第39話 2人の間

side吉良聖夜



 乙葉ちゃんと大和くんの宿題が終わると、粋先輩とボクは鬼頭家をあとにした。乙葉ちゃんも大和くんもボクたちのことを気に入ってくれたみたいで、別れ際には寂しそうに手を振ってくれた。ボクは末っ子だから妹とか弟という存在がどんなものか分からなかったけど、悪くないものだと思った。



「楽しかったですね」


「はい、そうですね」



 さっきまでのことを思い出しているのか、遠い目をしながらいつもより穏やかな表情を見せている粋先輩。その姿を見て、なんだか少しホッとした。粋先輩はボクにはあまり詳しくは話さないけれど、お兄さんや弟さんとの関係があまり良くないらしいから。仲が良い兄弟を前にして悲しくなってしまわないか少し心配だった。



「また会えるのがもう楽しみですよ」


「ふふっ。今度ご飯作る約束もしてましたもんね」


「はい。何が良いか今から考えています」



 粋先輩は照れているのか頬を掻きながら目を細める。紫がかった空に白い雲が泳ぐのを背景に笑う粋先輩は美しくて見惚れてしまう。こんなに素敵な人が自分の恋人であることは誇らしいし、粋先輩がずっとこんな風に幸せそうに笑ってくれる未来を作りたいとも思う。


 だけど、なのか、だから、なのかは分からないけれど、ちょっとだけ。粋先輩と武蔵くんの距離にもやもやした気持ちを抱えていることは内緒にしておきたい。



「聖夜くん、休みの日で時間取れそうな日をまた教えてくださいね」


「どうしてですか?」


「どうしてって、聖夜くんは行かないのですか?」


「えっと、ボクは誘われてませんよ?」



 乙葉ちゃんと大和くんと楽しく過ごせたし、仲良くもなれたと思う。けど、別れ際に2人と武蔵くんがまた今度おいでと誘ったのは粋先輩だけだった。



「うーん、あれは聖夜くん込みで誘っていると思いますけど」


「そう、ですか?」


「はい。武蔵くんの中では聖夜くんが来るのは当然で、僕がおまけなんだと思いますよ」



 まったく、と頬を膨らませるポーズをとる粋先輩。ボクの目には、武蔵くんは粋先輩を、粋先輩は武蔵くんを大切に思っているように見えるけどな。



「2人はいつもお互いのことを考えているように見えますよ? 前は仲良くなる気はないとか言っていたのに、すっかり仲良くなってるじゃないですか」



 信号待ちで立ち止まる。目の前を走り抜けていく車が風を切る音を聞きながら粋先輩を見下ろすと、ニヤニヤと嫌な笑いを浮かべる粋先輩と目が合った。



「……なんですか?」


「いや、聖夜くんは僕と武蔵くんに嫉妬してるのかな、と思いまして」


「し、嫉妬? いや、それは……」


「ふふっ、当たりですか?」



 いつもの柔らかい笑顔に戻った粋先輩はボクの髪を整えるように梳く。慈しむような視線を送られて照れ臭いけれど、それ以上に恥ずかしい。ただでさえ寂しがり屋なところがバレているのに、その上嫉妬深いなんて、どれだけボクは面倒やつなんだろう。



「僕は武蔵くんと仲良くなれて、嬉しいですよ。武蔵くんには本当に支えてもらっていますから」



 それは知っている。粋先輩は武蔵くんに何かと相談したりしていることは気が付いているし、武蔵くんが粋先輩のことを気にかけていることも分かっている。それが2人にとっては大切なことで、お互いのためになっていることも隣にいれば分かる。2人がボクには言いたくないことがある理由も、ボクにだって可愛く思われたくて気を張っているところがあるから分かる。



「分かってるんです。でも、それでも、2人だけで話していると羨ましいんですよ。それに……」



 ボクのことよりも、支え合えるお互いのことを好きになってしまったら。ボクの居場所はなくなってしまう。



「それに?」


「いえ、なんでもないです」



 曖昧に笑って、鳥のさえずりを模した機械音を聞きながら横断歩道を渡る。坂の下に駅が見えてきて、いつもなら寂しくなるのに今日はホッとしてしまう。これ以上、ボクの醜いところを知られたくないなんて、お互いのことを曝け出し合える2人の関係に嫉妬しておきながら身勝手かもしれないけれど。



「聖夜く……」


「あ、粋先輩。明日の放課後は姉と車で帰るので、一緒に帰れなさそうなんです。すみません」


「いや、それは構いませんが」



 粋先輩は何か言いたげだけど、今は泣かずに話ができる気がしない。粋先輩も今日は早く帰らないといけないだろうし、迷惑はかけたくない。



「それと、明後日なんですけど、三間先輩たちに誘われたのでお昼ご飯を食べに行ってきます」


「ああ、そのことなら蛍から聞いていますよ。僕も誘われたんですけど、三者面談があるからさすがに行けないんです。楽しんできてくださいね?」


「はい」



 そのあとはあまり会話にならなくて、粋先輩もボクに何か言うことは諦めたみたいだった。駅の階段をお互いに黙り込んだまま上がる。


 このままで良いわけがないことは分かっているけれど、かと言って何を言えば良いのか分からない。リュックのサイドポケットから定期を出して駅員さんに見せて改札を抜ける。ここで、お別れ。



「じゃあ、また明日です」


「待ってください」



 腕を掴まれて、素直に足を止める。居たたまれなくて早く立ち去ろうとしたくせに、引き留められると嬉しくなるなんて、バカみたいだ。



「ちょっと手だけ洗ってから帰りましょう」


「え?」



 何の話か分からないままズルズルと引っ張られて、傍にあった共用トイレに引き摺り込まれた。ガチャリと鍵が掛かる音がすると、不思議と心臓の音が大きく聞こえるようになった。



「ごめんなさい、手荒なことをしてしまって。でもあそこだと人目がありますから」



 粋先輩はボクと目を合わせたと思ったら気まずそうに視線を逸らして、水道に手をかざすと本当に手を洗い始めた。話があるのか手が洗いたかったのか、よく分からない。なんて思っていたらいきなり顔を洗い始めるからさらに戸惑う。


 洗ったはいいけどタオルを出し忘れた粋先輩の手が宙を彷徨う。とりあえず持っていたタオルをリュックから引っ張り出して手渡すと、粋先輩は微笑んで顔を拭いた。



「ありがとうございました。助かりました」


「いえ……」


「あの、あとで1日出かけられる日を教えてくれませんか?」


「ああ、武蔵くんの家に行く日なら……」


「そうじゃないですよ。聖夜くんと、2人で出かけたいんです。ダメですか?」



 思ってもみなかった言葉に驚いて粋先輩の顔を凝視する。顔を洗ったときに濡れたらしい前髪が少し色っぽいな、なんて考えてから、もう一度粋先輩の言葉の意味を理解しようと考えるけれどやっぱり分からない。



「それなら、武蔵くんも一緒に行きましょうよ」



 2人になる時間は作るようにしていたけれど、丸1日2人きりでいたことなんてなかったから正直戸惑う。嬉しくないわけでも、楽しみに思わないわけでもない。



「僕は2人で行きたいのですよ。あ、武蔵くんがそうしたいって言ったら2人で出かけて良いですから。ね?」



 手を握られて顔を近づけられて、その漆黒の目にボクだけが写る。なんて素敵な世界なんだろう。



「わ、分かりました。またあとで、連絡します」


「ありがとうございます。約束ですからね?」



 嬉しそうに笑いながら差し出された小指に自分の小指を絡める。案外子どもっぽいところがあって可愛いな、なんて思ったのも束の間、絡めていない方の手が後頭部に添えられて優しい口づけが降って来た。



「先輩?」


「ごめんなさい。一応我慢しようとはしたんですけど、やっぱり愛おしすぎて我慢できませんでした」



 余裕なさげに、困ったように微笑まれるとどう返事をすれば良いのか分からない。いつもは余裕たっぷりに翻弄してくるくせに。


 もう、今日は分からないことばっかりだ。



「聖夜くんが僕たちのことを、僕たちが聖夜くんのことを考えるのと同じくらい考えてくれているんでしょうと分かって、嬉しかったですよ」



 粋先輩はボクのおでこにもう一度口づけると、ガチャリと鍵を開けた。



「では、また明日」


「は、はい」



 手を振って去っていく粋先輩を見送って、ボクも上り線のホームに繋がる階段を下りる。


 まだ分からないことばかりだし、粋先輩と武蔵くんにいつかは捨てられるんじゃないかって考えないことはないけれど、今はまだ大丈夫な気がしてきた。ホームに降り立って向かいの下り線のホームの、粋先輩がいつも立っている場所を見る。今日もそこにいた粋先輩は、目が合うと笑ってくれる。おでこが熱くなった気がしてそっと手のひらで抑えた。



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