②恋はもう始まっている
「よし、出来た!」
ケチャップの甘酸っぱい香りが部屋中を満たして、食欲を刺激する。
玉葱のみじん切りが案外いい仕事をした。甘味を増したケチャップソースが麺にしっかり絡んで濃厚な味わいのナポリタン、出来上がり。
「ふわぁ、美味しそうです。いい匂い。洋食屋さんかと思います」
「ふふ」
さっきまであんなに泣いていたのに、もう笑ってる。
葉菜もどんなに泣いていても、大好物のオムライスを作ってあげたらすぐに満面の笑顔になってたっけ。
小山内さんがなぜ泣いていたのかはわからない。聞かないで欲しいという事なので、壮一が知る必要はないという事なのだろう。
「なっ、なんですか?」
小山内さんは急に頬を染めて、目を反らす。
じろじろ見つめすぎてしまったかな。
泣いた後の、何事もなかったかのような笑顔が可愛すぎて……なんて、とても言えない。
「あ、ごめん。なんでもないよ。さぁ、食べよう」
壮一はナポリタン二人分をテーブルに運び、小山内さんは、フォークを皿の縁に揃えた。
「いただきます」
フォークにクルクルとパスタを巻き付けて、口に運ぶ。
「どう? おいしい?」
小山内さんはぎゅっと目を瞑って、ゆっくり咀嚼している。
「ん~~~っ。ほっぺがきゅんとします。恋の味がしました」
こういう言い間違いも、すっかり慣れてしまった。
「はは。濃い味だったね」
微笑みを湛えて、壮一の顔をじっと見つめる小山内さんは、急にぷふっと噴き出した。おもむろにティッシュを一枚引き抜いて、壮一の顎を拭った。
「あ、ありがとう。ケチャップついてた?」
「はい」
そんな彼女も、口の周りがケチャップだらけだ。
「なんだか一週間あっという間だったね。寂しくなるなぁ。もう明日は帰っちゃうんだもんな。最初はどうなる事かと思ったけど、案外楽しかったな」
「はい。とっても楽しかったです」
「よかったね。本間がまた会いたいって言ってくれて」
ほぼ自虐に近いセリフで心にもない事を言ってしまう。うっかり恋の沼にはまりそうなのは、壮一の方だった。いや、もうはまっているかもしれない。
小山内さんは急に動きを止めて複雑そうな表情でうつむく。
そうだよな。初めての恋だから、まだどうしていいのかわからないよな。
「本間と付き合うの?」
「まだわかりません。私、どうしたらいいのか……」
「急ぐ必要はないよ。嫌でも日々大人になっていくんだ。今日わからなかった事が明日にはもうわかるようになってたりするもんだよ。それに、恋っていうのは頑張ってするものじゃないから」
「へ? そう、なんですか?」
「そうだよ。恋っていうのは、させられるものなんだ。抗えない運命によってね。気が付いたら落ちてる。どうしようもなく愛しくて、恋しくて、思わずにはいられない。そんな思いは一生に何度も訪れるわけじゃない。上手くいってもいかなくても、終わってもなお苦しみを与えてくる。それが恋だよ」
小山内さんは
「わかる、気がします」
「うそつけ!」
そして、二人でゲラゲラと笑った。
壮一自身、しみじみと恋を語るほど経験が豊富なわけではない。
文字として言葉として脳内に刻まれているだけであって、わずかな経験に結び付けているに過ぎない。
「お兄さんは、どんな女性が好きですか?」
最後の一口をフォークに巻き付けたまま、小山内さんは壮一の顔をチラチラと見る。
「う~ん、そうだな。まっすぐで一途な子がいいな。浮気しない人がいいや」
「私、浮気はしません」
「うん。君はしないだろうな。俺もしないよ、絶対に」
「見た目とかは? まじめっぽい人がいいですか? それともエロい方がいいですか?」
そりゃあ、エロくてかわいい子がいいに決まっている。が、そんな事言えるわけない。
「見た目は、気にしないかな。所詮いれものだからな」
「いれもの?」
「そう。好きになった人の外見を好きになる。外見から入ると、後で幻滅しちゃったりするしね」
「そっか、幻滅……か」
「ん? どうした?」
小山内さんは、ブンブンと顔を横に振った。
「いえ、なんでも。苦しくなるような恋におちるまで、また、ここに来て宿泊してもいいですか?」
「もちろん。いつでもおいで」
「あっ! そうだ」
小山内さんは急に何かを思い出したようで、慌ててテントに入って行った。
何やらごそごそと物音が聞こえるが――。
数秒後に這い出してきて、再び壮一の対面に座った。
「これ、ギフトです」
そう言って小山内さんが差し出したのは、今日行った水族館の名前が入った小さな包装紙。
「ああ! ありがとう。お土産?」
「そうです! おみあげ。それと、宿泊のお礼です」
「開けてもいい?」
「はい。どうぞ」
丁寧にテープを剥がし、袋を開けると中からガラス細工のキーホルダーが出て来た。
よく見ると、青い透明な雫に閉じ込められたクラゲだ。
「可愛い。きれいだね。ありがとう」
小山内さんの方を見やると、顔の横に何やら掲げている。
出かける前に壮一が渡したこの部屋の合鍵だ。
「ペアです」
小山内さんの鍵には、薄いピンクの雫に閉じ込められているクラゲが、壮一が付けてあげたさくらんぼと並んで揺れている。
「クラゲが気に入ったの?」
「はい、とっても。今度、お兄さんと一緒に見に行きたいです。幻想的でとってもきれいで可愛くて、眺めてたら、時間を忘れてしまうほどです」
「うん、行こう。ゴールデンウィークに行こうよ」
「はい! 約束!」
そうだ。たくさん約束をしよう。
彼女が本物の恋に落ちるまで、たくさんの思い出を作ろう。
そして、彼女がいよいよ本間と付き合う事になったら、潔く祝福してあげよう。
彼女がいつでも本間と会えるように、部屋を提供して、あいつの好みの女の子になれるように協力して、応援してあげよう。
なんつってな。
んな事あるかい!!
同じ轍は二度と踏まないと決めている。
壮一の恋はもう、始まっているのだ。
小山内さんだけは、絶対に、誰にも渡したくない!!
壮一のヒロインはもう、小山内さん以外にいないのである!!
「そうだ! 言わなきゃいけない事があったんだ」
「はい。なんですか?」
小山内さんは、崩していた足をきちんと揃えて正座した。
「俺の……ヒロインになってほしい」
「へ?」
「今、書いてる小説のヒロインを、君に書き換えたいんだ!」
小山内さんは、ぽかんと口を開けたまま、何度も瞬きをしている。
徐々に赤身を帯びていった頬は、夕陽のように熱く火照りだした。
「いやいや、あの、そういう意味じゃなくて、あのぉ、あくまでも作品の中での話であって、俺と君がどうこうとか、そういうんじゃないから。フィクションだから。つまりは……作り話の中のアレであって……。勘違いしないでね」
あたふたと、断られた時の保険をかけてしまう、ヘタレ野郎であった。
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