第40話 海だ
武蔵くんの家に行った日の翌日、粋先輩と武蔵くん、それぞれと相談してデートの場所といつ行くかを決めた。2人の都合に合わせて粋先輩は12月最初の週末、武蔵くんは翌週の週末に決まった。
約束の日曜日、ボクは12月の頭らしい寒さの中最寄り駅のホームで電車を待つ。また真昼姉ちゃんが一緒に服を選んでくれて、夕凪姉ちゃんがヘアオイルで髪を整えてくれた。
昨日いつもの美容院に行ったときに夕凪姉ちゃんと、朝日姉ちゃんの友達の美容師さんの勧めでイメチェンすることにした。伸びてきてしまったナチュラルショートをマッシュヘアにしてもらって、自分的には髪がふわっとしていてお気に入り。だけど、先輩の反応が少し怖いのが本音だ。
服は前回粋先輩が修学旅行から帰って来たときに行ったデートのときとは少しイメージを変えたいと言ったら、今回はゆるっとしたコーデはやめることになった。白シャツにブルーグレーのケーブルニット、ストレートタイプの黒パンツを合わせていつもの黒のスニーカーを履いて、少し真面目っぽいコーデになった。仕上げに真昼姉ちゃんから借りた丸眼鏡を掛ければ、かなり可愛くなれたんじゃないかと思う。
『まもなく、一番線に上り線、村上行きが3両編成で参ります。黄色い線の内側までお下がりください』
電車の到着を告げる駅員さんのアナウンスを聞いて、スマホのインカメで最後の確認。
「前髪良し、サイド良し、笑顔良し」
ニコッと笑顔を作ると目の前に少し古びた濃いグレーに赤が差す車両が風とお決まりのリズムを連れて緩やかに滑り込んできた。スマホをショルダーバッグに仕舞うと、目の前に止まった3両目の一番後ろに立つ粋先輩が手を振ってくれていた。
手を振り返して乗り込むと、車両の中は多少暖房が効いていて温かい。黒シャツに明るいグレーのハイゲージニット、ストレートタイプの黒パンツを合わせている姿には既視感がある。ちょっとお揃いっぽくて照れる。
「おはようございます」
「おはようございます、聖夜くん」
ニコリと微笑んだ粋先輩は、3ヵ所空いていたボックス席のうちの1つにボクをエスコートすると、向かい側の席ではなく隣に腰を下ろした。
「あの、隣、ですか?」
「はい。この方が聖夜くんの声を全部聞けますから。それに」
ふふっと声を零した粋先輩は右手をボクの左手に重ねるとそのまま恋人繋ぎをして自分の前に抱えたリュックの陰に隠れるように置いた。
「せっかくのデートですもんね?」
セクシーボイスで囁かれて、耳がカッと熱くなる。初っ端からこんなにドキドキさせられるなんて、今日1日耐えられるだろうか。
「と、ところで今日はどこに?」
「今日は黒種ヶ浜にあるクロタネアクアリウムに行こうかと思っているんですけど、どうですか?」
黒種ヶ浜は土井市内の海が綺麗な場所だ。黒種の名前がついているけれど、実際はグレーの砂浜が続く浜辺に深みのある青色の海が広がるところ。そこに建てられた近代的な建物がクロタネアクアリウムだ。
休日は家族連れやカップルで賑わうスポットで、ボクも小学生のころはよく行った場所だ。朝日姉ちゃんが大学生になってからは行かなくなったから、ボクが最後に行ったのは家族では小学3年生のとき。社会科見学で小学4年生のときに行ったのが本当に最後だ。
「久しぶりなので楽しみです」
「そうですか。それなら良かったです。僕も久しぶりだから楽しみですよ」
ふわりと微笑んだ粋先輩は特に会話を強要することもなく、静かに車窓に視線を向けた。車窓に流れていくのは右手に田園風景、左手に疎らな住宅街。こっちに来るのも久しぶりだから結構新鮮だ。
「そういえば、金沢で水族館行けなかったって言ってましたっけ」
ふと思い出して聞くと、粋先輩は少し残念そうに眉を下げた。
「そうなんです。ジンベイザメが見たかったんですけど、ルートから離れていたから見られなかったんです」
「クロタネはあまり大型の哺乳類はいないんでしたっけ?」
「はい。目玉はマグロとペンギンですね。確かアカシュモクザメはいるみたいですけど、そんなに大きくなかったですよね」
「アカシュモクザメって、ハンマーヘッドシャークでしたよね? それなりには大きいと思いますよ。4メートルくらいじゃなかったでしたっけ」
調べようと思ってスマホを取り出すと、粋先輩に手を抑えられた。
「答え合わせは後でにしましょう。せっかく本物が見られるんですから」
「そうですね」
粋先輩はいつになくウキウキしていて、顔も綻んでいるのが分かる。ボク以上に水族館に行くことを楽しみにしているみたいでボクまで嬉しくなってきた。
「粋先輩は、最後に水族館に行ったのいつですか?」
「最後ですか。僕は小学6年生の修学旅行が最後でしたかね。東京のオシャレなところです。ちなみに、初めて行ったのはクロタネアクアリウムだったんですけど、それも小学4年生のときの社会科見学でしたから、学校行事以外でっていう話なら今日が初めてですよ。だからちょっと、緊張しています」
ハハッと笑った粋先輩の横顔は少し寂し気で、軽々しく聞いて良いことではなかったかもしれないと少し落ち込む。粋先輩があまり良いと言える家庭環境で育ったわけではないことを失念していた。
「なんか、すみません」
「いえ、聖夜くんが謝ることはないですよ。初めてのことですから、聖夜くんと2人で来られて嬉しいんです。逆に、僕のわがままに付き合わせてごめんなさい」
粋先輩ははかなげな表情すら美しい。だけどそれが良いことなのかと言われたら違うと思う。こんなに素敵な人が自然にこんな顔をするような環境が憎い。だけど憎むだけじゃなくて、それをなんとかしてあげたいって思う。傲慢かもしれないけど。
「聖夜くんが悲しまないでください。そうだ、どうして水族館に行かなくなったのか聞いても良いですか?」
横から顔を覗き込むように身を乗り出した粋先輩はボクの頬に手を添えた。ちょっと恥ずかしいけど、それよりも安心してしまう。付き合い始めてまだ1か月ちょっとだっていうのに、この距離感が当たり前になりつつあるから怖い。
「……ボクも家族と最後に行ったのは小学3年生のときで、それ以来行きたいって言うのもなんとなく憚られたんです。ダメって言われたわけじゃないんですけど、姉たちは何回も行っているから飽きてるって知ったタイミングがあって」
粋先輩に比べればなんてことない話。それなのに粋先輩は悲しそうに眉を下げてしまう。どこまでも優しい人のボクより少し大きな手に自分の手を重ねる。
「今日は一緒に楽しみましょうね」
「うん、そうだね」
粋先輩はやっと笑ってくれた。いろいろと堪えている様子ではあるけれど、せっかくのデートだ。楽しみたいし、粋先輩にも楽しんで欲しい。
最寄駅から3駅過ぎると、右の車窓に海が広がった。太陽の光をキラキラと反射する深みのある青い海。比較的穏やかに見える波が白く映えては消えていく。
「海だ!」
「海ですね!」
つい窓に張り付く勢いで身を乗り出してしまって恥ずかしくなったけれど、粋先輩もボクの後ろから身を乗り出している。海が近くにあるとはいえ、普段は全く見えないし見に来ることもないから自然と気持ちが弾む。山育ちのボクたちにとって海はあるだけでテンションを上げてくれるギミックみたいなものだ。
『次は、黒種ヶ浜ー、黒種ヶ浜ー。ご乗車ありがとうございました。クロタネアクアリウムにお越しのお客様はお降りください。降り口は左側です』
休日限定らしいアナウンスを聞くと、電車が少しずつ速度を落とす。完全に停車してから席を立ってホームに降り立つと、潮の香りが一気に強くなった。
ボクたちを降ろした電車が去っていくとホームの前に海が現れて、あちこちでカメラを構える人が現れる。ボクたちも画角を気にしながら何枚か写真を撮って満足すると、切符を駅員さんが持っているトレーに入れて改札を出た。
駅舎を出てすぐ。ガラス張りの四角錐に太陽の光が反射しているあの建物がクロタネアクアリウムだ。
「じゃあ、行きましょうか」
前を歩き始めた粋先輩の背中を見ると、電車を降りるときに離された手が急に寂しく感じた。外で不用意なことができないことは分かっている。デートなのにな、なんて思っちゃいけないことも分かっている。
だけどやっぱり、寂しい。
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