逃げ水

天野 湊

逃げ水

 事務室で入校証を返却し、借りたスリッパを棚に戻して玄関で靴を履く。ガラス戸越しに見えた外の世界。木々や地面が微かにゆらいでいるように見える。きっと外に出た途端に、むわりとした湿度の高い空気に晒されるのだろう。そんな考えが脳裏をよぎり、ほんの少し憂鬱になった。

 「松木さん、今日は暑いですからね。気をつけて帰ってくださいね。では、またーー」

 見送りに来たヤマナ先生が人好きのする笑顔でそう声をかける。ここに来るのは二週間後の始業式の朝。『今はまだ夏休み中だから静かですけど、こんなに静かなのは今だけですから』と彼女が最初の挨拶で笑っていたのを思い出す。今日の説明と打ち合わせの間中、ヤマナ先生に好印象を抱いてもらえるように振る舞ったが、ちゃんとそれは成功したのだろうか。あれこれと頭を悩ませなければならないが、とりあえず最後まで気は抜けない。条件はあまり良くないが、それでも働けるだけありがたいという気持ちになるしかない。

 「はい。今日は本当にありがとうございました。またよろしくお願いします。それではーー」

 私はそう答えて一礼し、外に出た。その瞬間、冷房で適度に冷えていた身体がむわりとした湿度の高い空気にじわじわと包まれていく。快から不快へと感覚が切り替わっていくのが冬よりもダイレクトな気がするから、夏は嫌いだ。

 足早に校門まで歩く。いくら常勤講師としての採用が本決まりになったからといって、これでしばらくは食いつなげるからといって、油断してはいけない。校門から出るまでは確実に誰かに見られている気がする。以前そんなことを話したら、友人から考え過ぎだと笑われた。確かにほぼ決まりかけていた採用話を寸前でドタキャンされた経験さえなかったら、私も彼女のように笑っていただろう。

 『松木 結衣さんですよね? 本当に申し訳ないのですが、あなたよりも条件が良い人がいたから。今回はご縁がなかったということでーー』

 今年の三月中旬のことだった。面談という名の打ち合わせを終えて帰宅した矢先にかかってきた電話。正直、その後のことはあまりよく覚えていない。覚えているとすれば、仮契約した不動産にキャンセルの電話をしたり、辞める予定だったアルバイト先に事情を話して退職を取り消してもらったりと、突然の出来事にバタバタしたことだけだ。


 『まぁ、ひどい話ね』

 

 『そんな所、行かなくて正解だったよ』

 

 『松っちゃんが残ってくれて助かってるよ』


 『松っちゃんセンパイがいてくれて安心します』

 

 三月末で辞める予定だった私が四月になっても居続けている事情を漏れ聞いたスタッフや後輩のバイト生、常連のお客さんたちは口々にそう慰めてくれたし、残ったことを喜んでくれた。思わぬ形で就職浪人になって傷ついていた私にとって、その言葉たちは素直に嬉しかった。しかし、現実は甘くはなかったことも早々に知った。


 『よくある話だよね。結局、無理して採用したいという魅力はなかったんだろうね』


 『うわー、店長ったら毒舌ぅ』

 

 『まぁ、こっちとしてはいつでも出てくれる人間だから便利だけどね』


 『そうそう、ちょっと無理してでもシフト変わってくれるんですよ。助かるぅ』

 

 『けど、今後私たちが内定決まったらちょっと気まずくない? 』

 

 『ああ。でも、あっちも大人だし、気にすることないって』 


 『最初、内定が決まったとき、すっごい浮かれてたじゃないですか。だから、落差がひどくて見てられなかったですよ』


 『まぁ、逆に笑えましたよ。あと、反面教師? オレもあんまり浮かれないようにしないと。あんな風にはなりたくないしぃ』 


 一度退勤した後、忘れ物に気づいて取りに戻った時、バックヤードで店長と他のバイト生たちが笑いながらそう話しているのを聞いてしまったのだ。それ以降は慰めの言葉を聞いても、一応はありがたいとは思ったが、きっとあくまで表面的な社交辞令の一つなのだと思うようになった。今までバイト先は居心地がいい職場だと思っていた分、周囲からの言葉が善意なのだと期待していた分、ショックも大きかった。だが、働かなければ生活できない。だからこそ、それまでとはうって変わって、事務的に仕事をするようになった。これまでは暇さえあれば参加していた職場内のイベントも理由をつけて断るようにした。だから、今回の話は本当にありがたかった。そして、滑稽だと笑われるほど慎重に行動することを心がけた。今日、学校まで車で来なかったのも、それで何かしらの品定めされるのが怖かったからだ。

 学校から少し離れた所にある公園まで歩きながら、私は電源を切っていたスマホの電源を入れて電話をかけた。ここからなら、タクシーを呼んでもいいだろう。

 「N小学校近くの公園ですか……今、そこの近くにはいないので、少なくとも二〇分はかかりますね」

 受付らしい女性は事務的な口調でそう答えた。ただ、「少なくとも」の部分に少しだけ力が入っていたので、待ち時間は二〇分以上を覚悟した方がいいのだろうと思った。

 「そうですか。なら、待ちますので、お願いします」

 まぁ、コンビニで過ごせば時間まで快適に待てるだろう。私は小型を一台予約して電話を切った後、周囲を見渡した。コンビニであれこれ買ったり見たりしていたら、待ち時間なんてあっという間だ。だが、その期待は裏切られた。確かに周囲にはよく見慣れた外装の建物はあった。しかし、既に撤退して「オーナー募集」の看板がつけられた空き店舗ばかりだった。

 『このあたりも随分さみしくなったでしょ』

 朝ここまで来た時に使ったタクシーの運転手の言葉がふいに蘇った。私が子どもの頃、このあたりに住んでいたという話をしたら、彼はバックミラー越しに目を細めてそう言った。その時は緊張もあってそこまで気にしなかったが、確かに子どもの頃の記憶よりも町はすっかり寂れていた。町に人通りもない上、通りから見える家々にも人が住んでいる気配はあまりない。ただ、それはきっと昨今流行している新型感染症の影響やこの猛暑で外出を控えているからだろう。きっと皆、この時間帯はクーラーの効いた部屋で快適に過ごしているのだ。

 「そういえば、このあたりにパン屋があったようなーー」

 歩きながら子どもの頃の遠い記憶を引っ張り出すと、道沿いから少し入った通り沿いに美味しいパン屋があったことを思い出した。毎週日曜日になると、家族でそのパン屋に朝食を買いに行った。早起きしてパンを買いに行くだけで特別何かをするわけではなかったけれど、家族全員で一緒に出かけるだけで何となくわくわくした。そのパン屋で売られていた、ホワイトチョコのかかったチョコクリーム入りのコロネが大好きだった。そうだ、今日はまだ何も食べていない。朝は緊張しすぎて、コーヒーだけで済ませたことを思い出す。

 「久しぶりに行ってみようかなぁ」

 大分緊張も解けて小腹も空いてきた。子どもの頃は美味しいと思っていたものも大人になるとそこまで美味しいとは思えないかもしれない。それでも、寄ってみる時間も価値もあると判断し、私はとりあえずそこへ足早に向かった。

 

 【閉店しました。長年のご愛顧、ありがとうございました オータム 】


 すっかり錆びたシャッターに貼り付けられた、少し破れかけたビニール袋でコーティングされた案内はもう随分前に掲示されたもののようだった。ビニール袋の白いくすみと中の紙が微かに黄ばんでいた。自分でも覚えていなかったが、パン屋の名前は「オータム」だった。その隣には、ビニール袋でコーティングされていないぼろぼろの紙も貼ってある。詳細はところどころが破れた上、風化で字が擦れてよく見えない。ただ、何かを捜しているのだけは分かった。店舗の二階にある住居にも人が住んでいる気配はなく、窓は日に褪せたカーテンで固く閉じられていた。パン屋はもう随分前に閉店したようだ。あのコロネの味は結局、遠い思い出の味になってしまった。

 「……あー、そうだよね。ここっておじさんとおばちゃんがやってたもんなぁ」

 この店の店主夫婦は店に来る子どもの名前を覚えてくれていて、買うときにはいつも「◯◯ちゃん、いつもありがとう」と声をかけてくれていた。親や先生以外の大人に名前を覚えてもらった上に呼んでもらえるのが、何だかちょっぴり認められたようで嬉しかったのを覚えている。私が子どもの頃に店主夫妻はそこそこの年齢だったのだから、大人になった今も元気で店を続けているとはもちろん思っていなかった。ただ、誰かが跡を継いでいるんじゃないかと期待していたのだが、考えが甘かった。慎重になるべきだった。

 「仕方ないっか」

 元来た道をのろのろと戻る。さっきまで「あのコロネが食べられるかも」という幸せな期待はすっかりしぼみ、この炎天下をまた歩かねばならないという現実だけが目の前にある。こうなると、先ほどまで意識の外に追いやっていた暑さへの不快感がじわじわと忍び寄ってくる。

 「お茶か何かないかな」

 そうなると急に喉の渇きが気になってきて、ちらりと自販機を探した。パン屋から少し離れた、既に潰れた感じの元クリーニング屋の前に色あせた感じの自販機がひっそりと立っていた。それを見つけた時、少しほっとした。早く何か飲みたくて少し小走りになって近くに寄ってみると、もうその自販機は随分前から使われていないようで、あちこちが錆びた上に電源が切られているせいで販売中のランプは消え、ラインナップには既に販売中止された、ひどく懐かしい商品の色褪せた見本だけが並ぶシロモノだった。

 「またか……」

 三度目の空振り。一度目はコンビニ、二度目はパン屋、三度目は自販機。いつもそうだ。私が前向きに何か期待して行動すると、なぜかこうやって裏目に出る。


 『行動力はありますが、慎重さに欠けます』


 そういえば、昔よく通知表に書かれていたなぁとまた思い出す。あの時の小学校の先生は私が将来こうなることを見通していたのだろうか。もしそうだったら、今頃は予言者として有名になってるんだろうか、三つ子の魂百までという言葉があったなぁとか思ったが、暑さのせいか、段々意識が少しずつ薄れていくような気がしてきた。だんだん、蝉の鳴き声が大きくなってくる。まるで、耳の中でも鳴いてるみたい。いや、蝉じゃない、これは誰かの声だ。誰だっけ、そうださっき話した、ヤマナ先生の声だった。


 『あなたよりも条件が良い人がいたから。今回はご縁がなかったということでーー』


 『結局、あなたには無理して採用したいという魅力はなかったのよ』


 うるさい、うるさい、うるさい。


 少し離れた場所にキラキラと水たまりのような何かが光っているのが見えた。ああ、水だ。子どもの頃、何度もそんな景色を見た。暑くて暑くてたまらなくて、その水を追いかけたけど、子どもの足では間に合わなくて、辿り着く前に水はいつも消えてしまった。ああ、そういえば、「今日は暑いので、熱中症に注意しましょう」とか通知が出ていたはずだ。


 そういえば、熱中症って、私が子どもの頃、あったかなぁ。


 ああ、あった、あった。んで、早口で「ねっ、ちゅーしよ」言わせるなんてあったなぁ。


 あれ、はじめに考えたひと、すごいよね。


 さいしょ、わたし、それにきづかなくって……。

  

  ***


 目が覚めて最初に見たのは、少し薄汚れた天井だった。蝉がひどい遠いところで鳴いている。だんだん視界と意識がはっきりしていくと同時に自分の状態を確認した。どこかで布団に寝かされている。きっちりと着ていたスーツの上着は脱がされて近くのハンガーに掛けられ、ブラウスの上のボタンは外されている。額には濡れタオルが載せられていて、見知らぬ老婆がほっとした顔でこちらをのぞき込んできた。どうやら、私は熱中症を起こして倒れたようだ。

 「ああ、目が覚めたんだね」

 「……あ。すみません、あのーー」

 「驚いたのよ、うちの前で倒れてるんだもの」

 枕元で年代物の扇風機が動いている。そして、隣の部屋ではテレビだろうか、何かにぎやかな笑い声が聞こえている。

 「すみません」

 何とか起き上がろうとするけれど、身体に力が入らないし、頭がズキズキ痛む。しかし、自分の体調管理もできず、見ず知らずのお宅の前で行き倒れた。もし、このことが今度の職場にバレたら、また採用が取り消されるかもしれない。

 「あのぅ……」

 どうにか事情を説明して老婆に口止めしなければと気持ちだけが急く。だが、逆にこの老婆がそのことで「自分の不始末を口止めするくらいだから、人間的にどうかと思う」と逆効果になるかもしれない。とにかく、何とかしなければならないと私は無理に自分で起き上がろうとしたが、老婆は細い皮ばった腕でそれを押し留め、額からタオルを外した後で、上半身だけ起こしてくれた。

 「無理はだめ。何にも心配しなくていいから。ほら、これ、今開けたばかりだから、飲んで」

 老婆が私の口元にプルタブの開いた、汗をかいた青と白のロゴに彩られた缶を運んでくれる。最近は飲み物といえばペットボトルが主流だから、缶飲料自体が珍しいなぁとぼんやりと思った。

  こくり ごくり ごくごくり

 よほど身体が水分を欲していたのか、私はまるでミルクを飲む赤子のように必死になって缶の中身を飲んでいた。最初は何も考えずにただ喉を潤していたが、段々とその味を「美味しい」と感じる余裕も出てきた。ああ、これはあの、熱中症の時に薄めて飲むスポーツドリンクだということにも気づけた。

 「少しは落ち着いた? もう一本いる? 」

 丸々一缶飲み終えた後、老婆は私にそう尋ねた。私はまじまじと老婆の顔を見た。先ほどは「見知らぬ老婆」だと思ったが、その柔和な表情を見ていると、彼女とどこかで会ったことのあるような、懐かしい気持ちになった。

 「い、いえ……落ち着きました。ありがとうございます」

 「そう、良かった……あと、大丈夫よ。あなたが心配するようなことはないわ」

 老婆は私が飲み終えた缶を枕元のお盆の上に載せながら、さらりとそう言った。

 「え? 」

 「さっき、ずっと『もしダメになったら、ダメになったら……』ってうわごとを言ってたものだから」

 「そ、そうですか……」

 無意識というのは恐ろしい。ただ、この老婆に悪気がなかったとしても、今回のことを何かしらの形で暴露される可能性はまだ捨てきれない。人の口に戸は建てられない。

 「……今の時代は大変ねぇ」

 老婆はどこか他人事のような口調でそう呟くと、再び私を布団に寝かせようとした。私は首を横に振って、それを拒んだ。一体どれくらいの時間、こちらのお宅にお世話になっているのだろう。今日は午後から新居に引っ越し業者が荷物搬入に来る予定だ。なけなしの貯金と相談して決めたギリギリの金額で頼んだ格安業者。時季外れだったから、通常よりはかなり安めの料金設定なのだが、それでも正直かなり厳しい。それなのに、こちらが遅刻して追加料金を支払うことになってしまったら、給料日までしばらくは一日一食、学校給食生活だ。業者にはとりあえず連絡だけでもしておけば多少は何とかなるかもしれないと淡い期待を抱いて荷物からスマホを探す……いや、期待はしてはいけない。また裏目に出るかもしれない。もう追加料金は確定だと思っていた方がショックもないだろう。

 「ど、どういうこと? 」

 だが、スマホの画面に表示されたのは、全てがXの字で表示された日付と時間だけだった。故障だろうか。ただでさえ引っ越し代金プラス追加料金がほぼ確定している上、スマホまで買い換えなければならないのかと、私は思わず眉間にしわを寄せた。

 「ああ、時間? 心配しないで」

 起き上がったままスマホとにらめっこをしている私を見ながら、老婆はころころ笑った。老婆は何も知らないからそう言えるのだと言わんばかりに、私は彼女を睨み付けた。すると、老婆はさらりとさらにこう続けた。

 「ここは『逃げ水の世界』だから」

 「は? 」

 「幻なの、全て。だから、時間のことは気にしなくていいの」

「逃げ水の場所」とか「幻だから時間を気にしなくていい」とか、老婆の言葉が理解できない。それは、私はまだ熱中症から回復していないせいだろうか。それとも、まともそうに見える彼女が、実は認知症が進んでいる人物なせいではないだろうか。あれこれ考えていると、老婆は私の枕元に座り直し、仕方なさそうな口調で呟いた。

 「まぁ、若い人は『逃げ水』っていう言葉も知らないでしょうけど」

 老婆によれば、『逃げ水の世界』とは暑い日にアスファルトの道路に水があるように見える蜃気楼現象と同時にこの世界に現れる幻の世界のことだそうだ。そして、今の私のようにときどき迷い込む人間がいるらしい。

 「あの……もしかして、もう戻れないとか? 」

 よくある都市伝説では、一旦こういう世界に入り込むと二度と戻れないというのが鉄板だが、まさかこの世界もそういうものなのだろうか。

 「それは人によるわね」

 「あ……の、お婆さんもその、迷い込んだ人、ですか? 」

 老婆は私の言葉に微笑したあと、ゆっくり頷いた。

 「そう……私は、主人を、主人の幻を追いかけてここに来たの」

 老婆は自分の名をアキコと名乗った。元々は北海道の牧場で育ったらしい。だが、実家の牧場の経営に陰りが見え始めたため、両親からのすすめもあり、東京のパン工場に集団就職をしたのだという。そこで、同じ職場で働いていたご主人と出会い、結婚したらしい。そして、ある時期を境にご主人のふるさとであるこの町で店を開いたのだと。

 「楽しかったわ。毎日毎日、いろんなお客さんが来るの。私たちには子どもがいなかったけど、お店にくる子どもが喜んでくれるのが本当に嬉しくて……」

 子どもが喜ぶものを売ろうと必死になって考えたり、作ったりしていた頃が一番楽しかったとアキコさんは言った。だが、時代の流れとともに町に段々と子どもが減ってきたことや近くにコンビニができたこともあり、ご主人と相談して店を畳むことになった。

 「私もショックだった。だけど、一番ショックだったのは主人だったのよ」

 店を畳んだ後、ご主人は一気に老け込んでしまったらしい。そして、それからすぐに、今までの自分の人生をゆっくりと確実に忘れていったという。

 「急にいなくなったの。朝ご飯を食べて少しだけ寝るって言ってたのに……」

 ご主人がいなくなった後、アキコさんはあちこちを探し歩いた。そして、ある夏の日、ご主人の後ろ姿を見かけて慌てて追いかけ、この世界に迷い込んだのだという。

 「……私はなぜ、迷い込んだんでしょうか? 」

 私は思わずそうアキコさんに問いかけた。アキコさんはご主人の幻を追いかけて『逃げ水の世界』に迷い込んだというが、私は一体なぜ迷い込んだのだろう。すると、アキコさんは苦笑いを浮かべてこう答えた。

 「あなたの場合は……いえ、それは私が言うことではないわ」

 答えを教えて欲しくてアキコさんを見つめ返したが、彼女はただ微笑んだだけだった。何とか答えて欲しくて詰め寄ろうとした瞬間、私のスマホが鳴り出した。画面に表示された登録者名に、私の表情は歪んだ。それは私の採用をドタキャンしたF小学校の教頭の名前だった。一応出ておこうと、アキコさんに断って電話に出た。

 「もしもし、松木ですが……」

 「ああ、松木さん? お久しぶりです。実はあなたにお話があってーー」

 電話の内容は私の代わりに採用された人間が急遽退職するらしく代わりを捜しており、もしも身体が空いているのであればF小に来て欲しいということだった。そして、「こうなるんだったら、最初からあなたを採用しておくべきだった。あなたさえ良ければ、よろしくお願いします」という賛美の言葉で締めくくられた。提示された条件は先ほどヤマナ先生から聞いたN小の条件よりも大分良かった。むしろ、破格の条件ともいえた。

 「ど、どうしよう」

 突然湧いた都合のいい話。破格の条件の前に私の心は揺らいだ。「何を今さら都合のいいことを言ってるんだ」と怒り混じりの反発を感じる反面、自分が認められたという喜びもあり、その間で感情が何度も往復した。そんな私を、アキコさんは穏やかだが、どこか冷ややかなまなざしで見つめ続け、微かに唇だけを動かした。

 ”キヅキナサイ”

 そのまなざしと唇の動きを見ていると、急に揺らいでいた気持ちがぴたりと真ん中で固まった。気づいてしまったのだ。私自身がなぜこの『逃げ水の世界』に迷い込んだのか。

 「この電話……嘘というか、幻なんですね」

 アキコさんは何も言わない。ただ、その態度からその答えは肯定だと何となく分かった。先ほど、アキコさんは『逃げ水の世界』から戻れるか戻れないかは、人によると言っていた。多分、そういうことなんだろう。『逃げ水の世界』は現実に嫌気がさした人間に都合のいい幻を見せて引き込み、都合のいい幻を見せ続けて留めようとするんだろう。

 「私が現実から逃げたかった……から、なんですね」

 私がそうぼそりと呟くと、アキコさんは静かに頷き、こう続けた。

 「私はもういいの……でも、あなたはまだこれから、だから」

 私はその言葉に頷こうとした。しかし、不意にぐぅと私の腹の方が返事をした。そういえば、小腹が空いていたんだった。

 「ぷっ、くくくっ……あははははは」

 アキコさんはケラケラと笑い出した。最初は恥ずかしくてどうしようもなかったが、私も彼女につられて思わず笑い出してしまった。だが、やっぱり恥ずかしくて笑いながら謝った。

 「す、すみません。せっかくいい事を言ってくださったのにーー」

 「いいの、いいの……それより、お腹空いたのね」

 それまで響いていた隣室のテレビの音はもう聞こえない。そして、隣室へ続くふすまの代わりに、いつのまにか、ガラス張りのパン屋のドア、「オータム」のガラス戸が現れていた。私は布団から立ち上がり、スーツの上着を羽織って、枕元の鞄を手にする。

 「これも持って行って」

 アキコさんはどこから取り出したのか、動物のイラストが描かれた紙袋を手にしていた。私はその紙袋に見覚えがあった。

 「……はい。ゆいちゃんはこれ大好きだったよね」

 アキコさんは昔のように私の頭を撫でながら、紙袋を渡してくれた。紙袋の中身はもう見なくても分かっていた。大好きだった「オータム」のコロネ、そしてアキコさんは「オータム」のおばちゃんだったんだ。だから、最初に顔を見たときに懐かしいと思ったんだと気づいた。

 「……もう、ここに来ちゃだめだから」

 アキコさんは少しだけ寂しそうに笑った。多分、彼女はこれからもずっとこの『逃げ水の世界』に留まり続けて、たまに世界が見せる幻に少しだけ心の安らぎを覚える時間を過ごしていくのだろう。そして、時々迷い込んできた人間を何とか現実世界に帰そうとするのだろうか。

 「おばちゃん……ありがとう」

 私は子どものような口調で呼んだ。アキコさん、いやおばちゃんはその言葉にうっすらと目を細めて頷いた。それが合図だっただろう、「オータム」のドアが軽やかなベルの音ともに開いた。


 ***


 「……あのぅ、松木さんですか? 」

 運転席からタクシーの運転手がそう問いかけてきた声で、私は我に返った。周囲を見回せば、先ほどタクシーを呼んだ公園の入り口だった。

 「は、はい」

 自分からタクシーを呼んでおきながらぼんやりとした反応しかしない私に対して、運転手は怪訝そうな、少し不機嫌そうな表情を浮かべながら、後部座席のドアを開けた、私は慌てて鞄を持って子座席に乗り込んだ。すると、鞄の中でカサリと何かが音を立てた。しかし、確認する時間はない。運転手が矢継ぎ早に聞いてくる。

 「で、どちらまで? 」

 「W町の教職員住宅までお願いできますか? 」

 私は鞄の中身が気になってどぎまぎしながらそう答えた。W町なら距離があるから、運転手の機嫌は少しは直ったようだった。

 「お客さん、よく暑い中で待ってられたね」

 「……ああ、ちょっと色々と寄ったりしたからですね」

 「この辺にコンビニがあった頃はここにもしょっちゅう待機してたんですけどねぇ」

 タクシー運転手のマニュアルの中に、ルート沿いのある町のの興隆衰退を語るというのがあるのだろうか、朝の運転手と同じく彼もまたこの町が寂しくなったと口にする。

 「私、元々はこの辺の生まれなんて……やっぱり寂しく感じるんですよね」

 「まぁ……時代の流れですからねぇ」

 私はそんなことを答えながら、鞄の中を開いた。すると、そこには先ほど渡された動物のイラストの描かれた紙袋がきちんと入っていた。口を留めたテープをはがして中を見えると、そこには、あの頃と同じコロネが三つ入っていた。

 「……すみません。このご時世ですんで、車内での飲食は控えてもらえますか? 」

 音と甘い匂いに気づいたのか、運転手がミラー越しに済まなさそうにそう言う。

 「ああ、すみません。大丈夫です」

 私は紙袋を再び閉じて鞄にしまい、窓の外の景色に目をやった。正直、これから始まる生活は思ってた以上に楽しいものじゃないだろうなとは分かっている。それでも、自分なりに現実に立ち向かいながらやっていこう。

 後部座席の窓から後ろを振り返ると、道路に水たまりみたいなものがキラキラと光っていた。おばちゃんはああ言っていたけれど、これからも子どもみたいに小走りで追いかけてみたいと思ったりすることが、きっと何度かあるんだろう。だが、大人の私はもう知っている。どんなにその『逃げ水』を追いかけても、理想をなぞった幻にしか辿り着けないということを。理想をなぞった現実に辿り着きたければ、現実を追いかけるしかないことを。

 

 

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逃げ水 天野 湊 @minato_amano

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