③蛙化現象
コポコポとコーヒーメーカーが音を立てる。同時に芳醇なカカオの香りが部屋いっぱいに充満した。
本間が持たせたペーパーバッグの中には、白いワックスペーパーに丁寧に包まれた焼き菓子が二つ入っていたそうだ。
「お兄さん一緒に食べましょう」
小山内さんは、それぞれ違う種類と思われる二種類のお菓子を皿に乗せた。
キッチンでコーヒーを淹れている壮一に、小山内さんは白いはがき大のカードを差し出した。
「本間さんからメッセージなんですけど、私、読む事ができません。ウェブなら翻訳アプリでなんとかなるんですけど。手書きだと、よくわかりません。お兄さん、読んでもらえませんか」
「うん。わかった」
壮一はそれを受け取り音読する。
「ちえりちゃんへ。これはカンノーリというシチリアのお菓子です。イタリアではドルチェといいます。二種類のカンノーリを出してもらったけど、僕はお腹いっぱいになってしまったので、お兄さんと一緒に食べてね。
リコッタチーズとシナモンのクリーム、自家製のカスタードクリームの二種類です。
どちらも美味しいよ。濃いめのコーヒーが合うと思います。気に入ってもらえるといいな。
それから今日は、僕もとても楽しかったです。色々と気を使わせてしまっていたのだとしたら、ごめんね。
明日から学校生活頑張って。
もしよければ、インスタからでも連絡ください』
シュっとした右上がりの丁寧な文字と優しい言葉遣いに、本間の本気を感じる。
彼女は、聞きながら少し表情を曇らせた。
「私、なんだか、本間さんに悪い事してしまいました」
「悪い事?」
「食事の途中で、一人で帰ってしまったんです。本間さんにお礼も言わずに」
「お礼は、インスタのDMでいいんじゃない? けど、どうして帰っちゃったの?」
小山内さんは、少し考える仕草の後、ぽつりぽつりと話し始めた。
「本間さんと話せば話すほど、なんか違うってなって……。何度も長い間放置されてる時間がいたたまれなくて、全然楽しいって思えなかったんです。私、本当に本間さんの事好きなのかどうかわからなくなってしまって――」
蛙化現象か――。
素敵だと思っていた相手への思いが叶った途端、冷めちゃったり、幻滅しちゃったりする場合がある。特に女の子によく見られる現象だ。
それで泣いてたのか!
「私の夢は終わってしまいました」
「そ、それは、もう本間の事はどうでもいいって事?」
小山内さんは俯いて黙り込んでしまった。
しかしこれは、壮一にとっては、朗報以外の何物でもない。
「だから、もうエロくなる必要がないのです。ここへ来る理由もなくなってしまいました」
「え? いや、あの。それとこれとは別でいいんじゃないの?」
「私、気付いたんです。私は、お兄さんが好きなんだって。本間さんといた時も、ずっとお兄さんの事ばかり考えていました。明日になったらもっと好きになってると思います」
「へ?」
うそー。マジか?
ゴボボボボボボっと、コーヒーメーカーが出来上がりの音を鳴らす。
あたふたと用意した二つのカップに、コーヒーを注ぐ。手が震えてサーバーとカップが触れ合いカタカタと音を立てる。
空っぽになったサーバーをシンクに置いて、小山内さんと向かい合った。
何の問題もない。相思相愛。カップル誕生だ。
「お、俺も、君がすっ……す」
いや、ちょっと待てよ。
この流れで行くと、壮一もカエルになる可能性がある。
こちらが受け入れた途端、恋の魔法は解けるのだ。
本間の二の舞になる。
壮一は無言のまま、湯気を上げる二つのコーヒーカップをテーブルに置いた。
「さっ、食べようか。美味そうだなぁ。しかし、本間のやついい店しってるなぁ」
一旦、聞き取れなかったという事にしてとぼけよう。
「お兄さんは、エロい女は嫌いですか?」
「え? いや、大好き。あ、いや、なんていうか」
ポリポリと頬を掻く。
「私、今度はお兄さんの好みの女を目指します。付き合ってほしいなんて言いませんから、私に夢をください」
「いや、君はそのままで十分魅力的だよ」
「本当ですか?」
「本当」
ずずずっとコーヒーをすすって、カンノーリを口の中に押し込んだ。
更にコーヒーで流し込む。
残念な事に、味は全くわからなかった。
「さて、風呂入ってくるわ。なんか今日は疲れた」
大きな独り言を言いながら、浴室へと逃げ込んだ。
滝行さながらダバダバと頭からシャワーを浴び、目を瞑り、腕を組む。
とりあえず、本間は草だな。ざまぁみやがれ!
しかし、これは一体どう出るのが正解だ?
まだ、ほとんど冷たいシャワーに打たれながら、一人作戦会議に耽る壮一であった。
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