第7話 ケット・シーと、おかしな料理

 綿貫と別れてすぐの事だった。


 夜道で、その黒猫を見つけたのは。


 優雅ささえ感じさせるたたずまい。

 綺麗な毛並みは野良猫のそれでは無さそうだ。


 街灯の灯りできらりと光るふたつの目が、じっと梨花の事を見ていた。


 少しずつ距離を詰めても逃げなかったので、これはいけるのではないかと、顎の下にそっと手を伸ばす。


 黒猫は嫌がりもせず、梨花の手に顎をゆだねる。


(……よっし! 逃げない!)


 それどころか、ゴロゴロと喉を鳴らして甘えてくる。

 可愛過ぎて、梨花の方が喜びに震えてしまう。


 チリン


 夜の空気を伝って、どこからか鈴の音がした。


 梨花は黒猫の首をたしかめるけれど、首輪も鈴も付けていない。


 黒猫はまるで誰かに呼ばれたように耳をぴんと動かし、すっくと立ち、歩き出してしまった。


(ああ……行っちゃった……。──あれ?)


 少し歩いては、梨花を振り向く。


(ついてこいって、言ってる?)


 しかし進む先は梨花の希望とは全くの逆。漫喫とも違う方向だし、何より人気のないほうだ。


 梨花がどうしたものかと逡巡していると、するりと足元に柔らかいものが触れた。


「ひゃっ」


 白い毛に混じって、虎のような黒い横縞の模様がある。見覚えのある、可愛い獣。


「コハクの──」


 加護、だと言っていたか。


(そういえば、名前は聞いていなかったわ)


 便宜的にあだ名をつけても良いだろうか。

 白いから、シロちゃんにしようか。


(おっと)


 早くこいというふうに、黒猫が尻尾を振っている。

 己のネーミングセンスの無さを嘆いている時間は無さそうだ。


 シロちゃんが、黒猫に駆け寄って、同じように梨花を見た。


「大丈夫だからついて行けってことね、わかったわ」


 そうして黒猫とシロちゃんの後をついて歩いた梨花は。


 何の変哲もない路地を曲がった時、瞬きするほどの間に、気がついたら見慣れたわが家────シェアハウスの前に立っていた。




「帰ってきちゃった……」


 呆気に取られて呟く。

 ついに入り口が増えたのか。

 飛び降りなくても良い入り口が。

 喜びよりも、突然の事に、驚きが先に来る。


 思わず振り向いた先には、小川にかかった小さな橋。

 この橋をもう一度渡ったら、あの場所に出るのだろうか。


 この出入り口が臨時的なものなのか、常用できるものなのか、まだわからない。


 とりあえず今、試すのはやめておこう。

 せっかく、この子たちが導いてくれたのだ。

 今日はもう、お風呂に入ってゆっくり休みたい。


「道案内、ありがとう」


 そっと優しく、黒猫の頭を撫でた。

 この子が何者なのかはわからないけれど、今日のところは助かった。

 

 綿貫には、ああ言ったけれど。

 漫喫だって、空いていたかわからない。

 タクシーだって、つかまったかわからない。


 梨花の手をひとなめすると、ちりん、ともう一度音がして、黒猫はすうっと空気に同化するように溶け消えた。


 残されたシロちゃんは自分の番が来たとばかりに梨花のもとへ駆け寄ってきて、くるりと転がると、無防備にお腹を見せてきた。

 梨花が笑いながら柔らかいお腹をそっと撫でると──シロちゃんも、跡形もなく消えてしまった。


 もう少しいてくれてもよかったのに。と、手のひらに残った感触を惜しみながら残念に思う。

 ペットではないのは、わかっているけれど。

 長時間、姿を現すのは無理なのだろうか。


(冷静になってみると、わからないことだらけだ)


 この生活が快適過ぎて、忘れているけれど。

 この世界は、梨花の生まれた世界ではない。

 この世界がいつまで梨花のそばに寄り添ってくれるのか、保証だってどこにもない。



          ◇



「ありがとう、と」


 スマホの画面を、梨花の指が滑ってゆく。

 部屋着に着替えて温かいゆず茶を飲んでから、綿貫に返事を打った。

 

 心配をしてメッセージまで送ってくれたのに、後回しにしたようで、なんだか申し訳ないと思う。


 あまり早くに返信すると不審に思われるかと思い、少し時間をあけて返信したのだ。


(新しい入り口は、綿貫くんの最寄駅かぁ)


 見つかったらややこしいことになりそうなので、しばらくは元の入り口を使ったほうが良いだろうか──。

 落ちなくても良い入り口は、とっても魅力的なのだけれど。

 どちらにせよ、もう一度使える通り道なのか否か、そのうち試してみようと、梨花は思った。



          ◇



「綺麗な人ですね」


「インターン先の部署の人に聞いたけど、仕事もかなり出来るらしいよ」


 遠巻きにした女性たちが、小声で囁き合う。


 朝からフロアは彼女──冨田茉莉花とみたまりかの話題で持ちきりだった。


 梨花は席につき、メールチェックするふりをする。タイミングをはかり、梶田と並んで部長に挨拶をする、噂の彼女をちらと見た。


 栗色の髪は華奢な肩でゆるく波打って、柔らかい雰囲気をまとう。

 その反面、目鼻立ちははっきりとして、力の満ちた目元が意思の強さを感じさせる。


 常務の一人娘である、という噂は、梨花の耳にも届いていた。

 教育係に梶田を指名したために、わざわざ本社ではなく、この支社に配属された、という噂も。


「美男美女でお似合いだなぁ! なっ!」


 悪気なく、近くにいた梨花に同意を求める課長。


 梨花にとっては容赦のない一言を、曖昧に笑って流す。

 

 課長だって、梨花と梶田の間の事は、何も知らないのだから、仕方がない。




(あ、やば。目が合った)


 美女の目力から逃げるように目を逸らしてしまったけれど、美女ときたら、本体ごとこっちに歩いてやってきたようだ。


 梨花は諦めて、顔を上げた。


 彼女の形の良い唇がにこりと笑って、梨花の名を口にする。


「初めまして。冨田です。嘉洋さん、ですよね」


 目が笑っていないのが迫力あるなぁ、と思いながら、梨花も口角を上げて挨拶を返す。


「はい。嘉洋です。初めまして」


 こちらだけ座ったままも居心地が悪いので、梨花は立ち上がり、話を受ける。


「嘉洋さんの昨年のコンペ企画、拝見しました。ずっとお会いしてみたかったんです」


「それは……光栄です。しばらくこちらにいらっしゃるんですよね。どうぞよろしくお願いいたします」


 無難なやり取りの後、美女は良い香りを残して、梶田とともに営業部へ帰って行った。


 帰り際、梶田だけが振り返って梨花を見た。


 またあとで。


 微かに動いた口元が、そう言った気がした。




「梨花さん」


 振り返ると、いつのまにやら隣の席に戻ってきていた綿貫が、神妙な顔をしていた。


「綿貫くん」


 仕事で何か行き詰まったのだろうか。

 どうしたのと聞こうとした梨花よりも先に、綿貫が心配そうに小声で言った。


「──あの美女に宣戦布告でもされました?」


「──ゴホッ」


 いまコーヒーを飲んでいなくてよかった。

 もし飲んでいたら、盛大にスーツに吹いているところだ。

 何も飲んでいないのに、むせてしまったではないか。


「ひ、人聞きが悪いわね、ご挨拶いただいただけよ」


 ふぅん、と、納得していない表情だ。


「帰る前、すごい圧でこっち見てたけど」


「身に覚えはないわ」


 少なくとも、梨花が彼女に何かした覚えはない。


「彼女も梶田さん狙いなんですかね──っとと。すみません」


「別に、謝らなくても」


 綿貫くんと気まずくならずにこんな話が出来るのは、ひとえに彼の自然な態度のおかげだ。


 振った振られたでその後の関係までギクシャクするより、よっぽど良い。



          ◇



「いい匂〜い♡」


 形の良い鼻をひくひくさせながら、キョーコが起きてきた。


「あっ、おはようございます」

 梨花はキッチンから声をかける。


「朝から精が出るねぇ。今日は梶田っちとモーニングに行かないの?」


「梶田さん、今頃トランジット先かな。明日の午後、帰ってくるって」


「わぁお。この連休にね。立派な社畜だわ」


 キョーコは冷蔵庫から牛乳を取り出し、コップに注ぐ。


「明後日はお休みとられてるみたいですけど」

 梨花は手元の生地をこねながら言った。

「クッキー。今焼いているのがプレーンで、こっちがココナッツクッキーになる予定です。宅配ボックスに入れておこうかなって」


「えー! 午後帰りなら直接渡してあげなよぉ」


「お疲れのところ悪いかなって」


「疲れてるからこそ、梨花ちゃんに会いたいんじゃなーい♡」


「そうでしょうか」


 そうか、彼女というものは、そんなに軽率に会いに行っても良いものなのか。

 彼女歴が浅すぎてわからない。


「今日から仙道さんもいないしさ、お料理、ちょっと余るでしょ。持って行ってあげたら? なんなら一緒に食べてきたら??」


「じゃあ……お言葉に甘えて。聞いてみます」


「喜ぶよぉ〜♪」


「あっ、キョーコさん。フレンチトーストありますよ。焼きましょうか?」


「きゃー♡ 嬉しい〜! ありがとう!」


「甘いの? しょっぱ甘いの? どうします?」


 目を輝かせるキョーコに梨花が問うと、


「しょっぱ甘いの!」


 はいっ! と手を上げそうな勢いで、キョーコは答えた。


「了解しました」


 梨花は冷蔵庫からバットを取り出した。

 フライパンを温め、バターを投入。

 卵液のプールでくつろいでいた食パンを、そっと持ち上げフライパンに──。


 じゅわ〜と焼ける音に続き、良い匂いがたちのぼる。


 キッチンに漂っていたクッキーの香りにも負けない、フレンチトーストの魅惑的な香り。


「あっ、仙道さんといえば、新幹線間に合ったのかな」


「そうですね。とっても急がれてましたもんね。私の通り道が使えたら、よかったのに」


 今日から仙道は東京なのだ。ライブの出演のために。


 すごいですね! と梨花が言ったら、対バンのイベントだよ、と笑っていた。

 対バンというのは、仙道のバンドだけではなく、何組かが順番に出演するイベントの形式らしい。


 フレンチトーストをひっくり返し、隣に、ひとまわり小さなフライパンを出す。

 こちらではまず、厚切りのベーコンを中火でじっくりと焼いていく。


「まぁでも、バンドメンバーもいるしねぇ」


「たしかに、皆さん一緒に行かれるのに、単独行動もちょっとアレですね」


 まさかバンドメンバー全員を、シェアハウス経由で送り出すわけにもいかないし。


 良い感じに焼き色がついたベーコンを取り出し、キッチンペーパーでフライパンの油をぬぐう。

 かわりにオリーブオイルをたっぷりと垂らして、卵をひとつ割り入れた。


「半熟でいいです?」


「今日は、とろとろの半熟お願い♡」


 白身がまわりから固まってきたら、熱したオリーブオイルを、スプーンですくって、卵の上からかける。

 黄身の上がうっすらと白くなる。

 頃合いをみて、仕上げのハーブスパイスをふりかけた。


 フレンチトーストも、良い感じに焼けている。


 ほんのり甘いフレンチトーストと、しょっぱいベーコン&目玉焼きのモーニングだ。


 すべてをお皿に盛って渡すと、キョーコは「ありがとうー!」と言って、席についた。


「んー! たまごトロットロ! フレンチトーストの甘さが優しい! 梨花ちゃん天才!」


「ふふ。ありがとうございます」


「仙道さん、こんな美味しい朝食を食べ逃すなんてなー。ライブは明日からだよね。今日は何してるかなー?」


「観光とかされるんですかねぇ……」


 洗うものをシンクにまとめて、梨花は梶田にメッセージを打とうとスマホを持った。


「あれ? 噂をすれば」


 珍しい。

 仙道からのメッセージが、通知画面に浮き出ていた。



          ◇



「ごめんねー! 梨花ちゃん。助かった。ありがとう!」


 待ち合わせ場所に小走りでやってきた仙道が、勢いよく頭を下げた。


「俺としたことが、財布を忘れるとは……」


 ご用命のものを手渡し、梨花は笑って言った。


「よく東京までご無事で」


「チケットはこん中だったからね。キャッシュレスのアプリも」


 と、スマホを振って見せる仙道。


「さすがに身分証明書はこれじゃ代用できなくて。本当にありがとう。梨花ちゃんは恩人だよ。せっかくだからお茶でも」


「嘉洋さん」


 突然後ろから声をかけられて、驚きながら振り返る。

 そこにいたのは、冨田茉莉花だ。


「冨田さん」


 まさかこんなところで会うとは。

 

「偶然ですね。こんにちは」


「こんにちは。──彼氏さんですか?」


 挨拶もそこそこに、ぐいぐいと聞いてくる。


 なんだかとても上機嫌に見えるのは、気のせいだろうか。

 

「いえ──」


 咄嗟に設定を考えていると、仙道が助け舟を出してくれた。


「昔の友人ですよ。僕、普段は神戸に住んでまして。今回はこちらでライブをするので、久々にお茶でもと」


「へえ! 音楽関係の方ですか」


「あ、そうだ」

  

 手品のようにどこからか取り出したチケット2枚を、冨田茉莉花に手渡す仙道。


「よろしかったら、来てくださいね」


「ありがとうございます」


 にっこりと笑って、彼女は梨花に目線を戻した。


「じゃあ、嘉洋さん、また。良い休日を」


「はい、また会社で。良い休日をお過ごしください」




 美女の背中を見送って、梨花は、ふぅ、と息を吐いた。

「助かりました」


「あの人は」

 仙道は真剣な顔で、遠ざかって行く彼女を見ている。


「綺麗な人ですよね。会社の同僚です」

 梨花がそう言うと、仙道は眉間に皺を寄せて呟いた。


「綺麗……というか……大丈夫?」


「え?」

 仙道の問いに、梨花は首を傾げた。


 仙道ははっとしたように手を振って、表情をゆるめた。

「ごめんね、気味悪がらせる気は無いんだけど。よくない気を感じたというか」


「気、ですか」

 オーラのようなものだろうか。


「そうだね、毛並みは悪くないんだけど」


「??」


 キューティクルの事だろうか。たしかに彼女の髪はいつもつやつやだ。しかし、何故いま。

 

(あ)


 梨花はもうひとつの可能性に気づき、身震いをした。


「そういえば、仙道さんは副業をされているんでしたっけ」


「派遣職みたいなものだけどね。これでも神職でして」


「……何か、見えたんですか」


「ああ、いや、霊的なものではないよ。怖がらせてごめん」

「いや別に怖がっては」


 つい食い気味に否定してしまった。むしろ墓穴か。


「ふふ。そっか。強いね、梨花ちゃん。彼女……ライブ、来てくれるかな。また、会えたらいいんだけどね」



          ◇



「おはよ、梨花ちゃん」


 梨花が給湯室の掃除をしていたら、先輩社員の沙月が現れた。


「あっ、おはようございます! 沙月さん。休憩室に昨日焼いたクッキー置いたので、よかったら」


「わー! 嬉しい! そっか、今日梶田くん戻ってくるんだっけ。幸せのおすそわけかぁ♡ ありがとう。せっかくだから、下で美味しいコーヒー買ってこよ。ついでにゴミ捨ててくるよ。これ一つ?」


 と、足元に置いていたゴミ袋を持ち上げる沙月。


「はい。ありがとうございます」


 

          ◇



 梨花が席に戻ったあとしばらくして、眉を下げた沙月がコーヒー片手に戻ってきた。


 その表情からは悲しみが溢れている。


「梨花ちゃーん、休憩室のクッキーもう無くなってたぁ」


「えっ?! たくさん置いたはずなんですが……」


 そんなに好評だったのだろうか。


 隣の席から、綿貫が会話に入る。


「休憩室ですか? さっき、冨田さんが慌てて出てきたの見ましたよ」


(冨田さん)


 梨花の胸がどくんと鳴った。


(まさかね)


 安易に人を疑うのは良くない。

 梨花は思いつく限りに好意的な意見を探して、言った。


「冨田さん────スレンダーだけど、もしかしたら甘いのお好きなんですかね。いや、でも、お腹空いていたのかもしれないし。そもそも、他の人が食べられたのかもしれないし。やめましょ。よし、綿貫くん、仕事しよ」


「あ、はい。すみません、軽率な事いいました」

 と、綿貫。


「あ、沙月さん、またクッキー作りますね」


「うん、ありがとう────またね、梨花ちゃん」



          ◇



 エレベーターの扉が開くと、そこには駿河沙月が乗っていた。


「お疲れ様っす」


「お疲れ様、綿貫────くん」


 綿貫は1階のボタンが光っているのを目視して、閉まるボタンを押した。


「冨田さんってどうなの? 私、まだあんまり絡みなくて」


 あけすけに聞いてくる沙月。綿貫は少し考えてから、冨田茉莉花に対する印象を述べた。


「俺もほぼ知らないですけど。ちょっと、梨花さんに執着してる感じがしました。私見ですが」


「うーん。……証拠もないのに、疑いたくはないけどさ」


「気をつけておきます」


「話がわかる子は好きよ」


「梨花さんには振られ済みですけどね」


 綿貫がそう言うと、目を丸くして、沙月は綿貫を見上げてきた。


「今度飲み行こう。豚足好き?」

 と、沙月は言う。上辺だけの慰めを言わないところに、むしろ優しさを感じる。


「食べたことないです」


 沙月はにっこり笑って言った。

「何事も経験よ」



          ◇



 なんでこんなところで会うのだろうか。


 帰り道に立ち寄ったコンビニで、綿貫は迷っていた。


 目線の先には、カゴに山盛りのお菓子やデザートを入れる冨田茉莉花の姿が。


 その表情は楽しそうでも悲しそうでも無く、真顔というか、無というか、淡々としている。


 ヤケ食いの類でも無さそうだから、部屋に友人でも招くのだろうか。

(というか、最寄駅同じなの? マジで?)


 冨田は、支社には一時的な出向で来ているはずなので、もしかしたら駅前のマンスリーマンションでも借りているのかもしれない。


(まぁ、俺には関係ないけど)


 しかし相手の思惑を探る上で、少し話してみるのも良いかもしれない。


 綿貫は、つとめて明るい同僚として声をかけた。


「お菓子の食べすぎは良くないよ」

 しまった、しょっぱなから言葉のチョイスを間違えた。

 

 振り返った冨田茉莉花は、げぇ、っと潰れたカエルのような声を上げた。美人が台無しだ。


(え、俺、そんな嫌われてる?)


 嫌われるほどの接点も無いはずだけれど。


 まぁ、さっきの声かけは、我ながらキモかったかも。


 綿貫が考えている間にも、冨田茉莉花の顔がみるみると赤くなる。


「────ほ、ほっといてください!」


 冨田茉莉花は、慌てて財布を出しながら、逃げるようにレジに並ぼうとする。

 その財布にくっついていたのだろうか、鞄の上から、カラフルな紙切れがひらりと落ちた。


 綿貫はそれを拾い上げ────


「あっ! A-CHeRONアケロンじゃん! 冨田さん好きなの?!」


 沙月からのミッションも忘れて、テンションが上がってしまった。


「えっ? あ、それは、人にもらって────」


 冨田茉莉花の顔に「なんだこいつ」と書いてある気がするけれど、関係ない。

 推しのことを話すときに早口雄弁になるのは、古今東西オタクの性だろう。


「うっそ、いいな! 関西のインディーズバンドなんだけどさ、めっちゃカッコいいのよ。俺、彼らの曲好きなんだよね。そっか、東京きてるんだ、いま。俺も行こっかな。当日券あるかな────」


「あ、あの、よかったら、差し上げます」


 なんだか毒気のぬかれたような冨田茉莉花が、おどおどと言った。会社での自信満々の姿とは別人のようだ。


「え、でも、冨田さんがもらったんでしょ?」


 綿貫は我に返った。明るくカツアゲしているようで申し訳ない。


「私、街のライブハウスとか行ったことないですし」


 そう言ってそそくさと去ろうとするので、綿貫は思わず言ってしまった。


「じゃ、一緒に行く? 彼らの曲、ほんと、めっちゃカッコいいよ」


「────え? あ、えっと」



          

「行き────ます」


 と、根負けしたように、冨田茉莉花は言った。


 綿貫はにっこり笑って、手を叩いた。


「決まり! とりあえずレジ済まします? 俺も買い物してきますね。終わったら、外で待っててください」


「あ、はい」



 ────────────

 ────────

 ────



「お待たせしました。あ、気は変わってないです?」


 なんだか綿貫が勢いで押し切ったみたいになったので、一応確認を入れる。

 冨田茉莉花がうなずいたので、綿貫は次のステップに進む。


「よし! じゃ連絡先交換しましょ。聴いとくべき曲の動画の一覧送っとくんで!」

 スマホを出して、メッセージアプリを開いた。


「え? あ、はい」


 こうなると綿貫のペースだ。

 冨田茉莉花は言われるがまま、スマホを操作している。


(こうしてると、性格キツい子には見えないんだけどな)


 綿貫は違和感の正体を探るように記憶をたぐる。

 梨花に対する態度だけだ。なんだか引っかかるのは。


 さっきの「げぇ」は、綿貫の登場のしかたも悪かったので、聞かなかったことにする。


「よし、じゃ明日よろしくお願いします」


 スマホをしまって、綿貫は冨田茉莉花に笑いかけた。

 久しぶりのライブだ。明日がとても楽しみになっている。


 同じ職場とはいえ、仕事で絡みのない二人が一緒に帰ると、ややこしい勘ぐりをしてくる人間もいそうなので────。


「当日は現地集合で良いかな?」


 綿貫がそう言うと、冨田茉莉花は頷いた。

 その目には、会社で見る彼女のような自信と目力が戻っていた。


「私のほうが出先から直帰だから、着くの早そうですね。────近くで、待ってます」



 ────待ってます



(ん?)


 彼女の言葉が、綿貫の記憶の中の誰かと重なった。


(誰だっけ)


 元カノとか友人とかではなく、もっと通りすがりの誰かのような────。


(ああ、ギャラリーかな)


 学生時代、綿貫は地元ではちょっと有名な陸上選手だった。


 自慢ではないが、綿貫目当てで観にくる女子もいた。


 告白も、時々された。


 綿貫は背も高く顔もそこそこで目立つから、付き合えたら楽しそう、その程度のノリの子が多かったと思うけれど。


 きっと中には、真剣な子もいたのだろう。


 自分の事で精一杯で、当時はすべて断っていたけれど。


 その記憶に、重なったのだろうか。


(過去の栄光だな)


 陸上もやめたいまじゃ、ただの一会社員。人前では平気なフリして、心の中では失恋を引きずる女々しい男だ。


 綿貫は自嘲するように笑った。冨田茉莉花にも失礼だ。


 彼女の想い人は、おそらく梶田だろうから。



          ◇



 予定の時間より、少し早く着いてしまった。


 梶田が住むマンションの最寄り駅。


 もう少し時間をつぶして、10分くらいだったら早く行っても良いかな。いや、せめて5分?


 梨花はショーウィンドウに映った姿を見て、なんだかそわそわ落ちつかない自分に苦笑した。


 年齢と仕事のスキルだけは積み重ねたけれど、恋愛スキルはゲームにたとえるなら、初期も初期の村人レベルだ。


 落ち着けというほうが無理である。


 せめてもの応援と、シェアハウスのメンバーからもらったものを身につけた。


 今日の服装は、五味デザインの山吹色のコクーンシルエットのスカート。


 今日はそれに、手持ちの白Tシャツをインしている。


 スカートがハイウエストのデザインなので、実際より腰の位置が高く見えた。


 キョーコにもらった、良い香りのヘアオイルもつけてきた。


 今日はいまから、タッパーに入れたお料理とクッキーを持って、梶田のお部屋にお邪魔する予定になっていた。


(明日は私は仕事だし、あまり遅くならないようにはするけれど)


 なんだか久しぶりにゆっくり会える時間な気がして、早く帰るのももったいない。


 ゆっくり休んでほしい気持ちと、長く一緒にいたい気持ちと。


 どちらも梨花の本音だった。


 少し、駅前の高級食材のお店を見て回ったりして、時間を潰した。


(さて、そろそろいいかな)


 迎えに来ると言った梶田の申し出を断ったのは梨花である。


 迷子にならないよう、スマホのマップを頼りにして。


 いざ、ゆかん。



          ◇



「梨花さん、ティーソーダで良い?」


「はいっ」


 カウンターをはさんだキッチンからは、カラカランという氷の音と、しゅわしゅわという炭酸の音が、続いて聞こえた。


「お待たせ。────駅から迷わなかった?」

 チェリー材のダイニングテーブルに、梶田がティーソーダの入ったグラスを置いた。


「大丈夫です。思ったより近かったです。あ、持ってきたお料理、並べちゃいましょうか」


「いっぱい! ありがとう。梨花さんの料理が恋しかったよ────」


 家だからだろうか、久しぶりだからだろうか、梶田の少し甘えるような言い方が気恥ずかしい。


「たくさんすぎたかも。今日食べないものは、すぐ冷蔵庫に入れたほうが良いかも知れません」


「明日の分もある? 嬉しい」

 タッパーを並べて、子供のように笑う。


 少し日に焼けたこと以外、そして少しはしゃいでいること以外、いつもの彼だ。


 梨花はなんだか少し、ホッとした。



          ◇



「ライブ?」


 梨花は頷いて、梶田に説明する。

 ふたりはダイニングテーブルに向かいあって座っていた。

 テーブルには、梨花の持ってきた料理が並んでいる。

「そうなんです。以前、京都のお店を教えてくれた、仙道さんって人のバンドのなんですけど────。普段は関西で活動されてるんだけど、昨日からライブのために東京に来てて。昨日用事があったのでついでにお茶したら、明日のライブのチケットをくれまして。よかったら、梶田さんと。って」


 梶田は破顔して言った。

「ああ! 覚えてるよ、そっか! いいね、せっかくだから行ってみたいな。梨花さんのお友達にも挨拶したいし」


 誘っておいて何ですけど、と、梨花は問う。

「お疲れじゃないですか?」


 海外出張の後だ。無理はしてほしくない。


「明日は休みだしね。飛行機の中でもしっかり寝たし。そもそも、梨花さんの料理で、元気回復したよ」

 と言って、梶田は手に持ったブルスケッタをひょいと上げた。


 確かに、顔色も良い。その表情には疲れも見えない。

 ほっとして、梨花も笑った。


「じゃあ、お願いします」

「ライブハウスとかいつぶりだろー。楽しみだな」


 そういう事になった。




 明日は、梨花は朝から仕事がある。

 名残惜しかったけれど、食事をとったあと、すぐに帰宅することにした。


 玄関で靴を履いて、梶田を振り返る。

「お邪魔しました」


「お料理ありがとう。クッキーも。美味しかった! ごちそうさま」


 にっこりと笑ってから、梶田はじっと梨花の目を見た。


「あ。ちょっと待って。忘れもの」


 そう言って、のばした手で梨花の髪に触れる。

 梶田の体がふっと近づいたかと思うと、梨花の額に、前髪越しに、そっと優しくキスをされた。


 そのまま梨花の肩はすっぽりと梶田の腕の中に収まってしまった。

「……うわ、我ながら恥ずかしい」

 いま顔見ないでね、と梶田はいうけれど、そんなのお互いさまだ。抱きすくめられた梨花の顔も、大変な赤さだろう。


 ひと呼吸おいてから、そっと離れて、梶田は自分の袖で梨花の額をこしこしと拭った。

「これでよし」


 その姿がなんだか可愛くて、梨花は笑ってしまった。

「ファンデーション、ついちゃいますよ」


「大丈夫、部屋着だから」

 まだ少し赤い顔のまま、鍵をとってくる、と梶田は言った。

「帰りはせめて駅まで送って行くからね。待ってて。そこは譲らない」


「ありがとうございます」



 ────────

 ────

 ──



 駅についた。


 ついてしまった。


 使い古された言葉だけれど、楽しい時間は本当に早く過ぎ去ってしまう。


「明日────」

 梶田の顔を見上げて、ゆっくりと言う。

「楽しみにしてます」


「うん、また明日。────あー、やっぱり会社いこうかな」


「ええ?」


「梨花さんに、早く会いたい」


「私もですけど、ちゃんと休んでください。心配するので」


「承知しました」


「おやすみなさい」


「おやすみ。気をつけて」

 

 梨花が見えなくなるまで、見送るつもりだろうか。

 改札に入ってからも、梨花が振り返るたびに、梶田はにこにこと手を振った。



          ◇



 明日の朝食の下準備をしながら、梨花は思いを巡らせていた。


(明日のライブ、何か、差し入れしようかな。でも、仙道さんだけならともかく、バンドメンバーさんは初対面なのよね。いきなり手作りのお菓子っていうのも、どうなのかな)


「うーん」


(いっそ花束……?)


 子供の発表会じゃないし。ライブ会場じゃ、邪魔かなぁ。


 どうしたものかと迷っていると、仙道からメッセージが入った。


『りかちゃん! 明日なんでもいいんだけど、お菓子作ってくれる事ってできる?』


「お。グッドタイミング。クッキー生地なら、冷凍してあるから焼くだけだけど……。焼き菓子だから、常温での持ち歩きも問題ないし……」


 その旨を返信すると、すぐに仙道から反応があった。


『ありがとう! 小さな女の子にあげたいんだよね』


(じゃあ、いくつかアイシングしましょうか。簡単なものなら────と)


『1、2枚でも、そういう特別なものがあるとめっちゃ助かる!』


 またまたすぐに、そう返ってきた。


 仙道からの、急なお願いも珍しい。東京にいる、知り合いのお子さんでも見にくるのだろうか。


「女の子か────」


 小鳥やハートや、お花の模様も良いかも。

 ラッピングもして、リボンをつけて。

 この間100均で買った、水色の袋がサイズ的にもちょうど良い。


 考え始めるとどんどんイメージが湧いてきてしまって、楽しくなってきた。

 凝りたい。どうせなら凝りたい。

 明日も朝から仕事なのが、心底悔やまれた。



          ◇



 会場のライブハウスは地下にあった。


 梨花は梶田の背中を追って、狭い階段を降りる。


 今日は動きやすいよう、パンツスタイルにスニーカーで。


 ぐるりと見渡したコンクリートの階段の壁には、所狭しとライブや楽曲宣伝のチラシがはられていた。


「再入場の時はこれを見せてくださいね。こちらはワンドリンクのチケットになりまぁす」


 ピンクと金色半分半分の髪色をしたお姉さんが、チケットをもぎってくれる。

 入場券を渡して紙製のリストバンドを付けてもらい、ドリンクのチケットとして半券をもらった。


 開演まではまだ少し時間があるけれど、すでにステージの前にはたくさんの人がひしめいていた。

 年齢層は若めだけれど、梨花たちのように仕事帰りの雰囲気の人もちらほらと。


「ドリンク先に変えてくる? 開演まであと10分くらいあるよね」

 と、梶田。

 梨花はカウンターの方を見て頷いた。

「そうですね、終わってからは楽屋に挨拶にも行きたいですし────」




「梨花さん? と、梶田さん」


 聞き覚えのある声に振り向くと、綿貫が立っていた。その隣に目線を滑らせ、梨花は言う。

「あれ、綿貫くん。と────冨田さん」


「わー。偶然ですね」

「……こんばんは」


「珍しい組み合わせだね」

 と、梶田。


「あ、冨田さんから偶然チケットいただいて。俺、A-CHeRON《アケロン》ファンなんで」


「えー! そうなの? 私、仙道さんのお友達で」


「仙道さんって、ギターの? うっそ、まじすか」


 あっ、という顔をして、綿貫は冨田茉莉花を振り返った。

「冨田さんのチケットも、梨花さん絡みで?」


「はい。偶然、おふたりでいらっしゃる時にお会いして」


「そうそう、一昨日お茶してたときにね。あとで、仙道さんに紹介するね」


「うわー、嬉しい。でも緊張する」

 綿貫は本当に嬉しそうだ。


「はは。仙道さん、いい人だよ。────冨田さんも、来てくれてありがとう。仙道さん、喜ぶと思う」


「いえ……綿貫さんに教えてもらったMVみたら、ちょっと気になっただけなんで」


「見てみたら、やっぱ、よかったっしょ?」


「悪くはなかったです。……『暁』とか、歌声もだけどリズム隊の音がすごく効いてて────」


「へぇ。俺も昨日少し聴いたんだけど、その曲はまだ聴いてないな」

 梶田が言うと、冨田茉莉花はその曲を強めにすすめた。


「ぜひ聴いてください。映像も良かったです」


 そう言ってから、その様子をにこにこと見ていた綿貫に、じとっとした目線を送る。

「なんですか」


「冨田さん、そっけなさそうに見えて、実はめっちゃ聴いてくれてて嬉しいなと思って。これでもうアケラー仲間だね」


「なんですかそのネーミングセンス。違いますけど、おすすめ曲はまた教えてください」


 ぶっきらぼうな言い方が、会社での冨田茉莉花とは一線を画していて、でもこっちのほうが、なんだか自然な様子に見えた。少なくとも、梨花の目には。


「えー? 好きになったくせにー。素直じゃないなぁ」


「……綿貫さんに言われたくありません」


 おどける綿貫を流した後、ぽそっとこぼした冨田茉莉花の呟きは、綿貫の耳には届かなかった。




 客席の照明が落ちて、前方の客たちが、わっと歓声を上げながら、ステージの方に密集する。


 スピーカーからは、優しいギターのメロディが流れ始めた。登場前の曲だろうか。切ないような、あたたかいような、ぽろぽろとこぼれるギターの音を、梨花は好ましく思った。


 パッと、照明がステージにあたる。


 いっそう大きな歓声があがる。


 仙道の姿は、ない。

 お辞儀をしたり手を振ったりしながら、出てきたのは、大学生くらいの男の子たち。4人組だった。


 最初はロックテイストのナンバーから始まった。彼らのオリジナル曲らしい。

 ボーカルの煽りに、前列でリズムに乗る若者たちが手を挙げて応える。

 

 梨花は眩しさに目を細めた。


 熱気というか、熱量というか、エネルギーの応酬だ。


 学生時代、ライブ好きな友人が、ライブハウスの空間にいると、より生きている感じがすると言っていた。ふとそんな事を思い出す梨花である。


 ────ジャン!


 リズム隊がタイミングを合わせてフィニッシュする。

 

 後方から拍手をしながら、ちらりと隣の梶田の横顔を見る。


「ん?」 

 と、すぐに見つかってしまい、ふるふると首を振った。

 何でもないのだ。

 何でもなくても当然のように隣にいる事が、ただただ嬉しいだけの話だ。


 そっと、梶田の手が梨花の右手を握った。


 梨花も軽く握り返す。


 そのまま、2曲目が始まった。


 そこから何曲かは、梨花も知っているメジャーなバンドの人気曲のコピーだった。


 何度も何度も聞いたことがある。けれど。


 叶わない恋の想いや、出会えた喜びを描いた歌詞に、こんなに引き込まれたのは、今日が初めてだったかもしれない。


 

          ◇



「ありがとー! またねー!」


「最後まで楽しんでって!」


 観客の惜しむ声に手を振り声をかけながら、アンコールまで演奏しきった彼らはステージのそでにはけていった。




 会場の照明がつく。


 梨花は、つなぎっぱなしだった手を自分から離した。


「もりあがってたね」

 と、笑う梶田。


「楽しかったです」

 と、梨花も笑い返す。

「次が仙道さんのバンドですね────あ、そうだ、ドリンク」

 綿貫たちと出会ったあと、交換するのをすっかり忘れていた。


 梨花がバーカウンターの方を見ると、冨田茉莉花の声が肩ごしに聞こえた。

「私も行きます」

 にこりと梨花に笑いかける。


「冨田さん。じゃ皆でいきましょっか」


 結局、4人揃ってカウンターに向かった。

 ライブ前に交換していた客が多いのか、カウンター前の列に並ぶ人は思ったよりも少なかった。


 綿貫が楽しそうに言う。

「いまのバンドも、若さが弾けててよかったですね────だけじゃなくて演奏上手いし、声も良いし」


 自分も若者じゃないかと、梨花は笑ってしまった。

「楽しかったね。でも綿貫くん、感想がおじさんっぽい」


「うっそでしょ。梨花さん。一周まわって若さ全開っすよ。────あ、ドリンクチケットください。まとめて頼むんで。みなさん、何にします?」


「お、ありがと。俺はコーラかな」


「私は────ジンジャーエールでお願いします」


「えーと。烏龍茶、お願い」


「お姉さん、コーラとジンジャー1つずつ、烏龍茶ふたつ、お願いします」


「はーい。チケットいただきまーす」


 大学生くらいだろうか、スタッフの目印になるナイロンジャケットを着た女の子が、手慣れた様子で、プラカップに飲み物を注ぐ。

 背中でゆらゆら揺れる長いポニーテールは、先の方だけがピンク色だ。


「お先にコーラとジンジャーエールでぇす」

 礼を言いながら、梶田と冨田がそれぞれ受け取る。


「烏龍茶ふたつ、お待たせしましたぁ」

 綿貫がふたつ受け取って、梨花にさし出す。


「はい、梨花さん」

「あ、ありがと」


 梨花はプラカップを受け取って、乾いた喉を潤す。


 何気なくホールの中を見渡して、梨花はあいているほうの手で目をこすった。ありえない見間違いをした気がして。

 グループで固まって談笑する女の子たち、その足元に────


 ────猫?


 ふわふわと揺れる、茶色い三角の耳が見えたような。


(……いやいや)


 そんなわけない、ライブハウスの中なのだし。


 さりげなく様子を伺っても、他の客は気にもとめていないようだし。


(うん、見間違いだな。疲れているのかも)


 定時あがりを死守するために、今日は休憩時間も惜しんで仕事していたし────眼精疲労だろう。


「梨花さん? どうかした?」

 気遣うような梶田の声に、梨花は慌てて何でもないと手を振った。

「いえ、大丈夫です」

「そう? ならいいけど」


「いよいよかー。今日のセトリどんなかな────」

 と、綿貫。


「本当に好きなんだね」

 梶田が綿貫に声をかけた。


 綿貫のうしろに、わくわくという言葉がとんでいてもおかしくない。

 そんな期待っぷりに、少し笑ってしまう。仙道の同居人としては誇らしい気分になる梨花だった。


「セトリ?」

 冨田が問うと、綿貫が答えた。

「セットリスト。曲順の一覧表です」

「ああ、なるほど」


「綿貫くんは、あっちに行かなくて良いの?」


 ステージ前に、ぞろぞろと人が戻ってきていた。


「行きたいのはやまやまですけど……! 今日はこの格好ですからね。やめときます」

 綿貫はスーツの襟をつまんで言った。


「そだね。私もクッキー割れたら嫌だしなぁ」

 と、梨花は手に持った差し入れの紙袋を見た。


 何より、ファンとしてこの場に来ている人たちに前列は譲ろうと思った。

 いうなれば梨花は、同居人の勇姿を見に来たのだ。


「あっ、クッキー。こないだの、俺も食べたかったな。────なんて言ったら、怒られますかね」

 と、綿貫。

「ん? ああ、そこまで心が狭くないよ」

 恋人の部下にちらと見られて、梶田は苦笑した。

 

 会話の意味を察して、梨花はむずがゆい気持ちを覚えた。なんだか少し居心地が悪い。


「あっ」

 冨田の顔色がサッと変わる。


「────ちょっと、ごめんなさい」


 そう言って、ホールから出て行ってしまった。


「お手洗いかな?」

 呑気に言う綿貫。


 そこは、梶田と梨花の関係を察して────ではないのだろうか。

 追いかけたほうが良いのか、しかし恋敵に追いかけられたとて嬉しくはないだろう。


 梨花が逡巡しているうちに、ホールの照明が落ちた。


 わあっ! と、空間がふたたび歓声に満たされる。



          ◇




 薄暗いステージの上を、人影が歩くのが見えた。


 期待のこもった、ファンの子達の声がとびかう。


 ステージ上に、パッと照明があたる。


「こんばんはー! A-CHeRONアケロンです!」


 明るい金髪の綺麗なお兄さんが、そう言って観客に手を振りながら、マイクスタンドの前に立った。


 仙道は向かって右、ギターを持って立っている。

 家では気のいいお兄さんだけど、この場で見る仙道はなんというか、艶っぽい魅力をもった男性に見えた。

(────別の人みたい)

 梨花はぱちぱちと瞬きをした。


 ベースは眼鏡をかけた黒髪のお兄さん。

 ドラムは、金髪ベリーショートの女性だった。


「いきなりだけど新曲やります!」


 歓声が沸く。

 ボーカルの元気な声をトリガーに、仙道がギターを弾きだす。

 ベースとドラムも、ギターを追うようにリズムを刻む。


 切ない恋に別れを告げて、新しい一歩を踏み出す歌。

 曲にのせたボーカルの声は女性のように高音もよく伸びて、とても綺麗だった。

 それでいて力強くて、つつみこむように優しい。


 イヤホン越しに聴くのとはまた違う。

 全身を波のようにつつむ声。

 空気の震えが、おしよせる。


(────生の音って、すごい)


 気づいたら、梨花の体はリズムをとって揺れていた。


 ちらっと綿貫の様子をうかがうと、高くあげた右手を元気にゆらして全身で楽しんでいる。


 視界の端に、冨田茉莉花の姿をとらえた。


 よかった。具合が悪いわけではなさそうだ。


 一心に、ステージを見つめている。


(吸い込まれそうな歌だよね、わかる)


 心の中で、冨田に向けて言った。

 結果、ただのひとりごとだけど。


 このライブが終わったあと、食事にでも誘って、感想をいいあえたら良いのに。




 ステージのほうに視線を戻すと、仙道と目があった。彼は梨花たちの方を見て、にこりと笑った。


 うっすらメイクもしているのだろうか、妖艶ともいえる口もとに、どきりとする。


「ギターの人だよね。かっこいいね、仙道さん」

 梶田の耳打ちに、梨花は頷く。

「本当に。すごいです」




 素人の感想だけれど、懐の深いバンドだな、と思った。


 アップテンポでキャッチーな曲もあり、

 しっとりと聴かせるバラード曲もあり。


 力強く響くギターリフに、観客は手を上げて呼応する。

 梨花でもわかる。ロック調の曲の盛り上がりは、最高だった。



 ────あっという間の時間だった。



「ありがとうー!」


 そう言って、ステージから去って行くメンバーたち。


 すぐに、客席からアンコールと手拍子が始まった。


 


「アンコールありがとうー!」


 戻ってきたのは、ボーカルの彼と仙道。


 仙道の手には、小ぶりな笛らしきもの。


「何だろ」

「笛?」

 梨花と梶田は顔を見合わせた。


 ふっふっふと、綿貫が得意げに教えてくれる。

龍笛りゅうてきっていうらしいです。仙道さん、アンコールでたまに披露してくれるんですよ。やばいですよ」


「なるほど」

 梨花は頷いた。

 どうやばいのかは、見て聴いて感じろということかな。


 ファンの子達のあいだでは暗黙の了解なのだろうか。

 ホールに満ちていたざわめきと歓声が、シンと消えた。


 仙道が、横に構えた笛にくちびるを添えた。


 よくのびる、しなやかな音がこぼれだす。


 


 笛の音色に魅了されたように立ちすくんだままステージを見守る人々。そのあいだを、ひょこひょこと動くものが見えた。


(────あっ!)


 見間違いじゃなかった、やっぱりいたんだ!


 ふわふわの三角耳、茶色い体躯。


 あれ、でも猫にしたら顔がシャープだろうか。

 尻尾も、なんだかふさふさしているような。


 梨花は、隣の梶田の顔をこっそりと見た。


 龍笛の演奏に耳を傾けている。だけだ。変わりはない。


 ああ、やっぱり見えていないのだ。梨花にしか。


(どうしよう)


 茶色い獣はひょこひょこと動きながら、ステージのほうに近づいているようだ。


 梨花が獣と仙道を見比べていると、仙道が梨花の動揺に気付いたようだった。


 そして、仙道は次に獣のことを目で追った。

 もう一度梨花に目線を戻し、片目を瞑った。

 

 いいよ、任せて。そう言われた、気がした。




 ボーカルの彼が、そっとマイクに手を添えた。


 今日、いちばんの高音がのびた。


 女性のような優しい声が響く。


 笛の音と絡みつくように、ホールの中をうねりとなって流れていく。


 鳥肌がたった。


 茶色い獣は、ステージの前で立ち止まる。じっとステージを見た後、ひょいと飛び乗った。


(あっ)


 大丈夫だろうか、という梨花の心配は杞憂だった。


 獣は仙道の足に、すり、と頬擦りしたあと、

 ボーカルの彼の足元に伏せをした。




「次がほんとに最後の曲になりますっ!」


 ボーカルの声かけに、ベースとドラムのふたりも出てきた。


 バンドサウンドが奏でられる。

 歌いながら、弾きながら、客席を煽るメンバー。

 今日いちばんの盛り上がりだ。

 

 最後の曲が終わるまで、獣はずっと伏せしたまま、動かなかった。尻尾だけが、犬のようにふりふりしていた。


「ありがとう、またねー! 気をつけて帰れよー!」


 元気にはけていくボーカルの彼を追いかけるように、獣も舞台袖に消えていった。




「あっ、私、仙道さんに皆でご挨拶に行ってもいいか聞いてきます!」


 梨花が取り繕ったようにそう言うと、梶田は梨花の肩にぽんと触れた。


「了解、待ってるね」


 皆がいる場所では聞けない。先に聞きたい。

 もとより挨拶する予定だった。仙道からスタッフに話は通っているはずだ。

 梨花は受付で名前を告げて、楽屋の場所を聞いた。




 ────あれは、何ですか?

 そう、仙道に聞くのだ。

 きっと、仙道にも見えていたはずだから。


 関係者以外立ち入り禁止の看板横を通り過ぎようとしたところで、呼び止められた。

「嘉洋さん」


「冨田さん」


「────ごめんなさいっ!」


 がばっ! と、体を二つ折りにする勢いで頭を下げる冨田。

 梨花は戸惑い、声が出た。

「え? ちょ、とりあえず顔を上げて」

 冨田は姿勢をなおし、潤んだ目で梨花を見た。


「はい。すみません、突然。さっき、急に消えましたよね、私」


「ああ、そう、心配してたの。大丈夫だった?」


「大丈夫です。クッキーの、話題が出たから、です」


「クッキー……」


「綿貫さんが言ってたのって、あれですよね、この間、嘉洋さんが会社に持ってきてくれたクッキーの」


「あ、うん」


「あ、あの、あれ」


 顔を真っ赤にして、冨田はもういちど頭を下げた。


「全部食べたの、私なんです!」


「え、ええ?!」


 そうかもしれない、そんな話はしていたけれど。


 まさか、本当に。


「その話が出たから、いたたまれなくなって、つい」


「で、でもあれよね。いじわるで捨てたとかじゃないんでしょ? 全部食べちゃったのは、やり過ぎだったと思うけど」


 その細い体のどこに入ったのだろうか。

 そんなふうに不思議に思いながら、梨花はスタイルの良い冨田のからだをじっと見てしまった。

 まぁ、なんというか、ともかくだ。


「事情があったんでしょ?」


「最近、お菓子を見ると手が止まらなくて。市販のものをたくさん買ってそれで我慢するようにしてるんですが、手作りのものが目の前にあると、情けないくらい我慢ができなくて」


 会社で見た勝気な冨田とは別人のように、しゅんと縮こまったようにして、言葉を続けた。


「でも、それだけじゃないんです。嘉洋さんに対して、いじわるな気持ちもありました。────嘉洋さんは悪くないです。ただの嫉妬です」




「ああ、そうそう。それで梨花ちゃんにお菓子をお願いしたんだよ」


「え」

 突然ふってきた声に冨田が固まる。

「仙道さん」

 梨花も驚き名前を呼んだ。


 仙道は優しく微笑んだ。

「こんばんは。今日は来てくれてありがとう。  

 ────衝動的にお菓子を食べたくなるのは、昔から?」

 後半は、冨田への問いかけだ。


「いえ、昔から普通に好きですけど、こんな渇望するような感じは、ごく最近」


「いまも、梨花ちゃんに対する嫉妬心は強いかな?」


「いえ、無いと言ったら嘘になりますけど、ずいぶんすっきり────なんだか、目が覚めたような」


「そっか。やっぱりね」


 冨田との問答を終えて、仙道は梨花のほうに手を伸ばした。


「梨花ちゃん、クッキーこっちに貰っても良い?」


「あ、はい、どうぞ」


 梨花は持っていた紙袋を渡す。


 中には、普通のクッキーと、アイシングのクッキー。

 配りやすいよう、小分けにして袋に入れてある。


 仙道はそれぞれのクッキーをひと袋ずつ取り出して、封を開けた。そして、廊下に置かれていたパイプ椅子の座面に置いた。


 すぐに、廊下の奥から、あの獣が姿を見せた。


 鼻をひくつかせながら、そろりそろりと近づいてくる。


(ああ、狐だ)

 近くで見るとよくわかる。


 狐は二本足で立ち上がって、器用にクッキーを食べ始めた。


 やがてその姿がぼやんとぼやけて、着物姿の女の子になる。でも、耳と尻尾だけは狐のままだ。


(あっ)


 梨花がアイシングした、小鳥と百合の模様のクッキー。


 女の子はそれを持って、梨花のほうをちらっと見た。


 ────これ、私のために作ってくれたの?


 梨花は、こくこくと頷く。


 にこぉ、と笑って、少女は大事そうにクッキーを胸に抱いた。


「見える?」

 仙道が、冨田に向けて聞いた。

「はい……」

 冨田茉莉花は呆然と答える。


「あれは────君についてきたんだよ」


「ついてって────えぇ? 食欲も、そのせいで?」

 そう問い返したのは梨花だ。

 冨田は驚きで言葉もないようだ。


「そうだね。でも悪いものじゃないよ。きっと、彼女の気持ちとシンクロして、増幅しちゃったのかな。何か────手に入れたい、手に入らない物があったかな?」


「────あ」

 冨田の顔色が変わる。


「言わなくていいよ」

 人差し指を唇にあてて、仙道は言った。


「君ならわかってくれると、思ったのかもね」


 優しい眼差しを、女の子に向ける仙道。


「たぶん、もとは人間だったのかな。今では当たり前のおかしとか、甘い物を食べられない時代の子だったのかも。

 ────あの子、こっちで引き取っても良い? 悪いようにはしないから」


「え? あ、はい、────お願いします」

 冨田はまた頭を下げた。やっと我に帰ったようだ。



「暁人。話終わった?」



 仙道が声の主を振り返って、軽く手を上げた。

「透也」


 透也と呼ばれたのは、ボーカルの彼だった。

「お、ここにいるのな? どんな感じ?」

 そう言って、クッキーの方を見る。


「女の子です、狐耳の。あの、見えて────ないんですか」


 梨花の問いに、眉を下げて笑う。


「いるのはわかるけどね、はっきりとは、姿は見えないんだ」


 にこぉっと、人懐っこい笑みだ。

 ステージの上ではとっても大人っぽかったけれど、整った顔は笑うと幼さもあって、高校生くらいにも見える。


(美しさと可愛さって同居するのね)

 などと、梨花は妙な感心をしてしまう。


「見えなくても、寄り添うことはできるよ。悪いようにはしないよ。お前、うちの子になる?」


 三角の耳がぴんと立った。

 少女は透也のまわりをくるくると跳ねてまわった。


「ははっ、そっか。じゃあ今日から家族だ」


「透也の家は神社だから。似たような仲間もいるから安心して。相性はいいと思うよ」

 と、仙道。


 透也は、狐耳の少女のいるあたりを少しかまうようなそぶりをしてから、冨田の方を見た。

「ねぇ、そっちの綺麗なお姉さん。生きてるうちだよ、手を伸ばせば触れられるのも、目を見て気持ちを伝えられるのも」


「────────」

 冨田の形の良い唇が、きゅっと引き結ばれた。

「すみません、お先に失礼します」

 一礼をして、そのまま彼女は踵を返して去ってしまった。


「冨田さん」

 追いかけようとした梨花を、仙道が止める。

 ふるふると顔を横に振って、仙道は言った。


「ほっといておあげ」

 そして、透也に向き直って注意をした。

「透也、さらっと失礼だよね。梨花ちゃんも可愛いよ」


「可愛くないとは言ってないよ」


「いや、すみません。フォローはありがたくいただきますが。えっと、追いかけなくても────?」


 ゆらゆらと、透也が手を振った。

「大丈夫だよ。もう。手に入らない渇望が、この子とリンクしちゃったから、どんどんマイナスの方に気分がいっちゃってたみたいだね。リカちゃん、も、覚えない? ほしいものが手に入らない、何をしてもうまくいかない、だったら何もしない方が良い────みたいな、気分」


「あ、あります」


 梨花は頷いた。

 自分なりに折り合いをつけて、日々を送っているけども。

 小さな挫折なんて、しょっちゅうだ。


「ふたりが離れてひとりになったから、彼女も少し目が覚めたんじゃないかな。人を羨むんじゃなくて、自分がどうしたいのか。向き合う気になったんだと思うよ」


 そう言って、透也はまた笑った。


「大丈夫、彼女は強いよ。自分の望みもわかってる。あとは他人がどうこうすることじゃない」


「望みって、それは────」


(梶田さんのこと?!)


 だとしたら、冨田さんには申し訳ないけど、梨花としては放ってはおけないのだけれど。

 正々堂々と、邪魔はしない。でも、放っておくのは無理というものだ。


「すみません、一旦、失礼します! また後ほど、ご挨拶に伺います!」


「うん、あとでね〜」

 透也の優しい声を背中に聞きながら、梨花はホールへと急ぎ戻る。



          ◇



「……なぁ、透也。梨花ちゃん、何か勘違いしてないか? 俺ら、説明ミスったかな?」


「かもね。ま、いいんじゃない? そんなんで壊れるカップルじゃないんでしょ? 可愛いね、暁人の同居人。走ってく姿がハムスターみたい」


「その褒め方、本人の前ではするなよ……」


「ハムスターは人間より可愛いよ?」


「いや、うん、まあ……。でも黙っとけ」


「了解。ねぇ、このクッキー、俺ももらって良い?」


「────はぁ。その子、尻尾たててるぞ。喧嘩しないで、分けるよーに」



          ◇



 先に戻ってきたのは、冨田茉莉花だった。

 つかつかと歩いてきたかと思うと、思い詰めたような顔で綿貫の前に立った。


「綿貫さん」


「うん? どうかした?」


 綿貫が返事をすると、真剣な目で彼女は言った。


「聞いていただきたいお話があります。このあと、ちょっとだけ、お時間をください」


 どんな話か検討はつかなかったけれど、彼女のまっすぐな目には応えてあげたいと、綿貫は思った。


「いいよ! 後で飲みに行く?」

 つとめて明るく提案すると、こくりと彼女は頷いた。


「はい。よろしくお願いします」


 そういうことになった。



          ◇


      

「綿貫────くん?」


 少し遅れてやってきた梨花は、ふたりと梶田を交互に見てぽかんとした。


 梶田はそっと、梨花に耳打ちをする。

 綿貫たちに聞こえないよう、こっそりと。


「学生の時から、ずっと、好きだったらしいよ。彼女、綿貫くんを追いかけてこの支社に来たらしいし。飲み会で酔った時にポロっと話してたの。ほんと、その場にいたのが口の堅いメンバーばっかでよかったよ。冨田さん、酒入ると口が滑るタイプみたい。あ、これ内緒ね」


(そっち?! かっ、勘違い────!)


 恥ずかしい、顔から火が出そうなくらい恥ずかしい。

 だったらなおさら、梨花に追いかけられたくはないだろう。

 よかった。やらかすところだった。

 未遂に終わって、本当によかった。


 ああ、なんだろう、急に────。


「安心したら急にお腹空きました」


「何か食べに行く?」


「はい」


「安心、か。もしかして、やきもち妬いてくれた?」


 またしてもこっそりと耳打ちされて、今度は耳が熱くなる。


「……はい。いい年こいて、廊下を走っちゃうくらいには」


 嬉しそうに笑う梶田を、ついジト目で見てしまう。


 話がひと段落した綿貫と冨田が、こっちに歩いてきた。

 梨花は気を取り直して、通路の方を指差した。


「あっ、そうだ、楽屋。こっちです。みなさん、よかったら一緒に」



 ────────

 ────

 ──



「お会いできて光栄です! 1stアルバムの時から聴いてます!」

「おっ、古参だね〜! 嬉しいな。ありがとう」

 透也が綿貫とにこやかに握手している。


「はじめまして。梨花さんとお付き合いさせていただいています、梶田と申します」

「はじめまして、これはご丁寧に。仙道と申します。お噂は、かねがね」

 仙道は梶田におじぎを返して、梨花に向かって微笑んだ。

「よかったね、梨花ちゃん」

「ご紹介できてよかったです」




「お疲れのところありがとうございました。あまり長居してもあれなので、そろそろお暇しますね」

「やっぱり可愛いね、ハ……ごほん。梨花ちゃん。また遊びにおいで」

「透也さん。もうフォローはお腹いっぱいですから。ありがとうございます。また」

「ふふ。手厳しいな。クッキー美味しかったよ。次はケーキがいいな」

 無邪気に笑う。

 この人は本当につかみどころがないな。

 それでいて、人の心をつかむのが上手い。


「ばいばーい」

 子供のように手を振る透也に、手を振りかえす。


 楽屋を後にする最後、冨田が仙道たちに向かって深く礼をしていたのを、梨花は見た。



          ◇



 綿貫は、近くにあった半個室のイタリアンダイニングに冨田を案内した。居酒屋よりも落ち着いて話が出来るだろうと思って。

 仕事の話や雑談をしながら、食事はすすむ。


 そして、なごやかな時間は唐突に終わった。

 

「綿貫さんは、嘉洋さんのことが好きだったんですよね」

「ぶっ」

 危ない。ワインを彼女の顔に吹き出すところだった。

 口の端から垂れたワインをおしぼりで拭き、何急に、と目線で訴える。

 

「見てればわかります」


(あ、これだめなやつだ)


 冨田の目が座っている。

 綿貫はつとめて平静を装いながら言葉を探す。

 隠しているわけでもないけれど、変な噂が広がると、自分はともかく梨花に迷惑だろう。


「やー……。好きっていっても、一方的なあれだしね。急に「好きだったんです」ってやつが現れてもさ、向こうからしたら、誰、あんた。でしょ」


 自分の言葉が、ちくちくと刺さる。


「ただの憧れの延長だし、どうこうなりたいって気持ちはないよ。もちろん、幸せにはなってほしいけど」


「憧れじゃダメなんですか。憧れからの好きだって、ちゃんとした気持ちですよ」


 ははっ、と、乾いた笑いをもらしてしまった。

「梶田さんには敵わないよ」


「綿貫さんだって、かっこいいと思いますけど」


 綿貫は目を丸くして冨田を見た。

 酔いのせいか、冨田の目が潤んでいる。

「どしたの、今日。嬉しいけどさ。ずいぶんとつっこむじゃない。……それだけで選ぶ人じゃないよ。二人しか知らない積み重ねの結果だ」


「なんで、あの人なんですか。私のほうが……ずっと、見てたのに……とか、そんな気持ちにならないんですか」


「割り込みとか無理ー! 俺、トーフメンタルだから」


 あははと笑った声は、ゴン! という鈍い音にぶったぎられた。

 冨田が空っぽのグラスを力一杯、テーブルの上に置いた音。


「と、冨田さん?」


「トーフメンタル? はっ! よく言うわ! あの局面であの力が出せる人が、トーフなわけないじゃない!」


「え、ちょ、冨田さん? だいぶ酔ってる? 嘘、まだ三杯目だよね??」


「高校3年の夏! 全国優勝をかけた最後のリレー! 第一、第二走者からの遅れで優勝は絶望的! それでもアンカーのあなたは諦めずに前だけ見て走りぬけた!」


「え、え?」


 綿貫の動揺もよそに、冨田は拳を握って力説する。


「終盤の追い上げに観客皆が息を呑む! トップとの差はあとわずか!」


「冨田さん、俺のこと知ってたんだ。……そのあとわずかは、びっくりするくらい遠かったけどね」


「それでも! あの日のいちばんはあなただった! ずっと、見てたから!」


 ゴン! 


 再び。

 グラスの音とは思えない、鈍く重い音。

「冨田さん。落ちつこう」

 思わず、グラスの底が割れていないか確認する綿貫である。


「綿貫さんはかっこいいの、誰がなんと言おうと一番なの」


「お、おぉ……ありがとう? えっと、今更なんだけど、俺ら、直に会ったことあるの?」


「覚えていただいているかは、わかりませんが」

 冨田茉莉花はメガネを取り出して、かけた。

 サイドに流していた髪を持ち上げ、擬似的に前髪をつくる。


 綿貫の記憶の中で、ひとつのピースがかちりとはまった。

「ああ! いつもいちばん遠くで応援してくれてた子!」


「知ってくれてましたか」

「うん、目はいいんだよ。いつも来てくれてたよね。話したことは……ほとんどなかったかな」


 冨田は急におとなしくなって、ぐす、と鼻をすすった。

「私、気持ち悪いやつなんです。綿貫さん、いつも人に囲まれてたから、遠くから見るのが精一杯で。でもずっと見ていたかったから、綿貫さんの入る予定だった大学に一般入試で入ったのに、綿貫さんはいなかった」


「ああ、それはごめんね。いろいろあって、推薦取り消しになったからね」


「いえ、ごめんなさい。私が勝手にしたことです」

 冨田は眼鏡を外して、ピシッと背筋を伸ばした。

「陸上界からも消えちゃって、探しました。偶然、父の会社に入られたって聞いて……。今度こそ、使えるものは何でも使ってやろうと思って。あっ、でも、入社試験はちゃんと受けましたよ?! そこはズルしたくないから!」


「うん」


「あっ、最寄駅が同じなのは偶然です! そこは天に誓って!」


「うん」


「私も、さっき綿貫さんがおっしゃったみたいに、綿貫さんが幸せだったら良いと思いました。でも、違いました。綿貫さんは叶わない恋をしてた。それを目の当たりにしたら、我慢できませんでした。いっそ、私が綿貫さんを幸せにしたいでしゅ」


 ゴン!


 今度は、グラスではなかった。

 冨田茉莉花の額がテーブルにダイブした音だ。


 メガネを外していてよかった。

 綿貫はまずそう思った。


「え、えぇ〜……。冨田さん、大丈夫……?」


 すうすうと、小さな寝息だけしか返ってこない。


「困ったなぁ……」


「熱烈なプロポーズだったわね」


 突然の声に、綿貫は飛び上がった。


「うわっ、沙月さん! いたんですか」


 通路から顔を覗かせたのは、社内の裏ボスと名高い駿河沙月だ。


「言っとくけど、後から来たのは君たちだからね? あんなに大きな声、店じゅうに聞こえちゃうわよ。で。どうするの、プロポーズの返事は」


「からかわないでくださいよ、困ってるんだから」


「その割に、顔は笑ってるけど」


「嬉しいじゃないですか。そんなふうに自分をみてくれてた子がいるって知ったら。だからこそ、応えられないのが、困りました」


「応えられないの? 可愛いじゃない」


「梨花さんにフラれたからって、すぐ冨田さんって、しかも会社内で、節操なさすぎでしょ」


「綿貫くんさぁ、梨花ちゃんと一緒に仕事する未来なんて想像した?」


「いえ。これっぽっちも」


「そぉいぅことよ」


「…………待たせた挙句、叶わないかもしれません」


 次の恋の予定など、今は無いのだ。約束なんてできない。


「綿貫くん、いま何歳?」


「えっと、今年24になります」


「つまり彼女、既に6年は待ってるって事よね。勝手に」


「……そっすね」


「せめて本人の気持ちに整理がつくまで、勝手に待たせてあげなさい」


「困ったな……本当に。責任なんてとれないのに」


「あのねぇ、彼女は自分で立ってる大人よ? 責任なんて自分でとるわよ」


 ふふんと笑って、沙月はドリンクメニューを渡してきた。


「おかわりは? アオハル話のお礼に、いまなら奢ったげるけど」


「……一杯だけ、いただきます」


 いっそ綿貫も酔っ払ってしまいたい気分ではあるけれど、今日は酔えそうにない。何より、彼女を送っていかなければ。


「沙月さん、冨田さんの住所ってわかりますか?」


「冨田ちゃんの同期の女の子に聞いてみるわね。私のとこで引き取って泊めても良いけど?」


「いや、たぶん俺と同じ駅なので。責任もって送ります」



          ◇







「君も来る?」


 透也は、歩道橋の上に座って動かない黒猫に向かって言った。

 暁人たちバンドメンバーはもう階段を降り切って、駅へと向かっている。


 ちりん、と、鈴の音がした。


 黒猫は動かない。


「そう、残念」


「透也────! いくよー!」


 自分を呼ぶ声に、手をあげてこたえる。


「はーい」

 軽い足取りで皆を追う。


 ちりん、と、もう一度だけ、夜空に澄んだ音がした。



 


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お料理係のさしすせそ〜異世界でシェアハウスにお世話になります〜 もずのみいか @natunomochi

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