③Side―小山内ちえり★初体験

「わぁ、すごい」

 そこはまるで深い海の底。または宇宙。

 無重力空間のように足元がふわふわとおぼつかない。

 壁一面のガラスの向こうで泳ぐ魚は、今すぐにでもお友達になれそうなほど距離が近い。

 名前も知らない、いかつい顔の魚がこっちに向かってやってきて、挨拶してるみたい。

 こんにちは。私は小山内智恵理です。


 目的のアクアリウムは駅から直結したビルの中にあった。

 一歩前を歩く本間さんは時々振り返って、歩みの遅い私を気遣いながら歩いてくれた。

 ビルの中にある水族館は、子連れの家族や恋人同士と思しきカップルがたくさん。

 幸せそうな男女を見ながら思う。

 私もいつかは、あんな風に恋のステージに立てるのだろうか?


「やっぱり春休み最終日の前夜だから、今日は混んでたね。もっと静かな場所がよかったかな?」

「いいえ。私、人混みは得意です」

「え? 人混み得意?」

 本間さんは、一瞬間の抜けた顔をした後、高い声で笑った。


 しゅっとした背中、今までに嗅いだことのない素敵な香り、彫刻のようなきれいな横顔、マットな唇から覗く並びのいい白い歯。

 時々、優しく触れる手の温もり。

 さりげなくリードしてくれる優雅な気品。本間さんはやっぱり優しくて素敵な人だ。

 それなのに、私ったら緊張マックスで、何を話したらいいのかわからない。

 スーハースーハーと新呼吸ばかり……。


「初めて会ったのって一年ぐらい前だっけ?」

「いえ。えっと……去年の11月なので5ヶ月前です。その節はご丁寧な優しさをありがとうございました」

「ええ? あ、いえいえ。まだそんな最近の話だっけ? ごめんね、記憶が曖昧で」

「いえいえ」

 Not at all.って日本語でなんて言うんだっけ?

「いいえ、とんずらいたしません」

「は?」

 一瞬にして、本間さんの顔から優しい笑顔が消えた。


「前会った時は、あんまりしゃべらなかったよね。緊張しちゃってる? 大丈夫?」

 困った顔で身構える本間さん。

 こういうのって、日本語ではドン引きって言うのかしら?

 英語ではTurn off

 私、何にドン引きされた?

 ノーノー!!

 何か、返事しなければ。


「は、はい。緊張盛りだくさんです、だって、だって……その……」


 夢にまで見た王子様が目の前にいるのですからー。


「あまりの素敵な景色で、夢の中かと思います」

「はは。そ、そっか。こういう所初めて?」

「はい。初体験」

「そ、そうなんだ。珍しいJKだな。けど、そういうとこ可愛いね」

 本間さんはそう言って、腕を背中に回した。

「へ?」

 こ、これは、肩を抱かれてる?

 抱かれてる?

 近い。近い近い近い!!

 本間さんと体が密着してて、苦しい。心臓がうるさくて苦しい。


「ほら。この窓から覗いてみて。さっきの大型水槽の裏側。マダラエイ、アカマツカサ、シマアジ、シロワニ!? ワニがいるらしいよ。ワニを探せ!」


 濃紺の空間にはまあるい窓からの青い光が差し込んでいる。その向こうにはたくさんの種類の魚たち。

 青い光に照らされえる本間さんの顔は、とろけるほど甘くて、耳元をかすめる吐息が、とにかく近くて私の心臓、うるさい。


「ワ、ワニ? ワニが、いるんですか?」

「そうそう」

 ふふふっとまるでいたずらっ子のように本間さんは笑った。


「ほら、いた!」

 本間さんの繊細で長い人差し指の先には大きなサメ。ギザギザの刃を見せて悠々と泳いでいる。

「サメ?」

「そう。シロワニってサメなんだよね。紛らわしいよな」

「はい。日本語は紛らわしいです。橋と箸。恋に鯉に濃い」

「え? そっち?」

「雨に飴に亀にサメ……」

 本間さんは更に困惑した顔で、私の肩から腕を下ろした。


 ダメだ。会話が全然かみ合ってない、かも?


 その時だ。本間さんのスマホが鳴った。

「あー、ちょっとごめん。この先にくらげの水槽あるから、先に行ってて」

「え? あ、はい」

「俺の事は気にしなくていいから」

 視線を忙しそうにスマホと私を行ったり来たりさせて、口元を隠しながらこちらに背を向けた。


「もしもし? あーうん全然いいよ。はぁ? いや、今日はダメ。いや、一人だよ。……一人だってば」

 徐々に遠くなる声と背中。


 渋滞する人混みの方に歩くと幻想的な光景が広がっていた。シャーレのような形の大きな水槽にくらげがふわふわと浮いている。

「うわぁ、すごいたくさん。きれい」

 ぽわぽわとおよそ地球上には似つかわしくない動きに癒される。

「ぽわぽわと、宇宙人みたい、水クラゲ」なんていう俳句まで思いついてしまった。

 そうだ! 写真を撮ってお兄さんに送ろう。シェアシェア。

 バッグに手を突っ込んで、スマホを探す。

「あれ? え? ない。忘れた」

 残念。残念すぎる~。写真取れないじゃん。せっかくの思い出を残す事ができないなんて。私の馬鹿!!

 けど、まぁいいや。しっかり記憶の中に残しておこう。絶対に忘れるはずなんてないのだけれど。

 しかし、クラゲは本当に可愛くてきれいだ。いつまでもこうしてクラゲを見ていたい。ずっと見てられる。ずっと、ずっと――。


 そうして、どれくらいクラゲを見ていたのだろうか。

 ぎゅるるっとお腹が鳴った。と同時に――。

「ごめん。お待たせ」

 本間さんが小走りでかけて来た。

「全然大丈夫です。ずっと見てられます。クラゲ」

「きれいだよね」

「はい。とっても」


 この後は、本間さんが予約しておいたという、ビルの最上階にあるラウンジでディナーをする予定だ。

 珍しい食材で作ったアミューズや、新鮮な野菜のサラダ。オリジナルのパスタがあるのだそう。

 本格パティシエが作る自慢のデザートに、ノンアルコールの素敵なカクテル。

 でも、私は……。

 天ぷらうどんに甘い卵焼きが食べたいなぁ。

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