蜜柑の木の下で(ホラー)
職場へ行く途中農道を通るのだが、いつも畑の脇に一本ポツンと小さな蜜柑の木が立っている所を通り過ぎる。
蜜柑の木の下には水色のベンチがあり、利谷欅がそこを通る時はいつもそこに頬っかぶりをした老婆らしき人物が一人座っていた。ベンチは畑の方を向いており、農道から老婆の顔は見えない。
ひょっとしたら老婆ではなくもっと若いのかもしれないが、とにかく彼女は雨の日も雪の日も変わらずそこに座っている。
欅はいつも帰宅が深夜になるのだが、そんな時間でも座っているのだ。
――あれは人形なのかもしれない。蜜柑の木の持ち主が、野鳥対策に置いた案山子なのかも。
しかしある日いつものように蜜柑の木を通り過ぎようとした時の事、ふと老婆の方を見ると顔や体の向きを変える動きをしているのを目撃した。
あの老婆は案山子や人形の類ではない、生きた人間だと分かった。
生きた人間が雨の日も、雪の日もそして深夜まで構わず座り続けている。傘をさしていたり、オーヴァー等を着て厚着している様子も無く。尋常ではないと思った。
――あの老婆は精神に何某かをきたしているのだろうか?
欅はある帰り道、意を決して蜜柑の木に近づいた。
「すみません」
と、老婆に声をかけるも反応が無い。
耳が遠いのだろうかと思い、今度は声を張り上げてみた。老婆の肩に手を置くと、彼女が振り返り、その顔を見て欅は息をのんだ。
振り返った老婆の顔には年相応の皺が刻まれており、満面の笑みを浮かべている。
目は充血していると言うにはあまりにも不自然な程赤い。黒目までが真っ赤なのだ。その目が爛々と輝き、欅をとらえている。
「やっと来たか。」
初めて聞く老婆の声は、異常な程ガラガラとしており、この世のものではないかの様だった。
「待っていたんだよ、ここに誰かが来るのを。これでようやく私も解放される。」
次の瞬間、欅の目の前には畑が広がっていた。欅はあの蜜柑の木の下にあるベンチに一人、座っているのだ。
そしてこれから彼は永遠にここに座り、蜜柑の木の守り人をせねばならない。いつか誰かが欅に声をかけ、代わりになってくれるまで…
――――――――――――――――
目覚めると、欅は自室のベッドの上にいた。朝陽がカーテン越しに透けて見え朝だと分かる。
恐怖で心臓がバクバクしていた。
――あれは正夢かもしれない…もしくは警告か。あの蜜柑の木には近寄らない方が良い。
しかしその日の朝、欅は驚くべき光景を目にする。
蜜柑の木の下に座る老婆が、すぐ横に立つ近所の住民らしき女性と話しているのだ。
――あれはただの夢だったのか?
欅はその日の帰り道、思い切って蜜柑の木の下に近づき声をかけた。
反応が無い。声を張り上げ肩に手を置いたのだが、やはり何の反応も無く、しかし肩に置いた手に妙な感触があった。
老婆の正面に向かうと、彼女の顔は白い布にマジックで目や口を適当に描いたもので、つまりは人形であった。
――では、今日の朝あの女は人形に話しかけていたのか?しかしあの時、人形も明らかに話したり頷いたりしている動きがあった。それまでにも、体や頭の向きを動かしているのを見た事がある。どういう事だ?
次の日の朝、やはり老婆は一人ベンチに座っていた。欅は車を停めて、蜜柑の木に近づき声をかけた。
老婆はすぐに気付いて振り向いたのだが、その顔はどこにでもいそうな年相応の皺が刻まれた老婆の顔だった。目も充血しておらず、不思議そうな顔でこちらを見ている。
「急にすみません、おはようございます。」
欅は頭を下げ、とりあえず挨拶した。老婆も不思議なものを見るような顔で軽く会釈し、挨拶を返した。
「その…いつもここに座ってるんですか?」
「ええ、まあ。畑で一仕事した後の休憩やね。」
「雨の日も、雪の日も?」
「まさか」
と言って老婆は相好を崩した。
「そういう日はね、人形を置いとくの。背格好が私そっくりの案山子みたいな人形があるから、私がいない時はそれを代わりに置いとくの。鳥避けになるでしょ。」
さて、そろそろ…と老婆は腰を上げた。そして畑の脇にある倉庫を開けると、中から背格好が老婆によく似た人形を運んできてベンチに座らせ、「じゃあね」とあっけにとられて立ち尽くす欅に声をかけると去って行った。
老婆が去り、欅はその場に脱力してへたり込んだ。いつまで経っても職場に来ない事を訝しんだ上司からの電話が鳴るまで、ずっとしばらくそのままだった。
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