お料理係のさしすせそ〜異世界でシェアハウスにお世話になります〜

もずのみいか

第1話 桜餅

 総務部の真っ白な扉の前で、動物園の熊のようにうろうろすること早5分。


 この度の事情を、どう説明するべきか。


 正直に言うならば。


「谷底アパートに降りる百階段のてっぺんから転がり落ちたら、そこは紫色の雲が浮かぶ世界で、歩き回って見つけた一軒家シェアハウスにお世話になる事になったので、谷底アパートいますんでいるへやは引き払います」


 なのだけれど。


 異世界に引っ越すので住所はわかりませんなんて、残業のしすぎで頭がおかしくなったと思われてしまう。


 友人のところに居候するので、いままでの住所が使えない。

 とりあえず書類上は実家の住所にしておいてくれ。


 やっぱり、シンプルにこれでいこう。


 脳内でのシミュレーションを終え、いざ出陣と意気込んだ時だった。


「何かご用かしら?」


 背後からの声に飛び上がりそうになる。


「あ! 沙月さん! お疲れ様です」


 振り返った先には、年齢不詳の美人。

 ゆるく巻いた茶色い髪はハーフアップで、派手さは無いがセンスの良いスーツに身を包む。


 総務部の駿河沙月するがさつきだった。

 2年前まで企画部に在籍していた先輩だ。


「あら、梨花りかちゃん。お疲れ様」


「あ、あの、じつはですね、友人のところに居候することになりまして、書類上の住所を実家に変更したいって言うか」


「はっはーん」


 何だかにやりとして頷いている。わかってもらえたのだろうか。


「わかったわ。住所は言えないけれど、新しい生活をスタートしたいと」


「? まぁ、そうです。はい」


「まかせて! 誰にも言わないから。うふ。若いって良いわね」


「あ、ありがとう……ございます??」


 なんだか、勘違いがありそうだけれど。


「社内恋愛は別れた時に気まずいものね。同棲しても寿まで隠しておきたい気持ちはわかるわ。私も20年前は……」


「社内恋愛?!」


 思わず悲鳴をあげてしまった。


 一体、誰と?!

 毎日言葉を交わす異性といったら、後輩の田ノ口たのぐち君と課長くらいなのだけれど。


「え、違うの? 同棲するけど住所でバレたくないんじゃないの?」


 とんだ勘違いじゃないか!


「違います!」


「なぁんだ」


「沙月さん。急につまんなくなったと、顔に書いてあります」


「あら、ごめんなさいね。でもそれもそうねぇ。うちの会社の独身のモテそうな若い子っていったら、梶田かじたくんくらいだものねぇ」


 沙月さんが、まわりを見渡し、悪寒をこらえるように両腕をさすった。


「梶田くんと同棲なんて噂が流れたら、おばさま達のサツ……視線が怖いわねぇ」


(いま、殺意っていいかけましたよね?)


 頭痛がし始めた気がして、こめかみを押さえる梨花。

 だいたい。


「梶田さんとなんて、釣り合う訳が無いじゃないですか」


 そうなのだ。

 ここに、梶田さんの二つ名を思い出せるだけ並べてみる。


 営業の星。おばさまたちのアイドル。コミュ力の権化。陽キャの代表。イケメン。中身までイケメン。


 うん、天地がひっくり返っても、無いな。


「梶田くん、最近ちょっと消極的っていうか、表情が暗いのよぉ。だからさぁ」


 ちらりとまわりを見渡し、梨花の肩に手を回す。


「お願い! 住所の事はうまくやっておいてあげるからさ、それとなぁく、梶田くんの悩みを聞いてあげてよ!」


「私につとまるとは」

 むしろ先輩たちのほうが、トーク力に優れているのではないか。


「年齢が近い方が、話しやすい事もあると思うのよー。梨花ちゃん、聞き上手だし」


「それは口下手なだけで」

 せめて気持ちよく話してもらおうと、相槌には余念がないだけだ。


「そぉんなことないわよぉ! 我が社のアイドルが元気ないと、会社だってつまらないでしょ?」


「知りませんけど」


「もちつもたれつよぉ」


 暗に住所のことを言ってらっしゃる。


「くっ……わかりました」


 こっちだって後ろ暗いのだ。ここらで交渉成立させてしまおう。

「会社は仕事をするところですけどね」の一言は、噛み砕いて飲み込んだ。



          ◇



 うっかり、引き受けてしまったけれど。


 あまり仲良くもない人気者の異性に声をかけて、あまつさえ悩み相談に乗るなどと。


 冷静に考えると、あと人生3周くらいはしないと、ハードルが高すぎると思うのだが。


「これは仕事、これは仕事……」


 仕事相手から潜在的な要望を引き出すための、プレゼンだと思え。


「梶田くん、昼休みはいつも屋上にいるから」

 そう、沙月さんは言っていたけれど。

 いなかったら、また今度よね。


 自分に言い訳をしながら、屋上へと続く、仄暗い階段をのぼる。

 自分の靴音だけが空間に響く。

 ひやりとした空気に、少し身震いをした。


(屋上なんて、滅多に来ないからなぁ)


 夏祭りの日に、皆で花火を見上げて以来か。

 すぐに帰っても道が混むからと、花火が終わったらまた皆残業に戻ったのだよなと、思い出す。


 さて、現実逃避はそのくらいにして。


 簡素な銀色のノブに手を伸ばし、ひねる。

 音を立てないよう、ドアをゆっくりと押す。

 ここ最近でいちばん重たい扉だなと、ひとり思う。


 ──うん。いた。


(いちゃったか〜)


 ひとり、ベンチに座ってスマホをいじりながら缶コーヒーを飲んでいらっしゃる。

 缶に添えられた指が長くて、綺麗ですね〜。


 チャコールグレーのスーツが似合いすぎて、組んだ足が長すぎて、まるでカタログモデルのようだ。


 黒髪だけれど少し茶色がかった色は生まれつきのものだろう。

 顔が小さい。というか、顔が良い。なんとかいうアイドルに似ていると、同期が言っていたのを思い出す。


 なんというか、眩しい。


 ここまで造作ぞうさくに隔たりがあると、同じ種族とは思えない。嫉妬の気持ちすら湧かないのだから、不思議だ。


 たしかに少し浮かない表情をしていて、それがなんだかドラマのワンシーンのように思えてくる。

 そろそろBGMが流れて来そうだ。


 通常、このタイミングで登場するのは麗しいヒロインであって、決して冴えない同僚ではないのである。


 ああ、気が重い。


 一度閉めたドアのノブを握ったまま、深呼吸する。


 約束は約束だ。腹を括ろう。




 梶田の前まで歩いて行くと、こちらに気がついたようだ。

 見上げてくる梶田の目を見れなくて、耳のあたりを見ながら言った。

 他人に対して耳の形が整っているなどと思ったのは、生まれて初めてだった。


「梶田さん」


「あ、はい」


「企画部の嘉洋かようです」


「あ、知ってます」


「今日は良いお天気ですね」


「ですね」


 我ながら、下手くそがすぎる。


 だって、たしかに通常時より元気がないのか、光成分が少ない気もするけれど、屈託のない笑顔がやっぱり眩しいのだもの。


 ええい、なるようにしかならん。


「私も、ここでお昼を食べても良いでしょうか」


「あ、ここどうぞ。荷物、どけますね」


 突然声をかけてきた怪しい同僚に引くこともなく、さりげなくベンチの上のリュックを退けて、座るスペースを作ってくれた。

 さすが悩んでいても、コミュ強である。

 謎の感心をしてしまう。


 梶田ファンクラブのおばさまたちに見つからない事を祈りながら、梶田の隣に腰を下ろす。

 見つかったら、明日からの社内生活に支障をきたすかもしれないのだ。くわばらくわばら。


 早急にミッションを終えよう。


「お弁当ですか?」


 弁当箱をランチバッグから出すと、梶田が興味ありげに問うてきた。


「はい。ほとんどあまりものですけど」


「いいなぁ。僕、朝弱くて、コンビニで買うのが精一杯です」


 そう言って、サンドイッチをレジ袋から出す梶田。


 3秒悩んだ後、手に持った弁当箱を差し出してみる。


 異文化交流にはまず食だ。


「……食べます?」


「いいんですか?!」


 想像の5割り増しで食いついてきた。


「お口に合うかは、わかりませんが」


「じゃあ、はんぶんこで交換しましょう。サンドイッチもどうぞ!」


 はんぶんこて。可愛いな。

 おばさまに人気があるのもよくわかる。

 なんというか、母性本能をくすぐるというやつか。

 梨花に母性があるのかどうかはよくわからないけれど。


「ありがとうございます」


「たまごとハム、どっちにします?」


「じゃあ、たまごで……」






 梶田は人をよく見て、それに合わせてくれているのだろうと思う。


 心地よいテンポで話してくれるし、食べている間の時折の沈黙も、苦ではなかった。


 思いがけず楽しい時間を過ごせて、梨花はすっかり和みモードになっていた。


 うん。たまにはサンドイッチも新鮮だったな。

 ずっとおにぎり派だったけれど、今度作ってみても良いかもしれない。

 食パンも良いし、ロールパンサンドも美味しそう。

 時間が無い時は好きな具材だけ持って行って、通勤途中にベーカリーで買った柔らか目のフランスパンにはさんで……。


 水筒のお茶を飲みながら、ほっこり妄想していた梨花は、唐突に当初のミッションを思い出す。


「悩み……」


 って。あります?

 そう聞こうとした台詞を、飲み込む。


「はい?」

 

 聞こえなかったのか、意味をはかりかねているのか、問いかえす梶田。


 今日初めてまともに話した人間から、いきなり悩みがないかと聞かれてみろ。梨花なら宗教かマルチ商法の勧誘だと疑う。

 ここは、そうだな……。


「悩みがある時って、どうやって発散してますか?」


 少しぼやかしてみた。これでも精一杯だった。


「そうだなぁ、いったんその原因から離れて体を動かしてみるとか、美味しいものを食べるとか」


 梶田は律儀に答えてくれる。

 その表情が、ふと暗くなった。


「あ、でも今、その美味しいもので悩んでるんですよねぇ」


 奇跡がおこった。


 梶田の方から、食いついてくれるとは。


 釣り針に餌をつけようと奮闘していたら、魚が堤防に打ち上がってきたような気分に、梨花はなった。




「お悩みの内容は、聞いても……?」


「あ、大丈夫です。面白い話でも、ないですけど」


 ミッションの事はもう、梨花の頭から抜けていた。

 単純に、梶田を悩ませる原因が何なのか、がぜん興味が湧いていた。


 いつのまにか、梶田の目を見て話せるようになっている事にも気づかず、梨花は言う。


「よかったら、聞かせてください」


 ひとつ頷き、梶田は話し出した。


「じゃあ。……桜餅って、美味しいじゃないですか」


「ですね。私も好きです」


 梨花は思い出す。

 まだ寒い中、お店に並びはじめると、もうすぐ春だなと心が嬉しくなる。

 舌にとろけるこしあんも美味しいし、食べ応えのある粒あんも大好きだ。

 桜の葉の塩漬けが良いアクセントになって、お茶と一緒だといくつでも食べられる気になってしまう。


「でも、違うんです」


「??」


 何が、違うのだろうか。

 妄想にトリップしそうになった梨花の意識が、梶田のほうに引きもどされる。

 首を傾げて、梶田の言葉を待つ梨花。

 梶田はぽつぽつと話す。


「ある人に、桜餅が食べたいって頼まれて」


「はい」


「いろいろなお店のものを買ったんだけど、違うみたいで」


「なるほど。──桜餅は、関東風と関西風がありますよね。長命寺ちょうめいじ道明寺どうみょうじとも呼びますが」


「はい。ふたつとも、試してみたのですが。こしあんだったり、つぶあんだったり、花の塩漬けがのっているやつ、ピンク色だけじゃなくて、白色のやつも。いろんなお店を巡って、たくさん試して。でも全部、何かが違うみたいで」


 謎解きみたいだな、と梨花は思う。


 ミステリー小説は好きだ。

 真剣に悩む梶田には悪いが、面白そうじゃないか。

 まずはひとつひとつ、可能性をつぶしていこう。


「具体的にどこがどう違うか、その方にお聞きになりました?」


 困ったように、梶田は微笑わらう。


「聞きました。でも、要領をえなくって」


「それは……」


 つっこんで、聞いていい事なのだろうか。

 梨花の迷いを察して、梶田の方から話してくれる。


「祖母なんです。認知症が進んでいるから、意思の疎通が難しい。亡くなった祖父と食べた思い出の話を、ずっとするんです。だから、自分の口で食べられるうちに、食べさせてやりたいなぁって、思って。でも、どの桜餅も美味しいけど違うって、一口しか食べなくて。ありがとうって笑うんだけど、その顔を見てると、こっちが悲しくて」


 なるほど。

 思っていたよりも、深刻な話だった。

 梨花は気を引き締める。

 聞いてしまったからには、責任重大だ。

 成り行きとはいえ、せっかく関わったのだもの、出来ることがあるならしてみたい。


「具体的なが分からないんじゃ、作るのも、難しいですもんね……」


 はっとしたように梨花の顔をみる梶田。

 まじまじと見られると、まだ少し目を逸らしてしまう梨花である。


「少しの好みの違いだったら、手作りの方がかなって、思いました」


「そうか、作るって発想はなかったな。さすが、料理のできる人は違いますね」


 なるほど、と納得する梶田。

 梨花は、慌てて顔の前で両手を振る。


「いえ、そんな事は」


 料理ができるなんてレベルには程遠い、下手の横好きであると自分では思っている。


「ううん。このおかずも、本当に、ぜんぶ、美味しいです」


 そんな笑顔で褒められると、どうしたら良いのかわからなくなる。

 だからだろうか、こんな事を口走ってしまったのは。


「あの」


 迷惑かもしれないけれど、でも。

 梶田は、喜んでくれるのではないかと思ったのだ。


「よかったら、作りましょうか?」


「え?」


「桜餅。おばあさまの記憶の中のものが、再現できるかは、わからないですけども。試してみても、良いかも。って」



          ◇



 階段の上から、横長の緑色の屋根を眺める。


 近所の小学生から谷底アパートと揶揄されるような立地にたつ、二階建てのボロアパート。


 ついこの間まで、梨花が住んでいたアパートだ。


 そのアパートに向かう百階段のてっぺんで、ごくりと生唾を飲む。


 ここから、跳ぶのだ。


 何度やっても、慣れない。


 いや、実際、慣れてはきたのだろう。


 思い切ってぴょんと跳ぶと、着地もうまく行くということがわかった。

 向こうに着いたあと、着地に失敗して大の字で転がっていたのは最初だけだ。


 でも、わかっていても、百階段の上から跳ぶという行為自体に、気持ちが慣れない。


 先輩同居人たちの言によると、「入り口」は生活圏の中で少しずつ増えて行くらしい。


自宅へつながる道がいくつもできるなんて、夢のようじゃないか。


 必ずしも、「落ちる」ことが必要でもないらしいし。


 とある路地を曲がるとか、鳥居をくぐるとか、場所によって様々だとか。


 早く第2の通路が開いてほしいなぁと願う梨花である。


 それまでは、この百階段の上から跳ぶしかないのだ。


 梨花の帰る場所は、異世界にあるのだから。


 人通りの少ない場所ではあるのだけれど、念入りにきょろきょろとあたりを見回す。


(よし!)


 両手に持った鞄とレジ袋をぎゅっと握る。


 意を決して、梨花は跳ぶ。

 





 だだっ広い空には、紫色の雲が浮かぶ。


 少し先には、ログハウス風の小屋が一軒。


 見渡す限りの草原に、建造物はその一軒だけだ。


 扉には鍵が無い。


 シェアハウスの住人以外には、会ったことがなかった。何年も住んでいる先輩たちに聞いても、そうらしい。


 梨花が数年ぶりの「新しい人」、だったそうな。


 なので、鍵がなくても、防犯的には問題は無いらしい。


 ちなみに、それぞれの個室には一応、内鍵がある。


(着替え中とか、困るものね)



 

「ただいま、帰りましたぁ」


 スーパーの袋を手に、敷居をまたぐ。

 まだ夕食には早い時間だ。

 他の同居人は帰っていないかもなと思ったけれど、奥の方から「おかえりなさい」と声がした。


「梨花ちゃん!」


「あ、五味いつみさん。今日はお休みですか?」


 玄関から続く廊下の先、居間の扉から顔を出したのは、若い青年だった。


 黒髪ショートの前髪は長くて、大人しく言葉少なそうな雰囲気をまとっている。

 そして、とっても背が高くてスタイルが良くて、服装もいつもオシャレなのだ。


 今日は白シャツに黒デニムだった。

 シンプルながら、シャツのボタンホールのステッチがブルーで、遊び心が彼らしく思えた。


「そうっす。あの、よかったらこれ」


 そう言ってさしだされたのは、ひとつの紙袋。


 何だろうかと、受け取って中をあらためる。


 入っていたのは、綺麗に折り畳まれた、女性ものの洋服だった。

 白いカットソーと、スカートだろうか。桜色の、ソフトツイードの生地が見えた。


「え?! あ、洋服担当って、こういうこと……?」


 はじめてこのシェアハウスにたどり着いた日。

 住人のひとり、ギャル系美人のキョーコから、説明をうけた事を思い出す。


 ここの住人にはそれぞれ役割があって、それを認められると、部屋が与えられるのだと。


 文字通り、部屋が与えられるのだ。


 梨花は初めてここを訪れた日に、料理をふるまった。

 料理担当と認められたことにより、梨花のぶんの部屋が出現したのだった。

 そして、今に至るのだが。


「詳しい事、聞いてます?」

 五味の問いに、梨花は首を横にふった。


「いえ、詳しくは。全然」


「おっけーです。俺が担当してるのは、洗濯と洋服の調達っす。好みもあるだろうし、もしよかったら、なんですけど。一応デザイナーのたまごなんで、勉強もかねて、俺がその人のイメージで作ってて」


「五味さんが作ってるんですか?!」


 驚きすぎて、声が大きくなってしまった。


「え、すごい! 売り物にしか見えない! しかも」


 手に持っていたレジ袋と鞄を、床に置く。

 梨花は洋服を袋から出して、広げてみた。

 

 カットソーはシンプルだけれど、首元に入ったタックのデザインがアクセントになっている。

 ソフトツイードのスカートは膝丈で、裾に向けてふわりと広がるラインが美しい。


「こ、こんな素敵なお洋服、私に似合うでしょうか……!」


 最近は服を買っても、仕事用のものやスーツばかり。

 休日用の服といえば、数年前に買ったものを着たおしていた。

 休日の用事といえば買い物や本屋巡りくらいのもので、問題はなかったのだけれど。 

 こんな春らしい服がワードローブに並ぶのは久しぶりで、なんだか嬉しくて、気恥ずかしい。


 前髪の奥の優しげな目が、にこりと笑った。

「似合うと思って作ったんで。着てくれたら嬉しいっす」


「あ、ありがとう……ございます!」


 嬉しい。洋服も、その言葉も。


「あ、お金」


 こんな素敵な手仕事に、対価を払わないなんて、あって良いはずがない。


「いくらですか?」


 そうですね、と、五味は顎に手を当てて言う。

「前の料理担当の人の時は、布の材料費分だけを、もらってて。毎月渡す分の食費から、引かせてもらってました。同じで、いいです?」


「もちろんです! ありがとうございます」


「こちらこそ、ありがとうございます。好みじゃなかったら、遠慮なく言ってくださいね。押し売りみたいで、申し訳ないんで」


「はい! 素敵すぎて、びっくりしちゃっただけで。とっても、気に入りました」


「喜んでもらえて、嬉しいっす」


 照れたように笑ったあと、五味は大きな体をかがめて、梨花の置いたレジ袋を拾いあげた。


「これ、運びますよ。ってか、重。何すか? これ」

 袋を覗きこんで、首を傾げる五味。


「あ、ありがとうございます。道明寺粉とか、いろいろ」


「どうみょうじこ」


 初めて聞いたという顔の五味に、説明する。


「桜餅の、材料なんです。実は、個人的な事なのですが、いろんな桜餅を試作する事になりまして。お嫌いじゃなかったら、試食していただけますか?」


 五味のコクコクと頷く姿が、大型犬のようで可愛いなと、梨花は思った。

「嬉しい。和菓子、大好きっす」



          ◇



「いいんですか?! でも、ご迷惑じゃ」


 そう言って、喜びながらも梨花のことを気づかってくれた。昼休みの梶田の顔を、思い出す。


「全然! お料理は、私の気分転換でもあるので!」


 ガッツポーズをする梨花に、安心したように笑った、梶田。


「じゃあ、お願いします。ありがとうございます」




 喜んでもらえるって、いいな。梨花は思う。

 

(もう、ひとり暮らしには戻れないかも)


 ひとりで食べるご飯よりも、誰かの美味しそうな顔があるほうが嬉しいし、楽しいことを思い出してしまった。


(梶田さんのおばあさまにも、美味しい顔をしてもらえたら良いのだけれど)



          ◇



「ごちそうさま」

 キョーコが、食器をまとめてキッチンに運んでくる。


「おそまつさまでした」

 梨花はそれを受け取って、流しに置いた。


 キョーコはギャル系の美人である。

 明るい茶色の髪はいつもサラサラで、まつ毛がとても長い。

 今日は長い髪を無造作にアップして、モコモコした部屋着を着ていた。

「洗い物は私がやるわ。今日は仙道せんどうさん、外ご飯の日だから」


 いつも、皿洗いを買って出てくれるのは、仙道だった。

「音楽およびその他担当」の彼は、普段はやる事が少ないからと、こまごました仕事を率先してやってくれていたのだ。


「あ、私がやっておきます。煮込んでいる間、暇だから」


「あれ、まだ何か作るの?」


「これから、餡子をつくります。明日お休みなので、朝から桜餅を作るんですけど。これだけ、夜のうちに仕込んでおこうと思って」

 たまたま、この週末にふたりとも予定が無かったので、明日、梶田と会う事になっていた。


「俺、あんこ作ってるとこ見たことない。見ても良いです?」

 五味もひょこっと顔を出して、覗き込みながら言う。


「いいですよ〜。でも、ほぼほぼ煮込むだけだけど」


 ザルに小豆をざらざらと投入しながら、梨花は言う。


「えー! すごい。やったぁ。桜餅、大好き」

 キョーコの喜ぶ声がくすぐったい。


「ふふ。たくさん作るので、試食してくださいね。あ、私、作業で遅くなるので、みなさんお風呂はお先にどうぞ」


 




「いい匂い〜」


「あ、おかえりなさい」


 鼻をひくひくさせながら居間に入ってきたのは、仙道だった。

 ギターのケースを肩にかけた、髪の長いお兄さん。若く見えるけれど、もうアラフォーだと本人が言っていた。

 しょっちゅう髪の色が変わるのだけれど、いまは黒をベースに緑のインナーカラーが入っていた。


「ただいま。この匂いは、おしるこかな?」


「餡子を作っているところです! 甘くて、幸せな匂いですよね〜」


「美味しそうな匂い〜! お腹空いてきちゃった」

 濡れた髪をふきながら、パジャマ姿のキョーコもやってきた。


「晩ごはん、あんなに食べてたじゃないっすか。仙道さん、おかえりなさい」

 居間でデザインを描いていた五味のツッコミに、キョーコは口を尖らせる。


「別腹よ」


 ピィ。


 同意の声が、もうひとつ聞こえた。


「大家さんまで」


 梨花はくすくすと笑う。


 暗い廊下の奥からやってきたのは、このシェアハウスの大家さん。

 大きさといい、ふわふわの毛といい、ポメラニアンみたいなシルエットなのだ。

 でも黄色くて、ひよこ。

 まるでアニメのようにデフォルメされたタイプの、まん丸いひよこだった。

 でも、ひよこでは無いらしい。


 大家さんは「大家さん」なのだと、この家ではそれが常識となっている。


 大家さんは、何やら白い袋を抱えている。


 梨花が受け取って中身を見てみると、角餅だった。


 照れたようにもじもじする姿が、とても可愛い。


「よし、あんこはたくさんあるし、少しだけおしるこにしましょうか」

 梨花の提案に、全員の顔に喜びがともる。


「賛成!」

 満場一致で、そういうことになったのだった。




 魚焼きグリルの鉄板にアルミホイルを敷いて、角餅を並べた。

 お餅を焼いている間に、小鍋にあんこを少しうつして、水で伸ばしながら温める。



 ………………………………。

 ……………………。

 …………。



「美味しい〜」


 キョーコは本当に美味しそうに食べてくれるから、梨花も嬉しくなる。

「粒あんだけど、おしるこって言うのね。梨花ちゃん、関東だものね」


 関西では、粒の残るものはぜんざい、粒のないさらさらのものがおしるこ、だったか。


「そっか。キョーコさん、奈良のかたなんですよね」


 梨花は、神奈川の会社に勤めている。

 キョーコは、奈良。


 皆、ばらばらの地域から、この異世界に帰ってくるのだ。


「面白いよねぇ。普段の生活じゃ、すれ違いもしない距離なのにさ、家に帰れば、一緒に暮らしてるって」


「本当に。今度、奈良の美味しいもの教えてください」


「任せて! とりま柿の葉寿司買ってくるよ」


「鮭のやつが好きです」

 そう言ったのは五味だ。


「美味しいですよね〜。私は鯖も好き」

 梨花が言うと、五味は頷く。

「いいっすね」


「楽しいね、こういうの。林間学校とか、そういうの思い出す」

 仙道の言葉に、大家さんも頷いている。

「梨花ちゃんが来てくれて、楽しい時間が増えたよ。ありがとう」


「そんな、私こそ! ひとりだと、食事の楽しさを忘れてしまっていたから。思い出せたのは、みなさんのおかげです」



          ◇



「よし」

 キッチンに並んだ桜餅たちをながめて、梨花は満足げに頷いた。


 白玉粉と薄力粉を使った生地で、くるりと餡子を巻いた、長命寺。

 もち米からできた道明寺粉を使った、まんまるの道明寺。


 それぞれ、中身は粒あんとこしあんの2パターンずつ。

 合計4パターンを作ってみた。


 今日は梶田の友人として、一緒におばあさまに桜餅を届けて、その反応を見る予定になっている。


「朝からすごいね〜」


 あくびを噛み殺しながら、キョーコが起きてきた。

 冷蔵庫から牛乳を出し、ガラスのコップに注ぐ。


「美味しそう♡」


「みなさんの分も、ちゃんとありますからね」


 平たいタッパーに桜餅を詰めながら、梨花は言う。


「ん〜。桜の葉の香りって良いよね。梨花ちゃんは、葉っぱも食べるタイプ?」


「そうですね、お花も食べちゃいます。葉っぱがしっかりしていたら、スジだけ残すかな?」


「わかる〜」


 思い出した、というふうに、キョーコが言う。


「そういえば、京都であんこの入ってない桜餅を食べた事があるわ」


「へぇ! いいことを聞きました」


 まだ時間もあるし、少し生地が残っているから、それも作ってみよう。

 少し、生地自体に甘さを足して……。


 



 

「じゃあ、残りは食べてもらって大丈夫です!」

 気づいたら、良い時間になっていた。

 よそ行きの格好に着替えて、鞄と保冷バッグを持つ。


「わーい♡ いってらっしゃい」

 お茶を淹れながら、キョーコが手を振る。


「あ、梨花ちゃん」

 ソファーで楽譜に何か書き込んでいた仙道が、梨花を呼び止める。


「その服、五味っちのでしょ? さすが、似合ってるよ」


「我ながら、良い仕事をしました」

 頷く、五味。


「うんうん、可愛い」

 ニッカリと笑う、キョーコ。


 梨花は嬉しさに少し頬をそめて、自分の服装を見下ろした。


 五味の作ってくれたシャツに、ソフトツイードの桜色のスカート。

 似合っていると言ってもらえて、とても嬉しい。

 洋服で心が躍る感覚は、いつぶりだろうか。


「ありがとうございます。行ってきます!」






 バスに揺られて、会社の最寄駅までやってきた。

 待ち合わせはここだけれど、今日は休日出勤ではない。

 誰かと待ち合わせするなんて、いつぶりだろう。


 しかも冷静になると、相手はあの梶田だ。


「話しやすくて、親近感がわいていたけど。本当はアイドルみたいな存在なのよね」

 ひとり呟く。

 会社の中での話とはいえ。自分とは遠い存在だと思っていた。

 まさか自分とふたりで出かけるなんて、数日前までは想像もしていなかったのだ。


 急に恥ずかしくなってきて、緊張が背中からじわじわと広がる。

 

「お待たせしました」


「はい、いえ!」


 いやいや、どっちだ。

 突然の後ろからの声に、びっくりして変な声が出てしまった。

 恥ずかしい。


「大丈夫です」


「今日は本当に、ありがとうございます」


 ぺこりと頭を下げる梶田。

「ご厚意に甘えてしまったけど、迷惑じゃなかったかなって、あとから思って」

 大きな体を小さくして言う姿が、いたずらをしかられたレトリーバーのようだ。


「いえ! 昔、祖母と作った事を思い出したりして。楽しかったです。──おばあさまは、いまはホームに入られているんですよね?」


「はい。なので、面会の時間が決まっていて。まだ少し時間があるので、よかったらお茶でもどうですか?」

 

 左腕の時計を見ながら、梶田が提案する。


「近くに、行ってみたかったカフェがあって。プリンが名物らしくて」


「プリン!」


 弾むような声が出て、すぐに恥ずかしくなる。

 なんだか今日は、調子が狂って仕方ない。


 ははっと笑った梶田。嫌味のない笑いだった。


「嘉洋さん、食べ物に目がないですよね。あの時も……いや、何でもないです」


「?」


 何だろうと問い返しかけた梨花だったが、そうだ、と続けて話す梶田の勢いにのまれ、言葉を飲み込む。


「プリン、かためとやわらかめだと、どっちが好きですか?」


「そうですねぇ。最近多いとろけるタイプも美味しいけど、昔ながらのどっしりしたプリンが好きです」


 スプーンで弾いたくらいじゃ崩れない、ずっしりとした蒸しプリン。

 卵の味がしっかりしていて、ほんのりとバニラの香りもして、どこか懐かしいプリンが最上だと思う。

 そっとささやかなクリームが添えてあったら、もう言う事はない。


 梶田が、屈託のない笑顔で言う。


「よかった。俺もです。そのカフェも、しっかり派に好評らしくて……」


 スマホを取り出し、地図アプリを見る梶田。


 そういえば、何か聞こうと思ったけれど、何だったっけ?

 プリンの事で頭がいっぱいで、忘れてしまった。


「こっちです」


「あ、はい!」


 梶田の半歩後ろを、梨花はついて歩く。



          ◇



 梨花は案内された席について、趣のある店内を見回した。


 角ばったランプのような照明の光が、やわらかく店内を照らす。

 年季の入ったウォールナットの本棚やカウンターは、掃除が行き届いている。


 本棚に並ぶのは、ほとんどが文庫本だった。

 背表紙を順に眺める。海外の有名ミステリーが多いだろうか。

 1人で来たら、ゆっくりと読書するのも楽しそうだ。


 こぢんまりとした店内には、梨花たち以外に客が2組。

 カウンターの常連のようなおばさまは、コーヒーを淹れるマスターと談笑していた。


 オーダーをとってくれた女性は、客のほうをよく見ながらも片付けに掃除にときびきび動いている。


 テーブル席でそれぞれ本を読んでいる女性二人は、友人同士だろうか。姉妹といっても通じそうなくらい、雰囲気が似ていた。


「雰囲気、違います」

 お冷を一口飲んで、梶田が言った。


「え」


 自分の思考が口から漏れ出ていたのかと、一瞬焦る、梨花。


「いつもと、違いますね。今日の、洋服。とっても似合ってます」


 ああ、自分の服の事か。梨花はにっこりと笑って答える。


「あ、ありがとうございます。友人が作ってくれたんです」


 驚いた梶田の眉が、上がる。

「すごいですね」


 頷きながら、顎をさわる。

「そのお友達は、嘉洋さんのことを、よくわかってるんだな」


「自分じゃ選ばない服だから、嬉しかったです。付き合いは浅いんですけど。彼のセンスが凄いんです、きっと」


「彼」 


「? はい」


「あ、いえ。てっきり女性かと」

 そう言って、梶田は頭に手をやった。


「男の子なんです! 女性物もこんなに素敵にデザインできて、すごいですよね」


「ですね……」


 なんだか、梶田の目線が泳いだのは、気のせいだろうか。

 梨花が不思議に思った瞬間に、ホール係の女性がコーヒーとプリンをサーブしてくれた。


「お待たせしました」


 ああ、きっとさっきの梶田はこのプリンに気がとられたのだな。と納得する。

 だって、高さのあるステンレスのデザートカップに乗ってきたプリンは、運ばれる時の揺れなんて意にも介さないくらいしっかりとした佇まいで、なのに可愛いクリームをちょこんと乗せているのだもの。

 誰だって、釘付けになってしまう。


「わあ、美味しそう! 食べましょう」


「はい。……嘉洋さん」


「はい。あ、スプーンどうぞ」


「あ、ありがとうございます。──あの、今度、桜餅のお礼に、食事でも」


 真剣な顔で梶田が言うので、律儀で義理堅い人なのだなと梨花は思った。


「このプリンで十分ですよ〜! 材料費だっていただいてます」


「うっ」


「えっ?」


「いえ、美味しそうですね……。気を使わせて、すみません……」


「そんな。プリン、とっても嬉しいです。いただきます!」






「美味しかったー! ごちそうさまでした」


 店を出て歩きながら、ふたりは話していた。


「いえ、本当に、今度何か、お返しさせてくださいね」


「本当に、お気遣いなく!」


「はい……」


「大丈夫ですか?」

 さっきから、何だか元気がない梶田である。考え事でもしているのだろうか。

 梨花の問いに、梶田ははっと顔をあげて手を振った。


「あ、いえ、すみません。──そう、祖母の様子が気になりまして」


 梨花は頷く。今日の本題はそれなのだ。

「おばあさま、食べてくださるでしょうか」

 言ってから、慌てて訂正する。この言い方じゃ、食べてくれなかった時に梶田に罪悪感を覚えさせてしまうと思って。


「気にしないでくださいね。もともとダメ元なんですから」


「ありがとうございます。あ、もう着きます」


 梶田が指差したのは、低層マンションのような佇まいの建物だった。


「本当に、会社から近いんですね」


 会社の最寄駅から、20分くらいしか歩いていない。


「それもあって、今の支社に配属希望を出したんです」


「なるほど」

 おばあちゃん思いなのだな。なんだか親近感がわく。

 梨花も、おばあちゃん子だったから。




かけるさん! 今日も会いに来てくれたのね」


 そう言ったのは、小柄な老婦人だった。

 身綺麗にして、うっすらとお化粧もされている。

 面会用のホールには、4人がけのテーブルがたくさん並んでいた。

 あちこちで、家族との時間を過ごす人たちの姿がみえた。

 梨花たちも、そのように見えているのだろうか。


「こんにちは」

 老婦人を連れてきてくれたスタッフさんが、梶田に一礼して戻っていく。


「初めまして。梶田さんの同僚の嘉洋と申します」


「カヨちゃんね、よろしく。わたしは紅子べにこ

 にっこりと笑う、老婦人。


「すみません。名前。ばあちゃんの頭の中の人物になっちゃうんです」

 謝る梶田に、にこりと笑う。


「可愛いあだ名です」


 そして紅子に向き合い、提案した。

「桜餅がお好きだと伺ったので、持ってきました。よかったら、おひとついかがですか?」


「ありがとう」


 たくさんの種類の桜餅の中から、彼女がまずどれを手に取るのか。

 そこから次の糸口を掴めたら良いと、思った。

 最初からうまく行くなんて、思ってもいない。




 彼女が手に取ったのは、白い道明寺タイプの方だった。

「そちらは粒あんです」


「美味しそう。でも、葉っぱが取りづらいのよねぇ」


「葉っぱは食べませんか? じゃあ、取っちゃいましょう」


「ありがとう。美味しいわ」


 にこにこと笑いながらそう言って、皿の上に置かれた桜餅。


 美味しいと笑いながら、二口めは口をつけない。


 梨花は紅子の隣にしゃがんで、ゆっくりと問う。

「紅子さん。じつはいま、桜餅の研究をしていて。よかったら、どんな桜餅が好きか、教えてもらえませんか?」


「そうねぇ、あまりしょっぱくなくて、葉っぱがしっかりして取りやすいのが好きなの。とっても寒い日に、縁側で、あったかいお茶を淹れて食べるのが美味しいのよ。翔さんが、私のために選んでくれたの」


「なるほど。ありがとうございます」






「梶田さん。おばあさまの、昔住まれていた──ご主人がお元気なころに住まれていたお家は、覚えてらっしゃいますか?」


 帰り道で、梨花はそう梶田に問うた。

 寒い日に、縁側で食べる──その言葉がひっかかっていた。


「ええと、たぶん、普通の昔ながらの家でした。庭があって、垣根越しに山が見えて、冬になるとそこに雪が積もって」


「桜の木はありましたか?」


 梶田はくびをひねる。

「記憶に無いです。雪が降ると、垣根の赤い花とのコントラストが綺麗だなって思ったのは、覚えてるんだけど」


「それです!」


「え?」


 きらきらと目を輝かせる梨花に、梶田は驚く。

「何か、ヒントがありましたか?」


「もう一回、チャレンジさせてください」

 にっこりと笑って、梨花は言う。


「もちろんです」

 こくこくと、梶田は頷き了承する。

 祖母の事に、一生懸命になってくれることが、ありがたい。

 そして何よりも、次の約束ができたことが、嬉しかった。



          ◇



「大家さん! 椿の葉ってありますか?!」


 居間に入るなり、梨花はそう言った。


 大きなひよこ……ではなく、大家さんは、うむ。と頷く。

 勝手口の足元にある、猫の出入り口のような仕切り窓から、ひょこひょこと夜の裏庭に出て行った。


 あの扉の向こうは、大家さんしか行けないらしい。

 どうなっているのか、誰も知らないそうだ。

 どんな野菜も採ってきてくれるので、きっと畑はあるのだろうと、梨花は思うのだけれど。


「おかえり。桜餅おいしかったよ!」

 キョーコが自室から出てきて、迎えてくれる。

 家に帰ると暖かくて、話し相手がいるということに、幸せを感じる梨花である。


「キョーコさん! お口にあってよかった。

 木曜ーー今度の祝日も、また違うのを作るので、楽しみにしてくださいね」


「楽しみにしてる♡」


 にしし、と笑いながら、梨花に近づくキョーコ。


「梨花ちゃんの恋話こいばなも楽しみにしてるよー!」


 梨花は顔の前でひらひらと手を振って、否定する。


「やだ〜! 私にそんな話、カケラもありませんよぉ」


(ううん?

 おしゃれして手料理を作って、休日に男と会い……恋話のひとつもない?)


 にこにこと笑う梨花の顔を見て、おおかたのことを察したキョーコである。

 見ず知らずの彼に、心の中からエールを送った。






「椿餅?」


 食後のコーヒーを淹れながら、キョーコは聞きかえす。


「そうです! 源氏物語にも出てくる、日本最古の餅菓子とも言われるんですよ」


「へー! 美味しいの?」


「美味しいです♡」


 想像するだけで幸せそうな表情をする、梨花である。


「平安時代のものは、いまとは違うと言われていますけど。いまの椿餅は、中身があんこで……」


 梨花のテンションの高さに、興味深い目線を送るキョーコ。

(これって、半分は趣味とはいえ、噂の彼のためにやってるのよね? こんなに一生懸命になってくれたら、相手は好意を期待するのじゃないかしら)

 当の梨花は、純粋な興味と善意で動いているのだろうけれど。

(面白いから、しばらく見守ろうっと)

 ウルトラハイパー鈍感だろうが、梨花だっていい大人だ、相談もされていないのに口出しも無粋だろう。




「……なので、葉っぱは食べずに外すのが椿餅なんです! 桜の葉のように塩漬けにするわけでもないので、お餅自体もしょっぱくならないですし。まだ雪の降る時期に出回ることが多いので、紅子さんの記憶とも合致するかと!」


 身振り手振りと話し方が、まるでドラマの探偵だな、とキョーコは思いながら頷く。

 そういえば、推理小説が好きだと言っていた。


「何より! 生垣の赤い花といえば、椿です」


 夢見る乙女のようなとろりとした目で、自説を展開する梨花である。


「ご主人は、紅子さんの名前に合わせて、赤い花を咲かせる椿をお庭に選んだのじゃないでしょうか……!」


「やだ素敵」


「ですよねぇ!」


 絶対そうですよと、嬉しそうに言う梨花。

(そこまで想像力が豊かなのに、自分の事となると気づかないものなのねぇ)


 まだ見ぬ「彼」にアドバイスをしたい気持ちも、無いではない。

 しかし、やはり駄目だ。

 こと恋愛において、他人の口出しは、機を誤ると害にしかならない。


 何より、この家シェアハウスを出て元の世界へと歩き出せば、自分とこの熱血かわいい女の子の生活圏は、500キロも離れているのだ。


 同じ家に暮らしていると、お互いの友人とも気軽に会えるのではないかと、うっかり勘違いしそうになるけれど。



          ◇



「なるほど、桜餅だと思っていた前提が、僕の思い込みだったのか……」


 お昼休み。

 近くの学校のチャイムが、聞こえる。

 会社の屋上で、梶田とお弁当を食べながら、梨花は自分の考えを披露した。

 その反応が、先の台詞だ。

 梶田は自身の記憶を辿るように、考えこむ。

 

「たしかに最初は、お花の葉っぱのついたお餅と言われた気がします。だったら、桜餅だろうと思って……僕の早とちりのせいですね」

 そう言って、天を仰ぐ。


 梨花は頷く。

「まだ、わかりませんけどね? 可能性は、あるかと。紅子さんに、食べてもらう価値はありそうです」





 

 そんなわけで、次の祝日──木曜日。


 面会室に梶田と梨花が着いた時には、もう長机に紅子が座っていた。


「あら、かけるさん。きてくれたのね」


 梶田たちの姿をみつけて、紅子の顔が明るく輝いた。

 旦那さんの面影を、重ねているのだろうか。


「今日、仕事休みだから」


「こんにちは」


 笑顔で挨拶する梨花。

 にっこりと微笑んで、紅子は言った。


。わたしは紅子」


です。はじめまして」


 梨花はにっこりと挨拶をして、さっそくタッパーを取り出す。


「今日は、お土産があるんですよ」


 タッパーの中には、椿餅が並んでいた。

 梨花はタッパーの横に、椿の花をひとつ置いた。

 一緒に持っていけという、大家さんからの計らいである。


 葉っぱが違う以外は、道明寺タイプの桜餅とほぼ同じである。生地の色は、白にした。

 

 思い出の中にもきっと積もっていたであろう、雪の色。


「あらぁ! 


 明らかに、この間とは違う反応だった。

 弾んだ声で、紅子が言う。


「ねぇ給仕さん。お茶をいただける?」


「お待ちくださいね」

 通りがかりのスタッフさんが、ティーサーバーでお茶を淹れて持ってきてくれた。


「いただきます」


 紅子は椿餅をひとつ手に取り、青々とした葉っぱを丁寧に剥がす。

 ひと口かじって、ほぅ、と呟いた。


「美味しい……」


 内心、ガッツポーズの梨花である。


 つぶつぶした生地のお餅を、紅子はゆっくりゆっくりと、少しずつ食べた。


 最後にお茶をひと口飲んで、ふぅ、と息を吐く。

 お皿に残った椿の葉をひとつつまんで、紅子は目を閉じた。


「翔さん、ありがとう。あなたが私のために、このお花をお家に迎えてくれたから、私は故郷ふるさとから遠く離れたあの場所でも、寂しくはなかったわ。あなたが、いなくなってからも」


 梨花は目をこすった。


 椿の花がふわりと浮いて、ぼんやりと溶けたのだ。

 溶けたあたりの空気が揺らぎ、ひとのかたちをかたどった。


(え、ええ??)


 ちら、と隣の梶田を見るが、梶田は紅子しか見ていない。

 梶田には見えていないのか。


 梨花は、男性のようなものに目線を戻した。


 梶田にどこか似ている、壮年の男性だった。

 おだやかな優しい目元に、ほくろがひとつ。

 そのひとは、紅子にむけて、にこりと笑う。

 紅子の持つ葉っぱに触れて、そして消えた。


(ふわぁぁぁ)


 見てはいけないものを見てしまった気になる、梨花。

 幽霊とか、そういう事ではなく、紅子とご主人だけの想いのふれあいを、他人が覗いてしまったような、申し訳ない気分になった。




「ばあちゃん……?」


 梶田は紅子の言葉に混乱していた。ささやかな期待が喉の奥でくすぶる。

(いつもと、様子が違う。昔みたいだ。僕の事もじいちゃんとごっちゃになって、わからなくなる前の、ばあちゃんみたいだ)

 思わず呟いた梶田の声に、紅子はにっこりと答えた。


「なぁに? 翔太しょうた。あら、今日は学校に行かなくて良いの? おばあちゃん、お弁当作ってあげたいんだけど、体が言う事を聞かなくて」


 梶田は目を潤ませて、紅子の手を取る。

「大丈夫。大丈夫だよ。俺のこと、わかる?」


「何いってるの。おばあちゃん、翔太の事が心配なのよ。あなたひとりじゃ、ちゃんとお野菜たくさん摂らないでしょう?」


 不思議だ。

 亡きご主人の面影を見ていた表情と、全然違う。先ほどまでの、少女が夢を見ていたような、幸せそうな表情は、ひたすらにただただ穏やかだった。

 今の紅子の表情は、もっと強さを感じる、穏やかさだ。孫を心配する、おばあちゃんの顔だ。


「紅子さん。大丈夫です。私も、お弁当を差し入れします。お野菜たっぷりの」


 梨花が言うと、梶田が驚き、梨花の顔を見返す。


「えっ」


「ご迷惑じゃなければ。ひとつもふたつも一緒ですから」


「迷惑だなんて! すごく嬉しいです!」


「ありがとう! そんな人が翔太のそばにいてくれたら、私ももう安心だわ」


 梶田と紅子の言葉に、にっこりと微笑わらい、梨花は言う。

「家庭料理って良いですよね」


(ああ……。義理だという牽制じゃなく、天然だな、これは)


 梶田にとって、梨花の料理を食べられる事が嬉しいという気持ちは、はっきりと言わないと伝わらないらしい。


 けれども、今すぐにそれを伝えるとスッと引かれそうな気がして、梶田はその気持ちを飲み込んだ。


(まぁいい。ゆっくりで良い)

 一歩だろうが半歩だろうが、前進は前進だ。


 何よりも今は、この喜びにひたりたい。

 もう、会えないと思っていた、あの頃の祖母にまた会えたのだ。

 たとえそれが、ひとときの事であったとしても。






「ありがとうございます」


 帰り道、梶田は前を向いたまま言った。

 その頬と目が少し赤いのは夕焼けのせいだろうかと、梨花はぼんやり思った。


「ばあちゃん孝行できて、本当に、嬉しい。僕が学生だった頃のばあちゃんに戻ったみたいで、嬉しかった。ありがとう」


 そう言ったあと、ぽつりと付け足す。


「ありがとうじゃ、足らないけど」


「とんでもない。首を突っ込んだのはこちらです。お役に立てて、よかった」


 梶田が突然立ち止まったので、梨花は数歩先で振り返る。

 梶田の真剣な顔に、その目に、梨花は少し緊張を覚えた。


「梨花さんが1人でいたくない時は、僕がそばにいますからね」


 覚えておいてくださいね、と言う梶田。優しく笑ったその顔が、夕焼けの色とともに、梨花の目に焼きついた。



          ◇



「火、ちょーだい」


 そう、沙月が声をかける。

 狭い喫煙スペースの先客は、梶田だけだった。

 

「どうぞ」

 梶田がスーツのポケットから出したジッポを、沙月に渡す。

 タバコに火をつけて、一服する。煙を吐き出して、沙月は言う。

「梶田くん、梨花ちゃんの前でだけぶりっ子になるわよね」


 ゲホッ──むせて涙目になりながら、梶田は沙月をまじまじと見た。


「俺、そんな態度に出てます?」


「出てる出てる。梶田ファンクラブのおばちゃんたちだって、最近では生温かく見守ってる。

 気づいてないの、梨花ちゃんだけだから。が入れ替わってたって、なんならあの子、気づかないわよ」


 あー。と、喉の奥から声が漏れた。

「あり得そうで凹むんで、やめてください」

 彼女の前では、少しでも優しい男に見えるように、言葉遣いや態度に気をつけていた。


「でもね、例えば食欲がなかったり、上の空だったりしたらすぐ気づく子だからね」


「知ってます。うん」


「ちなみに今回の悩み相談は、私がしてあげてって言ったからね。大先輩のファインプレーを敬うように。あ、内容までは聞いてないわよ。元気がないから話きいてあげてって言っただけよ」


 一石二鳥だったでしょう? と、いたずらっぽく言う沙月に、両手を上げて降参の意を示す。


「あ〜。自意識過剰ですね、俺。てっきり、少しは好意からしていただいたのかと……」


「あらぁ。さすが、モテ男。選び放題の恋ばかりしてきた人は違うわねぇ」


「そんな事……」


 過去の恋愛経験が脳裏をよぎり、梶田は黙った。


(ありますけど)


 そもそもあれは恋だったのだろうかと、梶田は思う。

 彼女たちのことが、嫌いではなかった。でも別れようと言われた時に感じたのは、ひとりに戻ることへの寂しさだけだった。


 お構いなしに、沙月が言う。


「見える……見えるわ……何か向こうからグイグイ押されたし、そういう感じになったし、とりあえず付き合ったけど、しばらくしたら面倒なこと言われて、それもなあなあにしてたら、いつのまにか冷たいって言って振られてるのよ……」


「俺の過去を見てきたように言うのやめてください。反省はしてるんで、意地悪言わないでください。若かったんです」

 空恐ろしくなって、梶田は身震いしながら言った。


 沙月は吹き出して笑う。

「ぶっ。やめてよ、急に正直になるの。面白いじゃない。

 まぁね、あの子は難しいわよ……。自分のことには鈍感だから……。というか、自信の無さが目を曇らせているのよね。いいこなのに。

 でも食には目がないからね。将を射んと欲すれば先ず胃袋から、かしらね。

 がんばれ、若人! 

 何度も言うけど、いい子だからね。誠実に、付き合いなさいよ」


「言われなくても、頑張りますよ。いいかげんになんか、する余裕ありません」


 桜色のスカートを思い出す。あれを彼女に送った男は、本当にただの友人なのだろうか。


「……とられたく、ないんで」



          ◇



「何かいいことあったな?」


 キョーコが、にやにやとしながら問うてくる。


「豪華じゃない♡」


 食卓の上には、梨花が腕によりをかけた料理たちが並んでいた。

 ばらちらしの具は鮪の漬けにサーモン、焼き穴子、蒸しえび。さやえんどう、錦糸卵と、椎茸の甘辛煮に酢蓮根。

 そのまわりにはさわらの西京やき、菜の花のおひたしが並ぶ。

 はまぐりのお吸い物も、キッチンで出されるのを待っている。

 そして、食後の椿餅。


「ほら、おひなまつりも近いですしね。ちょっと豪華にしてみました」


 梨花はお吸い物の味見をしながら、平静を装って答える。


「本当にそれだけかしら」

 そんな事をいいながらも、キョーコは邪魔しない程度に留めておこうと、ひとり思う。

(面白いけど、あんまりからかうと良くないからね)

 これくらいにしておこう。

「そろそろ帰ってくるかな〜」

 そう言いながら、お箸を並べる。



 

 無事キョーコの興味が逸れた事に安堵して、梨花は思う。

 どう説明したら良いのか、自分でもわからないのだ。

 梶田のあの言葉の真意を、わかる日がくるのだろうか。

(……まさかね)

 あまりにも優しい顔をしていたから、勘違いしそうになってしまった。モテる人は罪だなと梨花は思う。いや、梶田は底抜けに優しいだけで、彼本人が悪くはないのだけれど。


(お刺身抜きのバラちらしを、明日お弁当に持って行こう)


 考えてもわからないなら、いったん寝かせて置いてしまおう。

 気持ちを切り替えて、梨花はよけておいた具を冷蔵庫にしまう。

 梶田は喜んでくれるだろうか。想像すると、楽しみだった。




「ただいまっす」


「おー、お出汁のいい匂い」


 玄関の方から、五味と仙道の声が聞こえた。


「あ、ふたりとも帰ってきたっぽい。お皿運ぶね〜」


「ありがとうございます!」


 パタパタと忙しく動くスリッパの音。


 夕寝をしていた大家さんが、ソファからむくりと起き上がる。


 椿の花が、ころんと床に転がり落ちた。






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