第57話 コート
お客さんがいなくなれば清掃のスタッフさんが入って来る。いつまでもゆっくりしているわけにはいかない。
「行くか」
「うん」
トレーはまた武蔵くんが持ってくれて、繋いだ手をそのまま引いてもらいながら階段を下りた。スタッフさんは微笑ましそうに見ていてくれた。廊下に出ると、武蔵くんが2人分のカップを捨ててくれた。
「ありがとう」
「ん」
武蔵くんはちょっと照れ臭そうに顔を背けると、退場ゲートに向かっていく。手は繋いでいないけれど、気持ちが近づいた気がして不思議と寂しさは感じない。
少し駆け足に武蔵くんに追いつくと、そのまま映画館を出た。
「これからどうする?」
「聖夜は見たいものとかあるか?」
「うーん。あ、コアガーデン行きたいかも」
「寒いぞ?」
「でも、冬の花が綺麗だと思うよ?」
このショッピングモールには、今年のリニューアルオープンで春の新しい観光スポットとも言われている大きな庭が作られた。中央にある大きな桜の木が満開に咲き誇って、ロータリーの桜並木も華やかに色づく。今年の春にはたくさんの人が集まった場所だ。
そんなコアガーデンには春以外にも魅力がある。並木道をさらに彩る花壇は四季折々の花が植えられて、年中季節の花を楽しむことができる。
それに、この季節にはすっかり葉を落とした桜の木にイルミネーションが巻かれる。今月だけの特別な景色が見られると聞いた。ボクもまだ見たことがないから、折角なら武蔵くんと見たいところ。だけどあまり遅くなってもいけないし、昼の庭を楽しんでおこうと思った。
「分かった。でもその前に、俺の行きたい店から行っても良い?」
「うん」
武蔵くんはかなり悩んだ顔をして、それから苦しそうな顔で提案した。行きたいお店に行くと言ったけれど、どこのお店に行くかも悩んでいる様子。
これはもしかして、コアガーデンに行きたくないのでは。なんて不安になる。コアガーデンは屋根付きとはいえ風は通るから寒いだろうし、寒いのが苦手な武蔵くんには辛いかもしれない。
考えるほど気持ちが落ち込む。無理をさせたいわけじゃないし、お店を見終わったら頃合いを見計らって帰る提案をした方が良いかもしれない。
「なあ、どこの店に売ってるか分からないから取り合えず歩いていい?」
「良いけど、何を買いたいの?」
「コートとマフラー。買わなきゃと思ってたのに忘れてた。去年買ったやつがあったんだけど、コートは虫食いにあって、マフラーは格好良いって大和が気に入ったみたいだったからあげちゃったんだよ」
武蔵くんはそう話しながら服飾系のお店が立ち並ぶエリアに向かっていく。コートの虫食い。衣替えのときに結構なショックを受ける事案だ。
「マフラーあげちゃったって、武蔵くんはそれで良かったの?」
「ん? 俺は別に。誰かにもらったものでもなかったし。それに、大和があんなに目を輝かせてるの見たらあげたくなっちゃったんだよな。どっちかと言えばコートのがショック」
武蔵くんはくしゃりと笑いながらお店を覗き込む。ちょうどコートを扱っているお店を見つけて立ち寄った。
先にお店に入る武蔵くんの背中を見ながら、少し後悔した。さっきは武蔵くんを疑ってしまったけれど、本当に欲しいものがあっただけだった。別にコアガーデンに行きたくないわけではないのかもしれない。
たくさんのコートと睨めっこしている武蔵くんの顔がどんどん険しくなって、接客しようと出てきた店員さんが奥に戻って行ってしまった。慌てて隣に行って、武蔵くんのコート選びのお手伝いをする。
「武蔵くんは普段から黒い服が多いの?」
「そうだな。白か黒が多い」
「それならコートも白か黒?」
「そのつもり。丈は長い方が良い」
「分かった」
アウターは少し高級感があるものを選ぶと全体が高見えする、らしい。毎年真昼姉ちゃんと夕凪姉ちゃんが口酸っぱく言うから多分合ってるはず。
正直高級感があるもの、というのがどんなものか分かっていない。だけど今武蔵くんが手に取ったものが違いそうだということは分かる。
「使い込んだ感のある生地だな」
「なんだろね、疲れたサラリーマンみたいな」
2人で首を傾げてラックに戻す。これを格好良く着こなせる人がいると言うのだから世界は広い。
「こっちは?」
「着てみる」
武蔵くんは悩むことなくボクが見せたものを手に取って袖を通す。その仕草すら格好良くて絵になる。未だにこんなに格好良いことが世間に知られていないのが不思議で仕方がない。
「どうだ……って、どうした?」
「え? あ、いや……何でもないよ?」
見惚れていたせいで反応が遅れた。声も裏返ってしまったし、変に思われたかもしれない。
武蔵くんは不思議そうにしていたけれど、ニヤッと笑うと鏡の前に移動した。ボクもついて行くと、武蔵くんは真剣な顔で姿を確認していた。
カジュアルなコーデが、コートを羽織っただけなのに一気に大人な印象を感じさせるコーデに様変わりしている。優雅な艶のある生地も良い仕事をしてくれている。
「良い感じだな」
「うん、すごく格好良いよ」
「そうか? なるほど。だから見惚れていたんだな」
鏡の中の武蔵くんがからかうように笑う。それすら格好良いとか、どうなっているんだ。
何か仕返しがしたくて、武蔵くんに向き直る。けれど何も思いつかなくてため息だけが零れた。
「そうだよ。まったく、全部武蔵くんが格好良すぎるせいだからね」
恥ずかしくて顔に熱が集まる。熱を冷まそうと武蔵くんから離れようとすると、後ろからグッと腕を掴まれた。
「だから、逃げんな」
その言葉に映画館でのキスを思い出して更に顔が熱くなる。この恥ずかしさを隠さずにどう対処すれば良いのか全く分からない。
「とってもお似合いですねぇ」
何か言わなくちゃと思って口を開きかけた瞬間、甘ったるい猫撫で声が割り込んできた。お店の雰囲気に似合わないきゃぴきゃぴした店員さん。武蔵くんは掴んでいた手をパッと離した。
「あ、お邪魔でしたかぁ?」
「い、いえ……」
ボクが答えた瞬間、店員さんは鮮やかな身のこなしでボクと武蔵くんの間に割り込んだ。
「お客様、こちらの商品がお気に召したようでしたら、あちらの商品もご覧になってください。きっとご興味があるかと思いますよ?」
明らかに近い距離で武蔵くんに囁くと、有無を言わせずに新商品のラックからコートを1着取ってきた。形はあまり変わらないけれど、今着ているものよりテカテカしている。
武蔵くんは抵抗したけれど、そんなことは一切気にしない店員さんにむりやり試着させられた。武蔵くんも少し不機嫌そうだ。
「わぁ、お客さん良い身体してますね。なにかスポーツでもやっていらっしゃるんですか?」
武蔵くんは店員さんの言葉を完全に無視している。けれど店員さんはそんな様子を気にも留めずに不必要に武蔵くんにベタベタ触る。むかつく。絶対あんなに触る必要なんてない。
「はい、こんな感じですぅ。とってもお似合いですよぉ」
猫撫で声が強さを増す。これだけグイグイ来たのだからさぞ良い物を選んだのかと思いきや、無駄に生地がテカテカしているせいで少し悪ぶった印象になってしまう。圧倒的コレジャナイ感がすごい。
「聖夜、どう?」
武蔵くんはボクにも聞いて来るけれど、その顔には嫌だと書いてある。
「さっきの方が格好良いよ」
「分かった。さっき着ていたほうを買います」
「えぇ? 絶対こっちの方が良いですよぉ。強そうですしぃ、お客さんみたいな人にはこれですよぉ」
店員さんはテカテカの方を尚も勧めてくる。武蔵くんも若干イライラが顔に出始めている。どうしたものかと思っていると、奥からコツコツと強そうで美人な店員さんが出てきた。
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