第2話 シチュー

 おばあちゃんの家には、隠し階段があった。


 外から見ると、少し天井の高い平屋建ての日本家屋なのに、実はニ階が隠れているのだ。屋根裏部屋というには、広い空間が。

 田舎ならではの広い玄関を通り過ぎると、これまた広い座敷があって、その奥には大きな仏壇のある仏間。鴨居の上の方には白と黒のご先祖様たちの写真が、長押にひっかけるようにして、ずらりと並ぶ。

 その先の細い廊下を通り抜けると、裏庭に面した小さな部屋がある。


 普段は使わない部屋だけれど、そこに家族しか知らない秘密があるのだ。

 押入れにしか見えない襖を開けると、階段が現れる。

 少し心細い気持ちで真っ暗な二階を見上げて、襖の内側にある黄ばんだスイッチをぽちりと押すと、ジジジという微かな音と共に、小さな電球にオレンジ色の明かりがともる。


 まるで忍者の秘密基地のようで、子供の頃の梨花はその階段がお気に入りだった。

 一段一段の奥行きはとても狭く、勾配も急すぎて、動物のように四足歩行で手をつきながら登らないといけない。

 そんなところも、スリルがあって好きだった。

 階段をのぼりきると、少し埃っぽい匂いのする空間にたどり着く。

 そこに並ぶのは、古いオルガンやおばあちゃんの若い頃の着物が入った桐箪笥。

 年々親戚の集まりが減って、使わなくなった、たくさんの来客用の食器セットが入った箱たち。

 突き当たりまで歩いていくと、細い細い窓とも言えないようなガラス張りの隙間から、外が見える。

(敵に攻められた時は、ここから矢を放つのだ! ……そんな妄想を、した事もあったなぁ)


 そんな昔の記憶が鮮明に蘇ってきたのは、押入れの中からコトリと音が聞こえたからだった。


 シェアハウスにおける梨花の部屋は、その階段に続く部屋にそっくりだったのだ。


 鶴と松の描かれた、襖の絵柄も。

 記憶の中の古ぼけて黄ばんだ感じはなく、真新しい色だったけれど。


 ただ、押入れの中は、ただの押入れだったはず。

 旅行用のキャリーとか、普段使わないものを入れていたはずだけれど。


 でも、部屋が「できる」のだから、階段だって「できて」もおかしくはない。

 ひとつ深呼吸をしてから、梨花はガラリと襖をひきあけた。




 見慣れたピンクのキャリーケースが鎮座している。

 あたらしく現れた階段に遠慮するかのように、壁ぎりぎりにくっついて。

 そして古ぼけた焦茶色の階段のいちばん下には、何やら木の実のようなもの。

「どんぐり……?」

 にしては、大きい。

 これが、音の原因だろうか。

 丸くて大きいどんぐりだけれど、日本で見る松ぼっくりくらいの大きさだ。

 そろーっと、階段の上を覗き込む。

 暗くて、先がよく見えない。

(スイッチは……たしかこのへん)

 探してみるも、お目当てのものは見つからず、ふむんと梨花は考え込んだ。

 似てるけど、非なるもの。

(相談した方が、良いかも)


 キョーコたちが帰ってきたら、相談しよう。

 それまでは、そっと襖を閉じておこう。

(あ、ちょっと待って)

 もしポルターなガイストさんの仕業だったら、お供物が効いたりなんかしないだろうか。

 仕事のお供にと用意していた豆大福を、階段においてみる。値札もそのままプラ容器に入ったままだけど。まぁ、いいよね。お仏壇じゃないし……。

 どんぐりも元の場所に戻して、襖をゆっくりと閉じる。

 仕事の資料とノートパソコンを持って、梨花は部屋を後にした。


 怖いわけではなかったけれど、皆が帰ってくるまでは居間で過ごす事にしよう。そうしよう。

 決して、怖いわけではないのだけれど。



          ◇



 ドアの開く音に、玄関までダッシュする。

 夜まで飼い主を待ち侘びる犬って、こんな気持ち?


「キョーコさぁん」

「ただいま、どうしたの?」

「今日に限って大家さんもお出かけだし、心細かったです」

 キョーコの顔を見るなり、とびついてしまった。

 強がっても、苦手なものは苦手だ。

「えっと、かくかくしかじかという怪奇現象がですね……」

「ふむふむ。じゃあ、一緒に見てみようか。あ、ついでに懐中電灯の場所教えるね」

 キョーコが居間に置かれたチェストの引き出しから、懐中電灯を取り出した。ライトのまわりは銀色で、持ち手部分はレトロな山吹色。懐かしいタイプの懐中電灯だ。

「この世界でも停電や地震が起こるのかは、わからないけど。私は私のいる間のことしか知らないけど、いままでは起こったことはないかな。あっちで揺れたらしい時も、こっちでは揺れなかったし。

 停電は……そもそも電気代とか払ってないもんね……。電気じゃないのかな? これ。それとも、大家さんのツテなのかしら……」

 居間のシーリングライトを見上げて、キョーコは首を捻った。




「お〜。階段だねぇ」

 襖を開けると、キョーコが感心したような声を出した。

「そうなんです、おばあちゃんちの隠し階段にそっくりで」

「おばあちゃんちがどんなのか気になるところだけど、とりあえずこっちだね。のぼってみようか」

 ちらちらと、懐中電灯で階段を仰ぐように照らすキョーコ。

 階段の上は、行き止まりではなさそうだった。




「からっぽだ」

 階段を登り切った先をぐるりと見渡して、梨花はそうこぼした。

「え?」

「おばあちゃんちの隠し二階には、いろんなものが詰まってて」

「そうなのね。たしかに、物はないみたいね」

「でもあの明かり取りは、一緒です」

「ねぇ、今って夕方よね……?」

 爽やかな朝のような眩しい白い光が、細く差し込んでいる。ほこりの粒が、光を受けてきらきらと輝いていた。

 キョーコは人気ゲームキャラクターの描かれた爪で、かちりと懐中電灯のスイッチを切った。

 梨花とキョーコは顔を見合わせる。

 一歩一歩、床が抜けないか確かめるように、木の床を歩み進む。

 ギシギシと音は鳴るけれど、しっかりとした床だった。

 明かり取りは腰高の位置にあった。

 横に長く、透明のガラスがはまっている。

 記憶の中のそれより、もっと新しく綺麗に見えるのは掃除が行き届いているからだろうか。

 それとも、「出来たて」だからだろうか。


 ふたりならんで、そうろと覗くと、そこは……


「え、ええぇ」

 窓の下から、川が流れていた。橋の上からの景色のようだ。

 左右の川岸には煉瓦造りの建物がずらりと並ぷ。飲食店と思しき建物のテラス席や、桟橋近くの露店はどこも客で賑わう。

 それは見渡す限りに続いていた。ゆるく右に曲がる川の、先が見えなくなるところまで。

 川面には、たくさんのゴンドラが浮かんでいる。

「ベネツィアみたいね」

「ベネツィア?!」

「あ、ちょっと違うか。川とかゴンドラの感じは似ているけど。ベネツィアよりもう少し、牧歌的かな。建物とか」

「ふわぁ」

 梨花はイタリアには行った事もなくて、どのくらい似ているのか想像してみるけれど、写真や映像でみた水の都の風景は、ぼんやりとしか思い出せない。

 ただ、言われてみれば、レンガでできた建物たちは高くても二階建てだし、造りもなんというか、あっさりとしている。川にいるゴンドラは全て人力で漕ぐ小さいもの。他に大きな船や観光船のようなものはなかった。

「と、いうか……、ねぇ、あれ、本物……?」

「猫……でしょうか」

 キョーコが指差した先には、いままさに橋の下から現れて、悠々と川を行くゴンドラ。の、漕ぎ手の青年。

「尻尾、動いているわねぇ」

「動いていますねぇ」

 獣人、というのだろうか。アニメに出てきそうな猫耳に猫尻尾。

 バランスをとるようにゆらゆらと動く様が、偽物には見えなかった。

「異世界をくぐりぬけたら、また異世界だった、って事なのでしょうか」

「可能性は否定できないわね」


「誰かいるのか?」

 少女のような声がして、梨花の頭の中でカチリと音が鳴る。

 そうだ、忘れていた。

 階段に置いたはずの、お供え物。無くなっていた──。

 声の方を向くと、扉があった。

 おばあちゃんちのそれは、壁だったはずのところ。

 扉から恐る恐るというふうに覗き込むのは、やっぱり猫耳のついた少女だった。

 耳と尻尾はふわふわした茶色の毛に覆われ、それ以外の顔などは人間のような肌だった。

 髪の毛も茶色で、肩までの髪が外向きにはねている。

 服装はシャツにカーゴパンツ。腰には革でできた道具入れのようなもの。なんというか、動きやすそうな機能的な格好で──。


(あっ)


 手には、空っぽのプラ容器。

 日本の豆大福は、お口にあっただろうか。

「これ」

 梨花の視線に気づいたのか、プラ容器を持ち上げてみせる。

「日本語だよな?」


 ニホンゴ。


 たしかにそう言った。

 梨花はこくこくと頷く。

 シールに印字された「豆大福」の文字。


「昔、同じようにここにきた人がいた。その人に少しだけ教えてもらったんだ。……私の言葉、わかる?」

「あ、わかります! ごめんなさい、驚いて」

「私はキョーコ。はじめまして」

「梨花です!」

「……私は、コナ」




 おばあちゃんが生きていたら、なんと言っただろう。

「押入れの中の階段を登ったら、水の都のような異世界につながっていて、そこは猫のような人たちが生きている世界だったよ」だなんて。



          ◇



「お茶、どうぞ」


 コナが出てきた扉の向こうは、小さなキッチンのついたダイニングスペースになっていた。

 チェリー材のような色合いの小ぶりなテーブルセットに、梨花とキョーコは案内された。


「あ、ありがとうございます」

「いただきます」


 キョーコが部屋の中を見渡す。

「ここは、お店なのかな?」

「うん。下で修理屋をやってる。ここは休憩室。直せるものなら何でも治すよ」

 コナは空っぽのプラ容器を振った。

「これ、勝手に食べちゃってごめんね。そっちの食べ物は美味しいものばかりだから、我慢できなかった」

「いえ、さしあげるように置いたものなので。お口にあったならよかったです」

 幽霊と勘違いしたことは黙っておこう。


「日本語、お上手ですね」

「私が話してるのはポリ語だよ。前もそうだった。勝手に翻訳されてるみたい」

「さっきもおっしゃってた、前にも日本人が来たことがあるって」

「うん。女性だったよ。優しくて、面白い人だった。ねぇ、さっそくで悪いんだけどさ、あなたたちにお願いがあるんだ」

 梨花とキョーコはきょとんと顔を見合わせた。


「何でしょう」

「白くて、とろりとした食べ物を、作ってくれないかな」

「白くて、とろり」

「うーん、それだけじゃ何かわからないわね」

 キョーコが宙をにらみながら考える。

「甘い?」

 コナは首を振った。

「甘くない、野菜とかお肉とかが入ってて。スープみたいな」

 しょんぼりと俯いて、コナは言う。

「ユキが、好きな食べ物なんだ。仲直りのきっかけがほしい」

 家族だろうか、お友達だろうか。大事な誰かなのだと言うことは、コナの表情から見てとれた。


「シチューかな」

「私もそう思いました。ホワイトシチュー」

「カヨ……昔ここにきた日本人が、作ってくれたんだ。ニホンの食べ物だって言ってた。三人で食べた。美味しくて、幸せな思い出なんだ。カヨが来れなくなったから、もうずっと食べられなかった」

 そう言って、頭を下げるコナ。

 心なしか、耳もとろんと垂れている。

「こんなお願い、突然で申し訳ないけど」


「いいです! 大丈夫! 私も、シチュー大好きですから。たくさん作りますね。えっと、具のリクエストはありますか?」

 ぱっとあげた顔が、輝いていた。

 こんな顔をしてもらえるなら、作りがいもあるというものだ。

「ありがとう! 鶏肉と、野菜がいい。あと、ピンクっぽいオレンジっぽい魚」

「サーモンですね」

「そうなのかな。名前はわからないけど、美味しかった……。お礼はする。といっても、私にできるのは何かを直すことくらいだけど」

 お礼など、と言おうとして、すんでのところで飲み込む。梨花もそうだけれど、他人に何かしてもらったことに対価を払わないと落ちつかない人間はいるものだ。

 一方的に申し訳ない気持ちを残すよりも、素直に対価を受け取った方が良いだろう。

「わかりました。じゃあ、何を直していただくのか、考えておきますね」




 階段を降りると、無事もとの部屋に着いた。

 シェアハウスの住人はまだ、誰も帰ってきていなかった。

 居間に戻ると、キョーコはソファに倒れ込んだ。

「はー、びっくりしたわねぇ」

「キョーコさん、普通通りに見えました」

「顔に出ないのよ、私。良いんだか悪いんだか……」

 そう言って、むにむにと頬を触るキョーコ。


「よかったの? お願い、受けちゃって。明日は月曜でしょう? 梨花ちゃん、仕事は?」

「あ、大丈夫です。いいかげん有給消化しろって総務から言われてるので、お休みとってて。特に用事もなかったから、常備菜の作り置きでもしようと思ってたところで」

 それに、と、梨花はキッチンに入り、エプロンをつけながら言った。

「仲直りは、できるうちにしたほうが良いんです」

「そうだね。大人になると、わかるね、それ」

「美味しいご飯は、人の絆もあたためてくれますから」


 にんじんの皮を剥きながら、梨花は思う。

 子供の頃、引っ越してしまう友人との別れは辛かった。

 でもその分、存分に別れのための準備ができた。

 ありがとうの気持ちを伝えて、泣きながら手紙を書いた。


 大人になってからは、どうだろう。


「じゃあまたね」のひとことが、最後になって何年もたつ。そんな相手が、もう何人いただろう。

 古い友人、知人の顔を思い出す。……思い出せたら、まだ良い方だ。


 会おうと思えば、いつでも会える。

 そう思っている関係ほど、切れてしまえばあっけない。


 どうしても仲直りしたい人がいる。少しの勇気を出せば手が届く。

 その事がどれだけ素晴らしい事か、梨花は知っているから。

 旅立つ友人を見送った、子供の頃のようなあの気持ちを、思い出して眩しくなる。

 手助けができるなら、してあげたいと思った。


「私にできることなら、喜んでしようと思います」



          ◇



「そんな事が」

 仙道が目を丸くして言った。


 夕食後のお茶を淹れながら、五味が言う。

「びっくりっすね。獣人たちの服、見てみたいな……尻尾の穴とかどうやって強度付けてるんだろ」

 あまりびっくりしてなさそうな顔だけれど。興味のポイントがさすがデザイナー(の卵)だ。


「大家さん、いままでそんな現象見たことある?」

 キョーコの問いに、ひよこのようでひよこでない、大家さんは首を捻った。


 ピィ……?


 どうやら、思い当たらないらしい。


「俺たちも付いて行こうかって言いたいところだけど、女性の部屋に勝手に男を連れて行くのは、まずいよね」

「そうですね」

 梨花は頷いた。お店の休憩室とはいえ、だ。

 さすが仙道、気配りが行き届いている。


「大丈夫です。コナさん、いい人そうでした」

 にっこりと笑って言ったのに、なんだか一様に微妙な顔をされた。

「心配だな」

「壺、買わされたりしないでくださいね」

「大丈夫、私が一緒に行くから。私、お店定休日だし」

「え、えぇ……?」

 心配してくれるひとがいるということが嬉しいような、放って置けないと思われている自分が、情けないような。

 複雑な気持ちで、梨花は淹れてもらったお茶をすすった。


(あ、そうだ)


 おばあちゃんにもらった、湯呑み。

 不注意で欠けてしまってからはしまいこんでいたのだけれど、いつか金継ぎに出そうと思っていた、大切な思い出の湯呑み。

 

(直してもらえるかな)


 ダメもとで言ってみようと、梨花は思った。

 


          ◇



「まずはシチューよね。お口に合うかしら」

 言われたとおり、鶏肉と鮭を入れた。

 野菜はにんじん、じゃがいも、たまねぎ、しめじ。

 鍋をかきまぜながら、梨花はすぅぅと息を吸い込んだ。

 ホワイトソースのあったかシチューは、幸せの匂いがする。

 味付けはどうしようか。

「う〜ん。とりあえずシンプルに行くか」

 後から味は足せるけど、引くのは難しいからなぁ。



 

 コナの店の休憩室で、三人は座っていた。

 出来上がったシチューを口に運ぶコナを、梨花とキョーコが神妙な面持ちで見つめる。

 ゆっくりと噛んで、ごくんと飲み込む。

 少し考えるような顔をしてから、「美味しい」と、コナは言った。

 でも梨花はそのわずかな違和感を、見逃さなかった。


「遠慮なく、言ってください。何か足りませんか?」


「う〜ん。美味しいんだけど、ちょっとだけ何かが違うの。なんだろう、コクというか、うまく言えないんだけど」

 申し訳なさそうに言って、パッとすぐに顔を上げた。

「でも、美味しいよ! 本当に」

 コク。もしかして。違うかもしれないけれど、試してみる価値はある。

「ちょっと待ってください、すぐ戻ります!」

 立ち上がった梨花に、キョーコがお茶請けのクッキーを片手に問う。

「手伝う?」

「大丈夫です! 少し味を足すだけなので!」

「じゃあ待ってるね」

 ひらひらと手をふるキョーコに頷いて、階段にむかう。




「どうでしょう?」

 階段を上がっただけで息があがる。

 運動不足を痛感しながら、持ってきたタッパーを机に置く。

 隠し味を足してみた、シチュー。いつも梨花が作っているのは、こっちの味だ。

「そう、これ! 思い出の味だ。美味しいよ」

 コナの耳がピンと立った。

 猫好きとしては触ってみたい衝動にかられるけれど、全理性を動員しておさえこんだ。

「何を足したの?」

 覗き込むキョーコ。

「お味噌です。白味噌を」

「へー! お味噌入れるのね。晩ごはんが楽しみ!」

「キョーコさんは、ご飯にかける派ですか?」

「パンにひたす派〜♡」

「いいですね、昨日仙道さんが買ってきてくれたバゲットがあるし。じゃあチーズを足しても良いかも」

「やだ最高」




「あ、ありがとう。きっと、ユキも喜ぶ」

 コナの言葉に、梨花はにこりと微笑んだ。

「いえ。仲直りのきっかけになれば幸いです」


「そもそも、どうしてケンカしたの?」

 キョーコが聞くと、コナはしゅんと下を向いた。

「私のせい。言葉が足りなかったんだ。ユキのお母さんが体調が悪そうだから、早く帰ってって言いたかったのに、ユキがいなくてもこのお店は大丈夫、私のお店なんだからって、言っちゃった」

 ゆらゆらと、元気なく揺れる尻尾。

「それからもう三日、顔を見てない。店が忙しくて、お見舞いも差し入れもできなかったから、今日はこのあとお店を閉めて、このシチューを持って行ってくるよ」


「もしかしたら、ユキさんは看病で来れないだけかも」

「うんうん。私もそう思う。コナちゃんの気持ちは、伝わってるんじゃないかなぁ」

「ありがとう。リカとキョーコにあえてよかった」

 よし、と、キョーコが立ち上がった。

「お見舞いにいくなら、今日はもうお暇しようか。また来るね」

 梨花も続く。

「そうですね。直してもらうもの、今度ご相談させてください」

「うん、いつでも! ──ありがとう。行ってくるね」



          ◇



 次の祝日──


 キッチンのカウンターから、匂いに釣られたキョーコが顔を出した。

「あら、今日は何作ってるの?」


 小鍋でホワイトソースを作りながら、梨花は胸を張った。

「ふっふっふ。ブランチ用のクロックマダムです! コナさんたち、シチューがお好きだったら、これもお好みかも、と思って」

「私も好き♡」


「いっぱい作りますからね、皆さんのぶんも。あれ、仙道さん、五味さんは?」

「仙道さんは朝帰りっぽいね。昨日打ち上げって言ってたから〜。帰ったら食べると思うよ〜。五味っちは、うわさをすれば」


「え? 俺の噂っすか。照れますね」

「起きてこないね〜って」

「あ、そういう……。昨日、デザインが進んで、つい夜中まで」

「珍しい。寝癖ついてるよ」

「まじすか。あ、俺顔洗ってきたら、コーヒー淹れます」

 ふたりのやり取りにくすくすと笑って、梨花は言った。

「はい、ありがとう。お待ちしてます」




 いつも通りのサラサラ黒髪に戻った五味が、コーヒーを飲んで言う。

「今日、おふたりはあっちに行くんですよね」

「うん」

「そうですね」


「いーなぁ。俺も行ってみたい」

 ふむ、と梨花は考える。前から思っていたのだ。あの窓から見える楽しげな街。一度で良い、歩いてみたい……!


 それに。

 一緒に暮らしていても、梨花と同居人たちは一緒に出かけたことはない。

 それぞれの生活する町に通じる「道」は、本人しか通れないから。

 もしコナたちの世界にみんなで行けるなら、初めての日帰り旅行みたいで楽しそうだ。


「あっちでの街歩きはできるのかなぁ。聞いておきますね、前に来られてた方のお話」

「うん。できたらで」

「了解です」

「気をつけてね」

 ピィ。

「ありがとう。大家さんも」

「任せとけい」

「いや、キョーコさんも気をつけてよ、一応女の子でしょ」

「一応ってなんだよ」



          ◇



「やっぱり、看病と実家の手伝いで忙しかったみたい。手紙もくれたみたいなんだけど、遅延しててさっき届いた」

 てへへと笑うコナの顔は、嬉しそうだ。

「お母さんも、すっかり良くなったって」

「それはよかった」

「ねっ」

 ふと、梨花は思いに耽る。

 メールも電話もない世界、か。

 あるのが当たり前すぎて、考えたこともなかった。

 不便だからこそ、思いが繋がったときの喜びは大きいのかもしれないな。

 ぽそっと、隣でキョーコがつぶやいた。

「メールとか電話で繋がるとそれでいいやって思いがちだけどさ、お互いの顔を見て気持ちを伝えることを、忘れないようにしたいよね」

「うん。ですね」

 深く深く、梨花は頷いた。




「ありがとう。シチュー、ユキも喜んでた」

「よかったです。あ、今日はこちらを」

 梨花はアルミホイルにくるんだクロックマダムをコナに渡した。コナとユキとユキのお母さん、三人分。

「美味しかったよぉ」


「えー! いいの? ありがとう!」

「ついでですから」

「そんなこと言わないで。気持ちも嬉しいよ。ありがとう」

 ストレートな物言いが、嬉しいようなくすぐったいような。


 コナは職人の顔になって、梨花を見た。

「あ、直すもの、持ってきた?」

「これなんですけど。少し欠けちゃってて」


 梨花が取り出した桜柄の湯呑みを、コナは白い手袋をしてからそっと触る。

 梨花は「そんな高価なものじゃ」と言いそうになって、やめた。

 きっと、値段ではない「大切」に対する敬意の表れなのだ。


「これ……」

 神妙な顔でコナが言う。


「あ、こういう食器の修理は無理でしたか?」

 やはり文化が違うと難しいだろうか。


「ううん、大丈夫。そうじゃなくて」

 言いながら、席を外す。

 シンクの隣にある食器棚をごそごそしたかと思うと、コナはまた戻ってきた。

「これ」


 その手には、桜柄の湯呑み。


「同じ……?」

「本当だ。同じ柄だね」

 欠けもない、きれいな状態の。新品ではないけれど、大切に使われていたのがわかる。


 コナは言った。

「カヨの忘れ物なんだ」



          ◇



「カヨさん……」


 考えこんだ梨花の顔を、キョーコが覗き込む。

「心当たりがある? 梨花ちゃん」


「あ、いえ。このコップ、特別に希少なものとかではないので。たまたま、かも」

 梨花の好きな雑貨屋さんで買ったものだけれど、同じ系列のお店は全国にある。


「まぁねぇ。人と被ることって意外とあるけど」

「ですよね」

「でもやっぱり、『ここ』で被るのって、なんだか運命感じちゃうわねぇ」

 しみじみと言うキョーコに、梨花も同意する。

「はい……」




「カヨさん、どんな方でしたか?」

「リカやキョーコより、もっと年上だったよ。月に一回くらいかな。こっちに来てたの」

 懐かしそうに、コナは笑う。

「いつもこっちのお店を楽しそうに見て回って」


「ここの街、私たちも散策できるんですか?!」


 梨花の勢いに、コナはぱちくりと目をみはる。

「カヨは、してた」


(そうか。そうなんだ)

 つい、そっちに食いついてしまった梨花である。


「どうして、これなくなっちゃったんでしょうか」

「引っ越しするって、いってた。ここにつながる扉にも、もう触れなくなっちゃうって」

「なるほど。入り口は人でなく、家に『ついて』いたんですね」




「コナさん。もしよかったら、私たちを一日、いや半日、案内していただけませんか? カヨさんが好きだった場所に。できれば、同居人も一緒に──男性もいるんですけど──。どうでしょうか」

「私からもお願い!」

「お礼のお料理ははずみます!」


「いいよ」

 あっさりとコナは承諾してくれた。

「観光ガイドのバイトは、経験あるからね」


「ありがとうございます!」

「でもきっとお料理なんかは、梨花の作ったものの方が美味しいよ?」

 真顔で言われて、なんだか照れてしまう梨花なのであった。



          ◇



「へぇ! 楽しそう! 行く行く! 仕事もひと段落したしね」

 梨花たちの話を聞いた仙道が楽しそうに言う。


「行ってみたかったから、嬉しいっす」

 五味も子供のようにわくわくした顔だ。いつもポーカーフェイスだから、新鮮だなと梨花は思う。


「大家さんは?」


 ピィ。


 ふるふると首を振る、大家さん。

「うん、じゃあ、お留守お願いします!」


 梨花に頷きかえし、大家さんはごそごそとを漁り出した。


(え、まさか、四次元ポケット的なアレ……?!)


 梨花がどきどきしながら待っていると、黄色いお守りが三つ出てきた。

 小さな巾着タイプで匂袋のようにも見えるのだけど、『守』という一字が書いてあるので、お守りなのだろうということが分かる。


 ひょい、ひょい、ひょい


 梨花と、キョーコと、五味の手に、お守りを配る大家さん。


 そして、じいっと、仙道を見る大家さん。


「あ、大丈夫、ここに──。この間もらったやつ、まだちゃんと持ってるよ」

 仙道が、ボディバッグから同じお守りを出して言った。


「これね、すごいんだよ──!」

 と、仙道が言う。

「いくら酔っ払ってても、ちゃんと家ここに帰ってこれるんだ!」


「仙道さん、酔っ払うと道で寝ちゃったりするからね……」

 キョーコが言うと、五味も頷く。

「これ持つようになってから、ちゃんと財布とか無くさずに帰ってくるようになりましたよね」


「へぇ〜! すごい! これがあれば安心ですね。ありがとう、大家さん」

 梨花が抱きつくと、照れたように大家さんはピィと鳴いた。



          ◇



「今日はよろしくお願いします!」

 梨花に続いて、三人もそれぞれ、コナに挨拶をする。

「よろしくね、コナちゃん」

「はじめまして。仙道です。今日はよろしくね」

「五味です。楽しみにしてました。よろしくお願いします」


 4人とも、今日は歩きやすいラフな格好にした。

 梨花と仙道はデニムにTシャツ。

 五味は黒デニムに黒Tシャツ、Tシャツのステッチだけが差し色の黄緑色。

 キョーコはコットンのハーフパンツに半袖のトップス。

 足元は皆スニーカーだ。


「どうも、コナです。いらっしゃい! こんなにたくさん、あっちから来てくれるのは初めてだよ〜! はりきって案内するね!」

 そう言いながら、斜めがけのポシェットを装着するコナ。


「カヨさんのお散歩コースを中心に回るけど、何か見たいものがあったら遠慮なく言ってね! あとは、そうだな〜」

 梨花たちの姿をながめて、棚から何やら布を取り出した。

「一応、このローブを着てくれる? 今日はそんなに暑くないし。フードをかぶっちゃえば、耳のあるなしはわからない」


「やっぱり、こっちだと、私たちの姿は珍しいの?」

「他の国にはいるよ。梨花たちみたいな人。でもこの国では観光客くらいかな。だから、悪い奴に狙われやすい」

 それは地球と同じなのだな、と梨花は思った。

 不慣れなよそ者は、狙われやすい。


 ローブを着た一行を満足げに見渡して、コナは右手をあげた。

「うん、皆サイズは大丈夫だね。じゃあ、しゅっぱーつ!」




「わぁっ……!」


 扉の向こうは、大きな橋の上だった。

 コナの店は、とっても大きな橋の欄干にくっつくように建っているらしい。

 コナの店だけではなく、橋の上には同じような店がずらりと並ぶ。


 梨花は感嘆の声をあげた。

「すごいっ! 私、こんなの見たことないです」


「キョーコさんが言ってた通り、本当にイタリアっぽいっすね」

「五味さんは、イタリアに行かれたことがあるんですか?」

「専門の卒業旅行で。て言っても、パックツアーだけど」

「いいなぁ、いつか行ってみたいです」

「こっちのほうが貴重すぎる経験っすよ。まさに人生に一度かも」

「たしかに……!」

 無いものねだりより、いまこの瞬間を楽しまねば。

 橋の上を行く人々は、お店をのぞいたり、景色を見たり、皆楽しそうだ。


「えっと、まずはこの国の象徴、運河です!」

 店と店の切れ目から、広い運河がのぞめる。コナが言うように、ここは運河が人々の生活を支える、水の都なのだろう。


「私ね、この橋からの景色がいちばん好きなんだ」


「素敵です」

 と、梨花。

「本当、綺麗」

 と、キョーコ。

「水の透明度がすごいね。人々の生活圏にこんなに密接しているのに、川の底が透き通って見えるってすごいことだよ」

 仙道は興奮して饒舌になっている。

「ゴンドラの装飾も、凝ってて良いなぁ……あとで近くで見たいっす」

 五味は職業柄か、デザイン的なものが気になるようだ。


 


「カヨはいつも、ここでドリンクを買っていたよ。もしかしたら、君たちの口にも合うかも?」

 橋を渡り切ったところにある出店の看板を指差す、コナ。

 書かれた文字は読めないけれど、何やら柑橘のような果物の絵が書かれていた。


「じゃあ私、注文します!」

「私もー!」

 事前に、コナと取り決めをしてあった。

 今日使う分の、こちらのお金を、コナからもらう。それと交換で、後日、梨花の作った料理や日本の食材を差し入れる事。

 4人それぞれにもらった小さな財布で、今日は異世界の街を楽しむのだ。

(本当に修学旅行みたい!)

 お小遣いをやりくりするような感覚が、なつかしくてとても楽しい。


 黄色いドリンクを受け取って、ひと口飲む。

 はしゃいだ喉に、冷たい果汁が美味しく沁みた。

「わ、なんだろう? レモネード? ゆず? 美味しい!」


「俺らはこっちの買ってくるね〜」

 男性陣は、肉の串焼きの方に歩いて行った。


 コナは少し離れた場所で、知り合いに声をかけられ、談笑している。


 梨花とキョーコは、空いていたベンチに腰を下ろした。

「私ね、梨花ちゃんとこんなふうにお出かけしてみたかったの」

「キョーコさん……! 私もですっ」

 ふたりでふふっと笑いあう。


「不思議だよね。日本にいた時は、遠すぎて、待ち合わせもできなかったけど。異世界でこんなふうに、みんなと遊んでさ。今日は、本当に楽しいや。──梨花ちゃんのおかげ。ありがとう」



          ◇



「すごい!」

 眼下に広がるのは、エメラルドグリーンとターコイズブルーの入り混じる遠浅の海。


「カヨはここがお気に入りだったよ。海の色は全然違うって言ってたけど、潮の匂いが故郷を思い出すんだって言ってた」

 潮風を気持ちよさそうに受けながら、コナが言う。


「海……ちょっと寄っても良いですか?」

「もちろん」


「海、久しぶりだなぁ」

 と、仙道。

「俺ら、なかなか行かないですもんね。しかもこんな沖縄みたいな海」

 伸びをしながら、五味も言う。


 梨花は、裸足になって、波打ち際を歩く。足元に運ばれてきた、二枚貝の片われを拾った。

 白とオレンジが混ざった、タイダイ柄の貝殻。


「持って帰る?」

 キョーコの声に、照れ笑いで振り返る。

「貝殻あつめ。昔、おばあちゃんと一緒にしたなぁって、思って。もうすぐお墓参りに行く予定だったので、お土産に」

「おばあちゃまは、いつ?」

「ちょうど一年ほど前です。突然のことで」

「そう……辛かったね」

「おばあちゃん、世界中のポストカードを集めるのが趣味で。いつか一緒に、海外旅行に行こうって、言ってたんだけど。叶わないまま」

「そっか」

「だからせめて、こっちの空気を感じてほしくて」

「きっと今も、梨花ちゃんと一緒にこの海を見てるよ」

「だといいなぁ」




「リカー! キョーコー! そろそろ街に帰ろっか。帰りはゴンドラにのっちゃおう!」

 遠くでコナが呼ぶ。

「はいっ!」

「いまいくー!」

 ふたりは返事をして、波打ち際に別れを告げた。




 ゴンドラでの帰路は楽しかった。

「水路から見る街って、こんな感じなんですね……!」

 水路に直に接する建物というのが、まず珍しくて、梨花は子供のようにはしゃいでしまった。

 いまは引き潮の時間帯なのだろうか。建物の壁、緑色に苔むした部分が水面より上に見えている。

 それぞれの建物には大きな入り口がついていて、この水路が人だけではなく、物資の運搬に使われている事がよく実感できる。


 途中、建物の窓に毛布をかけて干している部屋があって、風が吹いたら落ちて濡れてしまわないのだろうかと、ひやひやしながら見てしまった。


 時々、窓から手を振ってくれる人がいた。

 少し照れながら手を振りかえす。


 五味は景色よりもゴンドラの意匠に夢中だった。

 あっちから持ってきたらしいノートに、気に入った意匠を書き写していた。


 仙道はいつのまにか買っていた、小さな笛で、聞いたことのないメロディを奏でていた。聞いたことはないはずなのに、どこか懐かしくて、美しい曲だった。


「即興だよ。この街の雰囲気で吹いてみた」

 さすが音楽を本業にしている人はすごいなと、梨花は感心しきりだった。


 コナは仙道の笛を気に入ったようで、にこにこしながら聴き入っていた。

 建物の間を、橋の下を、くぐりぬけてゴンドラは最初に降り立った街についた。


「いや〜、よかった!」

 キョーコがゴンドラを降りてそう言った。

「とっても楽しい時間でした」

「まだまだ、これからお店をのぞくよ〜」

 コナがそう言って、先導して歩き出す。


「あ、革製品のお店! みたいっす」

 と、五味。

「いいね〜。俺も小物見たいな」

 と、仙道。

「よしよし、いいお店があるよ、ついてきて!」




 街を満喫した一行は、コナの店に戻ってきた。

「コナちゃん、俺たちまで案内してもらってありがとう」

 仙道が言うと、五味も興奮冷めやらぬ様子で言う。

「めちゃくちゃ満喫しました。楽しかったっす。今度、俺の街の名物も梨花さんに託しますね」

 はいはいと、キョーコが手をあげる。

「私も! 柿の葉寿司もってくるー! 美味しいのよ〜」

「どういたしまして、楽しみにしてる」


「今日は、本当にありがとうございました」

 梨花も、コナに礼を言う。

「夢みたいでした。──私、住んでいる国以外の場所に、行ったことがなかったから」


 照れたように頬をかきながら、コナが言う。

「いいよー! 喜んでもらって、私も嬉しい。湯呑み、ちゃんと直しておくね」


 ねぇ、と、思い出したようにコナは梨花の顔を見た。


「梨花、私たちは、どこへでもいけるんだよ」


 受け売りだけどね、と言って、へへと笑うコナ。

「カヨが言ってた。行けない理由を作っているのは自分だって。本気出したらどこへでも行けるんだって」


 懐かしむように、噛みしめるように、コナは言う。


「でも、行かない理由が自分にとって大切なものならば、行かないっていう選択も、それはそれは素敵なことなんだって」


「……はいっ」


「いい言葉だね。会ってみたかったな、カヨさん」

 キョーコが梨花の肩をそっと抱く。

「……私もです」

 梨花は目頭がじわりと熱くなるのを感じながら、カヨも見ただろう空を見上げた。



          ◇



「あ、そうだ、この階段に落ちてた、どんぐり? って──」

 梨花がポケットから取り出した実を見て、コナが不思議そうな顔をする。


「? グラの実だね。あちこちによくあるよ。そっちに落ちてったの?」


「あ、はい。最初に、ここへの道ができた日に。たぶんこれが落ちる音で、階段に気がついて──」


「うーん? あの日はもうユキもいなかったし、店には私だけだったと思うけど……わかんないなぁ」


「え、じゃあ、こ、れは……。うわっ?!」


 やっぱり幽霊? ──と怖くなった梨花のポケットから、大家さんのお守りが飛び出した。


 お守りが、どんぐり──グラの実にピッタリとくっつく。

 すると、どんぐりが霧のようになってふわりと消える。

 かわりに現れたのは、女性のかたちをした、もやのようなもの。


「カヨ」

「おばあちゃん」


 えっ? ──と、梨花とコナは顔を見合わせる。


 そのゆらぎは食器棚のほうを指差し、そして次に梨花の方に手のひらを向けた。

 にこりと笑って──消えた。


「カヨさんが、おばあちゃん……?」

「カヨ、だったよ」


「おばあちゃんの名前は、シホで……」

 そう言いかけたとき、梶田のおばあちゃんの顔が浮かんだ。

 梨花が名乗ったあとに、カヨちゃんねと呼んだ声。


「カヨウ・シホ……カヨ。なぁんだ」

 おばあちゃんも、同じ勘違いをされていたのか。

 おかしくて、くすくすと笑ってしまった。


 ひとしきり笑ったあと、ひとつの疑問が浮かんできた。

「おばあちゃん、なんだか、ずいぶん若返ってたけど……」

 梨花の呟きを聞いて、コナが考えこむ。

「もしかしたら、そっちの時間はズレていたのかも。私の知ってるカヨはあんな感じだったの。つい数年前だけど」


 キョーコがぽん、と、梨花の肩に手をやった。

「何にせよさ、おばあちゃん、しっかり旅行楽しんでたんじゃない?」


「そっか。よかったぁ……」

 じんわりと鼻の奥がしびれる。梨花はへへ、と笑った。

「おばあちゃん、私のお世話をするようになってから、なかなか旅行も行けなかったんじゃないかって、ずっと思ってて。よかった……」


 よし、と、梨花は決意を口にする。


「今度、おばあちゃんちのあった場所に行ってきます。もう家は無いし、ちょっと、遠いけど。行きたい」


「うんうん」

 あーあ、と、キョーコは残念そうに言う。

「私も一緒に行けたら良いのになぁ〜」

「途中でなら会えるかも? 京都なので」

「あら、京都?! 行くわ!」


「おばあちゃんちは北の方なので、遠いけど。京都駅にも寄りますから。市内だったら」

「行く行くー!」


「いーなぁ。八ツ橋お願いしますね」

 と、五味。

「懐かしいな。学生の時、住んでたよ。良いお店リストアップしてあげるよ。楽しんで」

 と、仙道。


「カヨが、呼んでくれたのかもしれないね」

 そう言って、コナは欠けていない方の湯呑みを梨花に差し出す。

「これ、梨花がもっていて。きっと、カヨはそう言っていたんだよ」


「きみは、もう少し待っていてね」

 コナが欠けた梨花の湯呑みをつんと触ると、どこからか、梨花の耳にコロンと何かが転がった音が聞こえた。

 ……ような、気がした。



          ◇



「大家さん、ただいまっ!」

 シェアハウスの居間に戻ると、大家さんがくつろいでいた。


「はい、お土産〜」

 皆からのお土産は、大家さんサイズのクッション。

 丁寧な手仕事の刺繍がすてきな、一点ものだ。

 すずらんとグリーンの柄がポイントだ。


 ピィ!


 大家さんは嬉しそうに体を揺らし、クッションを受け取った。


 梨花は言う。

「お守り、効果あったよ。。ありがとう」


 ピィ。


 ぎゅーっと抱きしめると、照れたように鳴く大家さん。


「今度、おばあちゃんの生まれ育った街に行ってくるね」


 梨花が言うと、大家さんが何か考えるそぶりをして、キッチンに歩いて行った。

 と思ったら、弁当箱を抱えて戻ってきた。


「梶田さん用のお弁当箱?」

「いいじゃん! 大家さん名案! 梶田っち誘って行ってきなよー!」

「え、えぇえ?」

 キョーコは屈託なく笑って言うけれど、梨花にはハードルが高すぎる。

 そんな、いきなり旅行なんて誘っても良いのだろうか。


「一人旅も楽しいけどさ、道連れがいた方がもっと楽しいよ〜?」

「部屋を分けたら問題ないよ」

「そうだ、新しい洋服もうすぐできるんで、それ着て行ってくださいよ!」


 皆は口々にそう言うけれど。

「いや、そんな、梶田さんにもご都合ってものが」



          ◇



「今日のお弁当はシチューなんですね」

 と、梶田の弾んだ声。


 スープジャーに入れたシチューと、バケット。ミニサラダ。今日の献立だ。

「最近、シチューにハマっていて。今日は海老、ブロッコリーとマッシュルーム、玉ねぎ、人参のシチューです」


「うまっ」

「よかったです」

「そういえば再来週、京都に出張に行くことになりまして〜」

 梶田の方からそう切り出した。


「ぶっ」

 あまりのタイミングの良さに、シチューを吹き出しそうになったけれど、意地と恥じらいで決壊を防いだ。


「梨花さん?! 大丈夫です?」

「だ、大丈夫です」

 これもまさか、大家さんのちからなのだろうか。まさかね。


「ち、ちなみに何曜日に…?」

「金曜日なんですけど。せっかくだから直帰扱いにして、一泊して観光してこようかなって。何かお土産、リクエストありますか?」


「ああ〜……。お土産っていうか、なんていうか」

 目線の泳ぐ梨花を、不思議そうに見る梶田。

(そんな顔でじっと見ないでください、緊張が)


 ぎゅっと目をつぶると、昨夜の皆の声が聞こえた。

 そして最後に、コナの声とおばあちゃんの笑顔。


 ああ、そうだよね。伝えたいことは、伝えられるうちに。


 梶田だって、いつ転勤になるかわからない。

 転勤にならなくたって、いつ彼女ができるかわからない。

 そうしたら、もう梨花とは、お弁当を食べたりどこかへ出かけたりできなくなる。

 それは寂しいと思うから、いまのうちに楽しい思い出をつくりたい。その自分の気持ちを、大切にしたい。


(ひとりでいたくないときは、そばにいるって……あの言葉に、甘えてもいいかな)

 梶田の祖母に会った日の帰り道の、夕日と梶田の顔を思い出す。

 

(よしっ! だめもと!)


「私も金曜日から京都に……有休とってプライベートで行くんですが、よかったら、あっちで合流しませんかっ?」

「そうなんですか?! おひとりで?」

 梶田の驚いた声。

 さすがに彼の目は見られなくて、梶田がどういう表情をしているのか、梨花には分からない。


「京都駅で少し友人と会う予定はあるんですが、他はひとりで……なので。あ、でももちろん、無理でしたら断ってもらって大丈夫です」

「じゃあ、せっかくなので新幹線も合わせましょうよ! 僕も一人ですし、出発も朝早くはないので」


「そうですよね、急に変なこと言っちゃってごめんなさい……って、え? いいんですか?」

 緊張のあまり断られた時のセリフが早口言葉のように口から出たあと、梶田の言葉が脳みそに届いた。


 ぽかんとして、思わず梶田の顔を見てしまった。

 梶田は笑っていた。嘘のない笑顔で。


「もちろん! すごく楽しみになりました! あ、いや、別に、出張が嫌とか仕事が嫌とか、そういうわけじゃないんだけど」

「ふふ、はい。──あ、あと、私のメインの目的地が私のおばあちゃんの生まれ育った町で、今はもう家もないんですが、その場所に行きたくて。そこ、北部の海のほうで、京都市内からはけっこう時間がかかるんです。だから、梶田さんが行きたかった観光地を巡る時間がとれなくなっちゃうかもしれなくて」


 梶田が行きたかった場所があるなら、迷惑になるかもしれない。先にデメリットを伝えなければ。

 また早口になった梨花だったが、梶田はもっと嬉しそうな顔をした。


「すごい、きっと僕の行ったことのない町ですよね。梨花さんとじゃなければ行けなかっただろうな。なおさら楽しみだなぁ。あ、海の近くってことは、海産物が美味しい?!」

「はい。美味しい海鮮丼のお店、行きましょうか」

「やったー!」

 

 肩の力がふっと抜ける。

(勇気を出して、よかった)


 ひとりでも楽しい旅はできるけれど、その土地の食事を美味しいねと笑い合える相手がいるのは、素敵だなと梨花は思った。

 子供のように笑う梶田から、なぜだろう、今度は目が離せなかった。

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