第36話 手の平の中の絶望
数刻前。
第二大隊情報部隊所属ウィリデ少佐は、最低限の部下のみを引き連れて、有翼人亜種の死骸を廃棄処分する地下処理施設へと向かっていた。
そしてカヌスは今、ウィリデ家所有の簡素で小さな馬車に乗せられている。
ウィリデ自身もその馬車に乗り、腕を組んだまま何やら考え込んでいた。
「………」
カヌスは、真正面に座るウィリデの様子をあえて視界に入れることなく、馬車の側面についている小さな窓から外を眺めていた。
小さな窓の外を過ぎゆく景色は、ほんのりオレンジ色を帯びている。カヌスは不思議な感慨でその光景をただ見ていた。
おそらく、この瞬きにも似た小さな世界が、自分が目にする最後の外界になるのだろう。
そう思うと、胸の奥がじくりと傷んだ。
カヌスは、小さな窓から視線を反らしかけた。だがふと、視界の端をほんのりと淡い紫色の発光体が横切った気がして、カヌスは思わず「あ、」と呟いた。
「………」
カヌスの声に反応したのか、腕組みをしていたウィリデが顔を上げた。しかし何故かすぐさま、ウィリデは壁一枚隔てた御者の方へと振り返った。
どうやら、御者を務めていたウィリデの側近であるゲニウスが、壁越しにウィリデに声をかけたようだった。
「少佐、一旦馬車を止めてもよろしいですか?」
「何事だ。」
壁の向こう側、カヌスにも漏れ聞こえたゲニウスの声は、確かに上擦っていた。
(…何?)
やがて馬車は馬の嘶きと共に止まり、ゲニウスは小ぶりな連絡窓を急ぎ開け放った。すると途端に一陣の風がうわりと舞い込んで、カヌスの頬を弄って消えた。
そんな外気の風が一時もたらした爽やかさを否定するように、ゲニウスは上半身を捻ってウィリデに向くやいなや、口髭の生えた唇を少し震わせた。
「早馬が、こちらへ向かってきております。」
それはあきらかに怪訝な声。
ウィリデの横顔に鋭い緊張が滲んだ。整った眉がにわかに尖る。
カヌスは不安に駆られ、太ももの上の拳をぎゅっと握った。
(…あ、)
だが、不安に染まったカヌスの視線に気が付いたゲニウスが、一瞬カヌスを見やった後に、一層声を絞ってしまった。
もはやカヌスの位置からでは二人が何を話しているのかは聞こえてこない。
しかし、会話は聞こえずとも、白髪の目立つ御者の強張った顔が、カヌスに不穏な気配を知らしめる。思わず生唾を飲み込んだ。
身体の芯が一気に冷えていく。
そしてものの数分と経たないうちにウィリデはすくりと立ち上がり、小さな馬車の入り口扉を開け放った。すると再び爽やかな風が馬車の中へと舞い込んだ。
「ここで待て。すぐ戻る」
「えっ あの!」
カヌスの問いに答えることも振り返ることもなく、ウィリデはバタンと入り口扉を閉ざしてしまった。
慌ててカヌスは立ち上がり、入り口扉に噛り付いた。
入り口扉には簡素な小窓が付いている。
そこから覗くと、緑色の髪のウィリデを中心に、数名の部下たちが、伝令兵と思われる若い兵士を囲んで何やら話し込んでいた。
しかし一人、ゲニウスだけは、斜陽の照らす遠い山の山頂あたりを見据えているようだった。
(…何を見てるんだろう、)
耳を澄ませても目を凝らしてみても、馬車の中のカヌスには、何も聞こえず何も見えない。
それでもゲニウスの視線の先が気になったカヌスが、小窓に張り付くように身体を入り口扉に沿わせた瞬間、
「あつっ」
扉に押し付けた胸にチリチリとした熱が走り、慌ててその身を扉から剥がした。
(…え?)
熱が走ったのは、胸のポケット辺り。
カヌスが恐る恐る胸ポケットに手を入れると、
「…どうして、」
人肌より温かい、小さな何かが指先に当たって驚いた。
(…え、これ、)
胸ポケットに何が入っているのか知っているカヌスの額に汗が滲む。
カヌスはそっとポケットから小さな何かを取り出して、震える自分の手の平の上に乗せた。
「…嘘でしょっ」
目の当たりにして、血の気が引いた。
それは確かに『腐った種』だったが、カヌスの見知ったそれではない。
カヌスの手の平の上で、熱を持った『腐った種』は、青々と瑞々しい双葉を芽吹かせていたのだ。
「…そんなっ」
カヌスは唇を戦慄かせ、この温かな『種』をなすすべなくただ見据えた。
(…どうしたらいいのっ)
恐怖心から思わず『種』を放り出しそうになった刹那、馬車の入り口扉がガチャリと開き、
「…おい、何をしている、」
斜陽を背にした人影が、戸惑うカヌスの前に現れた。ウィリデだ。
「あ、あの、」
「……ッ」
立ち尽くしているカヌスの手の平の上に乗った『種』を見て、ウィリデは絶望に近い声を低く漏らした。
「…まさか、発芽が始まったのか…」
「あの、こ、これ、どうしましょう、」
狼狽えるカヌスを一瞬だけ見やり、ウィリデはすぐさま振り返ると部下たちに向けて声を荒げた。
「もはや一刻の猶予もない。第一大隊よりの指令は黙殺する。急ぎ処理施設へ向かえ!」
それだけ言い放つと、ウィリデは入り口扉をバタンと乱暴に閉めた。
「座れ。ここからは悪路だ。揺れるぞ」
「……は、…はい。」
カヌスが座席に座ると同時に再び馬車は走り出した。
小さな窓から差し込むオレンジ色の光が徐々に弱まり、流れる景色が闇に飲みこまれていく。
しかし、カヌスの視線は馬車の床にのみ注がれた。
夜が近づくにつれて、手中の『種』は次第次第に温かさを増していく。
これ以上発芽が進めばどうなるのか。
皆目見当もつかないカヌスが再び顔を上げたとき、
(…あれは、)
小さな窓から見える闇夜に、ぼう、ぼう、と、光の珠がいくつもいくつも飛び交っているのが確かに見えて、カヌスの灰色の瞳はゆっくりと見開いていった。
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