の時代が過去になって久しい。

 〈大散逸マグナ・ルクスリア〉なる悲劇で多くの文献と成果が失われ、残された魔導書はわずか数十冊。それを記す旧言語〈秘語ススッリ〉は毒物と化した。

 栄華を誇った黄金期の多種多様な魔法具も、退化した現代人には扱えない。物言わぬそれらはガラクタにも等しい。


 今の人々が享受する『魔法』とは、自身のわずかな魔力を活用できる程度の地に足のついた技術と、それを実現する簡素な道具を指していた。


 しかし世の中、例外とか規格外というのはいる。



「じゃ、頼んだぞ」


 ――とは目の前に書類を突き出されての、上司からの一言である。これを拒める者は組織には向かない。

 したがって新米捜査官レナード・シンクレアは一も二もなくその場所を訪ねた。

 都心から離れた旧市街の端も端、もはや郊外という語も追いつかないほど寂れた土地。そこに佇むのは艶のない黒ずんだ石材をごてごて積み上げた、もう遺跡と呼ぶほうが似つかわしい建造物――実際建てられたのは数世紀も前だそうだから、間違いではない気がする。


 半ば打ち捨てられた風情の旧時代の墓場に呼出装置インターホンはない。しかし彼は原始的な呼び鈴を横目に見ただけで、堂々とその扉を開いた。

 踏み込んだところで警報が鳴らないことは知っている。

 決して管理者の意識が低いわけではない。単純に、ここには防犯設備セキュリティも警備員も不必要なだけだ。


 入り組んだ薄暗い廊下を迷うことなく進む。突き当たりには重苦しい金属製の扉があって、手をかけるとひやりと冷たい。

 錆びついた引き戸をがりがり言わせながら開け放つと、途端にむわりと強烈なかびの臭いが立ち込めた。


「相変わらずくっせぇな……! いつか病気になんぞ」


 たまらず叫んだ彼を、中にいた人物が驚いた表情で見つめ返す。

 無造作に束ねた長い銀髪に、濃紺の瞳の若い娘だ。顔立ちは悪くないのに容姿にあまり気を遣っておらず、化粧っ気がなければ服装も地味だが、この環境ではそれも無理からぬことだろう。


 というのもそこは四方を石造りの壁に囲われた、薄暗くて寒々しい部屋だった。窓はなく、灯りは壁面二箇所の無熱照明と、机に置かれた冰晶石グラキエス製の読書灯のみ。

 彼女の背後には扉と同じく鉄製の書架があるが、それに収まりきらないのか、床や壁際にも多量の書物が積み上げられている。いずれも一目見てわかるほど古いものばかり。

 古書に埋もれた独房――ひと言で表すならそんな場所である。


 ちなみに唖然とした理由は、いきなり現れた男の不躾な言動のためではないようで。


「ちょっとリオ……いつも言ってるけどノックくらいしてよ、仮にも女の部屋なんだから!」


 やや照れの混じった声で吠えた彼女に、“リオ”は少しも動じることなく返す。


「こんな黴くせえ場所に順応してるようなやつを女とは言わねえだろ。

 それより、ちょっくら捜査ついでに外の空気吸いに行くぞ、ジル」

「そ……あ、もしかしてそれ制服?」

「おう。そっか、おまえに見せんのは初めてだな。

 あー、ヘレディタス署実働第二課三係所属、シンクレア巡査であります。本日は〈書庫番ビブリオテーカ〉殿に捜査協力の依頼に参りました」


 冗談めかした敬語と敬礼つきで宣言するリオに、〈書庫番〉ジル――本名ジリアン・クレヴァリーは少し面食らったようだった。

 見慣れない服装のうえ、姿勢を正されると急に背が高くなったように感じる。彼のやや寝癖の残る暗茶髪ダークブロンドが書庫の低い天井を擦りそうだ。

 ジルはしばしぽかんとしてから、呆れたようにふうと息を吐いた。


「仕事で来たなら初めからそう言ってよ、もう……とりあえず支度するから外で待ってて」

「俺は別にここでもい――」

「バカ、着替えるの!」


 リオは配慮デリカシーに欠けた発言ごと思いきり叩き出された。背後でぴしゃんと鉄扉が閉じる。

 埃だらけになった制服を手で払いながら、振り返って恨めしそうに呟く。


「見張ってねーとなかなか出てこねぇ癖に」



 …✦…



 さて、リオのぼやきどおりジルの支度にはたっぷり三十分は要した。何をそんなに時間をかける必要がある、と文句を言う気満々だったリオだが、いざ陽の下に出てきたジルを見て黙り込む。

 ふわりと裾の広がる長衣ロングワンピースの上に濃色の肩掛ケープを羽織り、髪は半編み上げハーフアップに整えてリボンでまとめ、顔はさらりと薄化粧。むしろ短時間でよくやったと感嘆したい仕上がりだ。


「……軽く詐欺だろ」

「なんか言った?」

「いーや。……ってなんだその眼鏡、暮らしで視力落ちたか」

「違うけど。このほうが〈書庫番〉っぽいでしょ」

演出ファッションかよ」


 ジルが取り出した丸眼鏡は、たしかに見たところ度が入っていない。いろいろと無意味だ。

 正直すっぴんのほうが見慣れているリオにとっては、軽くとはいえ化粧したうえ眼鏡まで掛けられるともはや別人のようである。


 片手で髪留めを触りながら「他に気づいたことないの?」と不満げに呟くジルに、リオは慣れた調子で手を差し出す。


「何が?」

「……ううん、ないならいい。さ、案内してちょうだい、捜査官さん」


 重なり合った二人の手のひらには、ちょうど鏡写しにしたような傷痕があった。



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