海から伸びる手(BL・ホラー)
夏の海辺は多くの観光客で賑わっている。暗い目をした男が一人、そこに立っていた。
その男、唯人は海水浴や日向ぼっこをするためにここへ来たわけではない。
彼が目を向けた先は浜辺ではなく、観光客で賑わう場所から少し離れた場所にある、小高い崖である。
一年前の夏、共にここへ来た久雄はあの崖からダイブしそれっきり浮き上がる事は無かった。
捜査も虚しく、死体も見つかっていない。
唯人は久雄がダイブし、海に入る瞬間をスマホのカメラで撮影していたのだが、そこには驚くべき光景が写っていたのだ。
海から無数の人の手が伸びている。まさにそこへ向けて、久雄は飛び込んでいる、そんな写真だった。
唯人は崖の先に立ち、下を見た。海水が波打っており、目をよく凝らして見てもそこには人の手など見えない。
両手を上に伸ばすと、海の中へ頭から飛び込んだ。ドボンと海水に嵌ると体勢を変え、顔を水上に上げようとしたその時、片足を掴まれグンと引っ張られた。
――こいつか、久雄を殺したのは…連れて行ったのは。
唯人は自分の足首を掴む手を掴み、相手の顔を見ようとした。
そこに居たのは、久雄だった。海の中なので顔色までは分からないが、目つきや表情が幽霊のようには見えない。何かを訴えるような顔で唯人を見て、そのまま手を引いて海の底へ沈んで行った。
唯人は、自分がいつの間にか息苦しさを感じていない事に気付いた。
泳ぎ進めると、突然海の底に水面の様なものが現れた。久雄はそこに足を踏み入れ、唯人にもそうするよう言うとスルスルと水面の中へ入って行った。
唯人が同じように足を踏み入れると、踏み入れた足が地面に着く感触があり、しかもそこは水中ではなかった。
頭まで入れた瞬間、唯人は気付くと久雄と共に水面から顔を出して首から下は水の中で漂っていた。
辺りを見回すと、すぐ近くに砂浜がありそこは観光客で賑わっている。
――帰って来たのか…?
浜辺に泳ぎ着くと、唯人はとりあえず久雄について行った。
「とりあえず、座ろうぜ。説明するよ。」
久雄はそう言って、ちょうど木が陰になっている岩場を指した。
岩場に座り、一息つくと久雄は唯人を抱き寄せ
「唯人、会いたかった。」
と言ってキスしようとしたので、唯人は思わず制止した。
「嫌なのか?…もう他に相手ができた?」
「違う!見ろよ、人めっちゃいるじゃん。お前の知り合い居て、見られたらどうすんだよ?」
「大丈夫だよ、この世界はそういうの、同性同士とかフツーの事だから。」
「へ?」
久々に久雄の腕の中の感触を楽しみながら、唯人は目の前に広がる砂浜や観光客の姿を眺めつつ久雄からこの世界の説明を聞いていた。観光客には家族連れやカップルが多かったが、女性同士や男性同士と皆様々で久雄が言った様に自分たちが普通である事を感じた。
久雄がこの世界に来たのは、この世界の住人のちょっとした悪ふざけだった。その人物は久雄をすぐに帰すつもりだったが彼はこの世界に興味を抱き、長居する事にしたという。
そして現在ではすっかりこの世界の住人になり、普通に職も得ている。
「戸籍とかどうしたんだ?」
「この世界、そういうものが無いんだ。だから助かってるよ。景気も安定してるし、給料も雇用環境も良い。それに、同性でも結婚できる。」
久雄はそう言うと、唯人の目を見て言った。
「唯人、ここで暮らさないか?俺は一年間ここで暮らしてみたが、元の世界より良いと思っている。お前も一年間、試しに暮らしてみないか?答えを出すのはそれからで良い、もし良かったら結婚しよう。」
「分かった。とりあえず、お前ん家に泊めてくれ。」
二人は久雄が車を停めてある駐車場へ向かった。唯人は一年経つ前から既に、もう元の世界に帰る事は無い気がしている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます