第38話 汚れた手に触れる
「さあ、行きましょうか」
白髪交じりのゲニウスは、穏やかな顔でカヌスを馬車に乗り込むよう告げた。
「あ、あの、どこへ、」
「そうですね、…ここからは私に一任されていますから、あなたの望む場所へ行くとしましょうか」
「えぇ!」
事の次第がわかりかねるカヌスは思わず声を荒げた。
「そんな! 少尉も逃げてください!」
「いえ、私はあなたと共に、この世界の最期を見届ける任を受けましたから」
「そんな! そんなのダメです!」
灰色の瞳いっぱいに涙を溜めて、カヌスは何度も首を横に振った。肩まで伸びた灰色の髪が、何度も揺れる。
ゲニウスは落胆に似た息を吐いた。
「地下の避難用シェルターは、全国民を避難させるのに十分な大きさではありません。…この意味、あなたもお判りでしょう?」
「でも!」
「さあ、…ひとまずここから去りましょう。あなたの持つ『種』が、大地に宿るのに相応しい場所を探さなくては」
もはやカヌスの言葉など聞こえないゲニウスは、カヌスを半ば強引に馬車に押し込み、自身は御者の椅子に腰かけて手綱を握った。
その時だった。
ドン、と大きく地面が揺らぎ、再び大地がうねり始めた。
そして、
(…ああ、…なんてこと…)
走り出せなかった馬車の小さな窓からでさえも、太く大きな灰色の靄の柱が大地から溢れ出して天へと突き刺さっていくのが確かに見えた。
(…このままではダメだっ)
「ゲニウス少尉! 一旦街へ行きましょう!」
カヌスの声が届いたのか、馬車は大きく反転して地下処理施設を背に、街の方角へと進路を変えた。
…
馬車はスピードを上げて街へと向かう。
だが、街中に近づくにつれて、建物の倒壊や道の崩壊により混乱は増し、逃げ惑う人々の渦に飲み込まれるように馬車は行く手を阻まれた。
(いまだっ)
馬車のスピードが落ちた瞬間を狙って、カヌスは馬車の入り口扉を開け放ち、馬車から飛び降りた。
「カヌスさん!」
慌てたゲニウスも御者の席から降りようとするが、
「ああ助けて!」
「お願い助けて!」
「私たちも連れて行って!」
開け放たれた馬車に、多くの市民が乗り込んできてすぐさまパニック状態に陥ってしまった。
「少尉! 馬車を出して! 早く!」
カヌスは乗せられるだけの人を馬車に乗せると、強引に外から馬車の入り口を閉めた。
「私も乗せて!」
「俺も乗せろ!」
しかし、当然のごとく乗り切れなかった人々が馬車へと群がってきた。入り口を閉めていたカヌスを馬車から引き離し、彼らは我先にとキャビンにしがみつく。
狂乱の人々に押し退けられて、カヌスは地面に転がりながらも必死に叫んだ。
「少尉! 早く! 早く出して!」
「…くっ」
転がるカヌスを見やり、苦渋に満ちた顔のゲニウスだったが、言葉を飲み込み、馬に強く鞭を打つ。
馬は激しく嘶き、そして一気に駆け出していった。
「おい! おまえ! なぜ馬車を逃がした!」
「俺たちがまだ乗ってないだろう!」
残された人々の喧騒が、カヌスを捕えて離さない。
狂気に晒されて、カヌスは地面に小さく蹲るしかすべがなかった。
その時だ。
「やめろ!」
地響きを立てて何かが道を駆けてきた。
それが馬車だと気が付いたカヌスは慌てて顔を上げた。
ゲニウスが戻ってきたのかと、失意にも似た面持ちで見据えた先には、一台の灰色の馬車が見える。
それは、コロル軍後方部隊、通称テネブラエの馬車だった。
「カヌス!」
テネブラエの面々は、馬車を止めるとすぐさま地面に踞るカヌスに近寄った。
「テネブラエだ!」
「なぜここに!」
「汚らわしいっ なんて不吉な」
テネブラエは、不浄を負う者。
有翼人亜種の死骸処理を主な仕事としていたため、彼らは人々に忌み嫌われている。
そんな彼らの登場により、市民たちは蜘蛛の子を散らすようにカヌスから離れていった。
「…あぁ、」
テネブラエ所属のカヌスは、同僚たちの姿に一気に気が緩んだのか、灰色の瞳いっぱいに涙を溜めて、
「アドゥー伍長っ」
直属の上司の名を呼んだ。
「なんだなんだカヌス、どうした! まあ話は後だ、早くお前も乗れ! 腐乱ガスが一気に放出を始めたんだ! 早く逃げるぞ!」
「私は!」
カヌスの腕を掴んで半ば無理やり立たせようとするアドゥーの汚れた手。
カヌスはその手に柔らかく触れて、
「私は行けないんです…」
消え入りそうな声で言った。
「アドゥー伍長、第二大隊のウィリデ少佐が避難場所へと誘導してくださってます。どうか一人でも多くの方を連れて、そこへ、」
「それはどこなんだ?」
「え、…」
アドゥーの言葉に、カヌスは言葉を失い愕然とした。
アドゥーに指摘されて気がついたが、カヌス自身もその地下シェルターの場所を知らない。
ここにいる多くの者が、地下にあるという避難シェルターの存在さえも知らなかったのだ。
「……くっ」
しかしまごついている猶予はどこにもなかった。
「今しがた、第二大隊の方が運転する小さな馬車が南に駆けていきました。それを追ってください!」
「お前は、」
「私は、…私は行けないんですっ」
カヌスの声はほとんど悲鳴のようだった。
「………」
カヌスの様子に、アドゥーは言葉なく、しばし視線を泳がせていたが、
「これを持っておけ」
奥歯を噛み締めるように、絞り出す声でカヌスの前に灰色の袋をドスンと置いた。
「俺の防護服だ。…カヌス、死ぬなよ」
「おい! アドゥー! 早く来い! 市民が!」
刹那灰色の馬車の方から悲痛な声が轟いた。
カヌスとアドゥーは声の方を見る。
テネブラエの馬車に乗り込もうとする市民と、それを阻むテネブラエの面々の攻防が見て取れた。
「くそっ いつもは寄り付きもしねぇくせに!」
激しく舌打ち、アドゥーは急ぎ馬車へと向かった。
「どうか、…どうか、無事に、…逃げて…」
遠退く灰色の馬車を見送り、カヌスは、防護服を抱きしめて、ただ彼らの無事を祈った。
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