応援コメント

パンツを履いた猿」への応援コメント

  • 十三岡繁さま

    こんにちは。

    何を恥ずかしいと思うかは人によってもさまざまで、性行為についても、他の物事と同様、かなり幅があるんじゃないかと推察します。

    かつて、とある作家が子供への性教育を真面目に行い、昭和中期であったにもかかわらず、その家庭では親子で性の話題をオープンに話せるようになっていたとか。それを知ったとき(小学生でしたが)恥ずかしいという感情は環境で作られるものなのだと知り、驚愕しました。

    排せつについては、トイレのドアは基本的に開放、というご家庭もあるらしいです。裸は見られること見ること、平気な人たちもいますね。かと思えば、銭湯で裸になるなんて絶対無理という友達もいました。

    日本人が共感できない恥ずかしさもありますね。髪の毛を見られると恥ずかしいとか、逆に腋毛を見せつけても恥ずかしくないとか。こういうのはまさに幼い時からの植え付けなんだろうなと感じます。

    性行為、排せつ行為、裸が比較的特別なものになる可能性として、外敵に対して無防備だということがあるかもしれません。でも、絶対的なものではないんじゃないかな、って思います。

    作者からの返信

    おはようございます。コメントありがとうございます^^

    昔オオカミに育てられた少年ていましたよね。彼はきっと裸も性行為も見られることに、全く抵抗は無かったんじゃないかと思います。やはり羞恥心は成長段階で教育によって刷り込まれるのかもしれませんね。

    ドイツなんかだとサウナは混浴で、全員素っ裸らしいです。逆にこっちが恥ずかしそうです。ネーナはわき毛ぼうぼうでしたね。社会的な刷り込みが本能に近いと感じられるところまで感覚に影響を与えるというのは、やはり人間を人間足らしめている理由の一つのような気がします。

    以前知人が男性同士のカップルの家を設計した時に、トイレにドアを設けませんでした。排泄行為をしているときも、常にお互いを感じていたいという要望だったそうです。

    編集済